与太郎文庫
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2002年07月01日(月)  カエサルに返せ

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20020701
 
 Mail'20020721 to Mr.Tanimoto 暑中お見舞い申し上げます。
 
 谷本 岩夫 様
 
 お変りありませんか。2月26日以来の禁煙は、まだ続いています。
数十年前からの禁酒とあわせて、そのうち「成功談」を書くつもりです。
「いま考えていること 105(2002年07月)−ドルの行方−」
は、(表題だけで)本文がアップロードされていません。(ご点検を)
「ドルの行方」という表題に啓発され、最近考えていたことをとりとめ
なく書いてしまいました。「通貨レート」あるいは「レート・ギャップ」
というようなイメージが去来しますが、どこまでもあいまいです。
 
 カエサルに返さる 〜 三教の利 〜
 
 小商売をしくじった私は、経済学の門外漢にすぎないのですが、経済
学をなりわいとする人たちの発言に、かねがね疑問を抱いていました。
 ところが数年前(伝聞によれば)京都大学の某教授いわく、
「われわれ経済学者は、まちがっていたかもしれない」
(たしかな典拠はありませんが、まことにいさぎよい態度だと思います)
 
 かつて、経済学部出身の友人に「1$=¥360は、誰がきめたのか」
と質問したところ、彼らは異口同音に「IMFで決めた」と答えます。
そこで「IMFのメンバーは誰に選ばれたのか」と聞くと、いろいろな
ことを述べますが、要するに知らないらしい。したがって、(テレビも
新聞も伝えないので)いまだに私は知らないのです。
 ついで「明治維新の当初1$=1円だったが、戦争に負けたために、
360円に下げられた。そのあと(ニクソン・ショックを経て)唐突に
“変動相場制”へ移行するが、それならなぜ最初からそうしなかったか、
いまもって分からないのです。どこかの私立大学に4年分の授業料を前
払いすればコッソリ教えてくれる、とも思えませんが。
 戦後の新制大学でもっとも多く学士を輩出したので、大学経営に貢献
したのは当然ですが、卒業生のほとんどがセールスマンであることから、
そもそも経済学という学問が存在するか、という辛辣な意見もあります。
 たとえば《資本論》の印税は、マルクスの煙草代にも及ばなかったが、
岩波文庫の翻訳者は、世界有数の私図書館を持つほどモウけたそうです。
(晩年には、イーデス・ハンソンとの対談で「こんな面白い本はない、
毎日読んでるが、あきない」と語っていますが、それはそうでしょうね)
 かくて「もっとも多く引用されるが、通読した読者はいない大著」と
評されています。(もちろん、私も通読していません)
 
 それはさておき、同時多発テロ以後の一般的な論調を「ドル経済圏 VS
イスラム文化圏」と要約するなら、わが日本人のとらえかたは、あまり
にも幼稚で、共通一致しているようです。つまり、戦後日本の経済学が、
かぎられた原典、すなわちマルサス、リカルド、マルクス、ケインズの
順に講義されてきたからではないでしょうか。
(江戸時代の経済学など、数百年のケース・スタディを放置したまま)
 *
「同朋から利息を取ってはならない(出エジプト記)」 
 ユダヤ教徒の経済学が《旧約聖書》にもとづくなら、紀元前300年
代、通貨以前の経済学でしょう。
 キリスト教徒の経済学は《新約聖書》にもとめるべきですが、現代の
国際経済学に応用するには、相当無理な拡大解釈が必要です。しばしば
徴税人が登場し、キリストに嫌われるのは、申告漏れ疑惑があったとも
うかがわれます。
 ローマ帝国がキリスト教を容認し、ついには国教とするにあたって、
ユダヤ教徒との奇妙な協定が行われます。公式のものは、過越祭と復活
祭が同じ日に重ならないよう、曜日を調整することです。概して過越祭
が先に行われるので、キリスト教がユダヤ教に一歩譲っているようにも
みえます。(このテーマに関するデータベースは《Almanacs AD0325》)
 ついで非公式な協定として、キリスト教徒は「金融業」ごとき賎業に
手を染めるわけにいかないが、経済活動には不可欠なので、ユダヤ教徒
にかぎって許可しました。同朋から利息を取ってはならないが、異教徒
なら利息が取れるので、両者の友好関係は現代まで継続しています。
(この問題は、たとえばゲーテのような教養人は、彼らに金融の才能が
あったから、と婉曲な表現をしている。日本では、牛馬屠殺に従事する
者を特定差別して、現代の部落問題につづく)
 
 金貨をもった弟子が、キリストにたずねていわく、
「主よ、この金貨は誰のものですか」
「その金貨には、誰の肖像が彫ってあるか」
「カエサルでございます」
「ならば、カエサルの物である。カエサルの物はカエサルに返しなさい」
(キリスト言行録のなかで、もっともしゃれた一節です)
 
 さて、イスラム教徒の経済学を《コーラン》にもとめればどうか。
「アッラーは商売はお許しになった。だが利息取りは禁じ給うた。神様
からお小言を頂戴しておとなしくそんなことをやめるなら、まあ、それ
までに儲けた分だけは見のがしてもやろうし、ともかくアッラーは悪く
はなさるまい」
 パキスタンの銀行は、昨年から利息を廃止しました。永年の議論に、
ようやく決断を下したもので、もともと利息については消極的でした。
イスラム系の銀行で口座を開くと、契約書に「利息を喜捨するかどうか」
選択を要求されるそうです。はじめての場合、ほとんど「OK」と記入
するが、預金を引き出すときに「NO」と変更してもよい。
 客が迷っていると、銀行員は辛抱強く待っているという。
 このような社会慣習のもとでは、利息が利息を生む“複利”のごとき
概念は影がうすい。サービス業としての銀行は存在するが、金融業者は
成立たない。もちろん高利貸やヤミ金融など、実在するにちがいないが、
駅前にネオン看板が並ぶような光景は、ないのです。
 
 ではまた。        阿波 雅敏 
────────────────────────────────
 199.‥‥ 京都大学経済学部創部記念式典で「経済学の反省」発言?
(Day'20020721)
 
 20020722 (月) 09:32 Re: 暑中お見舞い申し上げます。谷本 岩夫
 
 阿波君
 
ご親切にメールありがとう。早速修正しましたからお読みいただけると
思います。私も経済には暗い素人ですから、単なる独断的思いこみかと
思いますが、ここしばらくこんな事も考えていたのでかきました。カエ
サルに返さる 〜 三教の利 〜 も興味深く読みました。何かにつけて
宗教というものは思わぬところ迄影響しているのですね。私は今は『琵
琶湖周航の歌』が生まれたときの周航が二泊三日であったのか、歌が披
露されたのは今津だったのかということに関心を持って調べています。
今津には『琵琶湖周航の歌』資料館もあり町をあげてこのことを売り込
もうとしているのですから今津でなくて彦根だったというのであれば少
し困ったことになるのですが。早々
谷本岩夫
tbc00346@mbox.kyoto-inet.or.jp http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tbc00346/index.html
 
── わたしの民のひとりで、あなたのところにいる貧しい者に金を貸
すのなら、彼に対して金貸しのようであってはならない。彼から利息を
取ってはならない。もし、隣人の着る物を質に取るようなことをするの
なら、日没までにそれを返さねばならない。
 なぜなら、それはただ一つのおおい、彼の身に着ける着物であるから。
彼はほかに何を着て寝ることができよう。彼がわたしに向かって叫ぶと
き、わたしはそれを聞き入れる。わたしは情け深いから。 
── 旧約聖書《出エジプト記 22:25-27 19850901 日本聖書刊行会》P124
 
■2002/07/23 (火) 架空の風貌(1)
 
── カイザルのものはカイザルに
 エルサレムの祭司長や律法学者たちは、イエスを捕えたいと思ったが、
彼は民衆のあいだに人気があったので、やたらに、捕えることはできな
かった。
 そこで、彼らはなにか口実になるような言質をイエスからとりたいと
思い、回し者を、イエスのところにつかわした。
 そして「税金をローマに納めるべきかどうか」と聞かせた。
 当時ユダヤはローマ人の支配下にあったから、「税金を納めないでよ
い」といえば、ローマに対する反逆として訴え、「税金を納めよ」とい
えば、独立を欲しているユダヤ人民衆の気持から、イエスを離反させう
ると思ったのだった。
 しかし、イエスは、この相手のワナに気づいて、間接的にたくみに答
えた。
「貨幣についている肖像は誰のか」
「カイザル(ローマ皇帝)の像です」
「それでは、それはカイザルのものだから、カイザルに返したらよい。
神のものは神に返しなさい」(『マタイ伝』二二章、『ルカ伝』二〇章)
── 《故事名言・由来・ことわざ総解説 19770910 自由国民社》P168
 
■2002/07/23 (火) 架空の風貌(2)
 
 実はこの貨幣に刻まれたカエサルは、皇帝を名乗る前(紀元前44年)
に暗殺されているので、直接本人に返すことはできない。したがって、
神に返すことと同様に(キリストの得意とする)比喩的表現である。
 当時ローマの支配者は“アウグストゥス”の尊称で呼ばれた、事実上
の初代皇帝(妹の孫)オクタビアヌスである。カエサルの姓は、六代目
“暴君ネロ”まで襲名されるが、十二人まで総称して“カエサルたち”
と呼ぶ例(SuetoniusGaius《De Vita Caesarum》)もある。
(のちにドイツのカイザル、ロシアでツァーの称号として用いられた)
 なお、新約聖書のキリスト言行録は、ローマの公式記録に見あたらず、
旧約聖書のモーゼも、エジプトの記録には一切登場しないという。両者
の実在を証明する史料はないが、すべてを虚偽の史実と断定することも
不可能なのである。
 奇妙なことに、イスラム教祖マホメットの実在を疑う者はいないが、
偶像崇拝を排除するため、一切の肖像が認められないので、その風貌に
関するイメージが存在しない。このことは、同時にキリストやモーゼの
風貌が、まったく根拠のない空想にもとづいていることを、期せずして
非難しているのである。
 


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