与太郎文庫
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1992年05月05日(火)  五月五日の再発見

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19920505
 
 桂離宮を絶賛したブルーノ・タウトは、小堀遠州の命日を五月五日と
信じて墓に詣でた。誰が誤って伝えたか、訳者も編者も読者も気づかな
いまま、半世紀にわたって《日本美の再発見》は読みつがれている。
 
 一九三三年(昭和八年)、ナチスの台頭に危機をよみとったブルーノ
・タウトは、「日本インターナショナル建築会」の招待に乗じて亡命の
旅をくわだてた。
 到着の翌日、五十三才の誕生日を迎えた彼は、桂離宮に案内されて衝
撃を受けた。
 篠田英雄・訳《日本美の再発見》では、「永遠なるもの」と絶賛して
「桂離宮は、小堀遠州政一の造営にかかると称せられてゐる。然し私は
彼に関する史実的文献をほとんど手に入れることが出来なかった」と誌
している。
 彼は(あたかも、徳川家康にヒトラーの面影を重ねるがごとく)将軍
の権力を象徴した日光東照宮を非難するあまり「皇族の御為に造営せら
れたものであるとは言へ」「徳川方に対して政治犯人を庇護した」と
小堀遠州に傾倒していく。
 当時の、ドイツ建築界では、グロピウス( Adolf Gropius,18830518〜
19690705 )を筆頭に「バウハウス運動」の波がはじまっていた。その命
題は「すぐれた機能をもつものは美しい」ゆえに「簡素で合理的な素材」
がもとめられた。東照宮が華美な装飾のため「無数の芸術家を日光に召
集したのと時を同じくして」「このやうな装飾を一つも用ひなかった」
桂離宮は、三百年前すでに、彼らの理想を実現していた。かつて「色彩
建築」を試みたタウトが模索していた、無装飾の再発見でもあった。
 彼らの提唱する「合理性」が、かつては画家をこころざしたと伝えら
れるヒトラー( Adolf Hitler,18890420 〜 19450430? )に迎合しないの
は当然である。
 しかし、亡命中の一流建築家の賛辞は、事情の如何によらず、のちの
ちまで日本人の自尊心を満足させることになった。
 つぎに彼は、五十四才の誕生日の、翌日のエピソードをくりかえし述
べている。
「五月五日に、上野氏と自動車でこの庵を訪れ、門に入ろうとしてそこ
に定紋を染め抜いた紫の幔幕が張ってあるのに気づいた。上野氏がそこ
に居合した運転手にこの装飾のいはれを訊ねると、今日は小堀遠州の忌
日であるといふことであった。そこで私は直ぐに町に引き返し、遠州の
墓に手向ける生花を購めた。私達は再び庵に戻り真紅の花をつけた石楠
を玄関に置いて案内を請ふと、やがて庵主に請じられた、庵主はやはり
小堀氏を名乗る人である。私達は遠州の居室(忘筌)で抹茶の饗応にあ
づかった。この居室こそ彼が一六四七年に六十九歳で世を去るまで、幾
多の傑れた仕事を遺した場所である」
 前章の没年「一六四五年」は単に誤植とみられるが、問題は「五月五
日」である。 ときには、高名な著書に引用された誤植が「コンピュー
ター・ウィルス」のように伝染する可能性もあるのではないか。
 
 遠州の没年月日は、半世紀を要して昭和十九年に完成された《大日本
人名辞書》に正保四年二月六日( 16470312G=0302J ) とあって、その複
刻版(講談社学術文庫)に準拠する他の人名辞典はもとより、異説の
「五月五日」も見あたらない。
 この「謎」にいたる経過を要約すると、


19330503 タウト来日
  0504 五十三才誕生日・桂離宮見学
19340504 五十四才誕生日
  0505 遠州忌?墓参(旧暦 0322 )
  0506 遠州の「月命日」(土曜日)

 毎年二月六日を「祥月命日」とすれば、「各月六日」にも法要を営む
のは、仏教の(陰暦にもとづく)習俗である。 タウトが「五月六日」
と誤解したのなら納得できるが、その「前日の墓参」は予定にもない、
すばやい決断だった。
 門に入ろうとして「紫の幔幕」に気づいたのが発端である。上野氏が
訊ねたのは、「そこに居合した運転手」である。タウトと上野氏を「乗
せてきた運転手」とは別人らしい。身分いやしからぬ先客があって、あ
きらかに厳粛な儀式を想像したとしても「居合した運転手」が「今日は
遠州忌」と明快に答えたとは信じられない。
 むしろ上野氏が、早合点して通訳したと解釈すれば、このとき、ブル
ーノ・タウト( Bruno Taut,18800504 〜 19381224 ) が「誕生日と命日
の連続」に感動して、真紅の花を献じたのではないか。
 上野伊三郎( ?〜 19720523 行年七十九才)は、当時四十二才の群馬県
工芸所長であり顧問教授のタウトと寝食をともに同行して「夜の大音楽
家」と呼ばれた“いびき”の達人である。この場におよんで墓誌の日付
「二月六日」を読みとったとしても、訂正を告げることはむずかしい。
 さらに、当時三十一才の第十六代庵主、小堀明堂( 〜 19861103 行年
八十三才)がドイツ人と通訳の勘ちがいに気づいたとしても、初対面の
茶席とあって、つつましく話題を転じたのではないか。
 書斎の発見も、微笑にとどめるのが作法のようだが、京都・紫野の孤
蓬庵に電話でたずねてみると、紫の幔幕は「茶会の印」であって、法要
には用いないそうである。「追善の茶会」は、東京では三月六日に、京
都では五月六日を恒例とする。その前日に「茶会」が営まれることはあ
るらしい。
「利休忌」同様、京の冬が寒すぎるために遠来の客人への配慮である。
 初版の奥付 ( 19390628 岩波新書)も、翻訳者の篠田英雄 (18970627
〜19891226 )四十二才の誕生日の翌日にあたるが、その半年前に亡命先
のトルコで客死した著者はもとより、初訳者( 服部幾三郎? 〜 )も編集
者も出版社も、さらに読者も「遠州忌の矛盾」を発見しないまま五十年
を越えて読みつがれているのである。          (19911217)
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