与太郎文庫
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1971年11月26日(金)  あまちゅあ・かっぽれ

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19711126
 
 あまちゅあ・かっぽれ       阿波 雅敏(K1)
 
 すでに十数年も前の、とりとめのない話ばかりである。
 高校生だった私は、さるアマチュアのオーケストラの演奏会にチェロ
奏者としてエキストラ出演した。この楽器にとりくんで、まだ一年ちょ
っと経った段階であったが、奏者の員数をそろえるために、アマチュア
の場合よくあることで、当人の技量など二の次である。そうはいっても、
はじめて譜面を見て、満足に弾けるわけもなく、出演というより出場の
ほうが正しい。「未完成」と、ショパン「ピアノ協奏曲」あたりまでは、
本番にのぞんでもだいたい格好をつけたつもりである。
 最後の、ベートーヴェン「第八交響曲」になると、さすがに手に負え
なくなった。とくに終楽章の湧きたつようなテンポにおよんでは、つい
に楽譜を見うしなってしまった。つまり、どのあたりを弾いているのか
判らなくなった。こういう場合、なんとなくそれらしい音型を、平然と
弾きつづける態度が肝要(?)である。もしも途方にくれて、ひと休み
している奏者がいては、指揮者だってやりにくかろう。員数のひとりと
して、せめてその責任だけは果さねばなるまい。
 やがて、そのうちに追いつくだろう、という私の楽観は、どんどん進
むにつれ、この分だと最後まで判らずじまいになる不安になりかわった。
私は第三プルトの外側、つまり第五奏者として坐っていたが、わずかの
小休止に、意を決して隣の第六奏者にたずねてみた。彼はページをめく
る仕事を課せられているわけで、おおむねちゃんと弾いているはずだっ
た。
「いま、どのへんでしょうか」
 一瞬のあいま、私がささやくと、彼は即座に答えていった。
「実は、ぼくも判らんのです」
 あろうことか、彼はそのまま、やっぱり弾きつづけているのである。
しかたなく私も、彼とおなじように弾きつづけ、いつの間にか全曲は果
てた。
 ひどい話なので、こうした経験のない人には信じられないかもしれな
い。オーケストラの弦楽器に関するかぎり、弓の方向をそろえることが
先決で、個々の出す音など、アマチュアの場合、概してでたらめである
ことが多い。いつもこんな具合でないにしても、当時、技術水準の底辺
はそんなところだった。
 アンコールは、歌劇の間奏曲らしかった。というのは、私に与えられ
た楽譜はボロボロになっていて、タイトルの部分は破れてしまっていた
のである。
 演奏会のあと、チェロの首席奏者が帰り仕度をしながら、わめいてい
た。「第八」の第二楽章で彼は、困難にしてはなばなしいアルペジオの
独奏部分を、延々やりとげたはずであった。
「途中でおかしくなってね、わけが判らんようになった。しょうがない
から、ずっとドミソドミソ、レファラレファラばっかり弾いてやった。
ははは」
 すでに時効でもあり、罪のないエピソードをもうひとつ。
 
 ハイドンの「軍隊交響曲」は、私の指揮する高校オーケストラのデビ
ュー曲だった。当日、リハーサルの舞台に上った私は、駆りあつめられ
たエキストラの参加で、ふだんの三倍にふくれあがったメンバーを前に
して、すっかり面くらっていた。第二楽章でオーボエの受けつぎが、な
かなかうまくいかない。それというのも、信じられないような安値でつ
い最近買ったばかりの廃物寸前の楽器だからでもある。奏者にしても、
みんな逃げ腰だったのを無理におしつけた事情があって、あまり文句も
いえない。
 わずか一小節のことだが、指揮者として万全を期するため、私はヴァ
イオリン奏者を呼んで、ひそかに懇願した。
「オーボエは、ひょっとすると本番では音が出なくなるかもしれない。
そのとき、いちはやく君が代りをつとめるわけだ。なるべく似たような
音色で弾く」
「?」
「いいか、たのんだぜ」
 それでも不安にかられていた私は、念のためフルートの第二奏者にも
声をかけておいた。
「オーボエもヴァイオリンも出ない場合は、君がやってくれ。この部分
でつまずくと、困ったことになる」
「しかし」と、フルート吹きは、かねてよりの疑問を私にただした。
「この曲は、もともとフルート一本しか書かれていないんでしょう。す
ると第二フルートのぼくが吹いてるのは、何ですか」
「ハイドンの時代は人手不足だったんだ。遠慮せずに、しっかり吹いて
くれ」
 さて、本番を迎えた。
 オーボエの、例の個処になると、私は目をつむってしまった。なむさ
ん、オーボエはもとより、ヴァイオリンも第二フルートも、ついに鳴ら
なかった。しかるに意外なことは、私自身に起っていた。たちまちにし
て私の唇から、とにかくメロディが流れ出たのである。
 演奏会のあと、みんなは狐につままれたような表情で話しあっていた。
「あそこで、たしか何か鳴っていたようだ。いったい誰がどうしたんだ
ろう」
 まさかのハプニングで、あのとき誰も気づかなかったものとみえる。
みんな、よほど緊張していたらしい。そこへ、最前列で聴いていたとい
う人があらわれて、叫んだものだ。
「おどろいたなぁ、ハイドンの交響曲で、くちぶえが入るなんて」
「誰だ、くちぶえなんか吹いた奴は」といって私は、いそいで姿をくら
ませた。
 
 私たちのオーケストラは、三年目の夏に、琵琶湖一周大演奏旅行をく
わだてた。みんな大胆になっていて、公民館とか、大工場の集会場で、
五回ほど演奏会を開くことになった。
 すでに私は高校を卒業していたが、この機会に最後の指揮をすること
になっていた。例によって楽器の組みかえに苦労は絶えず、たとえば、
「アルルの女」とか、「エグモント序曲」など、原曲にはほど遠い奇妙
なサウンドになるのはやむを得なかった。
 そのなかで、私が気に入っていたのは、なんとモーツァルトの「アレ
ルヤ」をクラリネットに吹かせる趣向のものである。当時のメンバーで
S君という随一の奏者を活躍させるために、私が探しあてたこの曲は、
ご存知ソプラノ独唱と管弦楽のためのモテットに他ならない。S君のた
めには、本来ならかの「協奏曲」を吹かせてやりたかったが、オーケス
トラにとって荷が重すぎた。そこで、なにしろトロンボーン、クラリネ
ット、フルートそれぞれ二本を無理に加えた大編成オーケストラをバッ
クに、ときどきとんでもないサウンドにおびえながら、浮かぬ顔のS君
が、これを独奏するわけである。主として、アンコールに用いて、私は
得意がっていた。
 メンソレータムで知られる近江兄弟社の、教育会館が、最初の会場だ
った。昼間のリハーサルから宿泊にいたるまで、同社の社員とおぼしき
青年が、何かと世話してくださったそうである。私はすべてマネージャ
ーに任せて、いわばお山の大将だったので、あいさつはしたはずの、そ
れ以上に話した記憶はない。
 本番が無事おわってから、くだんの青年はS君のクラリネットを賞し
て、いった。
「ウィーンのかおりがしました」
 ウィーンであったか、ミラノであったか定かではない。
 実はこのくだりは、十数年のち、ごく最近はじめて当時のメンバーの
ひとりから聞いたものである。
 さらに、おどろいたことに誰あらん、その青年とは若き日の小林道夫
氏だったのである。知らなかったとはいえ、私はたいへんな人の前で、
でたらめな編曲と指揮を披露したわけで、いまさらに身のちぢむ思いが
する。
(前々号に寄せた、拙稿「いそがしい指」では、てっきり初対面のつも
りで、すまして話しかけているのが、われながらおかしい。おそらく、
十数年前の珍妙なオーケストラのことなど、氏の記憶にはないであろう
けれども)。
 ちなみに、当時のメンバーは個々としてみれば、なかなか優秀で、S
君はじめ数人は大学の軽音楽部のスターとなり、弦楽器でも、のちに結
婚するまで京響の定期に参加していた女性ふたり、アマチュアの室内楽
を今日まで続けているグループなど、多士済々である。あのころ、第二
ヴァイオリンの末席で、ちっとも目だたなかったW君にいたっては、目
下さっそうとファゴットをたずさえてパリ音楽院に留学中だそうである。
 おそらく、指揮者だった私が、実はいちばん才能のない、下手くそで
はなかったか。                  (19711126) 
      ── 《関西モーツァルト協会々報・第三号 197112・・ 》
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── 二十二日に近江兄弟社へいった。なかなか親切で我々も少なから
ず希望を与えられた形である。其地には関心のある人が多く、ほゞ成功
のようだ。一切は会社と村田師にまかせきっている。つまり無料の奉仕
であるか、有料の演奏会とするかであるが、いづれにせよ工場内の寮に
宿めてくれ、体育館を会場に整備してくれるようだ。彦根には兄弟社か
ら其地のYMAC理事に紹介状をくれよう。近江八幡ではそこの同志社
人会も後援してくれるから心強い。順序逆になるが村田幸男氏は岩倉で
4年間教えて居られた人で、話のわかる同志社人である。この人と上野
出身の小林という学園の音楽教師(ピアニストでもある)が良く理解し
てくれている。/モーツアルトのアレルヤをも一度やったらどうか。 
                 ── 吉田 肇(Let'19590622)
 
 上の書簡は、ひとりで演奏旅行の事前交渉にあたっていた“ゴリ”の
面目躍如たるもの。上野(東京芸大)出身の、近江学園のピアニストに
出会って、たちどころに《アレルヤ》を思いつくなど、なみなみならぬ
外交的センスがうかがわれる(この中間報告では、独奏者やメンバーの
人間関係についても配慮している)。
 
 チェロの首席奏者は、同志社交響楽団OB・高田逸夫氏。田中さとる
(京都放送アナウンサー)氏の司会で、円山音楽堂における合同演奏会。
 マスカーニ《カヴァレリア・ルスチカーナ》間奏曲は、カトリックの
祈祷文《Ave Maria》を歌詞にして、ソプラノ独唱されることもある。
 フルートの第二奏者は(実は)前年から器楽部顧問となった森田昭典
(物理)教諭。このあと中国人の陳 正雄君が加わり、第四奏者となる。
 最前列で聴いていた人とは高橋勘(数学)校長、さすがに耳ざとい。
 
 S君は佐伯和男、W君は若林通夫(この夏はじめて出会った新入生)。
 若林君の先輩にあたる新開一朗君は、高校オーケストラでは唯一ピカ
ピカの新品ホルンを吹いていた。“S41年卒”は、大学卒業年度であり、
プルミエ・プル(プル)は一等賞、首席卒業と訳すこともある。
 馬場久雄君から送られた《同響七十年誌》のコピーには、セカンド・
マスターだった堀江公麿君の文章《卒業後31年を経て》もみえる。
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19950301
 ワカバヤシ・ミチオ 〜 カンヌより同響の皆様へ 〜
 
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↓=Non-display><↑=Non-display
────────────────────────────────
 
(20001226-20090820)
 


1971年11月25日(木)  金くれ三題 〜 非婚・同姓・入籍・別居・離婚・再婚 〜

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19711125
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/list?id=87518&pg=000000
http://www.enpitu.ne.jp/tool/edit.html
 
 Ex libris Web Library;お金をちょうだい
 
── 星野 哲郎・詞/中川 博之・曲/小杉 仁三・編曲/美川 憲一・唱
《お金をちょうだい 19711125-20100602 クラウン》
http://www.youtube.com/watch?v=xkOAGURsnKA
 


 星野 哲郎  作詞  19250930 山口 東京 20101115 85 /籍=有近 哲郎/誤=哲朗
♀有近 □□ 哲郎の妻 19‥‥‥ ‥‥ 東京 1994‥‥ ? /一男一女の母
 有近 真澄  歌手  19580921 東京 /シンガーソングライター/星野 哲郎の長男
 
http://www.hoshinotetsuro.com/work/index.html
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%A1%A1%C0%B1%CC%EE+%C5%AF%CF%BA
 
 柴田 練三郎 作家  19170326 岡山 東京 19780630 61 /籍=斎藤 錬三郎“シバレン”
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19781104 書いた!稼いだ!倒れた!
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%BC%C6%C5%C4+%CE%FD%BB%B0%CF%BA
 
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND11013/index.html
 美川 憲一 演歌歌手 19460515 長野 /籍=百瀬 由一/非婚 [A] 172.5cm
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/search?idst=87518&key=%A1%A1%C8%FE%C0%EE+%B7%FB%B0%EC
 
 当時のテレビ番組で、柴田練三郎が美川憲一にわざわざ「けしからん」
などと叱ってみせた。たぶん歌詞を読まずにカミついたのだろう。
 誰がこういう場面を思いついたのか、NHKでは歌唱禁止になった。
 
♀安達 祐実 タレント 19810914 東京 /籍=長谷川 祐実(安達は実父の姓)。
/20050914 井戸田 潤と結婚/200604‥ 長女出産/20090108 離婚。
── 《家なき子「同情するなら金をくれ」1994-1995‥‥ 日本テレビ》新語・流行語大賞
 
♀安達 有里 祐実の母 19570830 東京 /籍=長谷川/タレント・AV女優
 安達 哲朗 祐実の兄 19800309 東京 /籍=長谷川/旧称=和也/元俳優・タレント
 安達 大  タレント 19921023 東京 /籍=長谷川/祐実の異父弟 [AB]
 
♀長谷川 □ 祐実の娘 200604‥ 東京 /安達 祐実&井戸田 潤の長女
 井戸田 潤 タレント 19721213 愛知 /安達 祐実の元夫 [B]/19981211 コンビ「スピードワゴン」結成
 井戸田 富隆 潤の父 19‥‥‥ 愛知 /元小牧市議会副議長/後援会「他抜会(たぬきかい)」/離婚歴
 
♀東原 亜希 モデル 19821111 神奈川 /〜《お金よりも大切なもの 2005‥‥ アイクCM》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20060216 絶望三業 〜 金より大切なものはない 〜
http://aic.jp/index.shtml [A] H165/B84/W58/H84「SRS」格闘ビジュアルクィーン
 
/20080114 井上 康生と入籍 1018 披露宴/籍=井上 亜希
/20090508 第1子となる女児をエジンバラで出産。
/20101126 第2子となる男児を出産。

 
(20101231-20110102)
 


1971年11月14日(日)  アキレスとメロス

 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19711114
 
 ただいま、新郎佐々木敏男君の同級生というふうにご紹介いただきま
したが、実は私、彼より一年早く生れており、さらに高校卒業に際して
は一年遅かったのであります。したがってわれわれが同級生であったの
は、同志社中学と高校にまたがる五年間というわけです。おわり頃の四
年めあたりで、われわれは全学年を通じて一二をあらそう、つまり最下
位の成績をせり合っておりました。
 その結果、私は落第いたしました。ところが彼は、どういうわけか進
級できたのであります。彼はスケートで日本一をとるくらい不勉強で、
私は音楽ばかり勉強していたのに、不公平ではないか、と先生に文句を
いいました。すると先生いわく「オマエは初めてやろが、ヤツは毎日、
滑っとった」       (於・京都グランドホテル 19711114 )
────────────────────────────────
 当時の担任は獅子堂静雄(生物)教諭。佐々木の進級に文句を言った、
など(もちろん)作り話である。
 宴の当日、会場にラジオ競馬中継を拡声した司会者・酒井博史君は、
佐々木夫人によれば、五十歳代で癌病死したという。彼もまた落第生の
ひとりで、留級をよしとせず平安高校に転校している。ここでは、彼の
学力は進学コースに相当したらしく、家庭教師もあてがわれて、みごと
同志社大学に返り咲いた。全盛期の大映映画重役(伝聞では撮影所々長)
のドラ息子で、あたかも別世界を生きぬいたように見える。
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 酒井 箴 映画制作/博史の父 19・・ 京都  生没未詳
 
 大映京都/製作作品82本
 
1954.12.29 怪猫逢魔ケ辻
1955.01.03 伊太郎獅子
1955.01.09 駕で行くのは
1955.01.22 地獄谷の花嫁
1955.01.29 次男坊鴉
1955.02.12 七つの顔の銀次
1955.02.26 花ざかり男一代
1955.03.04 舞妓三銃士
1955.03.11 麝香屋敷
1955.03.25 次男坊判官
1955.04.08 天下を狙う美少年
1955.04.19 鬼斬り若様
1955.05.15 つばくろ笠
1955.06.08 月を斬る影法師
1955.06.26 踊り子行状記
1955.07.12 銭形平次捕物控 どくろ駕籠
1955.08.09 花の二十八人衆
1955.08.31 かんかん虫は唄う
1955.09.06 お父さんはお人好し
1955.09.06 綱渡り見世物侍
1955.09.13 長崎の夜
1955.10.19 悪太郎売出す
1955.11.01 いろは囃子
1955.11.29 俺は藤吉郎
1955.12.07 怪盗と判官
1955.12.14 帰って来た幽霊
1955.12.21 虚無僧変化
1956.01.03 花の渡り鳥
1956.01.09 又四郎喧嘩旅
1956.01.22 虚無僧変化 鍔鳴り街道
1956.02.05 まらそん侍
1956.02.11 お父さんはお人好し かくし子騒動
1956.02.11 銭形平次捕物控 死美人風呂
1956.02.19 お父さんはお人好し 産児無制限
1956.02.26 柳生連也斎 秘伝月影抄
1956.03.04 お化け駕籠
1957.06.18 怪猫夜泣き沼
1957.06.18 赤胴鈴之助 月夜の怪人
1957.07.09 三日月秘文
1957.07.13 南蛮寺の佝楼男
1957.08.06 万五郎天狗
1957.08.13 赤胴鈴之助 鬼面党退治
1957.08.25 赤胴鈴之助 飛鳥流真空斬り
1957.09.03 森の石松
1957.09.21 赤胴鈴之助 新月搭の妖鬼
1957.10.29 忍術若衆 天馬小太郎
1957.11.10 鬼火駕籠
1957.11.17 不知火頭巾
1957.12.08 清水港喧嘩旅
1957.12.15 桃太郎侍
1957.12.28 赤胴鈴之助 一本足の魔人
1958.01.09 月姫系図
1958.01.22 おけさ鴉
1958.01.29 千両槍
1958.02.05 花太郎呪文
1958.03.11 赤胴鈴之助 三つ目の鳥人
1958.03.18 陽気な仲間
1958.03.25 ふり袖纏
1958.04.16 流れ星十字打ち
1958.04.16 旅は気まぐれ風まかせ
1958.05.19 風来坊一番勝負 (大映東京)
1958.06.10 七番目の密使
1958.06.15 怪猫呪いの壁
1958.06.15 白蛇小町
1958.06.29 口笛を吹く渡り鳥
1958.07.13 女狐風呂
1958.07.27 銭形平次捕物控 鬼火燈籠
1958.08.03 江戸は青空
1958.08.03 人肌孔雀
1958.08.19 消えた小判屋敷
1958.08.26 東海道の野郎ども
1958.08.31 花の遊侠伝
1958.08.31 月の影法師 消えゆく能面
1958.09.07 執念の蛇
1958.10.27 血文字船
1958.11.08 濡れ髪剣法
1958.11.15 伊賀の水月
1958.11.15 赤胴鈴之助 黒雲谷の雷人
1958.11.29 弁天小僧
1958.12.21 赤胴鈴之助 どくろ団退治
1958.12.21 大映の水戸黄門漫遊記
1959.01.03 人肌牡丹

 
── http://www.jmdb.ne.jp/person/p0164360.htm
 


1971年11月04日(木)  職人芸 〜 掛ける、書ける、欠ける、描ける、懸ける、架ける 〜

 
 Ex libris Web Library;郊(楷書体)
http://kanji.jitenon.jp/kanjic/1401.html
 「郊」の部首・画数・読み方・筆順
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19711104
 
【0】
 
 凸版印刷に勤務していた当時、次長に「きみ、宋朝体かけるか?」と
声をかけられた。新聞用のレイアウトで、見出しの《郊外の家》のうち
「郊」が文字盤から欠けているので、それらしく手がきで補うためだ。
 
 そこで「まぁ、書けると思います」と答え、それらしいものを描いた。
 むかし、高校入学時に、みずから「名人芸ですから」と言ったことが
あるので、こんどは「職人芸」に相当するはずだ。
 
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20041114 政商 〜 右向くカリスマ 〜
 ↑19711104(木)11:15 ↓《諫争 19550605 山脈 第九号》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19550605 名人芸/発禁始末
 
 いちおう用は足せたが、念のため「先輩職人」の上司に確かめてみた。
「ちょっと甘いな」たしかに、毎日々々溝引きの筆を使っていないから、
素人目にデッサンが正しくても、玄人目にはエッジが甘いと見える。
 
 おそらく音楽なら「ピッチが甘い」という傾向の事例であろう。
 しかし、いくら正確な周波数でも、耳になじまなければ不自然である。
 歌謡曲のベース伴奏譜で、しばしば矛盾が感じられるような難問だ。
 
【1】
 
…… 1973年、ナイトクラブ「ベラミ」のピアニストがアルバイトに来
ていたスナック「キンコンカン」を見つけ、いくぶん本格的(?)に歌
いはじめた。http://d.hatena.ne.jp/adlib/20031017 カラオケ記念日
 
 かねてよりの疑問だったが、テレビで西城 秀樹と五木 ひろしだかが
《想い出のサンフランシスコ 19620202 Columbia》をハモろうとして、
ハモれないことがあった。三者三様のキーで収拾つかなくなったのだ。
 
 こういう場合、バックバンドがどちらかのキーに移調すれば、多数決
で解決するのではないか、と訊ねてみた。いつもママに“お住っさん”
と呼ばれているピアニストは、即座に否定した。業界の慣習らしい。
 
 もちろんクラシックのオーケストラでも、そんなことは不可能である。
 むかし、将棋の内藤 国雄九段が、キーを半音下げてくれと言ったと
かの伝説があるが、カラオケなら簡単でも、実演ではありえない。
 
…… 半音下げるには、伴奏オーケストラの全譜面を(移調して)書換
える必要がある。新曲の発表時と同じ写譜代(ざっと百万円)がかかる。
http://twilog.org/awalibrary/search?word=%E7%A7%BB%E8%AA%BF&ao=a
 
【2】
 
…… 石井宋朝体の制作にあたったのが、若き日の橋本和夫氏であった。
橋本和夫氏は1935年大阪生まれで、1955年にモトヤへ入社した。1959年
に写研へ入社し、石井宋朝体の制作にあたったそうだ。60年代から90年
代の約30年間にわたり、本蘭明朝Lとそのファミリー、紅蘭細楷書とそ
のファミリー、曽蘭隷書などの監修にあたるとともに、これらの書体の
和字書体の設計も担当した。1997年写研を退職後は、株式会社イワタの
依頼に応じて、書体設計の監修を行っている。
 石井宋朝体について、橋本氏は次のように述べている。
 
>>
「そのようにして、石井茂吉先生の指導・監修を受けながら、写研に
入って始めた書体が、石井宋朝体です。途中で石井先生が亡くなられ、
悲しい空白もありましたが、この書体の完成までには六、七年かかりま
したね。僕が写研で始めたのが二四歳でしたから、終わったときは三〇
歳になっていました。(中略)石井宋朝体は、宋朝体の概念をふまえな
がら、石井書体の思想が加味されて、それは優雅な宋朝体が生まれまし
た。写植文字のデザインを勉強するために上京し、五、六年で大阪へ帰
る予定でしたが、結局、僕は定年までの三五年余り、写研に勤めること
になりました」(字游工房『文字の巨人』インタビューより)
<<
 
 橋本 和夫 レタリング 1935‥‥ 大阪 /1955 モトヤ入社 1959 写研入社
http://imadakin1.seesaa.net/category/19017900-1.html
 今田 欣一《今宋 20130614 文字の厨房[航海誌]》
 
【3】
 
 この問題は「名人・達人・職人」を考察する前提となるが、実際に、
書いたり描いたり奏したりしない人たちが、好んで論じたがるようだ。
 ゴルフや麻雀について、グリーンやテーブルなしに語るようなものだ。
 
 つぎの番組で、むしろ(与太郎は)縁なき衆生だったかと自覚した。
── 《プロフェッショナル 仕事の流儀 20160613 22:25-23:15 NHK》
http://yo-mu-wa-inko.com/fujitasigenobu-syotaidezaina-2405
 
…… 書式とやいわむ、書体(文体)とやいわむ。
http://twilog.org/awalibrary/search?word=%E6%9B%B8%E4%BD%93&ao=a
── 《SWITCHインタビュー 達人達 NHK》
 
【4】
 
 素人が、玄人のいないのを見計らって、みずからの才能を誇示する例
は少なくない。たいがいは笑って済ませられるが、あまり思いあがると
ウンザリして気の利いたジョークも思いつかなくなる。
 
 いちばんは、音楽が“わかる”という手合いだ。譜面は読めなくても、
良しあしが分るそうだ。とくにヒットしそうな曲は、ピンと来るそうだ。
 最近、プロの音楽家までが偽ベートーヴェンを賞賛して大恥をかいた。
 
 せんだって、文章の巧拙が“わかる”という言語学者も出現した。
(これまで彼女がどんな本を読んできたか、すこしづつ分ってきた)
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…… 「あんたの文章は下手や」と、悪女 K子が電話で云ってきた。
「中高の先生には絶賛された」と云っても承服せず「小学校の作文では
市長賞を獲った」で黙りこんだ(父の代作だった、のオチも聞かずに)。
https://twitter.com/awalibrary/status/690559321621471232
 
【5】
 
 いちおう、楽譜が読めるのに、おかしなことを云う人もいる。
「ジャズのレコードを聴いていると、スィングする姿が目に浮かぶんや」
 それはまぁ、瞼の母みたいに、他人には見えないはずだが。
 
 いわゆるタレントが、名だたる展覧会に入選するのは、何といっても
話題性であり、集客力であり、ひいては悪徳画商の食いっぷちになる。
 こういう人たちは、さらに獲物を求めて、書画骨董に立ち向かう。
 
 あまり公表されないだけで、実態は惨憺たるものにちがいない。
 もっとも安全確実で、おすすめは食いものに行き着く。
 なんら才能がなくても、旨いか不味いかは、子供でも分るからだ。
 
 壁にかかった絵画などの“水平”がわかる人たちも、自信たっぷりだ。
 与太郎が最初に勤務した看板屋の社長は、常日頃これを自慢していた。
 きわめつけは、何が描いてあるのか、分らない、と主張する人々だ。
 
【6】
 
……(1959)ゴリの義兄が祇園で開業し、店内に飾る油絵を頼まれた。
 与太郎は、カンバスにペインティング・ナイフで暗黒色を塗りつけ、
H状の三本線を白いまま塗りのこした作品を仕上げた。(略)
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 数日後に、ゴリが困った表情で、この作品を返してきた。
「家族会議でな、どうもこの絵は何を描いたんか、分らん云いよるんや。
おふくろは“竹”やないか云うたが、ほかの者は見当がつかんそうや」
 
 与太郎は「やっぱり素人衆には向かなんだか」と笑って引きとった。
── Fontana, Lucio《Concetto spaziale Attesa & Attese 1959 Milano》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19600318 グリル・キタの客
 
【7】
 
 与太郎の「竹」に対して、フォンタナは「川」である。
 いやむしろ、二年前にヴァイオリンの「H」が出現していたのだ。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19571009 《山脈・第十四号》
 
 さらにその前年、偶然のごとく、二つの「||」が登場していた。
── 《山脈11 19560600 同志社高校文芸部》(パステル)表紙デザイン
── 《ホザナコーラス発表会11 19560600 同志社栄光館》(パステル
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http://d.hatena.ne.jp/adlib/20150729 WANTED!
 それに気づかないまま「川」や「シ=海−毎」から「空」につづく。
 さらに、チェンバロを経て、幻のサパー・クラブに至る(全20年間)。
 
…… 未完の三部作《わたしたちのうつくしい川・海・空 1961 》
http://d.hatena.ne.jp/adlib/19641008 Cemballo Recital
 左;Elle Patio 19771206 /右;CHEMBALLO 19641008
 

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(20160713)
 
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