土曜日生まれは腰痛持ち

2008年07月29日(火) 駕籠に乗る人(中略)

数カ月ぶりに実家に遊びにいったら、
母が「好きなの何でも持っていきな」と指差したのは、
古い本の山でした。
21世紀はおろか、平成になってから出版されたものなど
1冊としてなさそうなそれらのうち、
遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」の文庫本をもらいました。
もともとついていたカバーもどこかへ行ってしまったらしく、
青緑の表紙がむき出しの本は、いい感じにくたびれていて、
かなり読み込んだ跡が見られました。
「ああ、それ何回も読んだ。好きなんだよ」
「へぇぇ」

私にとっては初めて読む小説でしたが、
タイトルと、ぼやっとしたプロットは聞いたことがありました。
見てはいないけれど、40年近く前に映画化されたことも
知ってはいました。

かなーり終盤の修道女の手紙を読んでひとしきり泣いた後、
ウェブでいろいろと調べてみたら、
実は90年代にもう一度映画化されていたということを知った上、
あるフランス映画の原案だと言われているという情報も得ました。
ネット上でよく見る迷惑なネタバラ氏に感謝するのは、
こういうときです。
映画を見るまでもなく、確かにその作品は、
「ああ、こりゃビンゴだ」と思うような内容のようです。

ただし、ヒロインの「入院」を「刑務所」に置きかえたのは
無神経でいただけないと思いました。
実際に見たら、それはそれで悪くないのかもしれませんが、
少なくとも、非常に丁寧にネタばらしされたその文章を読んで、
何とも不愉快な思いをしましたので。

「わたしが・棄てた・女」
大学にもろくに行かずアルバイト生活のビンボーな青年が、
頭の悪い田舎娘と二度目のデートで一度だけ関係を持った後、
きれいに捨て去ります(というか、そのつもりでした)。
青年は大学卒業後に就職した小さな会社で
上等の女子と懇ろになりますが、
皮肉にも、その女子を通して娘のことを思い出します。
一方、田舎娘の方は、
青年が、嫌われるのを恐れて上等女子には手を出せずにおり、
たまったものを「赤線でスッキリ♪」している間にも、
もう会えなくなってしまった青年に恋焦がれていました。

上等女子との結婚で「いっぱし」になりたい青年でしたが、
赤線通いが同僚に見つかって、脅迫まがいの金の無心を受け、
このままではいけないけど何とか「処理」はしたいなあと、
手近な田舎娘と再び「そういう関係」になろうと企みます。
すると、娘を追っていくうちに、
そのびっくりするような転落ぶりが耳に入ってきました。
しかも本人に久々に会ってみると、
どうやら難しい病気に侵されているようでした。

まあ青年は、よくいるサイテーの男なわけです。
しかし、中学を出てすぐ働きに出た娘にとっては、
「尊敬する大学生さん」でした。

少し本編から外れますが、
「君たちはどう生きるか」(吉野源三郎・著)で
主人公コペル君が同級生の浦川君の家を訪ねたエピソードを
思い出しました。
コペル君は、父親こそいないけれど裕福な家で育ち、
日々勉学し、あれこれ思索する立派な少年です。
対する浦川君の家は豆腐屋を営んでいますが、
お世辞にも裕福とはいえません。
お母様なら「下品な食べ物」だと言いそうな鯛焼きを出して
コペル君をもてなしてくれました。
コペル君は、そのおいしさに驚きます。
家に帰り、一番の相談相手である叔父さんに
浦川君の家に行った話をすると、
「コペル君から見て浦川君の家が粗末に見えたとしても、
その豆腐屋の従業員は、自分もいつかはこんな店をと思っている」
という趣旨のことを言いました。

この期に及んで、
現代の格差社会にも通じるドウノコウノみたいなことを
言う気はありませんが、
上を見ても下を見てもきりがありません。
青年が愛し、結婚を望む上等女子とて、
所詮はせいぜいがプチブルの娘です(社長の姪)。
小説の中には全くそういった描写はありませんでしたが、
上等女子だって何かの拍子に、
自分よりレベルの高いところに所属する人間に
負の感情を持ってしまう可能性は十分にありえます。

私が青年の一番嫌悪すべき部分だと思ったところは、
罪のない田舎娘を一発ヤッて捨てたことでも、
性のはけ口として再び彼女を求めたことでもなく、
最初から彼女を人間として侮辱し切っていた、その態度でした。
田舎娘のひたむきさに本気で惚れたみたいな展開だったら、
下手すれば、ただの笑い話で終わったかもしれませんが、
悲しいけれど、そうはなりようがありません。
腹は立たない分、思い切りお安い話になっていたでしょうし。

「テーマそこじゃねえだろ」とつっこまれそうですが、
こういう話に触れるたび、
簡単にさまざまな事柄に優越感や劣等感を持ってしまい、
場合によっては侮辱的なことすら考える、
そんな自分のペラさを嫌だなあと思いつつ、
まだ「嫌だなあ」と思えるうちは救いがあるんでは…と
自分で自分を庇おうとし、
そんな自分にまた「いやらしさ」を感じて、
イヤイヤイヤで、くたくたにくたびれます。
少なくとも簡単に人を、
とりわけその「生き方」を侮辱する人間にはなりたくありません。
それは他人だけではなく、自分自身をも、です。
例えば太宰治の「黄金風景」のラストのように、
負けるにしても、いい敗北感を感じられたらなあ。


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