土曜日生まれは腰痛持ち

2004年08月21日(土) 好ましき人々の最期

私は、映画でも小説でも
自分自身が他人からネタばらしをされるのは平気ですが、
人に対しては絶対にできないというタイプです。
多分、思いやりがあるのではなくて、小心者だからでしょう。

が、映画や小説は大好きなので、
人に「こんなのあったよ」と話を聞いてもらうのも大好き。
そんなとき、ネタばらしを恐れて及び腰になることもあります。
だったら話さなきゃいいんですけどね。

映画でも小説でも、
「人間」を描いたものが特に好きです。
重厚で深刻なものも薄っぺらなものも、
自分なりに魅力を感じられれば「好きリスト」に気前よく入れ、
人に話して聞かせたりするわけですが、
どうしても、人の死というものが絡むことがあります。
その死自体がネタばらしになることもありますが、
流れ上、死ぬのが最も自然というか妥当だと思われることもあり、
となると、「どう死んだか」にポイントが移ってきます。

川原泉の「レナード現象には理由がある」を読みました。
たまたま頭の冴えが絶好調だった日に
超難関の進学校を受験して合格した自称「平凡な少女」が、
何の欠点もない、しかし人間味には欠ける同級生の少年に
「人間」というものを考えさせるようなストーリーですが、
少女の祖母は、少年の家が経営する病院で心臓病の手術を受けて成功。
しかし、それがあだに?なって……という挿話がありました。

映画「ガープの世界」では、
小説家志望のT.S.ガープが、
「小説家と結婚したい」と言う最愛のヘレンに
短編の習作を読ませます。
「魔法の手袋」のお話でした。
魔法の手袋を持っている男が、それをつけて他人に触れると、
触れられた人は強い幸福を感じるが、
彼自身は幸も不幸も感じないという、
あえて有体に言えば「切ないストーリー」です。
小説は、主人公の男の死で終焉を迎えます。
アパートの窓から、ピアノを弾きながら一緒に宙吊りにされ、
それが落下!
が、幸い下にあった緩衝のためのトランポリンで
受け止められて助かるが……という展開です。

串田和美の舞台劇を映画化した「上海バンスキング」では、
笹野高史氏演じる“バクマツ”が、
戦地から生還できるかと思えば、なぜかお骨で戻ってきて……
てなオチがありました。

「死」はともかくとしても
寸止めのネタばらしというのは、書いても読んでも
ストレスたまるものですなぁ。


今年、私にとって大切な人が、
今の時点で2人亡くなりました。

4月、母方の祖母が90歳で逝きました。
ほぼ寝たきりでしたし、
病院にも年齢相応には厄介にはなっていたものの、
一応、介護保険は自立認定で、
自宅で老衰でポックリでした。
性格が合わず、ぶつかることも多い祖母でしたが、
その死後、生まれて初めて「においのする夢」を見ました。
三十面下げて、90歳の祖母にぎゅっと抱きついて甘えたら、
とっても「婆くさかった」です。
まさに、時々繰言を聞きにいった祖母の居室のにおいでした。

また、作家・中島らもさんの死もショッキングでした。
今朝、ラジオのニュースを聞いていたら、
「介護入門」で芥川賞を受賞したモブ・ノリオさんの、
「授賞式には出席しないつもりだったが、
尊敬していたらもさんの訃報を聞き、
お世話になった人には会えるときに会って
お礼を言いたいと思って出席を決めた」
というようなコメントを紹介していました。
らもさんの最期は、既に報道のとおりですが、
小説「今夜、すべてのバーで」の中でも触れられていたように、
「35歳で死ぬ」と3人の人から言われた後、
お酒をやめてみたり、甘いものにハマったり、
本来の執筆やお芝居のほかに
ドラマや映画にもちょぼちょぼ出ていた氏は、
強い長生き願望があったかどうかはともかく、
決して52歳であのように急逝してしまうようなことは
想定も希望もしていなかったろうなと思うと、
やっぱり改めて惜しまれます。

(私の祖母はともかくとして)
虚実の別なく、人というのはいつどんな死に方をするか、
全く予告なしだなあと、何というか無常なものを感じます。


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