屋敷に足を踏み入れると、若い小間使いの姿が飛び込んできた。小間使いはギルベルトの姿を認めると、運ぼうとしていた書類の束を驚きの余り落としそうになり、ギルベルトは苦笑しながら人を幽霊を見たいに扱うなと、束の間の帰還を告げた。若い小間使いは驚愕しきりで「すぐに皆の者に伝えて参ります」と、隼の様に奥の間へと引っ込んでいった。そんな、小間使いの様子を見て、ギルベルトは戦争の真っ最中に主がふらりと帰ってきて、驚ろくなという方が無理な注文かと改めて思った。 暫く待ってみたものの、奥の間から誰かが出て来る気配はせず、若者が他の者に嘘つき呼ばわりをされ、説得に苦戦している事が伺われた。若者に同情しつつ、久しぶりに帰還した屋敷を見渡し、嘆息と供に二階へ続く階段をギルベルトは昇り始めた。元はさる貴族の別荘だったというこの屋敷はこれでも、過剰な程に飾られた装飾品を取り払い質実を追求した館だった。 しかし、柱を始めそこかしこに施された凝った豪奢で繊細な細工はどうする事も出来ず得てすると、屋敷を差し押さえられた没落貴族の館の様だった。 階段を上がり切ると、何の躊躇いも無く、奥の部屋を目指した。かつては、この館の歴代の主達の肖像が飾られていたが、見ず知らずの人間の肖像を意味もなく飾っておく趣味は男には無く、それらは全て一括で売り払っていた。故に今この屋敷にある肖像画は男がかつて敬愛した大王と呼ばれた人物のそれだけである。その為、元々肖像画がかけられていた場所は、白い窓の様に廊下に点在していた。 そんな白い窓とも凍みとも見えるそれを横目に眺めつつ、ギルベルトは奥の部屋まで辿り着き、後期バロック様式の名残りが施された扉を手の甲で二回叩いた。一泊遅れて中から「はい」というくぐもった声が帰って来る。 その声を確かめると、ギルベルトはゆっくりとノブを回し、扉を開けた。扉の奥には書棚に囲まれる様にして大きな机と椅子が鎮座している。本来は採光の良い筈の間取りは壁のような書棚の所為でどこか薄暗い印象を与えた。薄暗い、と評した室内は実は男の書斎で、本棚や机の奥底には国家の歴史と機密に関わるものが少なくはなかった。数多の歴史と情報が納められるこの部屋に出入りの赦された者はこの屋敷でも数名だけだった。 そんな、機密で埋まる部屋から聞こえる声。 一見、部屋には誰もいないかの様に見受けられる。しかし、ギルベルトは声の主が、大きな椅子の背もたれに隠れる程の背丈である事を知っていた。 背もたれに隠れてしまう程の背丈、そう声の主は子供だ。 「お茶ならそこに置いておいて」 頁をめくる乾いた音と共に、くぐもったボーイソプラノが聞こえる。 きっと、大きな椅子に腰掛け、大きな机に、大きな本を広げ、小さな手で一心に頁を手繰っているに違いない。そんな子供の姿を想像するだけで、自然と口元が解けた。 「悪いが、茶は入れきてねーんだ」 ギルベルトがそう言い終わるか否か、声の主がまるで椅子から転げ落ちたのではないかと心配になるくらいの慌てた物音をさせ、椅子から飛び下り、抱える程大きな本を後ろ手に持ち、ギルベルトの方に息を弾ませ、顔を紅潮させながら向き直った。 「に…兄さん!いや、あの、これはその…」 青い瞳を伏し目がちにし、金の髪を小刻みに揺らす。 「すまない…いや、ごめんなさい。勝手に兄さんの書斎に入ってしまって」 と、俯きながら呟いた。 「ああ、本当に悪い子供だ」と、態と冷たく言葉を言い放つ。―と、子供―ルートビッヒはしゅんと、本当に哀しそうに小さな肩をより一層竦めた。それを見た男は、そういえば、素直過ぎる程、素直な子供だった事を思い出し、ワリィワリィ、冗談だ、と項垂れる子供に近付き左手で髪をくしゃりと混ぜた。頭に置いた掌に子供の体温が伝わって来る。子供は頭のてっぺんまで温かいものなのか、と感心すると同時に細い金糸のような髪がスルスルとギルベルトの節榑立った指をすり抜けて行った。頭を撫でられたルートビッヒは、少しばかり肩を強張らせ、きゅうと手を握りしめていた。そんな子供から怯えと嬉しさが綯い交ぜになった色を宿した瞳で見上げられ、ギルベルトは 「ここに、この家にあるモンは全部好きにしていい。全部お前のモンだ。この俺すらもな」 と、子供の頭に手を乗せたまま、膝を折り曲げ目線を同じにしながら言った。 一瞬、青い瞳と己の瞳が交錯すると、子供はぱっ、と目線を逸らし「ありがとう、兄さん」と、恥ずかしそうに呟いた。 こうしてみると随分と血色が良くなった。昔はそれこそ、死者の様に青白い顔をしていた。青い血管が浮き出た腕は骨と皮だけで、ギルベルト自身当時は、この様な有り様では国として永くはないだろうと、半ば諦めていた。しかし、一条の光に縋る様に、弱い身体を持っても生きようとする小さな命を何処か放ってはおけず、寝台の上だけが世界の全てである子供に甲斐甲斐しく本を届けさせ、時間がある時は読み聞かせてやる事もした。しかし、子供は本よりも、外の世界がどのような世界であるかという事ばかり聞きたがった。外の世界の様子を聞かせていると、目を爛々と輝かせなかなか寝付かず、そんな子供に手を焼いた事もあった。遥か昔、自分が子供と同じ様な時分は雨風が凌げる事の方が少なく、いつも温かな寝所とスープを渇望していた。打ち付ける冷たい雨や風に晒され浅い眠りを貪り、自然の仕打ちに恨み言を吐いていた自分が育てる子供が、その冷たい雨や身を削る風にさえ憧れを抱いていると知った時は驚愕し、皮肉なものだと思った。 「ルッツ、ちょっと付き合えよ」 「何処へ?」 「外だ」 そう言うと子供の顔がぱぁと高揚で朱に染まる。と、次の瞬間には、眉を潜め「しかし…」と、か細く呟いた。まだまだ、健常とは言い難い子供の身体を心配する侍女連中の顔が咄嗟に浮んだのだろう。少し前まで、まるで死に行く老人の様な咳を毎晩の様に繰り返していた子供の事を思えば、過保護になるのも仕方ない、と理解していたが、ここ数年で子供の身体は安定を見せており、大国への萌芽を男自身感じ取っていた。 「誰にも文句は言わせねぇよ。俺様はこの屋敷の主人だぜ?」 「さっきは、俺がこの家の主人の様な事を言った」 「表向きは、だ。ご主人様の命令だ。行くぞ、ルッツ!」 「ja!」 再び、子供は頬を薔薇色に染めて言った。 戦場ではない場所を駆けるのは久しぶりだった。だからか、疲労困憊である筈の愛馬の走りは軽やかで、初夏の午後の日差しの中を颯爽と駆け抜けた。 調子に乗って、手綱に「もっと、早く走ってみせろよ」という合図を送ると、愛馬は心得たとばかりにスピードを上げた。ギルベルトと男の馬という一人と一頭は満足気に駆けていたが、男の前に挟まれる様にして乗っていたルートビッヒだけは、雨を避ける旅人の様に首を竦め身体を縮こまらせていた。そんな子供の様子を見て、ギルベルトは態と意地の悪い声色で 「顔をあげろよ、男だろ!」 と、馬上で叫んだ。その言葉を契機に子供は恐る恐る首をもたげ、前を見据えた。と、同時に子供から感嘆の声が上がったのが聞こえ、ギルベルトは満足気に口角を上げた。 ヴァン湖まであと少し、という所で愛馬の手綱を強く引き、木陰にそれを繋ぐ。先程の興奮が収まらない子供は下馬した後も小さな胸を上下させていた。 「凄いな!お前はあんなに早く走る事ができるんだな」と、感動醒め止まぬ様子で子供は愛馬の張った太股の辺りにそっと触れた。 「コイツの実力はこんなモンじゃねぇぜ。今は疲労が溜まってるから、寧ろ遅いくらいだ」と、我が事の様に自慢気に言うとルートビッヒは「お前は本当に凄いな」と、愛しそうに黒い毛並みを撫でた。 「ルッツ、お前もそいつみたいに早く走りたいか?」 そう問うと、子供はこくこくと、激しく頷いた。それじゃあ、お兄様に付いてこい!と男は言うと、勢いよく走り出た。それを見た子供は一瞬呆気に取られはしたものの、ぐっと唇を噛んだあと、全力で男の後を追い掛けた。 下生えの夏草が子供の小さな足を濡らし、絡み取ろうとするが、子供は息を切らしながら兄の背中を追った。ざぁという初夏の風の音と、どこからか聞こえてくる微かな木々のざわめきの音が辺りを駆け抜けた。 ぜぇぜぇと息を切らしながら、大木の梺で仁王立ちで待ち構える兄の側までやっとの思いで辿り着くと「に…いさん…はや…すぎる…」と、不平を漏らすと「お前が遅いんだ」と、ケセセと笑った。息を盛大に切らす子供の姿を見て、全力疾走をさせたなどと侍女連中に教えてやったら卒倒しかねないな、と男は苦しそうに、しかしどこか満足気に息を切らし、肩を上下させる子供の姿をみて思った。 「とにかく、よくやった!」 ギルベルトはそう言うと、再び子供の頭を、今度は容赦なく掻き乱した。きゃっきゃっと笑う子供が愛おしくて、男は休むぞ!と叫ぶと草の上に躊躇なく寝転がった。その行為に一瞬、子供は躊躇いを見せたがギルベルトは「細かい事、気にしてんじゃねーよ!」と、子供の腕をむんずと掴み、自分の胸の上に子供を引き寄せた。埃と汗にまみれて決して清潔とはいえない、寧ろ不快を与えかねない上着の上に子供を引き寄せるのは若干抵抗はあったが、子供は大人しくギルベルトの胸に収まりその鼓動に聞き入っている様だった。 暫くすると、ごろんと岩の様に男の胸から落ち 「噎せ返りそうだ」 と、夏草の青臭い匂いに、子供は顔をしかめつつも、破顔しながら言った。子供にとっては何もかもが新鮮な様で、自分の鼻腔を突く草の匂いすら、自分の持ち物であるという自覚は全くと言って無い様だった。 本当に、まだ何も知らないのだ。鬱蒼と繁る黒い森に落とされた雫が、やがては父なるライン、母なるドナウとなって大地を潤し、その豊潤な大地のお陰で葡萄は撓わに実り、美酒が食卓に届けられるという当たり前の事すら、知らないのだと、大地の匂いに感嘆する子供を見てギルベルトは思った。 そんな、思いを感じたのか 「兄さん、質問していいか?」 と、寝転んだ姿勢のまま子供が問いかけた。何だ?と答えると 「何故、草木は生い茂っては枯れるんだ?何故、空の色は変わるんだ?何故、鳥は飛ぶ事が出来るんだ?」と、矢次に質問し始めた。 「ルッツは知りたがり屋だな」男は苦笑しながら頭を掻いた。その仕種を見た子供は瞳を曇らせ「迷惑だっただろうか…」と弱々しく呟いた。子供らしからぬルートビッヒの台詞に二度目の苦笑を返しながら、ギルベルトは 「迷惑じゃねーよ、子供が質問し過ぎる事なんかねぇんだ。どんどん聞けよ」と、笑い子供の頬に触れながら言った。先程、全力疾走した所為で子供の頬は燃える炉の様に熱かった。無理をさせてしまったかもしれない、という一抹の不安に捉われていると子供は、すくと起き上がり改まった様に姿勢を正した。 ギルベルトもそれに釣られる様に上体を起こした。 「では、遠慮なく聞く事にする」そう前置きを述べ、子供の瞳が射抜く様にギルベルトを見据えた。 「宰相と参謀総長は、何故もっと仲良く出来ないのだろうか?彼等だけではない、何故人はいがみ合ったリ、争いあったりするんだ?」 嗚呼、子供だからこんな事を気にするのか。否、子供だからこそ気になるのかもしれない。 「いい質問だ。そして、難しい疑問だ。この世の中には正解がある疑問と、正解がない疑問の二種類ある。そして、この世の殆どの疑問に正解なんてもんはねぇんだ」 一呼吸置くと、真剣に聞入る子供の青い瞳に吸い込まれそうになった。一陣の風が子供の金糸を揺らし、陽光を受けさらさらと流れた。 「特に今、お前が言ったみたいな質問は、人間の永遠のテーマと言っても過言じゃねぇ」 「では、正解のないそれに対してはどの様に対処すればいいんだ?兄さん」 「まず、考える。そして、そいつと話し合う。そいつ以外とも同じ事で話し合う。もっと話し合ってもいいし、一人に戻って考えても、二人に戻って話し合ってもいい。相手が話し合う気が更々ねぇ、って場合もあるがそれは取り敢えず除外する。神の怒りだが何だか知らねぇが、知らない言語だって今のご時世、勉強すれば直ぐ分かるんだ。だから、言葉の壁はさして問題じゃねぇ。人と人が理解しあう手段は今の所、言葉以外ないからな。言葉で現すしかねぇ。要は真剣に考えて話し合う。それしかない。」 「それでも解決しなかったら?」 「だから俺達(国)が居るんだろ?」 ヒトの残した命題を永遠に解き続ける為にー。そう続けようとしたが、何故か口には出さなかった。 「そうか…」 と、風に掻き消されそうになりながらルートビッヒは小さくごちると、日頃の疑問を一気に男に向けて話だした。その疑問に男は逐一丁寧に答え、子供もまた真摯な瞳でそれに頷いていた。そんな様を見て、男はたまらず、海を挟んだ英国では、線路を使用しなくても動く汽車の開発が進んでいる事、遠く離れた場所まで何十日もかかっても航海が出来る事、そのお陰で言語も肌の色も違う人々がこの欧州に渡ろうとしている事、やがて、貴族や高位の人物だけが世の中を動かす時代は終焉を告げるだろうと思う事それらを一気に吐き出す様にまくしたてた。 難しい話をしているのは分かっているが、ギルベルトはこの子供に教えずには居られなかった。 子供はその話聞きながら「それじゃあ、英国が線路のいらない汽車を作るのなら、そうだな俺は…兄さんの愛馬が鋼になった様な誰よりも早く走る鉄の馬を作りたい」 と、喜々として返すのだった。「夢を見過ぎだ」と三度目の苦笑をする。そんな話をしている内に辺りは夕闇を呼び込んでいた。 初夏の蒼天が橙に侵食され始め、わぁと子供が嘆息を漏らし立ち上がる。冷えた初夏の風が自らの頬を撫で嬲り、このままでは本格的に風邪を引くな、とギルベルトは思った。 蒼と橙が入り交じったそれは真っ赤に燃え落ちる夕日に纏わりついて、まるで世界の終りの様だった。そんな夕日に照らされて、子供の陰だけが鮮明に黒く濃く浮かび上がる。子供の陰だけがやけに黒く存在感を見せ、まるで沈み行く何かを冷静に見据える王者の姿にも見え、戦慄を覚えた。 ルートビッヒは朱にそまった金髪を冷やされた風に靡きかせ振り返ると 「今日が終る瞬間だ」 と、男に聞こえる様に叫んだ。 「ああ、そうだな!」と、叫ぶと男はもう少ししたら帰るぞ!皆が心配すると、子供に伝えた。 子供の「ja」という返事は夕闇に掻き消されそうになりががらも男の元に届けられた。 嗚呼、今日が終る、また、朱より濃い赤を見る日々に身を投じるのだろう、しかし、願わくば、子供がその禍々しい紅に身浸す事の無い様、極力身を浸す事が無い様に、男はそう願った。 ーーーーーーーー了 -------------------- そういう訳で子ルート。こういうのが読みたかったんだろ!ほれほれ! 賢こかわいい不器用子ルートと実は真面目カッコいい兄さん(絶滅危惧種)が見たかったんだろ! この後、20年後ドイツ(メルセデス ベンツ)が世界初の自動車を開発すんだぜー! 数年後、岩倉使節団に付いてプロイセンに来る本田とかも考えたが 本田「ギルベルトさんの上司の方も、※幼女がお好きな様で、私たち気が合いそうですね」 ギル「それを言うなあああああああああああ!!!!!」 しか思いつかなかった。 ※http://www.geocities.jp/trushbasket/data/my/dame03.html モルトケ プロイセンの参謀総長(軍のトップ)ビスマルク政権下において、驚異的な軍事手腕を振るったが 39歳で13歳の少女(妹の娘)に一目惚れ、後に結婚 光源氏に次ぐプリンセスメーカー実践男である。
季節は夏の到来を告げていた。暦は六月を数え、過ごしやすい、否、汗ばむ程の陽気が続いていた。砂埃と火薬の臭い、そして汗に染まった紺の軍服はじっとりと重く、皮の軍靴も鉛の様に重く感じた。襟元を僅かばかり押し開くと、微かだが風が舞い込み、すぅと汗を冷やした。真っ先に風邪を引くやり方だが、今は涼を取る事の方が先決だ、と言わんばかりにギルベルトは束の間の心地よさを味わった。 我が家―というには烏滸がましい程の豪壮な屋敷に足を向けるのは久しぶりの事だ。供の者も連れず、単騎でこうやって戻って来る姿を誰か、屋敷の者にでも認められれば「今がどのような時か分かっておられか」と説教が始るに違いない。願わくば、誰に見つからない事を…と、微かに祈りながら愛馬を馬厩に繋ぐ。「俺もドロドロだが、お前も似たようなもんだな」と、共に戦場を駆った黒馬の背を優しく撫でるとその台詞に同意するかの様に、ぶるると戦慄き、鼻頭を男に擦り付けた。「後で、洗ってやるからな」と顎の辺りを撫でると、愛馬は分かった、と言わんばかりに頭を振った。 ―また、すぐにドロドロになっちまうかもしれねぇけどな。 自嘲気味にギルベルトは独りごちると、踵をかえし屋敷へ足を向けた。屋敷の正面玄関に続く石畳の道脇にある丁寧に手入れされた芝と、薔薇の茂みが自分を迎える。初夏の青空と、芝の緑、屋敷の白壁との対比が眩しく、そして、どこからどうみても貴族の屋敷にしか見えぬこの屋敷の主が自分だと思うと、ギルベルトは可笑しくて何時も笑い出しそうになる。流浪の騎士として、野営を常とし、牛馬の糞尿にまみれ眠り、飢えれば汚水を啜り、鼠の固い肉を胃に納める事も厭わなかった自分が今では侯爵様だ。別に、地位や名誉を欲し、豪奢な生活がしたくてここまできた訳ではない。爵位は無論、お飾りでしかなく、無位無冠の者が王の側を、宰相の側をうろつかれては道理が通らぬ、という意味での爵位である。無論、貴族連中の中にはギルベルトの正体が何たるか分からず、出世欲という下心丸出しの顔で「バイルシュミット侯爵、本日はご機嫌麗しく、先日は…」と近付いてくる輩まで出る始末で、男自身にとってはこの爵位自体煩わしい物でしかなかった。 そして、そんな輩の高位の者に媚びへつらい、取り入ろうとする行為自体が男にとっては我慢のならぬ物だった。成り上がりと罵られても構わず、実力で欲する物を手に入れ、勝ち取る事を第一としてきた男には当然の事であった。「これからは爵位なんてもんが一番クソの役にも立たない時代が来るんだ。世辞を並べる暇があったら銃の扱い方の一つでも覚えやがれ」と、擦り寄ってくる連中を大声で怒鳴り散らしてやろうかと思った事も一度や二度ではない。十数年前に起きた市民革命の波を知らぬ筈が無いのに、いつの時代も旧い権威に縋り威を借ろうとする者は現れる。旧い権威、その言葉に誘発されるように、あの男の顔と声を思い出した。 「このままだと、どういう事になるか分かってるんだろ?お坊ちゃん」 そう、口火を切ったのは自分だったが、圧倒的に苛立ちを募らせているのは相手の方だった。 「私に宣戦布告をすると…?貴方が、帝国を、ドイツを統べられるとは私は思いません。その大きさに貴方自身が呑み込まれ押し潰されてしまうのが落ちですよ」 「だからと言って、ハイそうですかとお前に全てを渡せる程、俺は広い心を持ち合わせちゃいねぇし、お前を、正確にはお前の後ろにあるもんを全く信用しちゃあいないんでね」 「このお馬鹿さんが。どうなっても知りませんよ」 眼鏡の淵をくっとあげ根眉に深い皺を寄せた表情が、まざまざと思い出される。そんな言葉を交わしたのは数週間前に行われた連邦会議場での事だが、遥か遠い過去の出来事の様に感じた。それからは目まぐるしく全ての事柄が動きだした。プロイセンがオーストリアに予想通り宣戦布告をした為だ。ホルシュタインを占領する事によって戦いの火蓋は切って落とされ、つまりは、今は有事の只中という事になる。列強等はこの戦いを五分五分と見ていたが、戦況は圧倒的にプロイセンの優勢であった。自国に鉄血宰相と言われる政の天才と、軍事的天才と呼ばれる参謀総長という突出した傑物が生まれた事も勝利の要因であはるが、この戦いが圧倒的優位で迎えられたのは火薬と情報の力の賜物である。ギルベルトは自らの軍が生み出した兵器の恐ろしさを、噛み締める様に思い出した。 『火薬と情報を制する者が世界を制す』そんな錯覚を起こしそうになる様な戦いであった。 「そんな物が本当に実用に耐えられるのか?」そう、言われ過小評価され続けてきた紙製薬莢を用いた後装式の銃はまるで、それを挽回するがごとく、敵兵を紙の人形の様に薙ぎ倒していった。旧態依然という言葉がぴたりと当てはまる、ナポレオン戦争以来、何の変化もしてこなかったオーストリア軍兵士が律儀に前装式の銃に次弾を装填している間に、後装式のそれを屈んだ格好のまま狙いを定め、敵兵に容赦なく四発、五発と弾を打ち込んで行く様は常識を覆す光景であり、オーストリア兵の息を飲む音がこちらまで聞こえて来る様であった。そして、そんな圧倒的攻撃力を陰で支えたのが、電信と鉄道の力であった。宝の持ち腐れとは出来た言葉で、優れた道具もその的確な指示の元扱われなければ何の意味もない。戦況をいかに短時間で的確に把握し、次の行動を迅速に指示すること、それが可能ならば戦というのは圧倒的に優位に持っていく事ができる。有史以来、その単純明解な答えは出ていたのにも関わらず、それが実現困難な事柄であったからこそ、戦は繰り返されてきたのだ。そして、それを可能にしたのが電信であった。早馬を、斤侯を飛ばしていた時代が馬鹿らしくなる程の、短時間でモールス信号に乗せられて伝えられて来るそれを聞いた時はギルベルトは目眩を起こしそうになった。とうとう、ここまで来ちまったか。そう、戦慄きながら呟いた程だ。 それらを相対的に鑑みて、この戦が短期間の後決着が付き、後の戦いの布石になるであろう事は今や誰でも知っている事だった。この戦いは言わば身内同士での諍いであり、内部抗争である。身内同士の争いで自分の持ちうる最大の手駒を使わねばならぬとはなんともふざけた話であり、真に争わねばならぬ相手に手の内をむざむざ晒す行為を余儀無くされている事にきつく唇を噛んだ。 きっと、今頃「不可能という言葉はフランス的ではない」と言葉を残した英雄の亡霊に縋り続けている髭面のあの男は、ワイングラスをくゆらせながら、したり顔で銃機開発や、鉄道整備に早速取りかかっているに違いない。 次に争わねばならぬ、あの男も近い内に『火薬と情報』を手に入れる事だろう。それらを一番上手く扱える者が覇権を握る。その考えはあながち間違いではないだろう。果たして覇を握る者は誰なのか?己自身かもしれぬし、旧知の誰かもしれない。将又、これから生まれる未だ見ぬ誰かもしれぬし、己の手中にある小さな子供かもしれない。 ―子供。 そう、子供だ。
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