どちらが呼び出した訳でもなく、自然と連れ立つ事が多かった。 アントーニョとギルベルト、そして自分という三角形を形成しうる事ももあれば、そこにアントーニョの姿だけという事もあれば、ギルベルトの姿がある事もあった。無論、アントーニョとギルベルト二人だけで己の姿はない時もあっただろう。 ギルベルトと自分、悠久とも言える長い時間を生きる自分達にとって様々な出来事はありはしたが現代に入ってからはーいや、現代に、ここ二十年数年ばかりは本当に悪友という呼称がぴたりと当てはまる様な、ただの飲み友達に成り下がっていた。かつては軍国として成り上がり、名を馳せ、自分とも争った経験を持ち、その後は事実上は解体され、消滅を言い渡された男。解体されて尚、いびつな命を神のきまぐれか、数奇な巡り合わせか与えられ、生き続けている男。 そして、この男の半身とも言える実弟と、命運を共にするという誓いを立ててから、かなり長い年月が過ぎていた。 そういった意味で自分はこの兄弟とは血縁者以外で仕事面では一番近しい存在であると改めて思った。 長きに渡り、この二人の兄弟仲をどこか冷静な眼で、しかし何故か放っておけない程の世話を焼いて此処まで来た。 だから、今日のこれも、そのおせっかいの一つではないのかもしれない、とフランシスは思った。 「まったく、俺も本当人が良いよね、お兄さんの愛は美女限定なのに…」 そう独りごちると、我ながら時間に正確さを欠く地下鉄の改札を緩慢な動作で潜った。 地下鉄5番線を降り、ゆっくりと数分歩くと、パリ10区サンマルタン運河の近くにその店は姿を現す。一見、何の変哲のないワインバーの様だが、扉を押すと、そこはまるで図書館の本の棚の様にワインボトルが壁一面に並べられている。ワインボトルが我が者顔で壁一面を占拠する様は圧迫と静謐を持って、図書館の知識の泉のごとく、芳醇の美味の泉のごとく圧感を持って自分を迎える。しかし、その圧迫感を打ち消す様なペンキの禿げた赤と緑のテーブルと椅子が、ちぐはぐな印象で全体的にどこか滑稽な印象を与える店でもあった。本当は、このペンキの禿げたテーブルと椅子が真新しいく自分を迎えた頃からこの店を知っているのだが、わざと知らぬ振りをして二代目となった店主である息子に「このテーブルと椅子はいつから使っているんだ?懐古主義はイギリスだけにして、とっとと新しいものに買い替えろよ、パリジャンのセンスが泣くぜ」と、澄ました顔で言ってのけ、現店主である息子は先代と同じ、眉尻を片方だけ下げた今にも泣き出しそうな笑みを浮かべ「生憎、ツケが多い店でして、商売あがったりです、ツケの代わりにフランシスさんが椅子代だけでも立て替えて下さるというのはどうですか?」というキツイ冗談を自分に言ってのける程に自分とこの店は付き合いはある。 店の扉を久々に押し開くと、既にパリの庶民達で満員御礼で、老いも若きも、男も女も、既に出上がった状態で、嬌声に包まれていた。二代目の店主の姿はなかったが、馴染みの店員の姿を認めると、フランシスは軽く頭を下げ、灰に、銀髪に染まるそれを探した。かつては実弟と同じ、黄金に染まる髪を風に靡かせていたが、それはいつの頃からか鈍い灰に染まる様になった。それでも、男は放埒を体現してやると言わんばかりに振る舞いを見せており、自分もそれ否定も肯定もせず、ここまで来た。滅びた国の振る舞いに何を気を止めると事があるか、という気持ちも半分はあったが、男なりの覚悟と、矜持と、哀れみと、未練と、希望とで今の自分があるのは誰よりも自覚しているのだとろうと、フランシスは認識していた。フランシスは嬌声を上げる客達を掻き分け、銀髪の男を認めるとそれを目指してテーブルとテーブル、椅子と椅子との間を縫い男の元へ辿り着いた。 「遅せーよ」 既に注がれていたグラスに残るアルコールをぐいと飲み干しながら男は開口一番悪態を突いた。 「悪い、悪い」 そう言いながら、フランシスはコートを脱ぎ、ペンキの禿げた椅子の背を引き腰を降ろした。 「お兄さん、こう見えても結構仕事抱えてる身だから、どっかの暇な誰かさんとは違って、意外と忙しいわけよ」 事実、今日この場に遅れて来た理由も、数時間前に上司から急な呼び出しを喰らっただめだ。 「暇人で悪かったな!」 吐き捨てる様に男ーギルベルト・バイルシュミットはフランシスをねめつけ、フォークをブタンノワールに突き立てた。その光景はちょっとえぐいから、やめてくれと思いながらフランシスは火に油を注ぐがごとく「そう、怒らないでよ。今日は遅れたお詫びに、お兄さんが汗水流して稼いだお金で、自由人のお前に奢ってあげるから」と、続けた。 それを受け、目の前の男は「そういう言い方をされて、素直に奢られるわけねーだろうが」と、鼻を鳴らし、わざとブタンノワールを噛みちぎり、その血を固めたソーセージをくちゃくちゃと咀嚼しながら言い放った。 そんな、ギルベルトを苦笑しながら一瞥すると、店員を呼び、「カロン・セギュール 1870年」と伝えると、店員は苦笑しカウンターの奥へ引っ込んで行った。それを聞いていた男は「喧嘩売ってんのか?」と、ぼそり呟き舌打ちをしながら、ブタンノワールを食べる作業に戻って行った。 「俺に嫌がらせをするために呼んだのかよ?」 「そう、焦らないでよ。俺、今来たばっかなんだから」 フランシスは嘆息混じりに前髪を掻き揚げた。その内に、馴染みの店員が、ハートマークをあしらったボトルとグラスを運んで来た。いつもは、グラスに注がれた状態で出されるのだが、どういう風の吹き回しか、庶民相手の場末のワインバーらしからぬ、上品な手つきで店員はグラスにその深紅の液体を優雅に注ぎ始めた。 ラベルをちらと見ると当たり前だが1870年のものではなく、2000年代に入ってからのものだった。 ごゆっくりどうぞ、と差し出され、フランシスはグラスに口を付けた。 メドックのワイン王と呼ばれた男が「我が心、カロンにあり」と、愛してやまなかったこの3級シャトーは、世界中の恋人達に飲まれているが、本当の美味しさは十年を越えてからだ。故に、若い内に飲まれその苦みに眉根を寄せる者も少なくはない。しかし、この外見にして違和感のある渋味は、まさしく愛そのものを現しているかの様で、「カロンは長い年月をかけたものを飲むべき」という提唱も否定はしないが、愛とはその甘やかな言葉に対し、辛く苦く予想を裏切られる事ばかりであるという意味でカロンを若い内に飲むのも、一興なのではないかとフランシス自身は思っている。まぁ、色んな飲み方ができる、って事なんだけどねと、胸中で呟きながら、ちびり、とその若い渋みを味わうと共にある一人の若い男の苦渋に満ちた顔を思い浮かべた。 男の顔色に余裕がある、という時を見た事は少なかった。 いつも眉間に皺を寄せ、何に挑まんとする眼差しで世界を見ていた。仕事で顔を合わせる度に、もっと、肩の力を抜いて生きろよ、と無理な注文を付けるのは会議の前の挨拶の様になっていた。そのいつも何かに追われた様な状態が常である彼の男の実弟ールートビッヒの様子がいつもにまして、追われていると感じる様になったのはつい最近の事だ。 会議場の円卓に埋もれる様にして肘を付く男の隣に座り、 「何?悩み事?恋わずらいでもしちゃってるの?」 と、いつもの巫山戯た調子で茶化すと、目の下に濃い隈を作った男は、のそりと顔を上げ、フランシスを一瞥すると「そうかもな」と呟いた。 滅多に冗談を言わない堅物が発した一言にフランシスは、あからさまに動揺し「おいおい、どういう風の吹き回しだよ?」と、一人おののいた。そんなフランシスを見て、ルートビッヒはいつもの鉄面皮に戻り「嘘だ」と、嘆息と共に席を立った。 ―アイツの事で悩んでいるんだろう? 「ある意味わかりやすいのかもね」そう胸中で呟くと、肩を揺らし、ふらふらと会議場を後にする大きな背中を見送りながら思った。 少し前から昔程、ギルベルトが現場の仕事に関わらなくなってきている事には気が付いてた。 毎日の様に送られてくる書類の山に男の筆跡を見る事が近年少なくなっていた。段々と現場から離れて行こうとしているそれは、あの兄弟にとっていつか訪れる瞬間であり、迎えねばならぬ時である。その事は十二分に覚悟をしているのだろう事は、身内ですらない自分の様な者でもしかと分かる事実だった。 そんな事実を目前にして、幾多の戦火を越え、実弟と屈辱も後悔も苦悩も感動も、ありとあらゆる感情を飲み込み、承諾し歩んで来た男を知り、その弟と両輪と称され二人三脚で今まで歩んできた己が少しは口をだしても少しは許されるのではないだろうかと思った。 「お前、消えるつもりなの?」 単刀直入に聞いた。 暫しの沈黙が訪れ、周囲の喧噪がやけに遠くに聞こえた。 国が滅びる瞬間を昔は何度も見た。この男の実弟と良く似た容貌を持った少年の最期を看取った事もある。まるで人が死んでいく様に死んでいく時もあれば、ふと気が付くとある時を境に誰もその姿を見る事はなく、この世界から霧の様に消えてしまっていたという事もある。国の死というものは一概にどういったものかを定義するものはなく、その謎はきっと永劫に解明出来る類いの事ではないのだろうと思った。 「さあな」 どこか投げ遺りで、諦念の情を滲ませた一言をぶつけられた。普段は悪戯な子供そのものの様な振るまいをする癖に、掌を翻した様に瞬間何もかも突き放した怜悧で老枯な空気を放つ時がある。それは親しい者にも、自身の実弟にさえも向けられる事がある事をフランシスは知っていた。 「そりゃそーか」 フランシスは、そう呟くと、じゃがいものピュレを口に放りこんだ。 「お兄さん、本当はそんな柄じゃないからこんな事言うの死ぬ程イヤなんだけど、お前達を見てると本当苛々するから教えてやるよ」 自分がこれから言う事は本当お節介以外の何者でもない、それを分かっているからこそ、自分自身が滑稽に思えてならなかった。 フランシスはふぅと、息を吐き出し 「ギルベルト、お前まだ生きてるよな。そうやって全部諦めた振りして、冷静な振りして立つ鳥跡を濁さずじゃないけど、格好よく居なくなるつもりかもしれないけど、それは無理な相談だぜ。お前の弟の憔悴振りを知らないわけじゃあないだろう?」 と、グラスを置き、指で眉間を押し付けながら言った。わざと、男の貌は見ない様にした。きっと、歯を剥き出し激昂した狼の様な目で自分を見ているに違いないと確信していたからだ。しかし、気を取り直し、顔を上げると、肩を落としテーブルの木目を数える様に俯いている男の姿を認めた。予想外の反応に驚きつつ、しおらしい男の姿を見て意地の悪い言葉を態と選んで言ってやろう、という感情と真摯に、この愚かな兄弟を想いやってやろうという感情が綯い交ぜに沸き起こった。 「お前等、『俺達兄弟は何も言わなくても通じ合っている』なんて振りをしてるけど、本当はお互いの事を何一つわかっちゃあいないんだ。アイツが良く言う台詞に『人と人が本当に理解しあうには、話し合うしかない、言葉に現すしかない』ってヤツがある。どうせ、お前の受け売りだろう?お前、無駄な事はべらべらと喋る癖に、肝心な事は言いもしないんだろう?弟の方もそうだ。普段から本音はなかなか出さないくせに、それに拍車をかける有り様だ。似たもの同士で結構な事だろうけどよ、アイツはお前の半身みたいなもんかもしれないが、みたいなだけで、お前とは違う存在なんだよ。あいつが望む言葉が、言うべき言葉は分かってんだろ?それをちゃんと言ってやれよ」 きっと、今度こそ怒り出すだろう。そう思った。 「それだけだよ」 「それだけか?」 ゆらり、と男の顔が上げられる。 泣いていたのかと思った。が、違った。しかし、憤怒で歪められていると予想した顔は、寂しげという表情に近く、そして何かに耐えている様だった。 「ああ、それだけだ」 「回りに人が居て良かったな。二人っきりだったら俺はお前を殴ってた」 「だろうね」 「帰らせてもらう」 そう言うと男は椅子を引き、投げるように数枚の紙幣をテーブルに置いた。 男が去った後に残された空のワイングラスに、残っていた液体を注ぎ、自分のグラスにも注ぎ自身も席を立った。まるで、二人ともが中座しているかのような場が出来上がり、その光景を一瞥するとフランシスは「勘定!」と馴染みの店員を呼び会計を済ませ外に出た。 季節は春の訪れを告げていたが、夜ともなると流石に冷えた。 ―私が嫌悪するのは春の恋愛であり、それはあの心の精気の高揚であって、樹液と同じ時に上ってくるのである。キジバトの雛のように甘い言葉を囁かせる、あの無意識の欲求、血液の醗酵であり、それ以上のものではなく、自然の粗雑な罠であり、そんなものにはまるのは若い者達だけに違いない。 そう言って、春の恋を嫌悪した男が居たが、これもまたカロンと同じ様に甘美で穏やかなだけの季節ではないのだ。 春という新たな季節が産まれるには、冬という季節の死に他ならない。 そんな、季節に別れを経験するのは酷な様でいて、一番似合いなのかもしれない。 「お前が居なくなって、寂しいのは何もお前の弟だけじゃあ、ないんだけどね」 この言葉は最後まで教えてやらない事に決めている。 フランシスはそう思いながら、春のパリの夜空を仰いだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー ギル消失フラグすまそ。なんという、フランシス叶竜太郎化。 もう、ヘ/タ/リ/アなのか、何なのか分からなくなってきてしまいました。
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