カエルと、ナマコと、水銀と
n.446



 「ごめん」もなにもない

=「ごめん」もなにもない=

「手のひらを見せて」
「ん? どうした?」
−手のひらを見せると、彼女はのぞき込み、眉をしかめる。
「生命線短いね」
「そう?」
−僕は首をひねる。ふと、気を緩めたときに、彼女は煙草を取り上げる。
「おい!」
「駄目! 渡さない」
−困ったような笑いが僕の顔の上に乗る。
「おーい。返してくださいよー」
−次第に、僕の顔は固まっていく。作り上げられた顔は、収縮をはじめる。ちょうど、粘土がひび割れていくよう。
「返してくださいな」
−僕は怒っているわけではない。失望している。彼女を信頼していたのだろうか、自分に対して害がないものと見下していたのだろうか。格好の良い言葉では信頼。ただ、僕は、彼女の気持ちが僕にあることをよいことに、自然体でいた。それはそれで悪いことではないし、むしろ僕にとっても彼女にとっても良いことであった。だから、僕は「付き合う気はない」が「結婚するならあんたみたいな子だな」などの言葉を吐いた。タバコも吸った。肩も抱いた。きっと、彼女は僕が自然でいられるようにしていててくれたのだと思う。
「返してください」
−声が震えていく。僕は、彼女と話したくないと思う。意固地になる。彼女は、ホットカーペットの上で僕に背を向けている。目を閉じているのか目を閉じていないのか見えない。だが、眠ってはいない。僕は、黙っている。彼女は、横になって向こう側を見ている。どれくらいか時間が経っている。彼女がむくりと起きあがって、煙草(キャメルのライト)を僕の隣に置く。そして、元のように僕に背中を向けて眠る。無言。僕は、泣きそうになる。煙草を燃やそうと思う。ライターで箱をあぶるも火はつかない。ティッシュを積み、その上に煙草を起き、火をつける。涙が流れはじめる。煙草は確かに灰になる。彼女が気付く。
「え!? 何やってんの? 泣いてるの?」
−少し笑う。煙草は灰になって、火が消える。灰だけが残り、僕は泣いている。
「ねえ、どうしたの?」
−首を振り。少し笑う。涙が落ちる。
「ゴメン」
−首を振る。呟きかけて、やめ、また唇を開く。
「煙草をやめるよ。甘えてた。僕は、甘えてた。でも、僕にとって煙草は大きな支えだった。泣きたいときによく吸ったんだ。今は良いんだ。泣きたいほど沈むこともないしね。でも、煙草のこと好きだったんだな。泣いて、自分でもビックリだ。ごめん」
−彼女が肩を抱く。


一瞬、強いライトに刺された。車がヘッドライトを向けてこの路地に入ってきた。反射。ボクは、道の奥へと進んでしまう。眩しい光から逃れるように、暗闇へと進んでしまう。樹に守られた階段は、いったい、何に続いている?

2005年03月24日(木)



 「煙草をやめるよ」その言葉は消えた

=「煙草をやめるよ」その言葉は消えた=

あでやかなイヴの夜を裂けるようにして、暗く寒い道を歩いていく。少しでも光の気配を感じると体の向きを逸らし、人々の話し声や、足音、幸福の音がする方向から目を背ける。すでにボクは、この混乱が、深い悲しみを背負っているのを感じていた。昔、小さい頃、夜のことを考え続けているとそれがやがて悲しみの涙にかわっていたように、混乱は音もなく悲しみに変わっていた。「どうしてボクは泣いている?」ボクはちいさな山に続く細い坂道に辿り着いていた。冬にでも葉を落とさずに樹が、その道を守っている。ボクは途方に暮れる。煙草を一口でも吸いたいと思う。でも、ボクはそこで思い出す。「煙草はやめるよ」そういって泣いた。
だいぶ温かくなってきた春の事だと思う。ボクはその頃ある女の子と仲が良くて、付き合ってるのか付き合ってないのかよくわからないし、別に付き合ってなくても一緒いられれば落ち着くからそれ以上は望まない、そういう関係にあった。彼女とは海に行き、たき火をし、飛び込み、家でゴロゴロし、動物園へ行き、一緒にいた。この子のことは不思議と良く思い出す。今まで付き合ってきた女の子と比べるとどうしても見劣りがするし、これと言って特技もないし、クッキーを焼かせたらボクより不味いときている。どうしてだろうか、特にこの頃、ボクはこの子のことを考える。その日を思い出した。ボクは、あの山の上で煙草を吸わなかったはずだ。

2005年03月22日(火)



 震える声で「寒い」と言う

=震える声で「寒い」と言う=

猫の鳴き声って言うものは、こんな静けさの中で聞くと案外悲痛なモノなんだ。彼は、喉が渇いたからミルクを下さい、また、おなかも減ったので間食にかつお節でもくれると嬉しいんだけど、なんて言ってる。「あ、サキちゃん?コイツにミルクとかつお節をやってくれないかな。ボクは少し散歩をしてきたい」なんだかんだ言って、静けさの中で聞くボクの声だって震えている。
そうしてボクはコートを羽織り煙草とライターをポケットに入れて玄関を出た。外は暗く、だいぶもやがかっている。どちらにせよ、クリスマスイヴには変わりはないんだ、と思ったとき、「寒い」と口に出した。

2005年03月15日(火)
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