どんよりと曇った冬の寒空 - 2002年10月31日(木) まだ私が小学生の頃。 学校がとても嫌いだった。なにだか判らないけれど馴染めなかったし そこには 義務的な世界が広がっているだけで 他人と交わることの面白さや 温かさなんかを理解できないでいた。 いつも 早くお家に帰りたかった。 短縮授業になると それだけで嬉しかった。 母が朝 持たせてくれるハンカチを握りしめながら お手洗いで独り 不安になってた。 友達もいた。 共学だったし 男のこたちとも仲良くやってた。 それでもやっぱり 他人との交流は 何だか無神経な塊と ぶつかり合う痛みのようなものを感じずにはいられなかった。 家族は誰も幼い私を傷つけないけれど 他人はちがう。 なにげないひと言に 冷たさを感じ 無神経さを感じ 違和感を感じ続けた。 冬のどんより曇った日。 校庭に どこからかプレゼントされた雪山で皆で遊んだ。 雪合戦。 雪の塊が 思いのほか 固く痛いことを知った。 思いきり遊んだから スニーカーの中まで雪に侵されて冷たくなった。 風邪を引いてはいけない と 授業時間中であるのに先生が特別に 家に着替えに帰ることを許してくれた。 どんより曇った寒風の吹く中 私は思いっきり大急ぎで 走って帰った。 時間を気にしたからじゃない。 少しでも早く家に帰りたかった。 どんなに楽しい事柄よりも 「家庭」のなかにいることに 安らぎを感じていた。 はしって はしって はしって。 それでもやっぱり空はどんよりと曇っている。 今にも冷たい雨が降りだしてしまいそうなほど。 まっ赤に燃えたストーブの火の前でかじかんだ体を温めた。 母は ストーブであっためた着替えを私にかぶせてくれた。 あったかい飲み物を手渡して しばらく暖まっていきなさいと もう少しだけ家にとどまることを 許してくれた。 まだ午前中。午前11時少し前。 やっと ひとつ 呼吸ができた気がした。 「もう そろそろ行くよ」というと あったかいムートンで出来たブーツを私に履かせ 母は教室まで送り届けてくれた。 余りにも長い時間 家にとどまった私の立場を考えてくれたのだろう。 先生には 何も 叱られたりもしなかった。 「家でくつろぎすぎたんじゃないのか?」と 少し笑われたけれど。 教室に戻らねばならないことは判ってた。 母の寛容さが 私の自らを律する気持ちの手助けをした。 どんよりと曇った冬の分厚い灰色の空をみると思いだす。 ... 冬の空 - 2002年10月26日(土) 今日 カーテンを開けると 薄曇りにやわらかい光の射した空。 ああ 冬の空だなあと思い なんとなく嬉しくなる。 冬の空には 夏の空のような開放感や生命力の強さを感じられない。 なにか こう 閉塞した世界の中で 誰も彼もが 自分の殻に閉じこもって 今まで暖めてきたものを大切に抱きしめて そして 冷たい風に吹かれながら その温かさの価値を思い知るような そんな季節。 誰にでも 最上級の笑顔で応えて 世間の波をするすると 滑らかに渡り歩く術は 上滑りな結果しか 齎さずに たぶん自分をダメにする。 冬の気候は そんな術のようなものを 受け入れもせず かといって拒みもせず どこまでも 個々人に回帰して 静観する。 厳しいけれど 優しい。 時に冷えきった体には 冬の冷たさが逆にあったかい。 自分の体温や 温かさを感じることが出来るから。 秋から冬への移行は あまりにも早くて見失いそうになる。 これからが「秋本番」というシーズンに潜む冬の姿に 心急いで 目で追った 今朝の空模様。 ... 『新婚さん』 - 2002年10月21日(月) 今日は本を三冊買った。 中の一冊は面白い趣向のもので 『マイブック』という名の本で 中には来年一年間の日付が打ってあるのみ。 それを日記帳にしようが 手帳にしようが スクラップブックにしようが お好きにどうぞ というようなもの。 なんとなく面白くなって買ってしまった。 それなら普通のノートブックを買うほうがよほど紙質もよいし 使いやすいかもしれないというのに。 あとの2冊は オムニバスの短編集と 長編1冊。 短編集の中にある『新婚さん』というタイトルの話に すうーっと 自分の思考が入り込んでいった。 深夜の電車の中。 人もまばらのその電車が自分の降りるべき駅にさしかかったとき 彼はそのまま電車を降りずに駅を見送る。 なんとなく帰りたくなかった。 彼は新婚1ヶ月。家では家庭という小さな枠組みの中で 幸せの象徴のような妻が待っている。 だからこそ 帰りたくない。 結局帰りたくない理由は その変化した生活の中に自分を順応させてしまうことが 何処かしら恐ろしく感じたと まあそういうこと。 その主人公は男だったわけであるけれど その男にとって家庭とは汚くも清らかでもあるクモの巣のような場所で 小さな妻の分身で埋め尽くされた場所。 それを自分の分身であると 受け入れるには まだ 時間が浅すぎる。 自分が違う環境に放り込まれたとき ふと それが自由の幅が大きいほど 拘束感を感じてしまう。 たとえばこの男のように 妻の待つ家のある駅で降りなくとも それはそれで良いのだけど でも その駅で降りてしまう。 そういう自分の意志とは別のところで 脅迫観念に支配されて 決まった概念の中に閉じこめられてしまう。 そういうとき 逃げ出したくなる。 それが当然のことと それが自分の生活そのものだと それが自分の分身であると 疑問を持たずに日々をおくれるようになるまで その拘束感から逃れることができない。 そういう私もなかなか 自分の環境を受け入れることが出来ていない。 そういう意味でやっぱり私も 『新婚さん』っていうことなのだろうか。 ... 秋の気配 - 2002年10月17日(木) 夜になると ひんやりとした風が流れていた。 それは川面を走る風が 冷たさを巻き込んだせいか それとも 底冷えがするという地理的な気候の所為か そこは一足先に 秋の風情をただよわせていた。 「もう少し時期が早ければ この店の前あたりで鵜飼もみられるんです」と 運転手が教えてくれる。 そこはお盆には灯籠流しの淋しい光を見ることが出来 また 帰り来た者たちを 送りだす 山にともす火を みられる場所でもあった。 川は静かに流れている。 明かりの灯らない川面は それでも小さく煌めく。 流れがある所為か 黒い布を広げたような平たい川面も 小さく波打つ。 一品に彩りを与えていた まだらに紅がかった柿の葉を 想い出にどうぞと 小さく包んでくれた。 お香の漂う栞も添えて。 季節を感じることは 簡単なようでとても難しい。 素朴なそのままの姿を楽しむことも またひとつだけれど 趣を一つ加えて より奥行きのある旬を感じることが出来る。 秋の訪れをカレンダーや行事で知るよりも 萩の花や 紅葉や 柿の実の色づきで知らされたい。 電車に乗ると 仕事帰りの疲れた人たちと出会う。 彼らが 秋の訪れに気が付くころには もう 秋はなく 冬の気配が 其処此処に ちりばめている頃だろう。 ... 夢伝説 - 2002年10月10日(木) スターダストレビューの曲に「夢伝説」という曲がある。 私が中学1年生の夏 カルピスのCMに使われてたように思うのだけれど 波が押し寄せる青い海と青い空が画面いっぱいに映し出されて その曲が流れる。 「ジャンジャンジャンジャンジャンジャンジャンジャン・・」 イントロがシンセサイザーの単音で単調に始るのだけれど それがまたとてもよくて まるで波の地響きが遠くから押し寄せてくるように感じる。 遠い昔ことさ 夢で見たんだ 燃える 空に包まれて 光る大地の中を駆け巡るとき 君は舞い降りてきたの・・・ なんてことはない歌詞なのだけれども 曲に合わせてうたわれると シュールだけれど 何処かしら懐かしさを感じる曲で 懐かしさとはいっても 古めかしいという意味ではなく 幻想的なおとぎ話の1ページのような懐かしさなのである。 初めてそのCMを見たときに テレビの前に釘付けになり その夏 何度も何度もレコードの溝が擦り切れてしまうほど 繰り返し流し続けたのを覚えている。 今でも初夏の青い空を見上げると 自然とその歌を口ずさんでしまう。今でもソラでうたうことが出来る。 今日の大阪の空は 秋晴れの深い青空 初夏ではないけれど この曲を想いだし 思わず口ずさんでしまった。 ... 静寂がうるさい。 - 2002年10月06日(日) 私は多分 半分死んでる。 クレッチマーの分類によると 私は分裂気質らしく 確かに内閉的で無口で静謐を好むかもしれない。 あまり貪欲でもないし 面白さを求めるほうでもない。 静寂のなか 目を閉じて 心穏やかに 半分生きているのか 死んでいるのか分からない状態であるときが 一番好きかもしれない。 SF映画によくあるように 水溶液の入ったカプセルの中で 一生仮死状態のまま閉じこめられたって それですらよいと思ってしまうし 私が私であるというこの自意識が無くなってしまうことも それほど恐ろしいことだとも思えない。 雨が近づいてくる音が聞こえる。 雨降りの壁が 私の周囲を取り囲み 何処にも逃げ場を失った大気が その壁の中で膨張して 私の鼓膜に迫ってくる。 世の中が 微妙に響いている。 静寂には音がある。 耳鳴りのように トーンの高い金属音が鳴り続けている。 ダメだ。耳を塞がなきゃ。 静寂がうるさくて おかしくなりそう。 まだ 時計の秒針の進む音の方が静かかもしれない。 蝉時雨を 静寂と捉えるように 音を何かに対比させて捉えると 聞こえる筈の無いものが 大きな音で迫ってくる。 ダメだ。静寂がうるさすぎる。 ドビッシーでも 聴いてしまおう。 ...
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