流れる水の中に...雨音

 

 

土の中の彼女の小さな犬 - 2002年09月29日(日)

村上春樹の小説に『土の中の彼女の小さな犬』という短編がある。
「僕」という主人公 がシーズンオフのホテルで女性と出会い 
そこで簡単な質問ゲームを始めると 
彼女の「庭」にまつわる傷が浮き彫りになってゆくという話。

彼女は幼いころに とっても可愛がっていた子犬がいて
彼女とその子犬とのつながりはとっても深いものだったのだけれど
子犬は死んでしまい 彼女は彼女の大切な物たちと一緒に
庭にその子犬の死骸を生めることにした。
彼女はとても悲しかったし、
その悲しみは決して一生癒えることがないとすら感じていた。
あるとき 彼女の友達のお父さんが事業に失敗して
借金を背負うことになる。
彼女は その友達を可哀相に思い 自分にできることを考えたときに
昔、庭に子犬と一緒に埋めた 自分の貯金通帳を思いだした。
それを友達に役立たせてもらおうと
彼女は その可愛がっていた子犬のお墓の土を手で掘り起こしてしまう。

彼女がその時に気が付いたのは
その子犬が死んだときに あんなにも悲しく癒されないと思っていた感情が
墓を掘り起こせるほどまでに 胸の痛みが薄れてしまっているということ。
そして大切にしていた彼女の犬の墓を掘り起こして荒らしてしまったこと
そしてそれは彼女の友達のためとはいえ 過去の地点で
とても大切であったものを いとも簡単に その聖域を犯してしまえる自分。
そういうものに 傷ついてしまった。


人は生き続けるためには 変化し続けなくてはならない。
ときにそれは ある地点の自分の気持ちに対して 
不誠実な結果となるかもしれない。
だけれども 人は 生き続けていくうちに
そんな卑怯な自分をも 受け入れていかないと
どこか 過去の一角にとどまってしまうことになる。
そんな自分を許して そして他人を許して 生き続けなくてはいけない。

でも それが許せない人がいる。

誰でも 何処かに 傷がある。
想いだしたくない 自分を責めるべく罪を負っている。
もちろん 私にもある。
重く 残酷で 許されることのない罪が。

それを どういう形で 償ってゆくか
それがそのまま その人の生き方になるのだと思う。
二度と 同じことを繰り返すまい と 強く心に言い聞かせ
慎重になることで 救われる悲劇が 少なくない数 あるのだとおもう。

生き続けることは難しい。
きっと人は 何かに必死になって それで為しえたことを
世の中に還元させるか もしくは
何らかの形で その罪を償うために 生きてるんだろうな。
生きるって しんどいな。






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鳩 その3 ライムグリーンのぽっぽちゃんの糞。 - 2002年09月28日(土)




鳩が消えた。

火曜日の夜。
茶道のお稽古から帰ってくると もう彼の姿はなかった。
数日前から 羽をぱたぱたと 広げて はばたく練習をしていたけれど
まさかこんなにも早くに 飛んで行くとは思いもしなかった。


数日前から 栄養をつけるようにと
鳩の餌ではなくて お米を与え続けていた。
お米を与えると ぽっぽちゃんの糞は 黒っぽい色から 
とても綺麗なライムグリーンに変化した。
とても不思議だった。


水曜日の朝 ベランダにでてみると
ベランダの手すりに 五つのライムグリーンのぽっぽちゃんの糞を
発見した。
ベランダのてすりの中央から 端にかけて 五つの糞を落としていた。

ぽっぽちゃんは 数時間 手すりの上で戸惑っていたのだろうね。
飛ぶか 飛ばないか。

もし 飛行が失敗したら そのままマンションの下の
アスファルトに叩き付けられてしまうだろうし。
たぶんぽっぽちゃんは 
ライムグリーンの糞五つ分の時間だけ 躊躇っていたのだろうね。


だけれども マンションの下のアスファルトには
ポッポちゃんの姿も見えないし
きっと 上手く飛び立てたんだろう。


いなくなってから ベランダの窓も開けることができるし
ぽっぽちゃんも元気になった訳だし
世話に手間もかかっていたわけだし
本当は嬉しいはずなのだけれども

いまだに ベランダを覗く癖が治らないのは なぜなんだろうね。





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膿。 - 2002年09月27日(金)



空は真っ黒だった。

雨上がりのアスファルトから男性の香水のような香りが
立ち昇ってきた。
しかしそれはしばらくすると 私が着ていたパジャマが
雨の湿気を含んで 匂い立たせて居たことに気づいた。
寂しい静かな夜だった。

少し離れた背の高いビルの屋上には
飛行機への警告灯が赤く点滅し続けていた。ちかちかと。
たぶん この世界で動きの有るものは それだけなのだろうと
心細くなってた。


気持ちが不安定な夜は
眠薬や安定剤をのんで 一気に眠ってしまうに限るけれど
今日はなんとなく 薬剤を口にしたくない気分。
いや 飲むことすら 厭なのだ。


私をぐるぐる巻きにするこの脱力感や疲労感は
どこにも出口が無くて
唯一の逃げ道があるとすれば それは。


寂しい夜に耳を澄ませば 聞こえてくるのは静寂で
どんなに大きな音よりも激しく
私を包み込むのです。



私は私を切り裂いて
私の中にある膿のようなものを出してしまいたくて
でも
そんなことも できないままに
私自身が まるごと膿になってしまうのです。


溜め息をつけども 何一つ吐き出せずに
胸の辺りに巣喰う もやもやとした影は
今夜も私に どうしようもない絶望感をもたらすのです。





...

仲秋の名月 - 2002年09月21日(土)



昨日の夜 なにげなしにベランダに夜風にあたりにでると
とても明るい月が 街を照らしていた。
幸い 鱗状の雲も 風に流され 美しい月の姿を現していた。
ああ そういえば もうすぐ満月か と想いながら
月を眺め続けていた。

月の本当の明るさを知ることは なかなか難しい。
街に出れば イルミネーションでかき消され
住宅街では街燈や 家々の明かりで 地面は照らされる。

私の住む街は オフィス街を含む一角にあるものだから
夜になるとビルの明かりも全て消えてしまい
多分 住宅地の夜よりも 闇が深い。
凹凸のあるビルの影だけが 姿をあらわし
その区切りも詳細も 闇一色の影になる。
熱を失った塊が 小さな息をしながら 
ひっそりと夜が明けるのを待っている。
眠っているように 命を失いかけているようにひっそりと。

満月は そんな暗闇の街を照らし 
濃紺の空に 浮かんでいる。
なにもかもに 平等に 穏やかに 静かに 降り注いでいる。

月をそんなふうに 何ものかに興ぜられることなく 眺めていたい。


今年の仲秋の名月は 今夜の月。
今朝の青空から推測して 今夜はとても美しい月が現れそう。

今夜の十五夜に対して 来月の18日の月は十三夜。
後の月、名残の月とも呼ばれる。
十五夜の月だけをみて 十三夜の月を見ないのは
「片見月」といわれ 忌み嫌われることらしい。


先まくりいま二夜をば満てずしてくまなきものは長月の月

『丹後守藤原為忠家百首』

 
花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは  『徒然草』 


まだ 満たされぬもの これから満たされつつあるものの
満たされた姿に思い馳せる その具合が美意識なのだろうけど。



張りつめた緊張感が破れるように明日からは欠けゆくけれど 
今夜はそんな満月の 最後にみせる閃光のようなきらめきを
見届けてあげようか。


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彼岸花 - 2002年09月20日(金)




そうか。
彼岸花の季節か と 人の日記をみて 思いだした。
彼岸花は 私の おそらく 一番好きな花。
紅くて 妖しげで 淋しくて か弱くて。

母は不気味だと言ってた。
時期を違わずに 御彼岸になると 決まったように
紅く 紅く 咲き始める。
それがまるで 呪いのようで 不気味だと 母は言ってた。

この時期になると すっくりと茎をのばし 葉を生やすのだけれど
それが枯れ落ちてから紅い華を咲かせる。
葉は花が咲く姿を見ることなく枯れゆき
花は それに手向けられるかのように 咲き始める。
どことなく 寂しい花である。

「華」という文字は この曼珠沙華の姿から作られたと言われるように
この華やかさといい 線の細さと言い よくできているなと思う。


人の姿を よく 花に例えるけれども
この彼岸花に例えられる女性の姿も やはり 淋しい女がよく似合う。
美しくか弱く 存在感はあるけれども 
想いを遂げられずして 消えゆきそうな 
そしてどこか 災いをもたらしそうな そんな女。


彼岸花の根にはリコリンという毒物を含むというが
その昔 飢餓の時には その根を何度も何度も水に晒して
雑穀と混ぜて食べたと言われている。

水に晒せば平気だとは言え 彼岸花にまで手を伸ばす
その気持ちもちょっと切ない。



秋の気配を感じ始めるこの季節。
電車から望める風景は 河原に揺れる彼岸花。
傾き始めた陽射しの中で ほんの小さな風に 重心をゆすられ
揺れて 燃える。



 
 『あかあかとあかあかあかとまんじゅさげ』 角川春樹


あかあかと 群れになって燃える花が 目に浮かぶようである。





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鳩 その2 - 2002年09月18日(水)



我が家のベランダに 鳩が訪れてから もう1ヶ月以上もの日が過ぎた。
彼はいっこうに飛び立つ気配をみせずに 最近では
この餌も水をも恵まれた環境に ずっしりと腰を下ろしている。

彼がベランダに現れて1週間ほど経ったときに
どうにも調子が悪そうなので 彼を大きめの手提げの紙袋に入れて
近くの動物病院に連れていった。
彼は紙袋の中で 大人しくチョコンと座っていた。

先生はレントゲンをとり、そして診察をしてくださって
骨は折れていないようだけれど 翼の筋肉を傷めているとおっしゃった。
たぶん 何かに強く打ち付けたのだろうと。

1週間分の飲み薬をもらい また彼をベランダに持ち帰った。

それからずっと彼は まだベランダにいる。

鳩というのは厄介で 所構わずに糞をするものだから
そのお掃除がとても大変。
私はベランダを3分の1に区切り そのスペース全体に
新聞紙を敷きつめると そこに餌と水と水浴び用の水桶を置き
そこで彼を放し飼いにしている。

最初は私をみて 怯えていた彼も
だんだん強気になってきたのか 私が彼を抱き上げると
ググググ!と強い調子で反抗する。
最初は鳴きもしなかったというのに。やれやれ。


彼の右羽内側の傷跡を 今日チェックしてみると
随分よくなっているようにおもった。
抜け落ちた胸の綿毛も あと少しを除いて再生され
ふかふかのあったかそうな綿毛で覆われている。
あと 翼の羽が再生されれば ほんとうに元通りだ。


しかし なかなか快復しない彼を 飼うことに決めた。
命名もした。

「ポッポちゃん」。

安易だけど わたくし的には 結構気に入っている。


鳩は平和の象徴だし そしてなによりも
冬になると ツガイで肩を寄せ合って 寒さをしのいでいるその姿が
なんともいじらしくて 好きだった。
キッチンのガスコンロの前にある硝子窓に ツガイの鳩が
ほのかに伝わるコンロの火で暖をとっている影を
冬場に見ていたので とても愛らしい。

ベランダで しかも 片割れだけで
この冬を越すことができるかなあと まだ時間もたっぷりあるのに
ちょっと 心配している。


冬になったら 彼にあったかいお家を作ってあげよう。






...

霊長類 ヒト科 にんげん - 2002年09月16日(月)




京都市美術館でメトロポリタン美術館展が開催されているというので
それを見に行ったついでに 京都市動物園にも行ってきた。
京都には しばしば訪れるのだけれど この動物園に入園したのは
はじめてだった。というのも 関西には他にもいくつかの動物園があり
比較するとすれば この京都市動物園は規模の小さいものであるので
なんとなく 動物園としての選択肢から外してしまっていた。
とはいえ そこには どこの動物園とも劣ることのない動物達が
やっぱりいつも「陳列」されている。

私は動物園というものが 結構 いや 随分好きで
動物園となるとわくわくしてしまう。
そこには 私たちとは余りにも姿の違う動物達が居てくれて
目の前で 餌の食べ方や 飛び方 吠え方なんかを披露してくれる。

私は動物がとても好きだし 動物だからとか 人間だからとか
そういう区別は余り好きでない。
だから 動物園という概念がとても好きでなくて
あの狭い囲いの中に閉じこめられて「陳列」されている動物達をみると
とても哀れに感じてしまう。

それはそれとして
その多種多様な動物達にあえるから 
私は動物園に訪れるのがとても好きだ。


檻越しに ライオンに話しかける。
彼らは多分私の声が聞こえているのだろうけれど
そういうアクションには慣れっこになっているのだろう。
檻の前を右から左 左から右へと 落ち着くことなくうろうろと
歩き続けて とどまろうとせず
象は怯えた目を こちらに投げ掛けながら
上手に鼻を使ってくるくると 草を巻き込んで口へと運んでいた。
カバはときおり 見物人に自分の糞を投げつけるらしい。
注意書きが記してあった。
トラはこの夏に肝腫瘍でなくなったらしい。可哀相に。

彼らは狭い檻の中に いつからか閉じこめられて
限られた生活をして
もう 二度と
広い草原を 思いきり走ること 
青い空を 思いきり高く飛び交うことなど ないのだろう。
そう。私たちの目に晒されるためだけに。



そんな中 ひとつの興味深い檻があった。
その檻の中の動物への説明書きにはこう書いてあった。

「霊長類 ヒト科 にんげん」

その檻の向こうは公園になっていて
休日の家族連れが 楽しそうに戯れていた。


なんだか 粋だなあ なんて思いながら
動物も人間も 同じ動物園の敷地の中で
同等として扱われ 陳列されていることに
自分もヒトでありながら 小気味よく感じてしまった。





...

夜の海にて。 - 2002年09月11日(水)



海岸線に建つホテルに泊まりに来た。
テラスからは湾の弧を描く砂浜が 左右にどこまでも長く続いていた。

夜。
テラスにでて 海を眺めていた。
すぐそこに ほんの100メートルほど目の前に存在するはずの海は
地球本来の 明かりのない暗黒に包まれていて
姿など何処にもみえず ただ 波の轟きだけが
ザバン ザバン と やけに大きな音で
この耳に 響き続けていた。

私は多分 今までに こんなに恐ろしい海の姿を見たことがなかった。

波が砂浜に寄せる音が幾重にも 本当に幾重にも重なり
長い海岸線を端から端まで連呼して 空気を轟かす。
それはまるで地響きのようでもあり また
遠くから近づいてくる雷のようでもあり
姿を現さぬ獣の姿に 訳もわからず身がすくんだ。

こんな波に呑み込まれたら 抗う術もなく ひとたまりもないだろう。
この音はまるで この私を狂気へと追いやるかのように
離れもせず また近づきもせず 一定の距離を保ちながら
私に 脅威を与え続けていた。


以前にも これに似たような恐怖を感じたことがあった。
阪神大震災の地響きの音。

どこか 本当に遠い何処かから
次第にこちらへと近づいてくる大きな力。
ごおお・・ごおおおおお・・ごおおおおおお・・・と。
これから起こることの予感を半分感じながら そして
何が起こるのか予想もつかない恐怖を半分抱きながら
地響きが こちらへと近づいてくる緊迫したなかで
私は部屋の床に四つん這いになりながら
迫り来る脅威をこの身に受けとめようとしていた。
覚悟?いや それは覚悟ではなく
抗えない大きな自然の力を 受けとめねばならないという
諦めだったのか。



朝になると 穏やかな海岸線が広がっていた。

海はその姿を現し 遠くに開ける海は何処までも続いて 凪いでいた。
岩を砕くほどの 厳しい波の音はなく
其処にあるのは 白い泡をたてながら 浜の白砂のうえを
優しく撫でゆく 波であるだけだった。


...

ブラックジャックと優しさと。 - 2002年09月06日(金)



最近まで 「ブラックジャック」に嵌まってた。
カードゲームのそれではなく いわゆるアニメーションのそれ。
関西では水曜日の深夜 二時半頃から1時間の枠で放送されてた。
「ブラックジャック制作委員会」というものが制作したもので全10話。
今まで私はブラックジャックになど興味もなかったのだけれど
見始めると嵌まった。毎週木曜日は寝不足だった。
誰かDVD売ってるところ知らないかな。集めたい。

で。
人に本当に優しくできるというのは
自分が強くないと駄目だという話をふと思いだした。
人に何かをしてあげることによって 
自分に不都合が生まれてしまったとしても
それを克服できるだけの実力や精神力などの強さがないと
途中で逃げ出してしまう。
奈落の底に落ちかかってる人の手を握ることができるかどうか(笑)
それをみて 「可哀相」などと言うことは誰にだってできるのだから。

ちょっと話がずれたか。

それだけじゃないけれど 人に優しくするって事は難しい。
自分に痛みが生じない範囲で何かをするというのは
それは本当の意味での優しさではないように思う。
極論かな。まあ、しないよりは優しいのだろうけど。

彼は私のことを「偽善者」だというけれど
私は偽善者にだけはなりたくないと思っている。
偽善者みたいな うそっぱちになるくらいなら
冷酷なほうがよっぽど誠実だと。
そうできているかどうかは別として。

だからあえて私は損を引き受ける生き方がしたいなと思う。
(これが偽善者か)
でも 何だか損を引き受けることで 何かから
ほんの少しずつでも許されるような気がする。
 
ああ これも自己満足か。

優しくなるって難しいねえ。







...




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