HIS AND HER LOG

2007年07月25日(水) ニケの子ども

「目、つぶんな」
「あ、え…」
「ほら、力抜いて、寝るのに緊張してどうすんの」
「あ、あのっ」
「よしよし」

ふと、三橋は頭に熱を感じた。
そして、それが涼子の手であることに気付いた。
かきまぜるように、慈しむように、彼女は彼の髪に触れていた。

「おやすみ、三橋」

頬と、頭の上から伝わる自分のものでないその温度に、
三橋の身体は少しずつ柔らかく融けていく。
例えばそれは、遠い昔に母親に抱かれて眠ったときのように、
更に言えばその子宮の中で揺られて覚醒を待ったときのように、
安らかな感覚であった。
三橋は、自分の意識が段々と「向こうの方」に消えていくのを何となく感じた。



2007年07月20日(金) 夏に死んだ名前

りょう、と彼は私を呼んだ。そんな風に呼ぶのは彼だけだった。
だから私はあの夏の日に、そう呼ばれることがなくなった。
それは当たり前のことだった。
当たり前すぎて悲しかった。
誰もそれを意識しなかったのだろう。
ただ私の中でだけ、発覚した真実だった。

「りょう」
「は?」
「りょうって呼んで」
「何スか、それ」
「いいから、呼んで」

手を伸ばして彼よりも小さな背中を抱く。
この背中が時を経て彼と同じくらい大きくなるまで、
私たちは一緒にいることがあるだろうか。
首もとに顔を埋めて、くちびるで軽く皮膚を食みながら、
私は思い出に浸る。
もしかしたら、誰かにとってはこれはひどく残酷なことなのかもしれなかった。

「涼子さん」

阿部は、私をりょう、とは呼ばなかった。
何故なら、私をそう呼ぶ人間はあの夏の日にいなくなってしまったからだ。
それは当たり前のことだった。



2007年07月16日(月) 魔が燃えるとき


「あー、やばいなあ」
「は?」
「今ね、すっごく阿部のこと抱きたい」

自分で言ったのにね、と涼子は呟いた。
しかしそれが言い終わるか終わらないかの内に阿部が彼女の身体を引き寄せ、
言葉は空気に溶けて消えてしまった。
ぎゅう、と彼は涼子の身体を力いっぱい抱きしめてから、
少し引いて、彼女のくちびるを吸った。
ちゅう、と音がして少し恥ずかしくもなったけれど、
いつも大人ぶって涼やかな顔を崩さない目の前の女が少しだけ紅に染まったのを見て
次第にそんなことは気にしなくなっていた。
啄ばむように吸って、その内舌を入れて、絡めて。
自分からキスをしたのは初めてで、阿部はただただその中に飲み込まれた。
侵入をやっと許した涼子が、自分を抱きたいと言った涼子が、今何よりも愛しかった。
彼らの唾液は混ざり合って、繋がった部分から阻まれることなく伝い落ちる。
息をする瞬間にふとそれを見て、いやらしいな、と彼は思った。

と、ぐっと強い力で阿部は胸を押された。
無論、それは涼子によるもので、彼の頭には何で、とクエスチョンマークが生じ、
それは実際声を通じて涼子に伝わった。
涼子の頬はまだ赤い。

「ここまで」
「…何でスか!」
「これ以上はほら、止まんないしょ」
「今だって止まんねッス」
「でもダメ」
「だから何で!」

咄嗟に涼子の肩を掴んだ彼の腕を、彼女は難なく払った。
刺した朱はまだ消えることはなく、それは彼女がまだ先程の興奮を引きずっていることを示していたが、
彼はそれに気付くことはなかった。

「抱いたら終いだよ、阿部」
「は、意味わかんね…」
「まーあんたは初めてだからねー、そういうとこ、初々しくていいけど、さ」

理解を示さない阿部を映した涼子の瞳は少しうるんでいた。
彼女はじっと彼を見つめたままその左の手をとり、
いつか彼が監督にされたように、
また彼女が既に世に亡き恩師にされたように、
ぎゅっと握った。
何かを伝えたいようでもあったが、
実際は伝えたくもないことばかりが彼女の頭には蘇っていた。

「あたしさ、あんたのことダメにすると思う」
「は?何スかそれ」
「んー、今までずっとそうだったんだよね、付き合った奴付き合った奴みーんなボロボロ」
「ボロボロって…」
「あたしもソフトやってたしさ、やっぱ野球好きだしさ、野球部の奴とかと付き合ったりもしたんだわ。
 野球部だけじゃなくて、サッカーとかバスケとか、まあ、目ぼしいのは結構制覇したんだけど」
「…そんな何人もと付き合ったわけ?」
「そうだよ、そういう女なんだよあたし。でね、こう、部活一筋!みたいなスポーツマンをさ、
 あたしがボロボロにしちゃうわけ、なんつか、精神面で。
 最初は割といい感じに青春してるんだけどね、やっぱ、寝ちゃうとだめだったね、あれ。何でだろう」

魔性だからだ、と阿部は思った。
篠岡や百枝や、クラスメイトの女子と違って、彼女は非常に「女性」溢れる女だった。
綺麗に染まった茶髪や、耳や首元を飾るアクセサリーもそうだったし、
きっちり施された化粧もそれに加担していた。
でも、部活では邪魔にならない程度に抑えているのだから、
やはりこれは彼女の一つの素質なのだ、と彼は結論付けた。
内面は中学までの運動部根性の残り香がしたし、
腐っていた時期に培ったのか、口の悪さは部内一だろう。
それでも彼女の仕草や他の何もかもに、女を感じた。
奥底で覚醒を待っている、自分の雄を、彼女はすくい上げるのだ。
その行為が完了してしまった時、己はそれを制御出来るのだろうか。
涼子が言っていることが何となく分かったような気がして、
阿部は後悔した。分からなければよかった、と後悔したのだった。

「だからさ、ダメ。あたし今回はそういう風にしたくないんだわ。
 阿部にはあたしを甲子園に連れてってほしいし、野球に打ち込んでほしいし」
「でもオレ、こんままじゃ余計に…」
「ん、そーね…まあ、チューまではオッケーってことにしよっか、ガス抜きに」
「止まんないときは?」
「鉄拳制裁、容赦ないからね」
「…」
「そんでさ、んー…、ちゃんと付き合おっか」
「え?」
「曖昧にしとくより安心じゃない?」
「あ、いや、そうだけど…あの、いんスか?」
「ん?」
「オレ、榛名じゃないけど」
「!」

握ったままの手はもう熱いくらいに温度を上げていた。
自分にとっては小さなことを、彼がひどく気にしているのを知って、
涼子は口を緩ませた。
それは経験値の差からくるものかもしれないし、彼の存在しない2年間からくるものかもしれない。
どちらにしたって彼女にとっては羨ましいことで、懐かしいことだった。
彼女はまた、彼を抱きたい、とそう思ったけれど、口には出さなかった。
今まで自分を抱くことで信念を崩していった少年たちの姿がまた脳内を駆け巡る。
阿部がその一部になることを、彼女は恐れていた。
しかし、その一方で期待していた。
彼女の魔が、彼を侵せないことを。それを彼が証明してくれることを。

うん、と言葉を返しながら、涼子は繋いだ手にもう一方の手を添えた。
伏せた目を上げると、夕陽の茜色が阿部を染めていた。
その赤で燃やしてほしい、と涼子は思ったけれど、それも口に出すことはなかった。



2007年07月01日(日) 天の女

宙に浮く舟のへりに腰を下ろしたまま、高杉は空を見ていた。
正確に言えば、空から彼を照らす満月を見ていた。
欠けることのない円。曇りなき金色の光。
それは、同じ舟の向こう側で斬った斬られたを繰り返す
同胞や桂たちにも、勿論高杉にも、平等に明を与える。
彼らの起す喧騒をよそに、高杉はふとそう遠くない昔のことに思いを馳せた。
そう遠くない昔。たった10年ほど前のこと。
そして、その時から彼を捕えて離さない、今では遠い女のことを。

その時、彼はふと、ある匂いを捉えた。
片目を失ってからのち発達した彼の嗅覚が察知したそれは、
懐かしいようでもあり、未曾有のものでもあった。
彼がそのように感じたのは、その匂いが既知のものでありながら
嗅覚が発達して以後には嗅いだことのないものであったらからであろうか。
しかし、彼はそこに存在する全ての理屈を取り込むことなく、
あの女だ、と確信していた。
祭りの夜に別れたきりの、美しい女。
天から降りてきたような女。

その女、紅里は、天からではなく、舟の向こう側からその脚をもって姿を見せた。
無論彼女にも、例外なく月光が降りそそぐ。
白い肌、あかい髪。口元とその身に纏った真紅がよく似合っていた。
合わさった目線を離さぬまま、二人はほんの数秒間動きを止めた。
揺るがない紅里の瞳とはうらはらに、
高杉は思わず目を見開いていた。
それは単純に驚いたからであった。紅里との再会にだけではない。
「この女が」俺を見つけた。
「俺が」この女を見つけるのではなく。
天から降りて。

次の瞬間、高杉は取り繕うようににたり、と口元を歪め、言った。

「お前は来ないと思っていた」

それは紛れもなく彼の本心であった。
岡田が桂や銀時に手を出したなら、紅里の耳にそれが届くこともあるだろう。
しかし、来ないと思っていた。
彼女が高杉を厭うていたからである。
だが、彼女は来た。
そして、彼の名前を呟いた。
待っていたのだ。そう高杉は思った。
彼女が来るのを、その時が来るのを、待っていた。
追いかけ続けたその足を留めて、待っていた。
来ないと思っていた。でも、待っていた。
それも紛れもなく、彼の本心だったのだった。

紅里がどういう思いをもって彼の前に現れたのかなどを考えることなく、
彼はただやってきたその時を祝福した。
その一瞬、彼はまたその心の最奥を目の前の女にさらけ出し、
それに従順に言葉を紡いだ。
待っていたと。この時を。

それでもそれは一瞬のことであって、
時計の秒針が一単位を刻むより早く、彼はまた元の自分を取り戻していた。
そして、全てを月の所為にしたのだった。
既に彼は自分と対峙する女がここにいる目的を見い出すことに意識を傾けており、
自分が数分前にこぼした言葉の次を探していた。
しかしその一方、頭がそのように目まぐるしく回転する裏側で、
消えることのない思いが漂っていたことを、高杉は黙殺し続けていた。

待っていた。
もう一度、お前が天から舞い降りるその時を。
例えそれが、俺のためでなくても。

彼が、その次の言葉を持つことはなかった。


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