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2004年10月20日(水) ロクデナシ

 男は、男に縋る事が出来ないから女に縋るのだろうか。そうして慰められたり、宥められたりする事を望んでいるのだろうか。
 だとしたら、本当に迷惑な事だ。そして、本当に愚かしい事だ。
 女も、女に縋れないのだろうか。ならば人とはそういう風に出来ているものなのだろうか。だとしたら、何とも馬鹿馬鹿しい話だ。
 そこにあるのは、プライドや見栄や、意地や、そういったろくでもないものだ。それらをすべて捨てて接せられる人間が、異性に限られていると言うのなら、世界はなんてつまらないんだろう。


2004年10月19日(火) その理由を未だに僕は知らない

 バイト中、ずっと考えていた。

 「彼女、というか、相棒、なんだよね、求めてるのは。」
 だったら、何故それが女である必要があるのだろう。


 男が女にセックスを求めない、性的な関係を必要としない、しかしながら夫婦ではなく、恋愛関係である。そういう関係があるとする。
 それが女である必要が一体どこにあるのだろう。或いは、一体何を求めてその女と共にいるのだろう。

 己にとって、恋愛とは性的な関係にほぼ等しい。それは己自身が性行為というものに強い執着があるからだろうというのは常々思っている。
 他者にとっての恋愛が、どのような関係を指すのかというのは己はほとんど知らない。しかしながらそれが己の考える関係と等しいわけではないという事は勿論知っている。

 セックスに重点をおかないカップルも多いだろう。友人の延長のようなカップル。そういう人々もきっと存在する事だろう。
 己は聞きたい。友人のような恋人。ではその恋人は友人とどこが違うのか。親友と呼べる人と一体何が違うのか。
 「親友は同性で、恋人は異性」だという答えならば、更に聞こう。何故、と。どうして異性だからと言って、親友ではなく恋人になるのかと。

 明確に意識したのはここ数年だが、己はおそらくバイセクシャル的な部分を持っていると自分では思っている。己は身も心も完全な女性であるが、恋愛対象には男性も女性も同じようになりうる。そして同時に男性も女性も友人となりうると思っている。つまり己にとっては、先ほどの方程式は決して成り立たなくなってしまう。
 数年前まで、女性に対しての好きは友人に対しての好き=Likeでしかなかった。それなのにLoveだってありうるのだと分かったときに、では一体線引きはどこにあるのか、己には分からなくなってしまった。
 もうずっと何年も考えているが、未だに上手く線引きをする事が出来ずにいる。友愛と恋愛の差は一体どこにあるのか。友人にだって特別好きな人がいる。それと恋愛の違いは何なのか。

 己にとって、恋愛対象となるか否かはセックスが出来るかどうか、ということに尽きる。
 友人とセックスをしたいとかしようとかは思わない、今のところは。キスをしたいと思う事はあるが、それはセックスとは違う。キスはスキンシップだ。
 スキンシップは友人同士でも普通の事だろう。手を繋ぐ、腕を組む、肩を抱く、抱きしめる。キスはその延長線上にある、と己は思っている。ちなみにここで言っているのは「触れる」キスだ。決して舌を絡めるディープキスではない。
 消去法でそれ以外は恋愛になりうる相手、というのが今のところの己の考えだ。

 最初の問いに戻ろう。ではセックスの存在しない恋愛関係において、その相手が異性である必要性はあるのか。あるならばその理由は何か。
 己個人の考えとしては、その必要性は無い。もしそれが異性ならば、たまたまその相手との間に、告白やセックスなどの恋愛関係(オツキアイ)の成立に必要な事実が存在しただけだ。別にそれは同性とでもありうる事だ。
 客観的に言うと、同性愛者はマイノリティーであり、マジョリティーは異性愛者である。では異性愛を前提として考えた時、恋愛は異性と行うものである。恋愛関係に陥るには相手が異性でなければならない。これは絶対的に必要な最優先事項と言っても良いだろう。
 では逆に、その相手が恋人である必要性はどこにあるのだろう。何故友人ではいけないのか。両者の間にセックスが介在しないのであれば、その関係は恋人でなくとも構わないのではないか。その関係を友人ではなく、恋人と称する理由を己は未だに知らない。


2004年10月17日(日) 氷の盾

 「誘われなかった事がそんなにショックだったならそう言えば良かったのに。」
 「でも、言ったから何かが変わる訳でもないでしょう? 」

 例えば、相談事やそういった事。話してくれない人を責める事は出来ない。どうして相談してくれないのかと思い悩む事は出来ても、本人を問い詰める事など出来ない。それは己が決める事ではないから。それは相手が決める事であって、話してくれない事を責めるべきではない。
 語らない事は、その人が語らないと決めた事。それは、その人自身の考えに基づいた物で、話さない事が意思表示なのだ。
 話さないという事はそれだけの仲なのだ。重大事を話すに値しない人間、誘うに値しない人間、思い出しさえしない人間。
 それだけの事だ。それ以上でもそれ以下でもない、表面的には穏やかで和やかなオツキアイ。

 「そんなもの要らない」と言うには、己はあまりに幼く、弱く、人間関係に飢えていたのだろう。そうして、過剰なる期待を抱き、数年の後、現在、失望と絶望と裏切られた思いを抱えている。

 だったら期待しなければ良い。表面上のオツキアイに一線を引いて、一歩下がって、冷ややかに相手を拒絶すれば良い。
 相手が己を受け入れないなら、己も相手に求めなければ良い。完全にとは行かないかもしれない。それでも、そうするように言い聞かせなければいけないのだろう。
 裏切りなんて、期待するから感じるのだ。信じたり、相手に素の自分を晒したり、それは相手にも同じ事を求めているのだ。相手が同じように自分を信じ、素を見せてくれる事を期待している。
 「それは相手にとって、迷惑な事だと思うんだよね。」
 そうそして、期待するから、振られただけなのに、裏切られたなんて思うのだ。身勝手な、愚かしい自分。


 「私は、誰も愛さない。」それ故に、誰も私を愛さなくても、裏切りや絶望よりも苦しくは無いだろうから。


2004年10月05日(火) ゲーム

 ゲームをしている。あるブログを探せというものだ。ヒントは[はてなダイアリー]、そして[毎日更新している]という二つだけ。新着日記をひたすら眺めていると何だか頭がおかしくなりそうだ。
 でも勝ちたい。負けるのは悔しい。己は本当に負けず嫌いだ。


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