KENの日記
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2017年03月31日(金) 長崎から引越

今日は長崎最後の日でした。午前中に長崎市銀屋町のアパートを引き払いました。引っ越し業者は「サカイ引越センター」に頼みました。31日は引っ越しが多いらしく二日前まで時間が決まりませんでしたが、結局今日朝7時30分からの荷物出しとなりました。引越には慣れているとはいえ、生活をしながらの引越準備なので掃除機を最後にしまうとか結構忙しい荷造りとなりました。業者が段取り良く荷作りしたので8時30分には荷物の搬出は終了しました。

11時過ぎにガス(西部ガス)の点検・メータ読み取りを済ませ、その後不動産屋さんに電話して最後の引き渡しを終えました。電気・水道の処理は既に済ませていました。近くの郵便局に転居届を出して全ての作業を終えました。

飛行機は夕方の便を予約しておいたのですが、午後早い便にも間に合いそうなので急いで飛行場へ向かうリムジンバスのバス停に向かいました。12時過ぎのリムジンバスに間に合ったので12時40分には長崎空港に着くことができました。午後2時の羽田行きには若干の空席があったのでラッキーでした。F席(3・3・3の席の真中席)しか残っていないのですが仕方がありません。満席の飛行機は順調でした。殆ど寝ていましたが。

長崎は朝から「雨」でしたが、東京も雨模様の寒い天候でした。ここ一週間ほど一日単位で天候がガラっと変わります。



2017年03月18日(土) 遍路の準備

4月以降暖かくなったら四国遍路を完遂させようと考えています。これまで「区切り」3回で69番「観音寺」まで打ちました。後は香川県の19カ所を残すだけとなっています。長崎に住んでいる間に休みを利用して回ろうかとも考えたのですが、やはり「職」を離れて新たな気持ちで結願・終了させたいと考えました。仕事の電話が遍路先まで掛かってくるような状況は避けることにしました。

それと長崎から四国に入るのは関東から「夜行バス」で四国に入るのと時間的にも費用的にも変わらないのです。寧ろ関東からの方が便利かもしれません。関西なら四国に近いですが、長崎から四国に行くには福岡・岡山を経由しなければなりません。乗り換えが大変なのです。

遍路の準備です。69番から回る札所の順序・道順(遍路道)の確認、泊まる宿(候補)のピックアップなど。途中の遍路宿での情報交換で直前になって変更となることがあるのですが、自分の案として準備しておかなければなりません。2回目・3回目の「区切り打ち」では、事前準備不足があり迷ったり、見落としたりしたりすることがありました。今回最後ですので、初心に帰って準備を入念にしたいと思います。今回は第88番大窪寺納経の後に高野山奥の院にいくことも考えています。

それと大事な準備は「般若心経写経」と「体力作り」です。過去3回の「区切り打ち」においては脚力の衰えは感じなかったのですが、今回は約1年間の船生活の後の遍路となるので「脚力」が衰えている可能性があります。とにかく人生の大きな区切りにあたたりますので、この四国遍路仕上げを有意義に仕上げたいと考えています。



2017年03月17日(金) WBC日本は準決勝へ

WBC一次・二次ラウンドで日本は全勝で首位となりアメリカで行われる準決勝に進むこととなりました。これまでの試合において日本は大変な接戦を勝ち抜き、試合が進むごとに逞しさが増して強くなっているように思います。

今回の日本代表の平均年齢は「27歳」で過去のチームに比べると最も若いチームなのだそうです。現在日本のスポーツ界で「20代」の選手達の強さが光ります。ゴルフの松山、体操の内村、水泳の萩野、フィギアの羽生、テニスの錦織など、これまで過去の日本人選手が到達できなかったレベルに達して世界トップになったりそれに近づいています。

これらの若いアスリートが生まれたのは1990年前後です。興味があるのはこの世代に続くもっと若い世代のアスリートも世界的レベルに到達するのかどうかです。この世代の強さには何か秘密があるのではないでしょうか。



2017年03月12日(日) 長崎県オペラ協会公演

今日は第二日曜日です。諫早から島原半島に伸びる「諫早鉄道1000円乗り放題」の日なので、島原見物をしようと早起きして長崎駅に徒歩で向かいました。途中の道は何回も通ったことのある道で、オペラ公演のポスターが張ってある店舗があり、これまでも少し気になっていました。今日はそのポスターをよく見てみました。何と公演は今日の14時からでした。料金は自由席3000円、会場はアパートから近い長崎市民会館です。

島原に行こうか、オペラにしようか迷いましたが、計画を変更してオペラを見ることにしました。

オペラは午後からなのでまずは午前中何をして過ごすか考えました。まずは折角歩き始めたので長崎駅までは歩くことにしました。更に長崎駅からアパートに戻る道筋に「長崎中町教会」があり賑やかだったので教会に入ってみることにしました。9時からのミサに間に合いました。ミサは1時間30分ほど続きました。大きな教会内の席は8割程度埋まっていました。老若男女様々な方々が参加されていました。ミサの途中で歌われる讃美歌などの歌ではやたらに声が通り上手な方がいてびっくりです。男性の参加者も歌が上手で男性声部がきちんと聞き取れました。

午後2時から開演した長崎県オペラ協会の敵演奏会は「プッチーニ作品への招待」という副題がついていて、演目は「ラ・ボエーム」「トスカ」「妖精ヴィッリ」「蝶々夫人」からの抜粋と「修道女アンジェリカ(全曲)」でした。「ボエーム」から「妖精ヴィッリ」までは市民(素人)オペラの域に留まる水準なので、ここまで聞いて正直「オペラ」を選んだことを少し後悔しました。

しかし、「蝶々夫人」から状況は全く変わり、プロのオペラ公演顔負けの大変水準の高い演奏となりました。最後の「修道女アンジェリカ」は女声だけのオペラで素晴らしい演奏を聴くことができたという満足感を味わえました。

やはりここは長崎です。「蝶々夫人」は自分達のオペラなのです。長崎のオペラファンは中途半端な「蝶々夫人」は許さないのだと思いました。今日は第三幕の途中から最後まで演奏されましたが、蝶々さんと鈴木の「歌と演技」は大したものでした。和服の着方・和服での動作が非常に洗練されています。長崎では和服を着ているご婦人を見る機会が多く和服の伝統文化を保存することを意識して行っているようです。

そして「修道女アンジェリカ」です。キリスト教文化が日本の他のどの場所より市民に浸透している長崎です。修道院を舞台にしたオペラは得意中の得意なのだと思います。讃美歌を歌うことは多くの市民にとって特別なことではないでしょうし、多くの卒業生をオペラ協会に送り出している「長崎活水女子大学」はプロテスタント系の大学です。

伴奏はピアノとシンセサイザーでした。シンセサイザーは弦楽器のパートは良く馴染んでいたと思います。指揮は「星出豊」氏。歌い手の力を引き出していたと思います。会場の長崎市市民会館は中規模のホールです。非常に古くて狭い座席は座り心地は良くないです。しかし現在では「箱物」に金をかけない地域は珍しくなっています。ハード(会場)よりソフト(公演の中身)のほうが断然勝っていました。会場はほぼ満員でした。



2017年03月11日(土) ニュースのネタがやたら多い。

「土日」になると一週間分のニュースをまとめて解説する番組が組まれますが、先週来視聴者の気を引く「ネタ」がめじろ押しです。正直言ってマスコミ各社が消化しきれないで放送しているようにも見える場面があります。ひところずっとトップニュースで扱われていた「トランプ大統領」は今や影が薄い状態です。

それにしてもニュースネタの内容は困ったものです。解決の方向性が掴めないので暗澹たる無力感に襲われます。北朝鮮のテロ・核・ミサイル問題は平和的な解決が不可能ではないかという程度に進行してしまいました。韓国の朴大統領弾劾は「日韓関係」を振り出しに戻すような勢いです。今日は「3.11」ですが、大規模自然災害が起こらないで欲しいと願います。これ以上のニュースネタはいらないです。



2017年03月10日(金) コルべ神父のこと

コルベ神父の紹介(聖母の騎士修道院パンフレット等から抜粋)

コルベ神父はポーランドのユダヤ人の家庭に生まれました。キリスト教を広めるために1930年4月24日に長崎に上陸しました。上陸一か月後に布教のため月刊誌「聖母の騎士」を創刊しました。その後一年間は仮修道院として大浦天主堂下の「旧雨森病院跡」を拠点として布教活動をし、1931年5月に長崎市本河内の英彦山麓に「聖母の騎士修道院」を開きました。コルベ神父はその後6年間結核と清貧に耐えながら出版・布教に尽力されました。

1936年会議のためにポーランドに帰国した神父は母国の「ニエポカラヌフ修道院」の院長に選ばれました。神父の心は常に殉教者の国「日本」に向いていましたが再び日本に帰ることはできませんでした。やがて第二次世界大戦が勃発し1941年2月17日に神父はゲシュタポに連行されました。そしてアウシュビッツ収容所に送られたのでした。

1941年7月末に神父の収容されている棟で脱走事件が起こり、「見せしめ」のために同じ棟の中の10人が処刑されることになってしまいました。その10人の中に故郷に妻子を持つポーランド軍軍曹の「フランシスコ・ガヨヴィニチェク」がいて自分を外してくれるよう泣いて嘆願しました。これを見ていたコルベ神父は彼の代わりに自分が10人の中に加わることを名乗り出たのでした。

コルベ神父は他の9人とともに<死の地下室>と呼ばれる餓死監房に入れられたのでした。2週間後の8月14日神父は残っていた他の4人とともに毒薬注射により殺害されたのでした。ローマ法王庁は1971年にコルベ神父を「福者」に、そして1982年には「聖者」の列に加えその遺徳を称えました。

ということですが、今日は大浦天主堂下にある「聖コルベ館」に行ってきました。聖コルベ館はグラバー通りから少し入った一見何の変哲もないお土産屋さんの奥にありました。店の奥の扉の向こうに「コルベ神父」が日本に来てから1年程暮らした家の「暖炉」が保存されていました。(聖コルベ館)


聖コルべ館の紹介(館主嵩山郁子さんの話から)

コルベ神父が日本にきて最初の一年間程を過ごしたのが、大浦天主堂からグラバー通りから少し下った左側にあった大きな洋館(南山手10番館)でした。この洋館は隣の雨森病院(南山手12番館)の所有で当時空き家となっていたようです。「聖母の騎士」教会は長崎市郊外の本河内に場所を得てそこに本格的な修道院を建築し現在に至っています。

話は戦後に飛びます。戦争末期の長崎原爆投下で長崎市は甚大な被害を受けました。当時既に長崎市内には老朽化してしまった洋館が多数ありましたが、古い洋館の修復は二の次で、当然ですが長崎市民の生活基盤の復興が優先されました。そんな中戦後の税制改革によって大浦天主堂下に広大な敷地を有していた雨森家では広大な敷地を経営するこができなくなり、止む無く無人となっていた南山手10番の土地・洋館を政府に物納しました。

昭和22年その「土地・建物」を政府から購入したのが「嵩山雄太郎氏」でした。嵩山氏はその洋館を建坪120坪洋館をアパート兼住宅としました。嵩山氏はその住宅兼アパートにかつて仮修道院がおかれていたことを認識していたようです。「聖母の騎士」教会とは頻繁な交流があったようで、長女の郁子さん(現館長)は、小さいころに「神父さん」方がやってきて腰に綺麗な布を垂らしていたことを覚えているそうです。

こうして「コルベ神父」も暖を取られたと想定される「暖炉」は嵩山家の居間に鎮座することとなりました。ところがその30年後の昭和53年4月14日、隣の三上工作所で火災が発生し、火は嵩山アパートをも襲うこととなりました。この火災により洋館はほぼ全焼してしまい、建物中心部にあった「暖炉」だけが燃え後に聳えるといった光景を作り出してしまったのでした。

不運なことは重なるもので、雄太郎氏が掛けていた洋館の火災保険は前年12月末で切れていたのでした。雄太郎氏は店子の面倒を見ることを優先したようで、嵩山家は建て直しもままならないまま数年間焼残った建物の一部で暮らすことになってしまったようです。この火災は嵩山家の生活を一変させてしまったのでした。

1981年(昭和56年)3月そのような状況下にある嵩山家を訪れたのが当時「女の一生」でコルベ神父のことを小説書く準備をしていた「遠藤周作氏」でした。遠藤周作は1977年にアウシュビッツを訪問しコルベ神父のことが頭から離れない状態だったと想像されます。焼け跡に残された「暖炉」をみた遠藤は嵩山雄太郎氏に次のように語ったのでした。

「大浦天主堂にはたくさんの修学旅行生が来ますね。100人いたとしたら98人は他のことを考えても1人か2人の学生はコルベ神父の話を聞いて感動するかもしれない。何とか暖炉を保存して見学のコースにしてほしい」」この遠藤周作の励ましから嵩山雄太郎氏そしてそのご家族の格闘が始まりました。

嵩山家はその後焼け跡に残った暖炉(煉瓦の塊)を数メートル移動して焼け跡地を整理し上階にペンションを設えた住宅を建設しました。しかし暖炉は屋外に置かれたままの状態でした。嵩山雄太郎しは1991年に亡くなりますが、寄付を募った結果漸く1996年「暖炉」を収容する「記念館」が完成し、住宅の建物のコンクリートの壁を壊して通路を設け記念館は住宅と一体となったのでした(長崎市の建築許可はなかなか下りなかったとのことです)。

これが現在の「聖コルべ館」です。クリスチャンでもない嵩山郁子さんは毎日「聖コルベ館」を守りながら、コルベ神父・キリスト教に関するショップを運営されているのです。1996年9月に亡くなった遠藤周作氏は残念ながら「聖コルベ記念館」を訪れることはできませんでした。

私が嵩山郁子さんからお話を聞いている間中ショップには全く客は来ませんでした。遠藤周作が願ったように「100人の中の一人二人」にも達していないような感じではありました。私より二歳ほど年上の「嵩山郁子さん」は大変お元気です。遠藤周作氏と出会った嵩山家の人達は、お金では買えない豊かな生活を送っているように見えます。



2017年03月05日(日) 引っ越し準備

3月末退職なので自動的に31日にさいたまに引っ越すこととなります。引っ越し準備を開始しました。単身なのでそれほどの荷物はないのですが、「詰め込む」作業は面倒くさいです。引っ越し業者が段ボール箱とプチプチシートを持ってきてくれました。

3月31日に荷物を送りだしてその日の夕方の飛行機で移動しようと考えています。今年はきちんとした「花見」ができそうです。関東の花粉症も心配ではありますが。



2017年03月04日(土) 長崎戻り・JR四国のこと

今日JRの列車を乗り継いで徳島から長崎に戻りました。「乗り継ぎ」はJR四国、JR西日本、JR九州の列車に乗ったことになります。四国では、高松ー松山間が電化されていますが、その他の区間はディーゼル列車が走っています。徳島・高松の両駅は「何となくスッキリ」していように見えますが、それは架線がないせいです。

歳の道路では電線等の地中化が進んでいます。電柱・架線のない街並みはすっきりしています。昨年行った台湾の「高雄」の市内電車は架線の無い「最新式」のもでした。列車でも(電車でも)架線の必要のない技術が開発されることになるかもしれません。そうしたら四国の鉄道網は生まれ変わるかも知れません。

昨年北海道新幹線が開通して、日本の主要な地域で新幹線の通っていない場所は四国だけになりました。今のところ四国に新幹線を引っ張ってくる計画はないようです。新幹線が来なくても、電化されなくとも四国のJRは大変元気です。



2017年03月01日(水) 今月一杯で退職

今月末で会社を退職することに決めました。

昨年60歳を迎えたあと「嘱託」という形で会社に残り、ケーブル敷設船上で勤務する機会を得ました。グループ全体としての事業は電気通信事業ですので、ケーブル敷設船に乗船する業務に巡り合うことができたのは「幸運」と言えるでしょう。一年半程度の短い期間でしたが船内生活は興味深いものでした。

日本国内では沖縄から利尻・礼文島まで経験しました。北海道から長崎に変える方法として太平洋回り・日本海回りの両方を経験しました。海外では「台湾工事」を経験し、船員身分での台湾入国をしました。この歳になって初めて経験することが多く、戸惑いもありましたが勉強もしました。

4月からは「さいたま市」に戻ります。何をして過ごすのかまだはっきり決めてはいません。これまでは将来のことをある程度予想し、自分の気持ちも整理し(諦めることは諦め)て準備をして、将来にできるだけ不安がないように過ごしてきました。しかし、これからはそうした生活態度も少し緩め、のんびり過ごすのも良いかなと思っています。




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