昨日の夜に下関から長崎に移動しました。先月契約した長崎のアパートに一泊して今日は朝から不動産屋さんからアパートの最終的な契約書を受領しました。今年の12月は下関の三菱重工下関造船所でのドックに勤務しながら、長崎にアパートを探して契約を締結するという非常にタフな活動をしました。住む場所がケーブル敷設円「すばる」、造船所の宿舎「彦島荘」、長崎の単身赴任用のアパートと一挙に3カ所になったのですから、手続きが大変だったことや、どこのどんな荷物を運ぶべきなのかとか、かなり難しい引越しをこなしたと思います。一挙に3カ所の住処作りなのでかなりの分割損が出た勘定ですが、長野の実家を整理して使えそうな物を運び出していたことは大変役立ちました。今日でその作業を終了で長崎から「さいたま」に帰省します。
これだけの活動をして、殆ど間違えなく且つ事故もなく作業を終えることができたことには我ながら感心しました。勿論のことですが年末12月の恒例行事の「年賀状作成」と「お歳暮」手配、アパートの高熱水料の支払い関係はさいたまの妻に担って貰いました。私としては「各所の鍵」を失くさないこととか、持ち歩いた「現金」を間違いなくキープすることとか、必要な書類を失くさないとか、さまざまな「危険」に対処するこてで精一杯でした。しかもそれに並行して「新しい任務」を遂行するために全力を尽くすことが要求されました。やはり自分の年齢を考えて無理をせずに、出来る範囲内を確実にこなそうと考えたことが良かったと思います。記憶力と注意力が確実に衰えている分確認作業に時間を掛けました。これからこういう行動が更に必要になってくるのでしょう。
最初は「長崎〜羽田」の最終便を予約していたのですが、不動産屋さんとの契約書類等取り交わしが短時間で済んだので、急遽午後早くの便に変更して明るい中にさいたまに戻ることができました。年末の飛行機便は「都会→田舎」に客が殺到すると思いますが、その便の帰り便はかならず飛ぶので「田舎→都会」の便の変更は容易なようでした。申訳ないのですが長崎からのお土産は無し。家へのお土産選びに費やすエネルギー消費を減らして空港での待ち時間は寝ていました。
手前が「巌流島」です。下関の彦島は平家の最後の拠点となったことで有名ですが、更に宮本武蔵と佐々木小次郎が対決した「巌流島」でも有名です。ちょうど乾ドックから出た船から巌流島が見渡せます。巌流島へは下関の唐戸から渡し船がでています。彦島のドック近くを歩いていたら彦島からも「渡し舟」がでていることを知りました。こちらは定期船ではなく、必要な場合には看板に書かれている携帯電話に電話すると迎えに来てくれるもののようです。
「巌流島」という名前は佐々木小次郎の「巌流」から取られたもので元々は「舟島」といいます。現在滞在しているドック付属の宿泊施設の近くには「ふなしま」という人気の食堂があり、そこは夕方ドック帰りの工事の方達が一日の疲れを癒す憩いの場となっています。巌流島の向かいに彦島側には「弟子待」という地名も残っていてこの辺りを走るバスの中には「弟子待行き」という路線があります。これは佐々木小次郎が応援にやってきた弟子を巌流島には上陸させずに向かいの彦島側に留めおいた場所だとされています。高い場所からだと「巌流島」内もある程度見えますが、彦島の海岸などの低い場所からは「巌流島」の決闘の様子をうかがうことは難しかったと思われます。別の話題ですが「けっとう(決闘)」が「血糖」と変換されるのには困ったものだと思いました。
12月初旬から山口県下関に滞在しているのですが下関には大学時代に同じゼミだった旧友が住んでいるのです。彼の実家は山口県の瀬戸内海側の島(広島県に近い)で旅館を営んでいたので、私の広島勤務の時代に彼の実家を訪れたことがありました。その後彼の東京勤務時代に何度か会いましたが、お互い還暦になった今年下関で会えることとなったのです。今日は彼の自宅マンションを訪問し、その後で彼がアレンジジしてくれた下関料理の店で大変美味しい晩御飯を頂くことになりました。彼が考えて注文した料理は下関を一晩で満喫して余りあるものでした。
還暦を迎える年代になると仕事でも家庭でも様々な変化が起こります。彼は30年以上務めた仕事から離れて新たな世界に飛び込もうとしています。私はというと同じずっと同じ系列の会社とは言え「船の乗る仕事」に変わろうとしています。そのために下関までやってきました。不安と期待が混ざったかなり複雑な心境であることに違いはありません。ちょうど就職期を迎えた大学時代のようなものです。其の頃の心境に近いものがありお互い懐かしくかつ気恥ずかしく思い出しているのだと思います。
一方学生時代には考えていなかった様々な課題もも目の前にぶら下がっています。自分・妻の健康には十分気を付けなければなりません。若いころも「無茶」はできなくなりました。自分・妻の親のこともあります。私の方は自分・妻の親は全員亡くなってしまいましたが、彼は当面お母さんの介護に時間が必要となる状況だということです。空っぽになった田舎の土地・建物の問題もあります。またお墓・お寺さんとのお付き合いもあります。彼は田舎から墓を移してお寺さんとの関係も下関で新たに始めたようです。私はお墓・お寺さんとの関係を田舎の残したままにしています。既に大きくなった子供たちの結婚問題はお互いまだまだ解決は遠いようです。色々な課題がありますが、全て円満になどと考えずに少しずつ取り組んでいくことが必要だと思います。そんな気持ちが共感できるので彼と話していると気が休まります。
2015年12月15日(火) |
引っ越し荷物受け取り |
先週土曜日に「さいたま」で妻に搬出の立ち合いを頼んで運び出した荷物が、今日3時半少し前に長崎に到着しました。アート引っ越しセンターの単身赴任向けの引っ越しサービスは男性二人で3階の私の部屋まで約30分で荷物を運び入れてくれました。荷物が無い部屋はガランとしていて自分の部屋ではないようでしたが、懐かしい整理ダンスだとかいつも見ていた小物を箱から取り出すと急に自分の部屋らしくなってきました。本来衣類等を収納するための整理ダンスは妻に言わせると非常に便利でいろいろなものがしまい込めます。さいたまのマンションの整理ダンスにパソコン関係の雑多な品物が収納されていますが、長崎の整理ダンスも同じような状況となりました。
ここで生活をするためには買い揃えなければならないものが沢山ありますが、コンビニで間に合わせることができる物はできるだけ買わずにすませようと考えています。例えば冷蔵庫はまだ必要ありません。コンビニで食料は買えるし、アルコール類は「血糖値対策」でかなり量を減らしているので「常備」する必要はないと思っています。洗濯機もないのですが近くにコインランドリーがないので洗濯をどのようにするか思案中です。テレビもないのですがCATVが管理費の範囲内で見ることができるので安い中古品でも買おうかと思っています。
先週長崎に単身赴任ための住む場所を決めました。下関から何度も長崎に通えないので、12月の初めに見ておいた部屋を借りることにしたのです。今日下関から長崎に移動して午後部屋の契約・支払いを済ませて、明日15日にさいたまから引っ越し荷物を運び入れる算段をしました。さいたまと長崎では何回も往復できませんから一回の引っ越しで必要なものを送ってしまわなければなりません。
長崎での住処は長崎駅近くの非常に便利な場所にありますが、部屋が狭い分賃料は安く収まっています。基本的には「船」に乗船することとなるのでどの程度住むこととなるのかわかりませんが、借りた部屋でも「自宅」ですので帰ってきたときに気が休まる必要があります。それが「ホテル」と違うところです。部屋を借りると同時に、電気・水道・ガスの手配をしました。これも快適に住むためには欠かせないインフラです。悩んだのが「ネット環境」です。これままだ決めていません。部屋に回線を引いても部屋に滞在する時間が少なければ役に立ちません。ここが難しいところです。
2015年12月13日(日) |
彦島の「平清盛石塚」 |
現在滞在している三菱重工下関造船所は下関市の彦島にあります。彦島は本州の最西端の場所にあり南は関門海峡を挟んで北九州市です。この彦島は源平合戦の最終段階で平清盛の4男の「平知盛」がこの彦島に陣を構えました。兄の「宗盛」が屋島に敗れると「宗盛」は安徳天皇とともに彦島の知盛と合流します。そして最後の決戦「壇ノ浦の合戦」となるわけです。この彦島のほぼ東側のちょうど関門海峡を見下ろせる小高い丘の上に「平清盛石塚」があります。彦島は「平家」の子孫の方が多く住んでいて昔からの言い伝えがあるようです。この石塚の開設には以下のように書かれています。
「寿永三年(1183年)中納言平知盛は亡き父清盛の遺骨を携えてこの彦島に入り平家最後の砦「彦島城」の築城にとりかかり「砦」と定めたこの丘陵の小高い場所に納骨して墓碑を建立した。よく四年3月24日壇ノ浦の合戦に出陣したが再興の夢ははかなくも渦潮の中に消え失せた。」ということのようです。平清盛は息子たちに最後まで源氏と戦えと言い残して亡くなったそうです。清盛の遺骨を携えて源氏と戦ってきた平知盛は九州に逃れる道は最早なく、東からは義経郡が攻め寄せる状況で「彦島」を「最期の地」と考えた可能性は十分に考えられるところです。この石塚の横には「携帯電話の送受信塔」があります。このあたりでは見晴らしの良い場所 だと思います。
先週長崎から下関に移動しました。新しい住まいは「船の中」なのですが、その船が下関のドックに入っているので下関に来たという訳です。ドック中はエンジンを切っているので船では生活できません。水もでなければトイレも使えないからです。その代わりにドックに近い場所に宿泊施設がありそこの住んで船に通っているのです。実家はさいたま市、船が母港に係留されている期間の住まいは長崎、通常は船の中、ドック中はドック近くの宿舎ということになります。さて下関に来て最初の休日なので下関の名所旧跡を急いで回ってみました。
これは赤間神宮です。約830年前の1185年3月ここ下関の壇ノ浦で源平の最後の決戦が行われました。源義経が大活躍して平家を滅ぼしたのですがこのとき幼い安徳天皇(8歳)が壇ノ浦の海中にみを投じました。赤間神宮はその安徳天皇を祀る神宮です。神宮の横には「安徳天皇」の陵墓があります。大和・京都の地には数多くの天皇陵墓が残されていますが都を遠く離れた下関にある陵墓は非常に悲しみを誘います。合戦の日は3月25日だそうです。まだ水は冷たく関門海峡は寒かっただろうと思われます。
これは料亭「春帆楼」の敷地内に建てられている「日清戦争講和会議場」です。1895年3月にこの地で中国全権「李鴻章」と日本全権の「伊藤博文」の間で日清戦争の講和会議が持たれました。そこで取り決められたのが下関条約です。1895年3月24日には李鴻章が日本人青年に狙撃されるという事件が発生しました。幸い李鴻章は回復して講和会議は4月10日に再開されたということです。この会議のため浜離宮から「椅子」が下賜されたのだそうです。それがこの写真に写っている椅子です。長州閥を中心とする明治政府は日清戦争勝利で中国に多額の賠償を要求しました。そして国民も戦争による利得を当然のように考えるようになっていました。第二次世界大戦の芽は既にしっかり芽生えていたようです。
これまで長崎に出張した際に利用したのは駅前のビジネスホテルでした。長崎駅前には手頃な値段で泊まれるホテルが沢山あります。狭いながらもバスタブがついている部屋は便利ではあります。しかし今回の出張では「旅館」を選びました。今年春・秋と「四国遍路」をして日本式旅館の良さを再認識した結果でもあります。日本式旅館の良い点は、風呂が共同で割と広く気分よく湯船に浸れることがあります。また食事時などに宿の方と世間話をすることもできます。布団でのびのびと眠ることもできます。「出張」イコール「ビジネスホテル」という既成概念は捨てることにしました。
今回選んだ「長崎駅」から程近い「ふじわら旅館」はそういう意味で最高にランクされる旅館だと思います。まず非常に整理整頓されていること。お風呂は綺麗ですし、シャワー式トイレも完備。更に部屋で無線LANが使えます。ご主人は外国人客が来ることを想定して設備を整えられたようです。乾燥機付きの洗濯機(洗剤付き)もありました。遍路宿としても最高にランクされるでしょう。外国人が畳式の日本旅館を体験したいという希望を叶えてくれる宿です。同宿した客はシンガポールからの観光客だということでした。
勤めている会社で人事異動があって横浜を離れることになりました。行先はケーブル敷設船です。今年の夏に何事も経験ということで敷設船に乗り船の事務業務を経験したのですが、今回はその時の体験が本来業務となった訳です。もともとそういう業務を主とする会社ですので、船での業務が典型的な現場でありこの会社では全く当たり前の業務ではあります。我が社には海技大学や海技高専出身の船の専門家は多くいるのですが、非海技職で船に乗ることとなる社員はそう多くはないと思います。
多くの方が心配してくれましたが非海技社員にとっての最大の難関は「船酔い」です。幸か不幸か私は全く船酔いはしませんでした。日記にも書きましたが最近の「酔い止め薬」が進歩していることと私の体質が良い方向に働いたようです。身体の調子と相談しながらの仕事にはなりますが、これまでの節制の結果で今しばらくは激務に耐えられる肉体を維持できていると思っています。
勤務場所は「船」ですが、船の母港は「長崎」なので、長崎に住む所を確保する必要があります。今日は長崎事務所に挨拶をした後にネットで調べておいたアパート物件を2カ所見て回りました。これからアパートを決めて「サイタマ」から「長崎」に引っ越します。単身赴任は「スリランカ」「インド」に次いで3回目です。前二回のような「ハードシップ」はないとは想像しています。
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