2013年05月30日(木) |
従軍慰安婦強制連行問題(河野談話)について |
ようやく全体の構図のような物が見えてきたので、私の意見を合わせてポイントを記録しておきたいと思います。
今回の騒動は戦後の日韓関係の長い積み重ねでもあるのですが、具体的には日韓関係の「棘」にような従軍慰安婦問題を精算しようと試みた1997年8月4日の「河野談話」の捕らえ方が発端でした。
「河野談話」における従軍慰安婦強制連行に関する実際の記載は、「慰安婦の募集にあたり本人の意に反した募集が行われた例があり、官憲等がこれに加担したこともあった」という表現をしていて、慰安婦「募集」段階において「強制連行」があり、それに関しての国(官憲等)の関与もあったと認めているものです。
本日5月30日の産経新聞報道によると、「当時の宮沢喜一内閣は、韓国側を満足させるため「強制」を認めたかった」という当時の関係者の証言を記載しています。
これに対して2007年の第一次安倍内閣は、議会への答弁書において(2007年3月16日)「政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった。」という見解を正式に公表しました。その一方で「河野談話」そのものについては継承するとしていました。昨年(2012年)暮れに首相に就任した安倍首相(第二次安倍内閣)は、第一次内閣の時の課題を改めて取り上げるかのように「河野談話」を見直す方向であるという姿勢を示したのでした。
ここで中国との「尖閣列島領有問題」を思い起こしてみたいと思います。日中国交正常化交渉において「尖閣問題を棚上げして後世に託す」という妥協を図って国交回復に漕ぎ着けたのでした。しかしこの「棚上げ」に関して日本政府(外務省)の認識がしっかりしていなかったことから、石原東京都知事(日本維新の会共同代表)の「尖閣買い上げ提案」に引きずられ、終に尖閣列島を国有化してしまいました。この措置に対する中国の反応は非常に激しいものであって、日中関係はこれまでにないほど冷え切ってしまったのでした。
実は第二次安倍政権の発足当初の様子では「日韓関係」も大変危なかったと思われます。「従軍慰安婦強制連行問題」について就任早々の安倍首相は「河野談話見直し」の考えをちらつかせて過去の歴史問題を清算しようと考えていたと思われます。日本維新の会共同代表の橋下大阪市長が、尖閣問題の時の石原さんの「尖閣東京都購入」みたいに、「従軍慰安婦強制連行問題」において安倍首相を援護射撃したのでした。
この時点で政府が「橋下さん良く言ってくれた」と「尖閣国有化」のように橋下市長の意見に同調していれば、日韓関係は今の日中関係のようになっていたことしょう。機を見て敏な安倍首相は韓国・米国の凄まじい拒否反応を見るや直ぐに矛を収めて、「橋下市長」を見殺しにして「河野談話堅持」の姿勢に転換したのだと思われます。
しかし石原都知事に乗せられた「尖閣問題」で日中関係は冷え込み、「橋下市長」を犠牲にした従軍慰安婦問題においても、結局韓国から「白黒」を迫られてしまった日本政府は「ムニャムニャ」で逃げるしか手段がないため、韓国から言われ放題の状態になってしまっていました。
私は個人的には、辛亥革命を成し遂げた孫文を始めとする革命家を多くの日本人が支援したこと、朝鮮近代化を目指した「金玉均」等を福沢諭吉・須永元等が支援したという「歴史」を関係国で理解しあうことは有益であると思っています。特に孫文・金玉均の二人の英雄に対して、日本の民間の一部の人が熱烈に支援した一方で、明治政府は非常に冷淡に扱い、日本国全体としては結局「中国侵略・韓国併合」に突き進んでしまったことです。
この辺りの歴史をキチンと理解することによって、何が良くて何が悪かったのか、「日本人の忘れてしまった大切もの」を再発見できるのではないかと考えています。
2013年05月26日(日) |
懐かしいウィーンフィルの画像 |
音楽を中心に録画している「ブルーレイレコーダ」のハードディスクがあと少しで満杯になってしまうため幾つかのコンテンツをブルーレイに移しました。昨年のサッカーイングランドプレミアリーグ山場のマンチェスターダービー、昨年のサッカーヨーロッパ選手権の準決勝決勝の模様からCM等を切り取ってファイル容量を減らして7試合分を一枚に落としました結果ハードディスクに大分余裕が出来ました。
NHKBSプレミアムの音楽放送を録音した中身を確認している最中に非常に懐かしい画像がでてきました。それは他のコンサート模様と抱き合わせで録画されていた「ムーティ・ウィーンフィル」の演奏によるモーツァルトの交響曲等でした。詳しく言うと、1991年7月28日にザルツブルク祝祭大劇場にて行われたザルツブルク音楽祭のオープニングコンサートの模様です。1991年はモーツァルト没後200年を記念する音楽祭だったので、一際立派な演奏だと思っています。曲目は以下の3曲でモールァルトを代表する名曲が選ばれました。
ディヴェルティメント ニ長調 K.136 交響曲 第40番 ト短調 K.550 交響曲 第41番 ハ長調 K.551≪ジュピター≫
指揮者のムーティは1941年7月28日生まれなので、この演奏会はムーティの50歳の誕生日に行われたものとなります。油の乗り切ったムーティが颯爽と指揮棒を振る姿は、イタリア彫刻から出てきたような立派な感じで非常に魅力的です。この録画は1991年当時でも高精細で収録しているため演奏者・指揮者の表情が生き生きと捕らえられているので素晴らしいのです。以前放送された時にビデオテープで録画してありますが、今回高精細な画像を確保できたので良かったです。
この録音画像で私が特に気に入っているのはコンサートマスター席に「在りし日」の「ゲルハルト・ヘッツエル」が座っていることです。そしてその名手のヘッツエルが音楽祭初日の緊張のためなのか、なんと40番の終楽章の主題が繰り返えされた最後の部分で「チョンボ」しているところがはっきり画像に映っていることです。
幾つかのカメラを配して様々な角度からコンサートを録画しているのですが、その部分ではヘッツエルの弓が他の第一バイオリン奏者と全く異なる動きをしている所を証拠として記録しています。ヘッツエルが40番終了後にバツが悪そうに隣の奏者と言葉を交わしているところもはっきり録画されています。
その名コンサートマスターだった「ゲルハルト・ヘッツエル」はその翌年1992年7月29日にザルツブルグ近郊の山をハイキングしている最中に転落事故を起こして命を落としてしまいました。ハンガリー人の血を引く「ヘッツエル」がコンマス席に座っていた時にウィーンフィルの名演奏が多いと思います。特に同じハンガリー系の「イシュトゥヴァン・ケルテス」との相性の良さはヘッツエルの存在抜きには語れないでしょう。そのケルテスも不慮の水難事故で亡くなったのでした。
2013年05月25日(土) |
踵骨棘(しょうこつきょく)で足が痛い |
左足の踵(かかと)の後ろのアキレス腱の筋が非常に痛むので近くの整形外科で見てもらってきました。実は同じ場所の痛みは昨年の暮れにも発生しましたし、よく思い出してみると数年前にも発生していました。これまで痛みを我慢しているとそれぞれ数週間で痛みが治まっていたので医者には行かなかったのですが、今回も長続きするのであれば困りますし、何と言っても悪い代物であったら大変なので思い切って医者に行ってみました。
レントゲンで足の踵骨の写真を撮ったところ、先生曰く「踵骨棘」ができていて、その「棘」がアキレス腱の骨との接着面を内側から刺激し「腱」に炎症が出来ている結果だという診断でした。この症状は結構多くの人が経験しているようで、先生は最初に触診したときに「良くある痛みかもしれない」と仰っていました。治療はというと炎症を鎮めることで、炎症が酷いときには注射で治すようですが私の場合は飲み薬と膏薬で治せるとのことでした。薬を飲んだら1日で痛みは治まりました。
踵骨棘(しょうこつきょく)は、機械的ストレスや炎症性刺激によって骨の辺縁部にできる骨性の隆起だそうです。形態的にはプラスチックや金属の型抜きの場合にできる「バリ」のようなものだそうです。踵骨の場合には「底」にできることが多いようですが、私の場合は「踵後ろ」のアキレス腱接合部に棘のようなものが生えてきていました。
「血糖値低減」のために1日15000歩程度歩いていますが、先生曰く少し歩き過ぎなので、このような余分な棘ができるのだろうとのこと。歩く歩数を減らして踵に無理のかからないほかの方法に変えた方が良いとのアドバイスを頂きました。さてまた難しい課題が発生です。それでなくと少し油断すると血糖値は上がってしまいます。
澳門旅行で「孫文記念館」に行きました。この記念館はあまり解説されていないので調べた歴史を記載しておきます。
香港で医学を修めて澳門での医療活動に従事した孫文は、中国革命のための活動を開始して1895年には広州起義を起こしました。その10年後1905年には東京で「同盟会」が結成されて革命組織が強化されその後の数次の武装蜂起を経て1911年秋に辛亥革命が実現しました。そして孫文は大統領に選出されます。しかし選出された「大統領職」は僅か3ヶ月で実力者の袁世凱に譲らざるをえませんでした。孫文の民主主義国家建設のため活動はまだ道半ばでした。
1912年孫文はほぼ20年ぶりに「鏡湖医院」「東西薬局」等の医師として暮らした澳門を訪れました。このとき孫文は革命指導者としての名声を確立していました。澳門の実業家の「盧家」の家に宿泊した孫文は故郷香山県に残ししてきた妻を澳門に呼ぶために「盧家」屋敷(現在のLou Lim Ieoc Garden)近くに、妻(盧慕貞Lu Muzhen)・子が住むための家を建築しました。これが現在の澳門孫文記念館が建っている場所です。
孫文が妻の「盧慕貞」と子供達のために澳門に家を建ててから程なく、日本に戻った孫文は秘書の宋慶齡と恋に落ちてしまいます。妻の「盧慕貞」は宋慶齡を「妾」にすることを願ったようですが、キリスト教徒の宋慶齡と孫文は正式な結婚を望み孫文は「盧慕貞」とは正式に離婚しました。
孫文と結婚し(1915年10月)妻となった宋慶齡はその後の孫文の建国活動を支援することとなり、国民党と中国共産党の争いにおいては中国共産党を選びました。宋慶齡は中国共産党から「名誉主席」の称号を与えられ建国の父孫文の妻として厚く処遇されました。
一方の盧慕貞とその子供達は国民党の側に身を置くこととなりました。その結果でしょうか澳門の「孫分記念館」は台湾政府の出資するファンドの所有となっています。台湾関係の資料が豊富で入口右側の孫文の胸像の左右には「青天白日旗」がずらりと並んでいました。
孫文の前妻の「盧慕貞」は澳門のその場所で彼女の息子(孫科Sun Ke)と二人の娘(Sun Yan (孫延), Sun Wan (孫琬)on Sun Ke)と孫文の長兄のSun Mei (孫眉)が暮らすこととなりました。その後付近の爆発事故で家屋が損傷を受けると、台湾政府、ハワイに住む孫文の兄等から支援を受け今の広大な3階建ての非常に立派な家屋を建築しました。これが現在の記念館の建物で、完全に西洋式で、木の床に木製の家具・ワードローブを備え、広い浴室には水洗トイレが完備されて大きなバスタブが作りつけられている。
「盧慕貞」は1952年になくなりましたが、その死後にこの建物は1958年に「孫文記念館」と命名されて保存されることとなりました。建物の北側の庭には梅屋庄吉が孫文の死後に中国に寄贈した4体の孫文像のひとつが建っています。因みに他の三つは上海、南京、広東(黄埔)にあるということです。
中国南部の広東・広西地方は「食は広州にあり」と言われるようにその郷土料理は中華料理の中でも有名です。この連休の「香港・澳門・中山旅行」では広東料理でも比較的親しみのある「飲茶」を楽しんできました。
「中山・珠海」を案内してくれた珠海在住のガイドの「温」さんはから非常に参考となる情報を話していただきました。「温」さん自身は中国北部の黒龍江省出身だそうですが南部の珠海に移り住んで長くなるのだそうです。中国北部出身という広州を客観的に見ることができる人の話なので南部の広州の特徴が浮かび上がります。
まず、「広州人は酒が弱い」のだそうです。温さんが育った中国北部は寒さが厳しくそこに住む人々はとても酒が強いのだ。高粱から作る強い蒸留酒が有名です。その北部の人々に較べて南部の広州の人は酒に弱いそうです。これは遺伝的な体質のようで、酒に弱いからこそ「お茶」文化が高度に発達したといえます。広州の人は酒で歓談する代わりに「茶」を賞味するのです。
また、広州は亜熱帯に属し雨量も多いため、植物・動物の種類が多く豊富です。これが食材の多様性に繋がります。食品市場で目立つものでは果物です。マンゴー・バナナを始め南国の果物が採れるために食後のデザートにも美味しい果物を使ったデザートを食べることができます。また果物の甘さを生かした甘味食品も豊富です。「動物関連」では普通の食材に加えて、犬、猫、ヘビ、蛙等色々食べます。海が近いのでこれに様々な「海産物」が加わります。海産物は乾季の強烈な日光で乾燥させて「うま味」を濃縮させることができます。保存目的もあるでしょうが、香草等と長時間煮込むことによって、消化の良い非常に甘味の凝縮した料理が可能になるのだと思いました。
これらの集大成が「飲茶」だと思います。ウーロン、プーアールどちらも食事にマッチします。粥、腸粉、蒸餃子などの熱い料理に熱いお茶は非常に健康的だと思いました。冷たいビールを注文する必要は全くありません。食前酒の必要がないほど料理は胃に優しく、更に薬味成分を含む「お茶」はそれを助けてくれます。中国北部の50度を越す白酒は北京では美味しかったですが広州では全く必要ありません。
健康のために日本ではかなり野菜を食べていますが旅行中も苦労して野菜を注文しました。市場や町中の八百屋さんではこの時期「菜の花」が旬のようでした。これを高温の湯で「湯がい」て美味しい醤油をかけて食べるのですがこれが素晴らしく美味しいのです。「粥と菜の花と茶」の組み合わせは朝食にぴったりだと思いました。
これから夏を迎える日本では夕食時につい「冷えたビール」を飲んでしまいそうですが、今年はその回数を減らして「お茶」を飲もうと思います。そのために数年前に上海出張の折に買ってきた「餅茶(プーアール)」をさっそく苦労して細かく崩して飲めるように準備しました。
橋下大阪市長の「従軍慰安婦」に関するコメントが様々な注目を集めていますが、個人的には橋下氏が指摘したことは当たり前のことで、日本人なら同じように考えるだろうと思われます。全体のトーンは安倍首相の発言をサポートする内容で、自民党高市政調会長の個人的な発言よりずっと安倍首相を助ける役割を果たしていると思います。
しかし、現在の「在日米軍」と「風俗法(風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律)事業」を関連させてしまったことが問題を違う方向に進めてしまった感が否めません。それは「在日米軍」と「風営法」には「本音と建前」があって、どちらも平場で議論できないような「困った裏側」を持っていて、そこをあからさまに指摘されると、例えそれが正しかろうが反論せざるを得ないという「やっかい」なものだからだと思われます。
キリスト教信者が殆どを占める「在日米軍」(本土の政府およびその指令層)は従軍慰安婦のような公娼制度を採用していないことを「誇り」としています。それを裏付けるかのように海外派遣部隊において美味しいレストランや娯楽施設が完備していたり、一時帰省休暇を儲けて建前上は兵士達の「性欲」は「健全」に処理されていることになっています。
この「建前」は現実に順守されてきたかどうかは別にして昔からの米国軍の統一した考え方のようです。つまりキリスト教精神と潤沢な資金に支えられた米国軍隊は、嘗ての貧乏日本軍と同じような従軍慰安婦の存在を認めないし、居住環境を整える代償として兵士に対しては厳しい規律を要求しているのです。米国軍隊はこの「建前」を崩すわけにはいかないのです。
「風営法事業(風俗営業)」にも非常に微妙な裏があります。風営法第二条で「風俗事業、性風俗関連特殊営業」を定義していますが、これは非常にアバウトでどのように考えてもこの定義どおりの営業で終わっているとは思えません。例えば「店舗型性風俗特殊営業」の定義として「浴場業の施設として個室を設け、当該個室において異性の客に接触する役務を提供する営業」としています。しかし当然ながら自由恋愛の末のSEXは規制の対象ではありえずそこからは風営法の枠から外れます。これは柔軟な社会の知恵であり、どこの国でも多かれ少なかれあるはずで、それによってより酷い犯罪行為・社会の乱れを防いでいるのだと思います。しかしそのことは声高に言うべきものではないと思います。
そうしたある種の「社会の知恵」を建前に固執する米国軍隊にぶつけて見ても受け入れられるはずがありません。キリスト教の「汝姦淫することなかれ」は彼等が護らなければならない大切な規律です。橋下市長が「米国はずるい」といってもそういうしかないのだと思います。
嘗て第二次世界大戦の戦時下において日本を離れて戦った兵士達は最初から「生きて帰国」することはあきらめていたと思います。「国のために死ぬ」ことが頭に叩き込まれていたのでしょうが、本音で愛国心を持っていたかどうかは大変疑問です。武器・弾薬の不足・食料支援物資の欠乏は日本軍が兵士達を消耗品程度と考えざるをえなかった証拠です。そういう場面において「従軍慰安婦」は確かに橋下市長が言うような「必要」なものであったのだと思われます。
しかし当時の米国軍が日本軍と同じ考え方であっととはとうてい思えず、むしろ現代の米国軍と同じで兵士達を大切にし最大限兵士達の危険を減らす努力をするとともに、正義感・愛国心をキチンと植え付けて正義・国のために命をおとすことを厭わない精鋭の兵士として扱っていたと思われるのです。そために戦争で亡くなった兵士達を最大限に讃え感謝するのだと思います。どこかの国の靖国神社みたいな中途半端なことになしていないのだと思います。
やはり本質的な問題は「従軍慰安婦」そのものではなく、そのような仕組みで兵士を慰め、尊い命を粗末にしていた「旧日本軍」の存在そのものだと思います。それに対する冷静な評価・反省が無い限り、歴史は繰り返すかも知れません。
2013年05月09日(木) |
孫文が医者として活動した場所(マカオ) |
1892年に香港の西医書院を卒業した孫文は、マカオにある1871年創立の「鏡湖医院」で西洋式医療を施す医者として活動を開始しました。当時澳門は阿片戦争後の香港の英国への割譲に準じる形で、ポルトガルが中国から統治権を獲得していました(植民地ではない)。従って孫文は医療を続けながら革命運動の準備をすることができたのだと思います。
孫文は1894年にはハワイに渡って民主革命団体「興中会」を結成し、1895年に最初の武装蜂起の「広州起義」を策動しました。その後辛亥革命に至るまで清朝打倒の革命運動に従事し、その後も「建国」へむけての活動に専念していきます。従って1892年からの数年間は澳門において医者と革命家の二つの顔をもっていたのだと思います。
「鏡湖医院」はマカオ博物館の北側にあってマカオでも有数の大きな病院となっています。孫文はそこに勤める傍ら自らの医院と薬局を別な場所に開設しました。その薬局のあった建物は最近になって漸く場所が特定されたらしく、澳門文化庁が調査・修復を始めています。
近い将来「孫文」が開設した薬局跡として観光名所のひとつとなるのだと思います。その場所は孫文の活動時期を考えるとその医院や薬局は医療行為や薬販売だけに使われたとは考えにくく、革命活動の準備拠点であったのではないかと思われます。
また丁度この時期香港の医療事情で特筆すべき事態が発生しています。それは1894年に流行した香港のペストです。この疫病で香港・澳門で多くの人が亡くなりました。孫文がこの疫病にどう対応したのか資料がありませんが日本から派遣された北里柴三郎が香港で世界で始めてペスト菌を発見しました。
2013年05月08日(水) |
孫文が学んだ場所(香港) |
香港西部の「Possession Street」を登った高台にイギリス人が最初に拠点を構築し、Possession Streetを降りて海に近い海岸沿に当時就任早々のヴィクトリア女王の名前を冠したヴィクトリアロードが作られ、その通りが香港の政治・経済の中心となっていきました。一方Possession Pointsから東に向かって丁度ビクトリア湾を見下ろすような山の斜面には教会や学校・病院が多く集積することとなりました。それがPossession Roadから東に伸びる「ハリウッドロード」でありその一本山側を走る「ブリッジ通りです」。
若き日の「孫文」はブリッジ通りにあった「The Preaching Hall of American Congregational Mission」で洗礼を受け、その教会の二階に寄宿しながら、「Man Mo Temple」の少し先でハリウッドロードを下っって一本下の道の「Gough Road」 にあった「The Government Central School」で1884年から1886年の二年間西洋教育を受けました。
そして卒業後一旦広東の医学校(漢方)で医学の勉強を始めますが、少し前まで通っていたThe Government Central Schoolのごく近い場所に1887年に開設された西洋医学を教える「The College of Medicine for Chinese」に入り直しました。孫文はここで5年間の教育を受け1892年にこの学校を卒業しました。従って若き日の孫文は香港のハリウッドロード、ブリッジ通りあたりの道を焼く8年間歩きまわったことになります。そして孫文は医学校の学友「陳少白」等と様々な議論をし、中国革命に身を捧げることを決意したのでした。
移動 ○徒歩 :ホテル → 地下鉄上環 ○地下鉄:上環 → 中環 ○空港快特 :AEL香港駅 → 香港国際空港 ○UA78便:香港(HKG)(9:55)→ NRT(15:35) ○京成スカイアクセス:成田空港 → 東松戸 ○JR:東松戸 → 武蔵浦和
食事 朝食:UAラウンジ 昼食:UA機内食 夕食:自宅
香港で宿泊したホテルは香港西部のハリウッドロードとポセッション通り(Possession Street)(中国語:水坑口街)の角にありました。ハリウッドロードは骨董品屋が沢山集中していて洋食レストランの多いお洒落な通りで、香港島を山に沿って東西に走っています。ポゼッション通りはハリウッドロードとクィーンズロードを結ぶ道で、クィーンズロードに向かって急な下り坂になっています。今回ホテルと上環の街との往復のために何度もこの急な坂道を通ることとなりました。
「ポセッションロード」という名前はイギリス海軍兵士が香港島に最初に上陸してイギリス国旗を立てたことから名前が付けられたのだそうです。イギリス海軍兵士は海岸から少し登った所に、平らで広いキャンプに適した場所を探していてこの場所に定めたようです。ユニオンジャック旗が掲揚された場所は現在ハリウッドロード公園となっている場所だそうです。今でこそ香港の人達の憩いの場所になっていますがそこは歴史的に重要な英領香港の最初を記録する場所だったのです。
このポゼッション通りに非常に興味深い酒屋さんがあったので紹介しておきます。上にも書いたとおりこの通りはかなりの坂道で荷物を持って登るのに苦労します。妻が夕食後ウーロン茶を買っていこうというので、坂をほぼ上った道の右側にある小さな酒屋さんに入ることにしました。酒屋さんで奥の棚に輸入物のワインを並べているのですが、店の入口近くには見たことのない透明な酒瓶をずらっと並べていました。
店の方に聞くとそれは「香港米種」(Rice Wine)だということ。80年位前から作られているのだそうです。珍しいのでウーロン茶とともに小瓶の米種を買ってきました。この香港米酒というのは大陸の安価な酒との競争や、若者が伝統的な酒を飲まなくなったことによって衰退の一歩をたどっていて、この店が米種を作る最期の一軒となっているのだそうです。さてどんな香港の香りがするのでしょうか。
本日の移動 ○徒歩 :上環地下鉄 ○地価轍:上環 → 旺角 ○徒歩 :旺角 → 上海ストリート → ヒスイマーケット → 昼食 → 尖沙咀散策 ○バス :ミラ香港 → 香港文化センタ ○徒歩 :公園散策 ○フェリー:スターフェリー九龍 → スターフェリー湾仔 ○地下鉄 :湾仔 → 上環
本日の食事 朝食:科記咖啡餐室 Pork Chop Bun、麺 昼食:Miraモールのレストランアサッジオ イタリアン 夕食:生記粥品專家 粥
今日は九龍半島を散策しました。地下鉄で一気に「旺角」まで行って屋台で有名な「ネイザン道路」「女人街」「テンプルストリート」などの観光名所を歩きました。午前中は殆どの屋台が片付けられていて賑やかな面影はありません。屋台街は昨夜日曜の夜の喧騒を想像するしかありません。ネイザン道路は日本の繁華街と同じなので特に珍しいものではありませんでした。途中の食器屋さんで、ピザ用の粉振器と胡椒挽きを買いました。日本の合羽橋よりは安く買えました。日本製品を沢山扱っている店が多く、少し高い日本製品も結局は安くつくのかなと思いました。
昼食は中華ではなく「イタリアン」にしました。高級ショッピングセンタ内のイタリアンレストランは非常に高級で高価な昼食となりました。赤白のグラスワインの味は良かったですが、注文したマルゲリータピザはピザトーストのようなものでともてナポリスタイルではありませんでした。ちょっと損をした気分になりました。でも昼食後のビクトリア湾を望むプロムナードは空気が奇麗でとても気持ちが良かったので大満足でした。北京ほどではないと思いますが香港もマカオに較べると空気が悪くて気持ちが滅入りました。この海沿いの公園は唯一の救いでした。香港島までは渡し船で帰りました。
昼食のイタリアンが思いがけず腹にもたれたので夕食は軽く「粥」を食べることにしました。ホテル近くに日本でも有名な粥専門店があることを探り当ていってみました。日本語・英語は通じませんでしたが何とか粥と湯がき空芯菜を注文しました。評判通りで非常に美味しい「粥」でした。さすがに名店らしく向かいに座ったおじさんは「香港一の味」だと教えてくれました(解釈しました)。
本日の移動 ○タクシー :ホテル → セントラルピークトラム駅 ○ケーブルカー :ピークトラム駅 → ビクトリアピーク山頂 ○ケーブルカー :ビクトリアピーク山頂 → ピークトラム駅(セントラル) ○徒歩 :香港公園 → セントラル皇后像広場 → 昼食 ○スカイエスカレータ : ハリウッドロード → ケインロード(孫文記念館) ○徒歩 :ブリッジストリート → アバディーンロード → ハリウッドロード → ホテル ○徒歩 :ホテル → 上環地下鉄駅 ○地下鉄:上環 → 北角 ○トラム:北角 → 上環 → 夕食
食事 朝食:上環鳳城酒家 飲茶 昼食:中環陸羽茶室 飲茶 有職:上環鳳城酒家 飲茶
香港のホテルは香港島西部の「上環」に確保しました。そこはフェリーターミナル、地下鉄の上環に近く便利なのですが、何といって「孫文が過ごした記念の場所」に近いハリウッドロード沿いにある上に、広東料理の美味しいレストランが多い土地柄なのです。香港のホテルはマカオと違って非常に高価で、通常の料金でも部屋が狭くバスタブもないというホテルが多いのですが、今回のホテルもそのような種類のホテルとなりました。
香港観光初日はパターン通りに「ビクトリアピーク」に登りました。ケーブルカーは比較的空いていましたが山頂は観光客で混雑していました。今日は日曜日なので地元の人達もピクニックで訪れているようでした。生憎の曇り空で遠くまでは見渡せませんでしたが、名物の高層ビル群の素晴らしい眺めは堪能することができました。
ケーブルカーでビクトリアピークからセントラルに降りてセントラルの街を散策しました。日曜日は出稼ぎ労働者が公園に集まって賑わうと聞いていましたが、まさしくその通りでセントラルの公園はどこもアジア系の人達がグループで集っていました。頻繁に故郷に帰れない寂しさを同郷の仲間が集まって癒しているのだろうと想像できます。
午後はスカイエスカレータを使って孫文記念館まで行き、そこから孫文の足跡を辿る標識を目標に歩き回りました。孫文が香港で教育を受けた学校はハリウッド通り・アバディーン通りに近いので、散策していくとホテルに近づいていくことができます。建物は残っていませんが嘗て孫文が学び、その後日本とも深い関係を持つこととなる孫文の革命運動を思い起こすと歴史の重みを感じます。
今日の食事は全て「飲茶」となりました。昨日珠海市で頂いた昼食の飲茶は大変美味しかったし今日の飲茶も感動ものでした。飲茶は「広東」料理であり、中華料理屋ならどこでも良いというわけではにことを知りました。比較的薄味ですが繊細で上品な味は中々出会えないものだと思いました。前回仕事で香港に来たときにローカルの方に連れて行ってもらった飲茶が本当に美味しかったのですが、その時の感動を再び味わうことができました。香港の本場で味わうと上海名物のショウロンポーを注文する気になりません。それにビールやワインも必要ではなく美味しい「お茶」で十分なので健康に良いです。
2013年05月04日(土) |
中山市の孫文故居記念館訪問 |
本日の移動 ○徒歩 :コタイコンラッドホテル → マカオ蓮花路出入国管理事務所 ○バス :澳門出入国管理事務所 → 中国横琴口岸(出入国管理事務所、運賃3ドル) ○車 :横琴口岸 → 珠海漁乙女像 → 孫文故居記念館 → 昼食 → 横琴口岸 ○バス :中国横琴口岸 → 澳門出入国管理事務所(3ドル) ○ホテルシャトルバス :澳門出入国管理事務所 → コタイコンラッドホテル ○ホテルシャトルバス :コタイコンラッドホテル → 澳門外港フェリーターミナル ○澳門ターボジェット :澳門外港フェリーターミナル → 香港上環フェリーターミナル ○徒歩 :上環フェリーターミナル → 香港のホテル ○バタフライオンハリウッドホテル
本日の食事 朝食:コタイサンズ3Fフードコート ラーメン、オムレツ 昼食:珠海市 飲茶 有職:上環 飲茶
マカオから中国に入国して中山市の「孫中山故居記念館」に行ってきました。マカオから中国への入国口の「横琴入管」を通って入国し、そこで事前に頼んでおいた珠海のガイドの「温」さんと合流しました。この「横琴」は比較的新しい入管で非常に空いていたので、待ち合わせの約束の午前9時30分に通過することができました。マカオから中国に入国する従来のゴンベイ入管では数時間またされることもあると聞いていたのでラッキーでした。
入管から車で珠海市に入り、広州市に通ずる新幹線の巨大な駅やら、大規模なモールのあるゴンベイ入管の下を通って珠海市観光名所の「真珠海女像」を見ました。広大な珠江湾は珠江が海に流れ込む場所で、それに面する珠海市の海岸はプロムナードとして整備されています。その一角にある「真珠海女像」の公園は観光客で混雑していました。珠海ではかつて真珠の養殖が行われていたのでこの名前が付けられたものだそうですが、今は途絶えているようです。
「温」さんによると、改革開放前の珠海市は人口5万人の小さな漁村だったのだそうです。その漁村が今では150万人の都会に成長しました。お隣のマカオが発展してきたとは言え人口数十万なので、あっという間に追い越してしまったのです。それは珠海の対岸の深セン市でも同じ状況です。珠海の道路は整備されていて高速道路は北京まで通しているのだそうです。2000Km以上離れた北京まで3日かかると言うことです。
「孫中山故居記念館」は珠海市内から車で30分位でしょうか。珠海市の北の中山市の南部にあります。広州の行くよりはマカオ・香港に行くほうがずっと近い場所にあります。広東・マカオはイギリスのアヘン貿易の拠点だった場所で阿片戦争が始まった場所です。マカオは阿片戦争後に香港とともに外国に割譲されました。その後マカオはポルトガル、香港はイギリスの植民地となります。そうした植民地近くの中山(当時は香山県)に生まれた「孫文」は、戦争に敗れた清朝の衰退と西洋文化を身近に育ったのでした。
「孫文」の生まれ故郷の「孫中山故居記念館」は孫文の生家とともに記念館を設けて孫文関係の文物を展示しています。マカオの孫文記念館に較べると大規模で整備されています。またマカオの孫文記念館は全くガラガラでしたが、そこは多くの観光客で賑わっていました。
「マカオの孫文記念館」では台湾の国民党に関係する展示が多かったのです。そこでは孫文の国民党創始者としての一面を強調しているようでした。一方「中山の孫文記念館」は近代中国者としての中国や、中国共産党の名誉主席として孫文死後も活躍した「宋慶齢」に関する展示の結構多くの面積を割いています。この辺りは辛亥革命後の中国の政治情勢を反映していて非常に微妙なところです。しかし「孫文」に関する限り「国民党」「共産党」の党派を超えて中国国民のことを考えていたことから「国父」となっているのです。
そのような「孫文」の革命運動に対する「日本人」の支援活動に関することも少ないながらキチンと展示されています。これは避けて通れない歴史的事実なので中国でも評価されています。日本人を評価している展示は現在の中国でも数少ないものではないでしょうか。辛亥革命以降中国への侵略によって日本は大分迷惑(この言葉は田中元総理の発言で中国から反発を買いましたが)を掛けましたが、梅屋庄吉、山田良政・純三郎兄弟、宮崎虎蔵などの文字通り「献身的」な支援によって孫文の活動が支えられたのでした。
「孫中山故居記念館」記念館見学の後珠海市に戻り昼食を食べてから横琴の入管に向かいました。「温」さんに案内してもらった「飲茶」のレストランは「金悦軒」というレストランで珠海市でもおいしいという評判なのだそうです。ひろいレストランフロアは多くの客で賑わっていました。ここで食べた「飲茶」は本当に美味しく「飲茶」の魅力を存分に楽しむことができました。
注文した「茶」はウーロン茶ですがいつまでも美味しく料理にぴったりでした。これは茶葉もさることながらレストランの店員さんがタイミングよく茶碗につぎお湯を足してくれたからと思います。「温」さんによると広州の「飲茶」は素材の良さとバランスにあるということでした。香菜を上手に使って複雑で上品な味に仕上がっています。食事と一緒にアルコールを飲んで味覚を鈍らせるのが勿体なく思えました。それなので「飲茶」なのだと実感しました。 広州人は一般的に「アルコール」が弱いのだそうですが、食事がこんなに美味しくて、まるいテーブルを囲んで楽しく時間が過ごせるならば「アルコール」の出番は無いように思えました。
横琴入管から中国を出てマカオに戻りました。マカオ側にはカジノの送迎バスが待っているのでそのバスを利用してホテルに戻りました。マカオのコタイ地区は横琴入管と目と鼻の先の距離にあります。付近は新たなカジノ建設のための工事が幾つかの場所で進められています。5年もすると物凄いカジノ地区に変身するでしょう。
マカオからフェリーに乗って香港に移動しました。現在珠海を横断する香港−珠海高速道路を建設中です。これができると中国大陸と香港の距離は更に近くなります。但し、香港・マカオでは自動車は左側通行、中国国内は右側通行です。高速道路を接続するとこれを上手に連結しなくてはなりません。
香港サイドのフェリー発着場所は香港島西側の「上環」です。ホテルはその近くに確保したので歩いてホテルに向かいました。この地区は下町で香港ローカルのレストランが多いので食事を楽しむには絶好の場所だと思います。
本日の移動 ○公共バス(25番):ヴェネチアン → Lin Leoc Garden(盧廉若公園)、孫文記念館 ○徒歩:盧廉若公園 → 鏡湖病院 → 聖ポール天主堂跡 →孫文医院跡 → セナド広場 ○徒歩:民政総署 → 聖オーガスティン広場 → 聖ジョセフ修道院(ザビエルの遺骨) ○タクシー:川辺新街 → コタイコンラッド
本日の食事 朝食:コタイサンズ 飲茶 昼食:セナド広場近くのレストラン ポルトガル料理 夕食:コタイサンズ マックカフェ
マカオのホテルはコタイサンズというカジノに隣接しています。このカジノは道を挟んで向かいにある「ヴェネチアンリゾート」の系列で、道路を跨ぐ回廊で結ばれています。コタイサンズのカジノは新しくできただけに、それほどの客入りでは在りませんが、夕方散歩した同じ系列の「ヴェネチアン」は多くの客で賑わっていました。
「ヴェネチアン」はヴェネチアの街並みや空を模した作りで客を驚かせます。3階フロアショッピングエリアの各所に運河を作ってゴンドラ遊覧を提供しています。中国はじめアジア各国かららしい多くの観光客が楽しんでいました。最近シンガポールにオープンした高層ビルの屋上にプールのあるマリーナ・ベイ・サンズもこのグループの系列です。
コタイ地区からは路線バスでマカオ半島移動して今日の散策開始です。旅行の目的のひとつは孫文の足跡を訪れることであり、孫文記念館、孫文が勤めた鏡湖病院、孫文の開設した診療所・薬局跡の建物を見ました。
それらと並行して世界遺産に指定されているマカオのポルトガル関連、カトリック関係の旧跡を歩きました。メーデーの連休を利用した中国からの観光客が多いらしく観光名所の聖ポール教会跡は大変な人出でした。
お昼ご飯はセナド広場近くのポルトガル料理店で頂きました。ポルトガル料理の味付けがどのようなものか知りませんが、料理は少し胃にもたれる味付けと量でした。このレストランは日本のガイドブックで紹介されているからでしょうか、日本人観光客が多かったです。私達の両隣のテーブルは日本人でした。マカオでは日本人・中高年夫婦が目立ちました。私達もそうですがその年齢層は色々な面で活動が可能になっているのだと思います。
午後はセナド広場の南側の世界遺産の教会を見て回りました。非常に狭い範囲内に多くの教会があり、それぞれが経験な祈祷の場所となっているということはキリスト教徒の人口が多いことを物語っています。見物する側からみるとイタリアローマの教会群に較べると装飾的あるいは教えを芸術的に表現するためのの絵画だとか彫像類が乏しい感じです。当時マカオでは建築家は探せても芸術家はいなかったのだと思います。もし日本に伝わったキリスト教が当時の幕府や支配階級に浸透していたとしたら、狩野派だとか仏像彫刻家がキリスト今日関係の作品をのこしていたのだろうと思われます。
昼食が予想外に胃に重かったので、晩御飯は軽くホテル隣接のマクドナルドで軽く済ませることとしました。これが大失敗。マクドナルドの味は世界共通と期待していましたが期待はずれでした。ハンバーガーとコーヒーの両方とも日本のマクドナルドとは比べ物になりませんでした。おまけに高いし客を待たせます。日本のマクドナルドの素晴らしさを実感しました。
今年のゴールデンウィークは今日二日から七日まで「香港・マカオ・中山」を旅行しています。今日は一日かけてマカオまでたどりつきました。
本日の移動
○徒歩 :自宅 → 武蔵浦和 ○JR武蔵野線 :武蔵浦和 → 東松戸へ ○京成スカイアクセス線 :東松戸 → 成田空港第一ビル(奥の方) ○全日空(NH)905便:成田空港NRT(10:35) → 北京首都国際空港(PEK)に(13:25) ○中国国際航空(CA)115便:北京首都国際空港(15:30)香港 → 香港(HKG)(19:00) ○ターボジェット(フェリー):香港国際空港(22:00) → 澳門外港フェリーターミナル(22:50) ○コタイサンズシャトルバス:澳門外港フェリー → コタイサンズ(コンラッド) ○マカオコンラッドホテル(Sands Cotai Central Conrad)到着
本日の食事 朝食:自宅 昼食:全日空機内食 夕食:中国国際航空機内食
成田空港へのアクセスは、武蔵野線東松戸経由の京成アクセス急行を利用しました。この路線は日暮里まで出る必要がないので、成田まで遠く感じないのがいいところです。成田空港からは北京首都国際空港・香港国際空港を経由しマカオにやってきました。それほど遠くないマカオにこのように遠回りしてきたのは、今回の航空券をマイレージで入手したからです。ゴールデンウィークの繁忙期には香港直行便は直ぐにいっぱいになってしまいますし、「日本−マカオ」直行便はスターアライアンスの会社が運営しているものではないからです。
香港からマカオへの旅は「ターボジェット」というフェリーを使いました。この方法では香港に入国することなく香港国際空港から直接マカオに入国できました。成田で預けた二つの荷物は、北京・香港を経てマカオの入国口で受け取ることができました。成田の全日空のカウンターでは、北京で一回ピックアップすることになるだろうという話でしたが、北京空港ではそのまま乗せ換えてくれて無事マカオまで運ばれました。
その代わり北京空港の搭乗者検査場で「痴漢撃退音付万歩計」が検査に引っ掛かり、色々考えた末に中のバッテリーを抜いてバッテリーを検査官に渡すという方法で通してもらいました。香港の空港の電気店で直ぐに補充しました。万歩計は「大連旅行」でも引っ掛かった経験があり今回で二回目です。中国の空港検査官は非常に規則に忠実に仕事をしているという証拠でしょうか。日本への帰り便では預ける荷物に入れることにします。
マカオフェリーターミナルからマカオのホテルまではホテルのバスが運転されていてそれを利用しました。今回マカオのホテルはコタイ地区に新しくできた「サンズカジノ」の一角のホテルです。マカオのコタイ地区はカジノの進出ラッシュです。ホテルの向かいには有名な「ヴェネチアリゾート」があります。ラスベガスで驚いたあのヴェネチアンリゾートの経営のようです。
マカオは世界遺産地区の観光客誘致力に加えて、もうひとつカジノで人を集めようとしています。ラスベガスもそうですが、カジノ客のためのホテル建設ラッシュは「コンヴェンション誘致」に繋がります。マカオの後背地の珠海・中山などでゴルフ場を整備すれば、非常に魅力的な地域になるでしょうね。
香港島は第一次アヘン戦争後の1842年の南京条約で、また九龍半島南部は1860年の第二次アヘン戦争後の北京協定において中国からイギリスに割譲されました。その後1898年の北京協定において九龍半島北部およびその付近の島(新界:New Territories)が99年の期限をつけてイギリスに租借されることとなりました。1842年からイギリスの施政下にありましたが、食料だとか水の供給源としての新界を得たことによって、香港はイギリスの窓口・中継地というだけではなく、独自の発展を遂げることができたのでした。
「新界」租借期限切れが迫ると、イギリスのサッチャー首相と中国の小平氏の間で「香港問題」が話し合われ、「新界」を中国に返還してしまった「香港」の存続は難しいという判断から、1997年の1月1日を持って「香港」は中国に返還されることとなりました。その協定は「中英共同宣言」(1984年12月19日)で定められました。この協定の中には「50年間は一国二制度を継続する」旨等のその後の香港のあり方が決められおり、1997年の香港返還後以降も従来の体制が継続しています。
この香港が19世紀からイギリスの影響を受け始めたことに比べ、お隣のマカオは16世紀の大航海時代からキリスト教の布教の基地としての役割が大きかったといえます。イエズス会宣教師はマカオを本拠地として東アジアでカトリックの布教に努めました。更に19世紀イギリス統治下に入った香港においてはプロテスタントの教えが広がりました。
そして大陸中国の清朝が列強の進出・国内の内乱等で混乱期にある中、香港ではキリスト教を基礎とした近代的な教育制度・医療制度がどんどん広がっていったのでした。
このようなことを想像するのは香港・マカオに近い中国南部広東省の香山生まれの「孫文」が香港で近代的な教育を受けて、マカオで診療所を運営しながら革命初期の運動に携わった事実があるからです。その舞台が「香港」「マカオ」でした。香港がイギリス領であったお陰で中国官憲の捜索の目から逃れることが出来たのでした。ロンドンの中国大使館に捕囚された「孫文」を助けたのも孫文の師のイギリス人でした。この孫文を始めとする多くの革命家の活動が近代中国を生んだのでした。
この孫文の活動を多くの日本人が支援しました。しかしそれは決して当時の日本政府の意思ではなく、民間の篤志家のボランティア活動が中心でした。残念ながら日本政府は中国の混乱に乗じて日本の権益拡大を図る道に走り、その結果として第二次世界大戦の敗戦に日本を導いてしまいました。
このような歴史的な場所を実際に体感してこようと思っています。
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