KENの日記
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2013年03月31日(日) 感心した「ステーキレストラン」

我家のある地域はイタリアン(特にピザ)レストランとケーキ屋さんが豊富なので非常に恵まれていると感じているのですが、その一方でステーキ屋さん(肉料理レストラン)の閉店が相次いでいたため「ステーキレストラン」が少ないことを不満に思っていましたが、戸田にみつけた「ブロンコビリー」というステーキハウスが予想外に素晴らしかったです。

我家近辺のステーキ屋さんは以下のような状況でした。

南浦和 「タチバナ」:本格派で何回も行きましたが残念ながら閉店。
武蔵浦和「ヴァリエ」:安楽亭系列の洋食レストランでしたが既に閉店。
戸田  「洋食館」 :食肉店直営レストランのようでしたが閉店。
北戸田 「ペコペコ」:昼間車で通るときは何時も閉まっている。
南浦和 「スエヒロ」:本格派ですが駐車場が不便なので足が遠のきます。
北浦和 「万世」  :本格派ですが少し遠い。

で戸田にオープンした「ブロンコビリー」です。
ブロンコビリーのホームページ

「ブロンコビリー」で評価できるところは以下のポイントです。
○ランチステーキセットの肉はこの価格(1200円)としては大変美味しい。
○セットに含まれるサラダバーの野菜類がとても新鮮で無くなると直ぐ補充される。
○ランチセットに含まれるご飯はお釜炊きでとても美味しい。

お客さまサービスでは、
○肉を焼く所、サラダバーなどをカメラで写して店内の大きなモニターで見せている。
○従業員が比較的多いので、配膳・後片付けが素早い。しかも丁寧である。
○複数回来年すると、だんだん得点サービスが増していくという面白いクーポンをくれる。
○駐車場も広く駐車で待たされることはない。

ランチメニューでは少し安いハンバーグも大変美味しいので、これから利用する機会が増えそうです。



2013年03月21日(木) 上野ファンタジスタのナポリピザ

上野公園の東京都美術館で開催されている「エル・グレコ」展を見てきました。帰り道に通った上野公園はほぼ5分咲きの桜と暖かい陽気のためにかなりの人出でした。昼は御徒町にあるナポリピザの店「ファンタジスタ」でピザランチを頂きました。

この「ファンタジスタ」のピザ職人は昨年2012年の「ナポリピザ職人コンテスト」で優勝したのだそうです。しかしこの日は生憎ご本人はお休みで別な方が焼いていらっしゃいました。ナポリピザ職人コンテストの記事が「真のナポリピッツァ協会日本支部」のホームページに載っていましたので掻い摘んで抜粋しておきます。

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2012年9月14日から16日、「真のナポリピッツァ協会日本支部」は汐留イタリア街広場でナポリピッツァフェスタを開催した。会場に二台の薪窯を持ち込み全国から集ったピッツァ職人たちの手による2000枚以上の本格ナポリピッツァが提供された。16日には「第二回ナポリピッツァ職人コンテスト」が実施され、日本中から集ったピッツァ職人たちがその技を競い合い熱い戦いを繰り広げた。
■参加人数:39名(クラシカ部門/ファンタジー部門/アーティスティック部門 合計)
■審査結果
(1)クラシカ部門
第1位 坂本 大樹 (ファンタジスタ/東京都文京区)
第2位 飯塚 慎  (アミーチ/茨城県つくば市)
第3位 志賀 和真 (アミーチ/茨城県つくば市)
第4位 吉武 紀英 (ヴォメロ/東京都中央区)
第5位 下間 葉都美(ピッタゼロゼロ/千葉県浦安市)
(2)ファンタジー部門
第1位 志賀 和真 (アミーチ/茨城県つくば市)
第2位 飯塚 慎  (アミーチ/茨城県つくば市)
第3位 山根 大志 (パルテノペ/東京都渋谷区)
第4位 小澤 一稀 (パルテノペ/東京都渋谷区)
第5位 藤村 謙太郎(パドリーノ/宮城県仙台市)
(3)アーティスティック部門
第1位 志賀 和真 (アミーチ/茨城県つくば市)

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コンテスト出場者の39名がどのような人達であったのか情報はありませんが、「ファンタジスタ」の坂本さんは堂々と優勝されたのでした。そのようなピッツァイオーロが主催するピザレストランなのでかなり期待して行ったのですが、1200円のマルゲリータランチからは残念ながら期待したほどの感動は得られませんでした。

素材(ピザ生地、トマトソース、チーズ、バジル)も窯も悪くないと思うのですが、見栄えの良いマルゲリータピザは味が散漫としている感じなのです。トマトソースとチーズの緊張感がないのです。妻と私の推測は「オリーブオイルの使い方」に問題があるのだと言う点で一致しました。私は更にピザ中心部の生地が少し厚すぎるのではないかとも思いました。この程度の焼き方と味で「日本一」となるはずがないと妻が指摘しましたが全くその通りの印象でした。

「ファンタジア」の名誉のために書いておくと、店の様子(ピザ窯近辺の整理整頓、店内の洒落た雰囲気、従業員のきびきびした動き等)は非常に立派だと思いましたし、水お入れて出された新しいタンブラーの輝きにはびっくりしました。前菜の野菜サラダのドレッシング、後で頂いたコーヒーもなかなか美味しかった。店の場所もナポリの下町(路地裏)風で、ナポリトリブナーリ通りのような太陽の日の差さない細道にあって雰囲気は最高だと思いました。それだけにピザの味に満足できなかったことは残念でした。是非とも「日本一の技」を常に提供して欲しいと思いました。



2013年03月17日(日) 浦和西南桜が開花



昨日東京の桜の開花宣言がありました。武蔵浦和のさくらの名所の「西南桜」はどうかと朝散歩のついでに桜の花を探したところ一輪咲いていました。まだこの一輪以外には開花している花を見つけることができませんでした。この花はよほどせっかちなのか、サービス精神が旺盛なのか。日当たりのよい木は花芽が相当膨らんでいます。今日の日中の暖かさで更に開花が進みちらほらと咲くはじめることでしょう。

町内会の人だと思うのですが、丁度自転車で通りかかり、花見のための「ぼんぼり」を今週末にも取り付けようかな呟いていました。実は昨年「花見のぼんぼり」(武蔵浦和駅から別所沼公園まで桜堤の両サイドに灯されます)を早く取り付けすぎて、その後の雨・風で痛んでしまったのでした。明日の月曜から少し天気が荒れそうなので、今週末辺りが良いタイミングだと思います。いよいよ春本番近しです。



2013年03月14日(木) ローマ法王決定

ローマ市街地にあるバチカンのシスティナ礼拝堂でローマ法王選出のための「コンクラーベ」が行われていましたが、13日水曜日の夜、アルゼンチン出身の「ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿」が第266代ローマ法王に選出され「フランシスコ1世」を名乗ることとなりました。

「コンクラーベ」は法王選出にエリジブルな枢機卿がシスティナ礼拝堂という密室の中で集まって投票によって決めます。システィナ礼拝堂に据えられた煙突から、投票用紙を燃やす煙が排出されますが、この煙の色が「白」ければ法王が選出された合図なのです。これは小説「天使と悪魔」で詳しく説明されていました。

基本的は仏教徒だと思っている私には関係ないことですが、ローマ法王の選出方法はあまり民主的とは言えないと思います。もっとも宗教組織の長を選出する場合にどのような方法が良いのか詳しくは知りませんが。最近少し興味を持っている「チェーザレ・ボルジア」に関する本を読むと、ローマ教皇がネポティズムの行動をとるためにローマカトリック社会が非常に腐敗した過去があることが分かります。

法王を選出することとなる「枢機卿」の任命権は法王が握っているので、前法王あるいはそれを支える枢機卿の考えによって次期法王が選ばれることになる可能性は十分あります。最近はそんなことはないのでしょうが、丁度同じ時期に選出されようとしている中国国家主席選出方法はまさしくそのような弊害の危険性を孕んでいるといえます。

イエズス会出身の法王ということでなんとなく親しみが持てます。キリスト教社会だけでなく、全世界に良い意味で強い影響力を発揮してくれることを期待しています。



2013年03月10日(日) 水戸「偕楽園」へ

「梅」開花の季節になったので、9日の土曜日これまで行ったことがなかった水戸の「偕楽園」に行ってきました。埼玉自宅の近所の梅や、横浜の通勤経路の梅は既にかなり開花していますが、水戸は少し遅いようで3割程度の開花状況でした。それでも偕楽園の所々で春らしい奇麗な花をつけた梅の木を見ることができました。暖かい日が続いた後の偕楽園は大変な人出でした。まだ咲き始めですが満開になるとさぞ混雑するのだろうと思われます。

偕楽園を散策した後は無料周遊バスを使って水戸駅近くの 「弘道館」まで足を伸ばしてみました。 弘道館は水戸藩時代の立派な藩校跡で、偕楽園と並んで観光名所となっていますが、生憎東日本大震災で傷んだ部分の修復期間に入っていて見学することは出来ませんでした。ここでは庭に植えてある咲き始め梅を見るに止まりました。 弘道館近辺は旧水戸城の本丸近辺で街の中心部です。堀に囲まれた城の中心部の殆どが「学校」になっているところに水戸が学問を大切にしたことが伺われます。こういう場所で学ぶ子供達が羨ましいと思いました。

この日は水戸に近い「阿字ヶ浦」の民宿に泊まり、冬場の名物「あんこう(鮟鱇)鍋」を頂くことが「梅」を見ることに加えてのもうひとつの目玉でした。私は少し前に北茨城であんこう鍋を食べていますが妻は始めてです。二人で動けなくなるほど食べたのですが、魚と野菜が多かったせいか思ったより体重が増えなかったようです。「あんこう」の淡白な味が上品でした。

日曜日の今日は午前中早くに国道51号を南に下って「鹿島神宮」を参拝してから帰りました。水戸近辺の朝は比較的天気が良かったのですが南の鹿島神宮では強風でした。気団のせめぎ合う前線が私達の後を追い掛けて来たといった格好です。昼過ぎに戻った埼玉は大荒れの天気でした。



2013年03月07日(木) 「主権回復記念日」?

安倍首相が4月28日を「主権回復記念日」として制定しようとしていることに少し違和感をおぼえました。この日はサンフランシスコ平和条約の発効した日だそうです。新聞報道による首相の発言は「我が国による国際社会の平和と繁栄への責任ある貢献の意義を確認するとともに、これまでの経験と教訓を生かし、我が国の未来を切り開く決意を確固たるものとするため、4月28日に政府主催で記念式典を行うこと」と言うものであるようですが、何を目的としているのか真意が分かりません。

というのも、まず「回復された主権」は如何にして失われたのかということに関して内外からの納得感が得られるような説明がなされないまま、「回復」を祝うというのは難しいと思うからです。もっと明確に言えば、日本の東アジアへの進出および太平洋戦争が、「日本の独立自尊のために止むを得なかった戦争だったのか」「日本の侵略戦争であったのか」ということです。私にはまだ無条件降伏した当事国の日本は「おとなしく」している時期が」しばらく続くのではないかと思われます。

戦勝国から押付けられた「憲法」を変えたいとか、中国・韓国との領土問題に決着をつけたいとか、北朝鮮・中国の軍事力の脅威に対抗するための軍備を備えたいとか、韓国が拘っている従軍慰安婦に関する日本軍の関与の問題を丸く収めたいとか、対応の難しい様々な問題を抱えてはいますが、そうした問題の解決の基盤を築くために「回復された日本の主権」を据えたいというのであればやはり時期尚早だと思います。多分現在のアジア外交の拗れは、過去の事実関係を明らかにすることで解消されるのではなく、現在・将来の日本の行動によってのみ解決されるものであると思われます。

もっともこの日を何かの名目で国民の休日とし、ゴールデンウィークを1日長くしようというのが本当の意図であれば大歓迎です。



2013年03月06日(水) ラフール・ガンジーの悩み

インドの有力な次期首相候補である「ラフール・ガンジー」の意見表明が注目されています。以下はBBCインターネット報道からの抜粋です。

"The prime minister's post is not my priority. I believe in long-term politics," he was quoted as telling party MPs at a meeting on Tuesday by the Press Trust of India news agency.

インドの国民会議派(Indian National Congress)のリーダーは殆ど自動的に首相となりインドの政治指導者となります。インド独立後はそのポストには独立の功労者のガンジー・ネルー家出身者が座ることが多かったし、そうなることが当然のように受け止められています。現在国民会議派のNo.2のポストにある「ラフール・ガンジー」が次期党大会でリーダに選出され、首相に就くことは当たり前だとインドの多くの国民が考えています。以下は戦後のネルー家出身の党首です。

 1951−1954 ジャワハルラル・ネルー
 1959−1959 インディラ・ガンジー(ネルーの娘)
 1978−1984 インディラ・ガンジー
 1985−1991 ラジヴ・ガンジー(インディラの長男)
 1998−2014 ソニア・ガンジー(ラジヴの妻)
?2014− ラフール・ガンジー(ソニアの長男)

この「ラフール」の発言を知って大変頼もしく思いました。インド国民会議派においては、嘗てインド独立前においてその党首選出はかなり激しい選挙戦が行われたと認識しています。というのも1938年には、非暴力の独立運動を展開しようとするネルー(ガンジーの支持)に代わって強硬路線のスバッシュ・チャンドラ・ボースが二度に渡って党首に選出されたのでした。ボースはその後国民会議派から除名され、国民会議派とは別に殆ど単独でインド独立戦争を戦うこととなったのでした。(ボースは終戦直後に台湾で死亡しその遺骨は日本にあるのですが、インド政府は現在でもそれを本当の遺骨とは認めていません。詳しくはホームページをご覧ください)

インド独立運動において「ガンジー・ネルー」の非暴力主義とボースの強硬主義が分裂し、ボースが頼みとした「日独伊枢軸国」が戦争に敗れたために、イギリス側を支持したネルーがインド独立の立役者となりました。ネルーは独立後の初代首相に選出され、ネルー家の子孫が国民会議派の重責を勤めリーダとなることが当然のようになってきたのだと思われます。敗戦国の日本としては複雑な立場ですが、世界各地でのイギリスの節操の無い戦略を見抜いていたと言う点でネタジの行動は評価されても良いと思います。

「インディラ・ガンジー」はネルーの一人娘ですが、インディラがパルシー(拝火教徒)の「フェロージ・カーン」と結婚する際にカーンはマハトマ・ガンジーの養子となって、ヒンズー教徒となると同時に「ガンジー」という神通力のある姓を得たのでした。インディラは「父ネルー、夫フェロージ」の亡き後に国民会議派のリーダとして政治の表舞台に引っ張り出されてしました。

今回の「ラフール」の「躊躇い」も尤ものように思えます。嘗てのように「志ある党員」が努力してリーダシップを磨き、正々堂々と選挙戦を戦って党首を決める国民会議派になることがラフールの目指す所ではないでしょうか。世界最大の民主主義を誇るインドですが、そのリーダが殆ど世襲で決まってしまうのでは画竜点睛を欠きます。ラフールの発言通りに若い世代が切磋琢磨して、民主的な方法でリーダを選ぶことになれば良いと思います。そうなれば日本に眠るチャンドラ・ボースの遺骨もインドに帰ることとなり、インドの独立運動の歴史の空白を埋めることになると思います。

ところで、「インディラ、ラジヴ、ソニア」のラフールの祖母、両親の3党首は、それぞれその夫・母の突然の死に際して唐突に党首に選出されました。この3人は何れも元々政治に関わることを峻拒していたようで、取り巻きおよびインド国民の「声」によってリーダに祭り上げられました。そうしている中に政治活動が面白くなるようですが。ラフールもこの先輩達の轍を歩むつもりなのかもしれません。アジアでは一旦固辞するのが尊いとされることがありますから。私は夫ラジヴを政治活動で失った冷静な母の「ソニア」が適切なアドバイスをしてくれると信じています。




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