| 2012年11月23日(金) |
カンツオーネコンサート |
品川区の荏原文化センターでカンツオーネのコンサートを聞いてきました。このコンサートは品川区民芸術祭の中のひとつで、イタリア人音楽家によるカンツオーネだというので期待してチケットを買っておいたのでした。母の葬儀日程次第では演奏会をあきらめることになりそうだったのですが、そうならずに無事に聞くことが出来ました。
荏原文化センターは昔住んでいた「洗足」、その頃から妻が参加している合唱団が練習している「西小山」に近かったので、妻が良く利用するという「西小山」駅近くのイタリアンレストランの「ナイン」で昼食を食べることにしました。
「ナイン」さんのホームページ
私が食べたマルゲリータピザのランチセットですが、ピザの焼き具合には大いに満足しました。合唱の練習の帰りに何回も通って顔馴染みになっている妻と一緒だったので特に注意して焼いたのかもしれませんが、完成度の高い仕上がりです。唯ひとつ気になったのは、私の方の責任かもしれませんが、最初の一口目に少し金属を焼いた臭いがしたことです。二口目からはそういうことがないので、私の嗅覚・味覚の錯覚かもしれません。前菜に出されたハムと魚肉の添えられた野菜サラダと食後のコーヒーも大変美味しかったです。
昼食を済ませてからコンサートまでまだ時間があったので、昔住んでいた洗足まで足を伸ばしてみることにしました。生憎の雨模様だったのですが、それが却って住宅街の静かな瀟洒な様子を引き立てていたようです。昔住んでいた頃の「目蒲線」は東急目黒線に変わり、地下鉄と接続はするし、東横線の電車が入ってくるので昔のようなローカル私鉄ではなく幹線のひとつになっていました。今回「東急目黒線」に始めて乗りました。西小山駅は地下化されていました。
妻からは聞いていましたが、昔住んでいた社宅の後地には高級そうなマンションが建っていました。その近くにある皇太子妃の自宅前を通って西小山に帰ってきました。昔皇太子の結婚直前に自宅近辺賑やかだったことを思い出しました。西小山から「立会川」を暗渠とした「立会道路」を通り、中原街道を渡って荏原文化センターに行きました。開場前のホール前には熱心なファンが列を作っていました。今日のコンサートは座席指定がないので早い者勝ちに良い席に座ることになります。私達も長い列の後ろに並んで待ちました。
カンツオーネコンサートの出演者は、エンツォ・ディ・アマリオ(ピアノ)、サルバトーレ・マニエーリ(ヴォーカル)、アルベルト・デ・メイス(ヴァイオリン)、品川区民芸術祭プルミエコンサートの総合プロデューサーでテノール歌手の高野二郎さんです。高野さんの司会進行で、コンサートは進んでいきました。
ピアノのアマリオさんは長く日本に住んでいるので日本語が堪能です。ヴォーカルのサルバトーレ(2007年から日本で活躍)さん、ヴァイオリンのアルベルト(イタリア在住)さんは日本語がそれほど上手くないようで高野さんが通訳しました。歌は基本的にイタリア語で歌われましたが、字幕も歌詞カードもなし。でも親しみ易い旋律が多く十分楽しめました。
ピアノのアマリオさんはシンセサイザー、リズムセクションをコントロールしながらのピアノ演奏です。事前にアレンジされた伴奏は大変充実していて、そのベースに乗ったピアノ演奏は素晴らしく、安定していて素敵な音楽を作り上げていました。何曲かソロを惹かれました。
ヴァイオリンのアルベルトさんは巨漢でヴァイオリンが非常に小さく見えるのですが、そのボーイングの素晴らしさには最初から圧倒されました。正しく弦に吸い付くような凄いテクニックです。高温から低音までの統一された音色と表情豊かな表現はイタリアバイオリンの伝統を受け継いでいるのでしょう。イタリアは弦楽器製作では有名ですが、パガニーニをはじめ演奏者の系譜でも重要な位置を占めています。特にオペラ伴奏にはイタリア的な演奏方法が向いているのだと思いました。アルベルトさんのヴァイオリンは本当に歌うように演奏されます。他方「Palladio」では物凄い集中力で聴衆を魅了しました。そんなアルベルトが時々見せる適度なお茶目なところが人柄を表していて親しみが持てます。
ヴォーカルのサルバトーレさんの魅力は非常に複雑でした。渋い二枚目でアルベルトさんのような茶目っ気はありません。非常に生真面目に、そして物凄く感情の籠った歌を聞かせてくれます。イタリアが母国語の強みはありますが、男性カンツオーネ歌手の醸し出す色気をたっぷり聞かせてくれました。妻が「自分に歌っているかのように聞こえる」と評していましたが、聴衆のひとりひとりの心に染み透るような歌でした。テノール歌手の高野さんも素晴らしい声を持っているのですが、サルバトーレさんと比べると歌の上手さにおいて役者が違うという感じがしてしまいます。サルバトーレさんの歌を聞いていると声の問題とかリズムとか、言葉の問題とか「歌心」以外のことが気にならなくなるのです。高野さんの歌から発声法を変えることが気になるとか、気持ちではなくて音が聞こえてくるような部分が残っていると感じてしまいました。
さすがにイタリア人の3人の演奏は素晴らしく、ほぼ会場一杯の聴衆は次第にボルテージが上がって行き、それを感じ取った演奏家の演奏が更に素晴らしいものになっていくという好循環で、最期は会場も演奏者も大興奮となりました。これほどのコンサートが小さなホールでPRを少なくてあまり知られることなく行われるのは非常に残念に思いました。今日演奏された歌は以下の通りでした。
第一部 1.MiSERERE 2.NUOVO CINEMA PARADISO 3.IL PADRINO 4.NELLA FANTASIA 5.GIRASOLE 6.LA PIOGGIA 7.DIO COME TI AMO 8.SEI LA VITA MIA 9.TU CHE M'HAI PRESO IL CUORE 10. 'O SOLE MIO
第二部 1.LIBERTABGO 2.AQUA DE BEBER 3.PALLADIO 4.COFFEE RUMBA 5.SOMOS NOVIOS 6.ADAGIO 7.DICITENCELLO VUIE 8.NON TI SCORDAR DI ME 9.CON TE PARTIRO
アンコール 1.帰れソレントへ 2・ボラーレ 3.フニクリ・フニクラ
母の最期を看取り葬儀を済ませて改めて介護とか最期の看取りについて振り返ってみました。
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我が家の場合、母がまだ十分に活動できることができた当初は自宅で同居介護を開始したのでした。広くないマンションにおいて親を介護するため、北側の母用の部屋を二重窓に変えて寒さ対策を施し、近くにもうひとつ小さなマンションを買って母が同居した後の子供達の住まいも確保しました。母のためにベッド、部屋置きの簡易トイレ、移動用の車椅子も準備しました。これらの装備で暫くの間同居生活が続きました。母は一人で外出をしましたが、通院等の介添えが必要な場合には妻が付添いました。
しばらくしてから、母は外で転倒して大腿骨骨頭骨折し、近くの病院の約一ヶ月入院しました。動かない生活が続いたことによって、以前に較べると格段に運動量が減って寝たきりの状態に近くなってしまいました。この段階で介護度は「順調」に上がっていきました。トイレ対策として尿道管による排尿を開始したのですがこれが大変なこととなりました。母用にボタンを押せば音楽で知らせてくれる装置を母の枕元に置いたのですが、排尿袋に尿が溜まると深夜・朝方でも音楽が鳴ることとなりました。
その度に妻と交代で起きて尿をトイレに流す処理をすることとなりました。要介護の認定を受けていたので週に何回かデイサービスは受けていましたが、朝夕の食事を自宅で食べる度に母親を抱え起こすこととなった妻は腰を痛めてしまいました。この段階で母親は「要介護4」の状態になっていました。次第に老衰が進んで行く母親の世話をこのまま妻に任せて自宅介護を進めることは不可能と判断しました。
世の中には金銭的な事情その他で自宅介護を続けている方が沢山いらっしゃるとは思います。私のところは大変恵まれているのだと考えながらも、老衰した親の介護をどこまで子供達が面倒を見るのか、子供達の間での作業分担はどうあるべきか、また故郷を離れての介護は親にとっては非常に寂しいものであるというように、現実は多くの問題を抱えているのだと感じました。
自宅付近で民間の介護施設を幾つか実際に訪問してみました。さいたま市には既に多くの介護施設ができていることを改めて知ることとなりました。そして満員の施設が多いことも知りました。運良く自宅から歩いて行ける距離にある介護施設「武蔵浦和まどか」にお世話になることができました。そこは家から歩いて行けるし行く途中に大きな生協のスーパーがあるので何かと便利であるように思われました。
介護施設に入居するときには、おぼろげですが「母の最期」の時にはどうなるのか想定していました。その当時は母は病院に入院して最期は病院にお世話になることになるのだろうと漠然と考えていました。というのも何かの病気でなくなることが普通なのだろうと勝手に想像していたのだと思います。
一月に今年88歳となった母の体調は衰えが目立ってきました。実は前年12月に老衰が進んだ症状となっり掛かりつけの病院で薬の量を変更してもらったのでした。その甲斐があって元気を取り戻したのですが、パーキンソン病の症状は次第に強くなって身体の柔軟性は大分失われ、腕や手の振るえは激しくなり、嚥下能力の低下に対応して流動食に切り替えられました。「自分で食べることが出来ない」「流動食を口に入れてもらっても嚥下に時間がかかる」という状況が続いて食欲がなくなってきたのだと思います。また水の嚥下にも苦労することから「脱水症状」が激しくなり、10月末には救急車で病院に入院しました。
介護施設の判断でこの頃には誤飲を避けるために水にも「とろみ」が付けられる状況となっていました。これは介護施設の判断として仕方がないことだと思われました。水を肺に吸い込んでしまって呼吸困難に陥ったり肺炎になってしまっては施設の責任になってしまいます。一人の担当者で多くの老人の世話をする介護施設では入居者の安全を第一に考えて一定の処置をすることとなり、入居者各個人の個別事情への対応は最小限にならざるを得ません。自宅で家族が介護している場合なら、食事、水分の摂取をもう少し丁寧にできたかもしれませんが、この段階になって自宅に引き取ることも現実的ではなくなっていました。
介護施設は入居者が元気な期間は問題ないのでしょうが、入居者の老衰が進む段階においては、医療行為はできませんから、どうしても安全サイドな介護(無理をさせない・寝ているのであれば敢えて起こして食事をあたえることにはならない)にならざるを得ない状況にあります。またこの段階で自宅介護を始めることによって、本人にどの程度回復させることが出来るかも不明です。この頃良く考えたのは、生まれたばかりの赤ちゃんが、毎日どんどん成長し、動きも活発化して食べられる物もどんどん増えて行くことの、全く正反対で、老衰が進行しつつある人間は、次第に食べられる物の範囲が狭くなり、水も飲めなくなって、身体活動も徐々に減り、身体の機能が次第に衰えて最期に心臓さえ動けなくなるのだろうということ。そして老人は身体は大きいし、時には文句を言う大人であるということ。
母の症状は「パーキンソン病」という病気なのか「老衰」の症状なのかは非常に難しいところでした。医学も非常に悩むところだと思います。医学は人間の命を救うことが目的であって、何もしないで「死」を受け入れることは医学の敗北に近いと考えることは想像できます。老衰の状況を何らかの病気症状と認識して治療によって延命させることが医学の役割であると言う考え方です。しかし赤ちゃんを育てることに較べると介護は家族にとって負担が格段に大きいし、医療費から介護の費用は無尽蔵ではありません。むしろ社会保障の会計はどんどん悪化しているのは明らかです。
市民病院の先生は非常に丁寧に話してくまれました。食事・水分の補給方法として、「胃ロウ経由」「経鼻管経由」「静脈管経由」の方法があり、そうした補給によって延命可能ではあるということ。一方でそのような処置を継続実施する場合の家族・施設の負担の増加、そのような処置に関連して肺炎、栄養の偏りなどの患者への負担・危険の増加について説明してくださり、最期は患者の覚醒状況とか今後の覚悟を含めた家族の判断でということで私達の判断を求めました。
母の反応は既にかなり乏しくなってきていて、こちらが話しかけても話し返すことが稀になっていました。この段階で私達が考えたのは、母に対して痛み・苦しみのないような最期を迎えられるようにすることでした。また介護する側にとっても過度な負担とならないようにということでした(過度かどうかは難しい問題ではあります)。私達の考えを聞いた先生のアドバイスは、この段階でこれ以上の人為的な栄養補給を停止して、家族が暖かく見守ることとしたらどうかというものでした。私達は先生のアドバイスに従うこととしました。先生はその期間は2週間程度だとおっしゃいました。
幸い介護施設が私達家族とともに母の面倒を見てくれることとなり、母は病院を退院して元の介護施設に戻りました。介護施設の方達は経験があるとは言え、毎日緊張の日々が続いたことともいます。私達家族は毎日最低一回は顔を見に行き段々反応が弱くなっていく母親を見守りました。母は嚥下能力が衰えたといっても、水を口に含ませると「ゴクッ」と飲み込みます。ほんの少しの水が「ひどく貴重で、美味しいもの」であるように飲み込みます。妻が目は見えなくとも耳は聞こえているいるはずだというので、生の音楽を聞かせることもしました。2週間しかない「命」は、儚いようでいて力強いものだとも思えました。
母は退院してから11日目に息を引き取りました。その朝はなんとなく予感はあったのですが、案の定通勤で会社の門までたどり着いたときに妻から電話が入りました。急いで自宅にとって返して施設についたのは午前も終わりに近い頃でした。母は酸素吸入装置をつけて息をするのも苦しそうでした。それから最期の見取りが始まりました。口に水を含ませると忘れた頃に飲み込みました。飲み込む度に「飲んだ〜」といってこえを出して喜びました。
命が消えていく様子は、私を生んで育ててくれた57年間、最期の10日間、そして本当の最期の数分間、なんともいえない時間の長さだと思いました。母が息をしなくなった後の時間もそれまで生きていた時間の延長のように思えます。死は生の延長のように思えてきました。妻と二人で母を看取ってから暫くして施設嘱託の先生がいらっしゃって正式に死亡を確認してくれました。
昨日母が午後1時32分(実際には12時17分ですが)に亡くなりました。火葬は死亡時刻から24時間以降でないと行なえないことになっています。子供のことを考えてというかタイミングが良くて浦和斎場の午後3時からの火葬の枠が開いていたので、その枠を使うこととしてそれに間に合うように葬儀をすることとしました。
武蔵浦和駅近くの「はるか」という葬儀屋さんが「家族葬」に「力」を入れていたので、介護施設からも家からも近いのでそこで「家族葬」を行なうこととしました。つまり身内だけが集まって亡き「母親」にお別れをして火葬するというものです。お世話になっている寺と墓は長野県にあるので、今日の葬式ではお寺さんも呼ばず、お寺さんに戒名だとか弔いの経だとかは納骨の時に一括でお願いすることとしました。(その時にすんなり進むかどうか分かりませんが)
今日の葬儀は1時頃から「納棺士」の方に来ていただき、家族の見守る中で母の最期の化粧・見繕いをしてもらい、納棺して2時過ぎにには浦和斎場に向かい、火葬後は浦和斎場から武蔵浦和の「木曽路」に場所を移して出席者で会食をするという段取りでした。
「納棺士」の方の化粧で母は大変若々しく変身しました。もともと色白でシミソバカスの少ない母の顔は化粧の効果もあって、とても88歳には見えません。棺桶に移されて周りを様々な色の花で飾られた母はまさしく葬儀の主役でした。長いお経を聞くのも葬式らしくて悪くないでしょうが、納棺士さんの技を見ながらタップリ故人と過ごすのも、とても貴重な経験だと思いました。これだけ故人を主役にした葬式を執り行うと、斎場での火葬直前の悲しみも軽減されたと思います。
火葬を待つ間の葬祭場でのアルコールと、会食場でのアルコールの量は半端なものではありませんでした。男兄弟は勿論、妻・娘も酒豪ですから、店の人が驚くほどのペースでアルコールは消えていきました。フンダンに酒が飲めるように武蔵浦和駅付近で会食をすることとし、移動手段は全てタクシーと「木曽路」のマイクロバスにしたのでした。家族の酒の強さは母親の系統が影響していることが明らかなので、母親は文句をいうことができないのです。
今日通常通りの通勤列車に乗り、通常通りの通勤経路で横浜駅から神奈川新町の会社に向かい、会社の入り口近くにに達したころ、少し気になったので携帯電話の着信記録をチェックしたところ、妻からの着信記録がありました。急いで折り返した所、介護施設から母の呼吸が弱くなっていて危ないという連絡が入ったという用件でした。急いで会社に行き、とりあえず今日はこのまま家に戻ることにして、母にもしものことがあったら今週は休むことになる旨を伝えました。
横浜駅経由の湘南新宿線を使って埼玉に向かいました。武蔵浦和について介護施設に急行した妻と連絡をとってから、今日は外での活動が長くなりそうなので家で服を着替えてから介護施設に向かいました。
母は呼吸が浅くなっていて酸素吸入をしていました。妻と二人で母のベッドの近くで見守り、時々酸素吸入器を外して母の口に水を含ませました。覚醒はしていないのですが、口に水を含ませると4〜5回飲み込みました。口の中が乾いていることに加えて胃も水を欲しているようでした。母が何度か水を飲んだので少し安心したので、妻に昼飯の弁当を買ってきてもらうことにしました。妻が出て行った暫くすると急に母の呼吸間隔が長くなりました。いっしょに面倒を見てきた妻にも母の最期を見届けて欲しいと思い、妻に電話をかけてできるだけ早く戻ってくるように伝えました。
妻は母の息があるうちに施設に戻ってきました。その後母の呼吸はどんどん弱くなり、呼吸の間隔が長くなりました。ともすると1〜2分呼吸しないでもうだめかと見ているとまた呼吸を始めるということが何度か続き、ついに12時17分の呼吸を最後に次の呼吸をすることがなくなりました。良く最後の息を吸って亡くなるという話を利きますが、母は普通通りに呼吸を吐いた後に吸わなくなりました。施設の看護婦さんに連絡して脈を診てもらいました既に心臓は止まっていました。施設の担当医の先生が着てもらうまで亡くなった母の直ぐ横で妻と二人で昼食を食べました。なんだか非常に時間がゆっくり進む感じがしました。施設の担当医の先生に駆けつけてくれて正式に母の死亡を1時32分に確認してくれました。
母の顔は非常に穏やかでした。私には母は呼吸ができなくなって酸素不足によって亡くなったように思えます。少し苦しそうな顔をする時もありましたが、何人かの医師の話では最後の酸欠状態の時には殆ど意識がなくなり苦しさも感じないものだとのことです。死んで行く人に確かめたわけではないでしょうから本当かどうかは分かりません。とにかく母の状態は前進の老衰・衰弱が次第に進んで、正しく動物がその最期を自然に迎えるようになくなっていったように思えます。それは受精後の受精卵が細胞分裂を繰り返す中でどんどん高等な動物になっていくのと反対に、生命維持に必要な細胞から一番離れた部分から活動を停止していって、その最期の段階で心臓が停止したと思われるような状況です。
その後、前から相談していた武蔵浦和駅近くの葬儀社に連絡をして葬儀の手はずを整えました。通夜を行わない簡易な葬儀をすることとし、家族だけの葬儀を21日の12時から執り行うこととしました。
今日は夜10時過ぎにに母を見舞いに行きました。「水」を旨く飲ませることができるように「氷アイス」を買っていきました。近くのコープでは寒くなってもアイスクリームを売っていますが、さすがに「氷アイス」の種類は減っています。夏でも急いで食べると頭がガンガンするのですから、寒くなると売れないのでしょう。
しかし残念ながら母はぐっすり眠っていました。服を着替えているし顔がさっぱりしているとおもったら、今日「風呂」に入れてもらったのだそうです。施設の今日の当番の女性がたまたま以前「エステシャン」をしていてたので、顔をマッサージしてくれたのだそうです。毛細血管が浮き出ていた顔が随分綺麗になっていました。たぶん顔の表面細胞の活動が衰えていて血液が行き渡らなかったのが、マッサージで元気になってのだと思います。
介護施設の方は私達に「母に会いに来てくれてありがとう」と挨拶してくれますが、これには少し複雑な気持ちになります。施設の方達が、これから長く生きることにならない母を本当に気遣ってくれていることは十分に分かります。肉親や家族以上に「近い気持ち」になっているのでしょう。介護施設の「底力」を見る思いがします。
私達が、歩いていける近い所に介護施設があって母の世話をしてもらえることは随分恵まれていて助かっていることだけは確かです。赤ん坊を育てる育児も大変ですが、身体が大きくてどうあがいても老衰が進んでいく親を介護することはかなり厳しいものです。自宅介護では、デイサービスこそ最近充実してきましたが夜間は家族が介護しなくてはなりません。介護施設と病院の中間的な「ターミナルケア」のための施設の充実が望まれます。
昨晩は息子が新潟から見舞いにきたので、久し振りに息子のために「すき焼き」を食べました。その残りを中心にして晩御飯を施設で食べることにしました。母にすき焼きの臭いを嗅がせたいと思ったからです。
というのも母の実家は田舎の「食肉店」兼「すき焼き屋」だったので、母は小さい頃から「すき焼き」の香りの中で育って来ているのです。小さい頃実家に入り浸っていた私も食欲をそそる「すき焼く」の臭いには郷愁を感じます。実家には田舎風の「すき焼きたれ」をぐつぐつ煮る大釜があって、その匂いはなんとも言えないし、大量の「ねぎ・糸こんにゃく」も独特のい匂いを発していました。
「すき焼き」のスープを母の口に含ませると少しですが飲み込みます。また妻が水を与えると数回嚥下をしてくれました。さすがに喉が乾いているのだろうと思います。
今日は貴重な日曜日です。新潟から長男な母の見舞いにやってきました。新潟から武蔵浦和は比較的便利で、新幹線・埼京線を乗り継いだ長男はお昼ごろ武蔵浦和に着きました。久しぶりなので会社に娘も誘って家族4人で昼食を食べました。
娘は今日は会社出勤。息子と妻と三人で母を施設に見舞いに行きました。今日は音楽を聞かせることに決めていました。大急ぎで修理した昔の「ポータサウンド」で妻に伴奏してもらって、チェロで音楽を聞かせようと考えました。弦楽器の音は楽器の振動が良く伝わるはずなので、おとが聞こえなくとも振動をかんずることができるのではないかと思います。
さいたま市民病院の先生の話では、次第に「眠っている時間が長くなる」ということでしたが、母は起きている時間が長いようです。施設の方も「夜中は起きている時間が長かった」と言っていました。いっしょに来た息子が母に顔を近づけると母は理解したかのように目玉を動かしました。
反応はなくとも耳は聞こえていると思われる母は、妻の伴奏での私の下手なチェロを聴いて少し迷惑そうな顔をしていました。何時の間にか天気が崩れて、施設をから帰る頃には雨になっていました。
今日10時過ぎに母は「さいたま市民病院」を出ました。これに先立って9時40分には看護婦さんによって点滴の管が外されました。母は言葉こそ発することはないのですが、手首から点滴の針をはずされて晴れ晴れとしたような顔をしていました。
施設に戻った母は10日前まで暮らしていた同じ部屋で過ごすこととなりました。これからそれほど長く住むことにならないことが分かっている施設の人はとても親切にしてくれます。弟夫婦が次男を伴って小田原から見舞いに来てくれました。病院で合流したあと介護施設に戻り暫く母と一緒に居てくれました。
近くのスーパーでお弁当などを買ってきて夕食は妻と娘と私での母の部屋で食べました。母の好きだった梅酒を少し母の口に含ませましたが迷惑そうな顔をしていました。口に水を含ませると少しは喉に流し込みます。しかし普段は呼吸のため口を開けているくせに、水は入らないというかのように口を閉ざしてしまうことがあります。これは明らかに拒絶の意思表示だと思いました。娘が見守っている間に一度母の口から言葉が漏れました。私には「お腹空いた」と聞こえました。
想像するに、意識がはっきりする時間と意識が薄れている時間があり、前者の時間がだんだん減って行くのだと思います。但しまだ一日に何回か意識がはっきりする時間があり、そういうときに話しかければ反応するのだと思います。いずれにしろ次の土曜・日曜がどうなるか分かりませんので貴重な土日なのです。明日は音楽を聞かせるつもりです。
「さいたま市民病院」の母の主治医の先生と母の今後のことを話し合い、病院を退院することに決めてきました。
最初に先生から以下の話を丁寧にしてくださいました。入院初日にも少し話しましたが、非常に誠実な人柄で筋の通った話をしてださったので、こちらも比較的冷静に判断できたと思います。
「母の脱水症状、尿路炎症による発熱は点滴による栄養補給、抗生物質投与によって回復したが、老衰の進行が顕著で経口による栄養摂取を試みたが無理な状況であった。」
「病院での治療は終了となるが、退院後については、経口栄養摂取が難しい場合には栄養摂取の方法としては�‖世だ徒�から栄養剤を点滴する方法、��鼻から直接胃に栄養を送る方法、��「胃瘻」を設置してそこから栄養材を投与する方法があるが、いずれの方法を用いても生命を維持するための栄養をあたえることは出来るが老化を抑えることは出来ない。」
「またどれも自然な形の栄養摂取ではないことから、栄養バランスが崩れて身体の異常を起こす危険性があるし、あるいは栄養剤が気管に逆流して肺炎を起こす危険性は伴う。これらの方法を取らない場合、生命を維持するための栄養・水分の摂取を取らなくなるので自然な形で1〜2週間で寿命を迎えることとなる。」
「本人の苦しみという点でいうと、自然な形で栄養がなくなっていく状態がもっとも自然であり、次第に意識が薄らいでいる時間が長くなり、最後は静かに息を引き取ることとなるはずです。人工的な栄養の投与は延命の効果はあっても、肺炎等による呼吸困難とか、管が付けられていることの不快さとか、本人を苦しませる可能性もあることに留意すべきです。」
私としては母が「痛みとか苦しみが最小になる状態」で最期が迎えられることを最も優先に考えてました。すでに言葉を発することがほとんどなくなり、私達とコミュニケーションが取れなくなっている母なので、最期の時間をできるだけ安らかに過ごすことが出来るように考え、これ以上の人工的な栄養・水分補給を中止することにしました。
「中心静脈」「経鼻」「胃瘻経由」の栄養補給対応については、それなりの設備のある施設でしか対応できませんが、何もしないということになれば、これまでお世話になっていた施設でも対応可能なのです。介護施設の方が私達家族の考えを良く理解してくれて、母の最期の数週間を施設でお世話になることが出来ることとなりました。
11月10日の土曜日の午前中に母は退院することとなりました。病院の先生のお話から母の命が1〜2週間ということなので、土日を一回か二回過ごせることとなります。兄弟・孫達に最期のお別れを言うタイミングなのでその旨を連絡しました。私達夫婦は施設へ歩いて通える場所にいるのでできるだけのことをしたいと考えています。
これまで治療・あるいは施設の決まりの誤飲防止のために食事はかなり限られていました。母が食べられるかどうか分かりませんが、お酒、アイスクリーム、ジュースなどを口に含ませようかと思っています。母は目が悪いですが耳は確かなようなので「音楽、歌」を聞かせようとも思っています。母がどのような反応を示すのか楽しみです。
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