KENの日記
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2009年11月30日(月) 辻井伸行さんのピアノ

2009年のアメリカのヴァンクライバーン国際ピアノコンクールで優勝した辻井伸行さんのコンクールの時の模様がテレビで放送されました。予選から本戦までの20日間の辻井さんのチャレンジ姿が映し出されていました。コンクールの最初の頃は本選に残る事を目標としていた辻井さんが、段々とコンクールの主役に成長していった軌跡です。

コンクールは「個人リサイタルと他の演奏者との共演」という組み合わせの試験演奏によって、徐々に上位入選者が絞られていきます。素人からするとソロリサイタルの派手なパフォーマンスに目を奪われがちですが、審査員の目は他の音楽家との共演の部分により注目していたみたい。それはピアノ五重奏曲を一緒に演奏した弦楽四重奏団の4人のメンバーと、またコンチェルトを伴奏した指揮者と多くのオーケストラメンバーとの関係でした。

随分前に仙台で行われた国際青少年音楽コンクールにおいて、現在でこそ飛ぶ鳥を落とす勢いの「ランラン」が優勝した時の状況を思い出しました。当時まだ少年のランランは、その人懐こいキャラクターと、非常に純粋で謙虚なで人を惹きつける人柄が伴奏の仙台フィルを味方にして、素晴らしいコンチェルトを演奏して圧倒的に優勝したのでした。「味方にして」という表現は誤解を生む表現で、実際には、ランランの高度で素直な音楽性に触発された指揮者・オケが自然に自らの全音楽性を発揮し、そのオケ・指揮者の音楽性をランランが受け止めて自分自身を高めていく、という関係だと思いました。

まさしく今回の辻井さんのクァルテット、オーケストラとの共演において、辻井さんの成長したのだと思います。共演の場合に辻井さんは自分の音楽を表現する前に、他人の音楽を聞いて理解しなければなりません。目の見える演奏者は指揮者の棒をみれば良いのですが、辻井さんは共演者の音楽を聞き、共演者の息使いを感じ取らなければなりません。クアルテットの場合は4人ですが、オケだと数十人の芸術家が相手になります。これだけ多くの芸術家(人間)と音楽的なコミュニケーションをするのですから、自らが啓発されるのは当たり前です。謙虚になるのは当たり前だと思います。そこから非常に心のこもった、暖かい音楽が生まれるのだと思います。

ハスキルと共演した指揮者ジュリーニの話を思い出しました。モーツアルトの協奏曲を共演することになったジュリーニは、まずハスキルのピアノを聞かせてもらう事になったのでした。ひとりピアノの前に座ったハスキルは、オーケストラ全てのパートとピアノパートを織り交ぜて協奏曲全体通して弾き、ジュリーニにサジェスチョンを求めたのだそうです。その演奏はジュリーニにとって忘れられない演奏となったのでした。ハスキルにとってピアノ独奏パートに加えて、伴奏のオケの音楽も全て頭に入っていたのでした。

辻井さんの場合にも、自分のパートばかりではなく、全てのパートを聞いて一緒に音楽を造り上げたのだと思います。そこに自分の音楽性を前面に押し出そうと主張する他のコンクール参加者との違いがあったのだと思います。



2009年11月23日(月) ミラノスカラ座のアイーダ

録画しておいたNHKBSで放送された今年9月のミラノスカラ座日本公演「アイーダ」を見ました。NHKホールで行われた公演は「S席67000円」という非常に高価の公演でした。普段B級(安い)のオペラ公演の「掘り出し物」を狙って見ている私達夫婦としては、スカラ座をまともに(放送で)見るのは初めてではないかしら。

全体でいうと、とにかくその底力に圧倒されたという感じです。一人「67000円」払うことに納得する演奏内容だったと思います。アイーダはスカラ座の18番の演目とも言えるので、非常にこなれた、安心してオペラに没入できる演奏でした。それは全ての歌手陣が高水準に安定していて、馬力も十分なため、高速道路を長時間飛ばしても疲れない「高級外車」にのっているような感じでしょうか。

従ってオペラの筋に集中できるため、登場人物の心理にまで入り込めるので、細かいニュアンスを楽しむことができます。ともすると派手な舞台と名曲だけで終わりがちな「アイーダ」ですが、アイーダ、ラダメス、アムネリスの繊細な心理の変化を表現した舞台はやはり「一級品」というものでした。

歌手陣の豪華さでいうと「メトロポリタン」も引けを取りませんが、メトは豪華ソリストの寄せ集め的な感じが否めませんが、スカラ座はどちらかというと、いつも共演しているメンバーでやっている感じですね。そこには飛び切りのスターはいないけれど、お互いの技量、パワーを十分知っている事から来る安定間があり、聞かせ所が全員分かっている一体感があります。

難を言えば、勇者ラダメス、捕らわれの王女アイーダの主役二人が非常に体格の良い(太った)歌手であり、印象的に言うと「おっと」という感じであったことですね。最後地下に「生き埋め」になってしまう二人ですが、さぞ長生きするのではないかと想像されました。



2009年11月17日(火) 「孫文」関連の中国人・日本人

今年春から以下の本が出版されました。

1.「孫文を支えた横浜華僑 温炳臣・恵臣兄弟」(小笠原健三)(3月)

2.「孫文の辛亥革命を助けた日本人」(文庫版)(保坂正康)(8月)

3.「革命をプロデュースした日本人」(小阪文乃)(11月)

2011年は「辛亥革命」100周年記念の年です。「孫文」を改めて見直す時期に来ていることなのでしょう。特に3.の「革命をプロデュースした日本人」はこれまで本人の遺志もあってあえて封印されてきた「梅屋庄吉」をテーマにした本であり非常に興味深い内容となっています。

私は勝手に中国の近代の重大な出来事に「30年周期説」があると考えています。

1919年(五・四運動:中国革命において基本的な方向性が決定)
1949年(中華人民共和国成立)
1979年(中国の改革開放政策開始)(1978〜1979)
2009年(北京オリンピック、上海万博。先進国へ)

この90年間で中国は古い清朝の封建時代から先進国の仲間入りを果たしました。その設計図はまさしく「孫文」によって描かれていたと言えるのです。今年夏に封切られた映画「孫文−100年先を見た男」も同じような考えに基づくものだと思います。

孫文の「三民主義」は今読んでもちっとも色褪せていません。また神戸で行われた「亜細亜主義」の思想は、今でも我々日本人は真剣に考えなければならない立ち位置を問うものです。日本はこの100年間、体外的には随分と遠回りあるいは間違った道を進んできたように思えます。一方中国はと言うと、孫文の示した方向に向かって、時間をかけて一歩一歩進んできたような感じです。

100年前に「孫文」と一部の日本人があるいは日本に住んでいた華僑の方々
非常に固い友情に結ばれて、中国革命を戦ったことは歴史上の事実であり、日本人の誇りでもあると思います。残念ながら「孫文」と共に戦ったには「日本政府」とは距離を置く人々でありました。日本の指導者は別の道を選んだのでした。

さて、これからはどのような道があるのでしょうか。



2009年11月13日(金) 横浜中華街と孫文の誕生日

今日は少し寒かったのですが、午後から休暇を取って横浜の中華街を散策しました。本来「孫文−100年先を見た男」という映画を見てから、横浜中華街の孫文に纏わる場所を回ろうと思っていたのですが、東京・関東の映画上映が終了してしまったので、横浜中華街だけを散策しました。

まず、JR石川町から横浜中華街に入り、入口近くの横浜中華学院(横浜市中区山下町142番)に行きました。ここは孫文が設立に関わった学校です。しかし孫文は「戊戌政変」に破れて日本に亡命した「康有為・梁啓超」派に主導権を譲ったのでした。しかし学校の校庭には孫文の胸像が建てられています。私が訪れた時刻が丁度下校時であり、門に警備の方がいたので頼んで胴像を見せてもらいました。全く偶然でチェックを忘れていたのですが、11月12日は孫文の誕生日でした。胴像の前には華僑の方達が花輪を飾っていました。孫文は1866年生まれです。




次に探した場所は「横浜市中区山下町121番」の温丙臣宅です。現在では当時の建物が残っているはずもないのですが、番地を目指して探しました。孫文はその場所にあった温丙臣のレンガ造り西洋館の2階に長らく住んでいたのでした。地図を頼りに狭い住宅街の中、中華街山下町公園の少し南に「山下町121番地」を見つけました。古い民家が密集する地域です。しかし温丙臣宅の「121番地」というのは本当は「外国人居留地121番地」で、それが現在の山下町121番地と同じであるかどうか。これはもう少し調査が必要です。

同じ問題は次の「横浜市中区山下町53番」で現実のものとなりました。「外国人居留地53番地」には孫文が1895年に最初に来日した際に滞在した「馮鏡如」が経営していた「キングセル商会(文経印刷所)」がありました。予めグーグルマップで現在の山下町53番地を検索しておいたのですが、その場所は中華街のほぼ中心の場所で、中華料理店がひしめく繁華街でした。その辺りを散策して見ましたが住居表示も見当たらず、それらしき場所を探しあてる事はできませんでした。

家に帰ってからインターネットで調べて以下のような記事を見つけました。それは「馮鏡如」のお孫さんの「馮瑞玉」さんが横浜華僑会で挨拶された話です。

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当時馮鏡如は、横浜外国人居留地53番地、現在の「かながわドームシアター駐車場」付近で、印刷・出版業のキングセル商会を経営しておりました。中国名は文経印刷所といいます。父からは、「1895年11月に、孫文、陳少白、鄭士良が広州起義に失敗し、横浜に亡命した際、キングセル商会に滞在し、その2階の部屋で横浜與中会が結成され、馮鏡如は会長に選ばれ、革命を支援した」と聞いております。
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この「かながわドームシアター」という仮設劇場は今はなく、現在「横浜山下町地区第一種市街地再開発事業」が進められていて、住所は横浜市中区山下町280番となっています。その場所は再開発に際して発掘が行われ、嘗ての「横浜外国人居留地の遺構」が数多く掘り出されているとのことです。再開発が完成すると、そこには神奈川県民ホールに隣接する「神奈川芸術劇場」(2011年)ができるとのこと。

神奈川県の発掘調査報告書によると、その再開発地域には旧外国人居留地の48番地、54番地、55番地が含まれています。そこにはそれぞれ「モリソン商会」「イリス商会」「コッキング商会」が建っていたということです。キングセル商会は53番地ですから、この一角にあったに違いありません。 

かつての外国人居留地は関東大震災で殆ど破壊されてしまいました。そして中華街が発展する一方で、その他の外国人居留地はどんどん再開発が進められているようです。中華料理も非常に魅力的ですが、中国の国父「孫文」の名残を少しでも残して欲しいと思います。



2009年11月11日(水) クリスピー・ドーナツ

前から話題になっていた「クリスピー・ドーナツ」を初めて味わいました。これまで、新宿南口とか有楽町とか物凄い行列ができていると聞いていて、ブームが収まるまで待っていたのですが、今日横浜駅西口のドーナツショップが比較的空いていたので並んで買ったのでした。

もともとのオリジナルは"Glazed Doughnut"だそうです。昔習った英会話の話題に「コーヒーとグレイズドドーナツ」があったのですが、アメリカの本場の味はこういうものなのかと納得しました。上品な味ですね。

ホームページではその歴史を以下のように紹介しています。

「ヴァーモン・ルドルフはニューオリンズからやってきたフランス人シェフからイースト菌を使って作るドーナッツの秘伝の造り方を教えてもらい、1937年7月13日米国ノースカロライナ州ウィンストン=セーラムでドーナツ製造を開始し小売店への卸販売を開始した。しかしその味に魅せられた客からの暖かいドーナツを直接売って欲しいという要望に応えて、製造した暖かいドーナツの直接販売開始。これがオリジナルのクリスピー・クリーム・ドーナツであった。」




日本のクリスピークリームドーナツ・ホームページ

アメリカ本家のホームページ



2009年11月09日(月) ベルリンの壁崩壊から20年

20年前1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊して戦後の冷戦構造が終わりを告げました。テレビで記念番組が放送され新聞でも特別な記事が掲載されました。ベルリンノブランデンブルク門では記念式典が行われ、旧ソ連のゴルバチャフ書記長が招待され式典に参加しました。

確かにベルリンの壁崩壊・旧ソ連支配の終焉それ自体は時代の流れであったとは言え、物凄い出来事であったことは確かでしょう。ゴルバチョフ書記長がソ連書記長の系譜の中で、非常に「まとも」で人道主義者であり、歴史に残る人物であったことは事実だと思います。そのゴルバチョフ氏もエリティン、レーガンとの関係で、傑出した指導者という印象が薄れてしまったことは残念です。

NHKの特別番組では、冷戦終結後のアメリカのテロとの戦い、昨年来の不良住宅ローン問題に端を発した世界的な金融危機、更には地球温暖化・CO2排出に伴う環境問題を取り上げ、冷戦終結後の非常に難しい問題に触れ、市場至上主義の限界を指摘していました。

これらの問題は確かに非常に難しい問題なのですが、しかし、冷戦終結が無ければどうなっていたのか、更に多くの人命が奪われていたのではないか、もっと多くの自由のない子供達が残されていたのではないかと思われます。ゴルバチョフを始めとして、東側の指導者達は西の市場経済に大きな期待を抱いていたのでしょうが、実は市場経済はそれほど「気の利いたもの」ではなかったのです。放っておくと、悪い面ばかりでてきてしまうような状態だったのでしょう。

やはり、人間にとって「自由そのもの」が大切であるというより、「自由という生活環境の中」で、如何に有意義な生活をおくるのかということが大切なのでしょう。市場経済で言うならば「自由」は「金」と言い換える事もできます。



2009年11月02日(月) 山形鶴岡の酒「出羽の雪」

鶴岡の渡会酒造の酒「出羽の雪」ですが、今回特別に明治時代の復刻ラベルで登場しました。




山形の酒では、天童の「出羽桜」、日本海側の遊佐町の「東北泉」、酒田の「麓井」などを飲んできましたが、この鶴岡の「出羽の雪」も山形らしいすっきりした酒です。

仙台に住んでいた頃の職場は山形出身の人が多く、山形の自慢話を良く聞かされました。秋の「芋煮の味」はその最たるもので山形各地の特産品の話も随分聞きました。山形は最上川がその源流から日本海に流れ込む庄内の河口まで山形県内に終始していることで分かる様に、県内には山間部あり庄内平野ありで様々な環境の地域あって特産物が豊富です。一方全ての自治体に温泉があることは共通しています。

日本酒も多くの酒蔵があり、新潟の影響を受けつつ、東北の力強さも兼ね備えた美味しい酒を造っています。この出羽の雪も非常にすっきりした飲み口です。丁寧に作られていることが想像できます。米は契約栽培の「ササニシキ」を使っています。



2009年11月01日(日) 今年読んだ本

昨年暮れの「北京旅行」以来、19世紀から20世紀初頭にかけての中国の歴史に興味を持ちました。このあたりの歴史にはこれまで踏み込んだ事が無かったのですが今年は集中的に読んできました。まだ一年が終わっていませんが今年読んだ関連する本を紹介してみます。

1.蒼穹の昴  文春文庫(浅田次郎)
2.珍妃の井戸 文春文庫(浅田次郎)
3.中原の虹(浅田次郎)
4.紫禁城の黄昏 祥伝社黄金文庫(R.F.ジョンストン:宣統帝溥儀の家庭教師)
5.我が半生 ちくま文庫(愛新覚羅溥儀)
6.キメラ  中公新書(山室真一)
7.紫禁城  岩波新書(入江曜子)
8.後藤新平 中公新書(北岡伸一)
9.日本とアジア ちくま学芸文庫(竹内好)
10.大川周明 講談社学術文庫(大塚健洋)
11.新脱亜論 文春新書(渡辺利夫)
12.孫文・毛沢東 世界の名著
13.辻正信と7人の僧 光人社NF文庫(橋本哲男)
14.孫文の辛亥革命を助けた日本人 ちくま文庫(保坂正康)
15.孫文を支えた横浜華僑 温炳臣・恵臣兄弟(小笠原健三)

北京旅行では、天安門近くの歴史的に有名な東交民巷地区のホテルに宿泊し、故宮博物館(紫禁城)をじっくり見学することができました。その後会社の仕事で中国の大連の会社とのやり取りが何度かあって、大連出張予定があったのですが新型インフルエンザの影響で出張が取りやめとなってしまいました。

今年7月に今の海底ケーブル関連の会社に移ったのですが、この会社の本社は横浜で海底ケーブル敷設船基地は長崎にあり、長崎へ出張が増えたのでした。横浜・長崎とも中華街があって、中国との関係の深い街です。

まず始めに、清朝末期の西大后の住んだ「紫禁城」に興味を持ち、西大后、光緒帝、溥儀の最後の皇帝達のことを中心に読んできました。「蒼穹の昴」はその頃の話として非常に面白かったです。それを端緒として、清朝末期の「変法自強派」の活動、孫文を中心とする「革命派」の活動、更には朝鮮王朝のこと、そしてそれらの活動に深く関わった明治以来の日本の中国大陸政策に及びました。この間、横須賀の戦艦「三笠」を見学したり、横浜転勤になる前に横浜中華街を散策したりしました。

新しい会社の仕事で長崎には既に3回ほど出張しました。長崎は江戸時代には出島の存在によって鎖国日本における唯一の海外との窓口でした。その後の長崎の海外との繋がりの重要性は継続しました。日本と海外の国際電報は長崎の電報局を経由して行われました。長崎には電信海底ケーブルが陸揚げされました。まだ飛行機が活躍するまで大陸との航行は長崎を基点に行われました。そういう事もあってプッチーニは長崎を舞台に「蝶々婦人」を作曲しました。

会社の仕事上での繋がりが、自分の興味と絡み合っている事は非常に有難いことだと思っています。




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