2008年06月30日(月) |
「B-C Pact」 |
スリランカの民族紛争の歴史を辿っているのですが、非常に重要な事項を調べたので記録しておきます。それは「Bandaranaike - Chelvanayagam Pact(1957)」というもので当時のスリランカの首相バンダラナイケとタミール人政党党首の「チャルバナヤガン」の間で締結された「民族紛争」を解決しようとする意思に基づいた協定です。 この協定は1957年7月26日に締結されました。しかしこの協定は翌年の1958年4月9日に一方的に破棄されます。以下のこの協定の内容と破棄にいたる過程を記しておきます。
「Bandaranaike - Chelvanayagam Pact(1957)」
PartA(抜粋)
After discussion, it was agreed that the proposed legislation should contain recognition of Tamil as the language of a national minority of Ceylon, and that the four points mentioned by the Prime Minister should include provision that, without infringing on the position of the Official language as such, the language of the administration of the Northern and Eastern Provinces be Tamil, and that any necessary provision be made for the non-Tamil speaking minorities in the Northern and Eastern Provinces.
東部・北部では「タミール語」を公用語として認める方向。
Part B
1. Regional areas to be defined in the Bill itself by embodying them in a schedule thereto.
2. That the Northern Province is to form one regional area whilst the Eastern Province is to be divided into two or more regional areas.
3. Provision is to be made in the Bill to enable two or more regions to amalgamate even beyond provincial limit; and for one region to divide itself subject to ratification by Parliament. Further provision is to be made in the Bill for two or more regions to collaborate for specific purposes of common interests.
4. Provision is to be made for direct election of regional councillors. Provision is to be made for a delimitation commission or commissions for carving out electorates. The question of M.P.s representing districts falling within regional areas to be eligible to function as chairmen is to be considered. The question of Government Agents being regional commissioners is to be considered. The question of supervisory functions over larger towns, strategic towns and municipalities is to be looked into.
5. Parliament is to delegate powers and to specify them in the Act. It was agreed that regional councils should have powers over specified subjects including agriculture, co-operatives, lands and land development, colonization, education, health, industries and fisheries, housing and social services, electricity, water schemes and roads. Requisite definition of powers will be made in the Bill.
6. It was agreed that in the matter of colonization schemes the powers of the regional councils shall include the power to select allottees to whom lands within their area of authority shall be alienated and also power to select personnel to be employed for work on such schemes. The position regarding the area at present administered by the Gal Oya Board in this matter requires consideration.
7. The powers in regard to the regional council vested in the Minister of Local Government in the draft Bill to be revised with a view to vesting control in Parliament wherever necessary.
8. The Central Government will provide block grants to the regional councils. The principles on which the grants will be computed will be gone into. The regional councils shall have powers of taxation and borrowing.
北部・東部地域においてのある程度のタミール人自治を認める。当該地域における直接選挙による首長の選出、あるいは選挙で選ばれた首長等への中央政府からの権限委譲の保障などを規定するものであった。
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協定破棄の顛末は以下のようです。
On the morning of April 9 (1958) a police message reached Mr Bandaranaike warning him that about 200 bhikkus or monks and 300 others were setting out on a visitation to the Prime Minister's residence in Rosmead Place to demand the abrogation of the Pact. They would arrive at 9 a.m.
The Prime Minister left the house early that morning to attend to some very important work in his office. The bhikkus came, the crowds gathered, the gates of the Bandaranaike Walawwa were closed against them and armed police were hurriedly summoned to throw a barbed-wire cordon to keep the uninvited guests out. The bhikkus decided to bivouac on the street. Pedlars, cool-drink carts, betel sellers and even bangle merchants pitched their stalls hard by. Dhana was brought to the bhikkus at the appointed hour for food.
In the meantime, the Prime Minister was fighting off the opposition to the Pact among his own party colleagues with desperate fury.
At 4.15 p.m. the B-C Pact was torn into pathetic shreds by its principal author who now claimed that its implementation had been rendered impossible by the activities of the Federalists.
The Prime Minister had gone home that afternoon accompanied by half a dozen Ministers who stood on the leeward side of the barbed-wire barricade while Mr. Bandaranaike listened to the shrill denunciations of the monks. The Minister of Health sat on the Street facing the monks and preached a sermon, promising them redress if they would only be patient. The Prime Minister consulted his colleagues. The monks had won. The Magic Pact was no more.
But the monks insisted on getting this promise in writing. The Prime Minister went into the house and the Health Minister, hardly able to suppress the look of relief on her face, brought the written pledge out to the monks.
Yet another victory for Direct Action had been chalked up."
1958年4月9日午前9時200人の仏教僧を含む500人の民衆が協定破棄を求めて首相府に押し寄せた。この民衆の反対だけでなく、与党内からも協定破棄を求める声が大きく首相は苦しい立場に置かれていた。首相は盟友達からの反対、仏教層からの反対に抗しきれず、前年締結した協定を破棄せざるを得なくなってしまった。
因みに「バンダラナイケ首相」はもともとはキリスト教徒の家庭に生まれているが後年仏教徒に宗旨変えを行っている。バンダラナイケ首相は仏教の教えに基づき「タミール人勢力」との融和を進めたのであるが、皮肉にも仏教徒の反対によってその協定を破棄することになってしまった。
バンダラナイケ首相はその後1959年に過激派仏教党の手により暗殺されることとなる。享年60歳。このバンダラナイケ首相の長女が前スリランカ大統領の「チャンドリカ」である。
2008年06月22日(日) |
アメリカでの荷物検査 |
アメリカ出張の帰り、成田の手荷物受け取りで出てきた荷物を見ると、私の鍵が付いていなくプラスチックの止め具で固定してありました。「鍵」をかけ忘れたので空港職員が気を使って封印してくれたのかな・・・等と暢気な想像をしたところ、実際には空港職員が鍵を壊して中身を検査をしたのでした。
帰りの旅では、ラスベガスで手荷物を預け他荷物はそのままロスアンジェルスでは自動的に成田行きの飛行機に載せ換えるので、ラスベガスでの検査で十分なはずなのにどこかで再チェックしたのでしょう。壊された「鍵」は丁寧に上の通知書を添付されてバックの中に入れられていました。これがバックとは別な「鍵」だったからよかったものの、バックに内蔵された鍵ならバックが壊されてしまいますね。
手荷物の中身はかなり制約されるので(液体とか)、チェックインするバックにできるだけ詰めていくのですが、チェックバックもこのようにチェックされるとは知りませんでした。それとアメリカの手荷物検査では「靴」まで脱がされるので「靴下」が汚れます。安全対策なので仕方ないことなのでしょうが。
土曜日の夕方海外出張から帰国しました。久し振りのアメリカだったので幾つか感想を記しておきます。
1.さすがにエコノミークラスの出張は辛いです。会社の方針で親会社の役員でなければエコノミークラス以上の旅行を許可していません。この原則にたって今回はエコノミークラスを取りました。やはりシートの広さ・背もたれの倒れ方が全く違うので旅の疲れが格段に違います。日本からのアジア便のように数時間の旅なら我慢できますが、10時間を越すフライトだと身体にこたえますね。更にインターネットが使えるラウンジも便利です。移動する前にメールのチャックをしておくと安心できます。
2.そのインターネットですが、空港もホテルもあまり便利ではありません。更に「フォン」など全く使えないのでが現実ですね。空港は成田でもシカゴのオヘアでも料金が高くて使う気になりません。モントリールで泊まったホテルはロビーに無料無線アクセスがあって重宝しました。部屋での有線インターネットは安くはありませんでした。インターネット環境はない場合に携帯によるメールが必要になりますね。
3.携帯電話は便利でした。アメリカでもカナダでも現地に着くと日本端末がそのまま使えました。3Gなのか2Gなのか確かではありません。少なくとも2GGSMと3Gを備えた端末ならばOKでしょう。問題はバッテリーチャージャーです。同僚がチャージャごと荷物を盗まれてしまい携帯の充電に苦労していました。モントリールのモールの携帯電話屋数件覗くましたが、ドコモの特殊なコネクターに対応するものは置いてありませんでした。モントリオールの飛行場に有料充電コーナがありましたが、対応するコネクターはありませんでした。ここれは改善する必要がありますね。
3.アジア料理のレストランは確実に増えています。東京と同じでアジア料理のレストランを探すのに苦労は必要ありませんでした。アジアの人々がどんどん北米に進出しそうした人々がアジア料理店を始めるのでしょうね。日本の「寿司」も含めて選択枝が非常に増えている感じでした。
昨日までで予定の仕事を済ませ今日は日本に帰国です。ラスベガスの朝は非常に気持ちの良いものでした。タクシーの運チャンも明るい人で気さくに声をかけてきました。ガソリンの値段が上がっていることには文句をいっていました。
ラスベガスの空港は早朝でも非常に賑わっていました。UAのカウンターでビジネス席へのアップグレードを予約しました。相変わらず空席待ちの状況でロスアンジェルスまで行ったのですが、幸運にもビジネスへのアップグレードのリクエストがかない、帰国便ではゆっくりすることができました。アップグレードのためにUSエアーマイレージで「15000マイル」でした。
UA 1485 LAS 10:40 ⇒ LAX 11:45 UA 891 LAX 12:59 ⇒ NRT 16:30
ロスアンジェルス便の到着が少し遅れたので、ロスアンジェルス空港では大忙しでした。結構離れたコンコースまで辿り着き、ビジネス席を確保して直ぐ傍の免税店にいったのですが、もう出発するから早く乗れと言われ、そこではお土産を買うことができませんでした。ラスベガスで少し買っておいたのでこれで済ますしかありません。下は飛行中の写真です。
当初の予定が大幅に狂ったのですが、これからモントリオールからアメリカに向かいます。飛行機は以下のとおり。
午前8時55分 UA8315 モントリール発 午前11時12分 ラスベガス着
日中は暖かくても朝夕は肌寒いモントリオールからラスベガスに移動しました。飛行機はエアカナダの小さい飛行機。3人・3人の座席です。幸い通路側のC席は確保できました。私の横のA・B席は体格の良い夫婦でした。境の手摺を上ても二人で席は一杯です。エコノミーの席に体格の良い人は可愛そうです。
エアカナダのエコノミークラスでは飲み物こそ出されるものの食べ物は有料でした。JRの車内販売みたいにサンドイッチなどを売りに着ます。殆どの人は買っていません。原油高等で段々厳しくなっていくのでしょうね
モントリールからラスベガスまで4時間ほどの飛行でした。本来ならば2日前にシカゴ経由でラスベガスに入っていたはずでした。旅行会社のアメリカの「緊急対応デスク」が大活躍してくれてこの直行便が取れました。アメリカへの便はカナダの空港でアメリカへの入国手続きができるようです。空港でのチェックイン手続きが非常に厳しかったです。逆にラスベガスでは入国手続きはなし。チェックは何もなし。表示はずれでした。
ラスベガス到着の一時間前くらいから機内アナウンスでグランドキャニオンが眼下に見えるとの説明がありました。少し離れた窓からは荒涼とした(まったく木の生えていない)風景が続いていました。ラスベガスの外気温は41度。信じられない暑さです。空港から街中へのシャトル便を使って一旦ホテルに入りました。
ホテルは「インペリアルパレスホテル」。便利な立地なのですが少し古いので料金は安いのです。映像関連の展示会の「Inforcomm08」が開かれているコンベンションセンターへはモノレールで一駅です。空港内とか至る所にスロットマシンの置いてあるホテル内は空調が利いていて快適なのですが、外に出るとものすごい暑さです。久し振りの汗腺が全開の状態で汗が流れ出ました。
この日同僚はNW(ノースウェスト)でカナダを出発したのですが、離陸滑走中に期待不具合が発見され、結局フライトはキャンセルされたのでした。彼はニューヨークに連れて行かれ、そこからラスベガスの入りました。結局彼がモントリールに付いたのは午後9時ごろでした。私は半日展示会を見ることができました。
カナダモントリオールでトラブル発生です。同僚がパスポート・財布などの入ったショルダーバックを置き引きされてしまいました。訪問先の会社の人の助けを借りて、クレジットカード休止の手配、警察への被害届出等を緊急にすることとなりました。幸い訪問先の総務部門の方がとても親切で機転の利く方であったので大変助かりました。
問題はパスポートの再発行です。モントリオール日本総領事館にお願いすることになりますが、写真2枚、戸籍謄本あるいは抄本の写し、警察の被害証明書が必要とのこと。早速友人はこれらの手配に走り回りました。これが揃えば通常は無理なところを一日でパスポート再発行していただけるとのこと。大変助かりました。それでも16日中にアメリカに戻るという当初の予定は変更せざるを得なくなりました。パスポート取得のためにカナダにもう二泊することにしました。
予定を緊急に変更したため、飛行機チケットの変更、ホテルのキャンセル手続き、訪問先の会社へのミーティングキャンセル手続きなどを私が担当しました。貴重なアメリカ・カナダ出張で目一杯スケジュールを詰め込んでいたのですが、これをキャンセルするのは非常に申し訳ないことでした。それでもキャンセルした会社がモントリールのオフィスとテレビ会議で会議を設定してくれるという手配をしてくれたので助かりました。
とにかく旅先でのトラブルで現地の方に親切にしてもらうほどありがたいものはありませn。私も日本でなお一層外国人には親切にしようと考えた次第です。置き引きに関する詳しい経緯は別途。
カナダのモントリオールはこの時期気候が良好です。空気が澄んでいることもあって非常に爽やかです。緯度が高いので夜は9時頃まで明るく、朝も明るくなるのがとても早いのです。訪問先の会社の人は一番良い季節だと言っていました。
夕方のUA便でシカゴまで着て、シカゴでカナダ航空に乗り換えてモントリールに来ています。
UA882 NRT16:40 ⇒ ORD14:19
日曜午後のUAシカゴ便は完全に満席の状態。予想してはいましたが外国人が多かったです。そして予想していた通り身体の大きい人が多かったです。UAシカゴ便のエコノミークラスは、2・5・2という変則的な座席配置でした。5人の真ん中(E席)に嵌ってしまったらなかなかトイレに出られません。
私は幸いD席だったのですが横E席のフィリピンパスポートを有する青年はかなりきつかった感じ。結局フライト中一回も席を離れませんでした。フィリピン青年の向こう側のF席には身体の大きな女性が座っていたため、このフィリピン人青年は実際非常に狭い思いをしていました。それでも明るく振舞っていたのはさすがです。映画を3本見て少し寝て過ごしました。UAのエコノミープラスという少し広い席ですが、非常にきつい飛行機旅でした。出発は遅れましたがフライト自体は順調で現地時間の午後2時頃に着きました。
シカゴのオヘア国際空港は一旦アメリカに入国し、国内線扱いのエアカナダに乗り換えてモントリオールにきました。しかし私が予約していた4時30分のエアカナダ便はキャンセル。その次のモントリール便は午後7時30分でした。そしてそれも遅れてシカゴを飛び立ったのは午後8時30分頃でした。
AC 8698 ORD 15:45 ⇒ YUL 18:35 キャンセル AC 526 ORD 19:49 ⇒ YUL 22:45
シカゴのエアカナダ地上職員は日本からの長旅の私に気を使ってかビジネスクラスにアップグレードしてくれました。シカゴとモントリオールの時差は1時間ですが、結局モントリオール空港に着いたのは午後11時を軽く回っていました。
エアカナダ便は気流が不安定で危険だとかいって水しか出してくれませんでした。実際のところそれほど揺れたわけではありません。UA便の成田−シカゴの方がずっと酷い揺れでした。本当は前の便がキャンセルになってしまって食事やお酒の準備が間に合わなかったのではないでしょうか。
寂しい空港で入国手続きを済ませてモントリールのホテルに入りました。モントリールも日曜日の深夜は空いているレストランは殆どありませんでした。閉めようとしているイタリア料理レストランに入ってテイクアウトでいいからと食事を作ってもらいました。
明日から活動開始です。
因みにこの書き込みホテル「モントリオールノボテル」のロビーの無料インターネットからアップしています。成田もシカゴのオエア空港もインターネットに関しては料金高すぎですね。
明日から北米に出張してきます。前回の北米は1996年でした。12年振りの北米です。当時はインターネットはまだ普及していませんでした。勿論デジタルカメラもなし。現地の情報を今のように簡単に入手する訳にはいきませんでした。現地からの連絡方法はホテルの電話か公衆電話でした。本当に隔世の感があります。今ではグーグルアースを使って、住所だけから訪問先のビル・宿泊するホテルを上空写真でチェックすることができます。携帯電話も日本の「2G」(PDC)は不便ですが、最近は海外で使える携帯電話も増えてきました。
今日は現地に持っていくお土産を武蔵浦和駅で買い求めました。武蔵浦和駅ビル(高架下)のマーレには、「招き猫」とか「けんだま」といった海外で喜ばれそうな小物を売っている店が入っています。ここは前から随分重宝しています。今日は小さな「招き猫」と他の店で「扇子」を購入しました。これで一応準備は終了です。家にかえってバックに詰めました。
インドの友人が昨日から会議にために来日しています。彼にとっては4年振りの日本で前の来日の時と同じ愛宕山東急インに泊まっています。今日はホテルまでいって彼に合ってきました。彼の名前は「ズビン・シッドゥア」。インドのムンバイ生まれのパルシーです。
私がインドで事務所を開設したときに最初ムンバイで3人、ニューデリーで5人のインド人従業員を採用したのですが、ズビンはムンバイの二人目の社員でした。非常に優秀で人格円満な青年で、自宅に何回か招待され、奥様の「クッシー」とも親しくさせていただきました。彼のアパートはムンバイの下町の古いアパートを改装した小奇麗な住宅で、人見知りの激しい猫を飼っていました。
私の去った後にインドではバンガロール・チェンナイにもオフィスを開設し今では従業員20名を超えているようです。相変わらインドの景気は好調のようで日系企業の進出のテンポも落ちていないようです。一方でインドの物価上昇は非常に酷い状態で、給料の上昇が物価の上昇に追い付かない状態のようです。
今回彼とムンバイ事務所の「ペレーラさん」(最初に一緒に働いたインド人)のためにお土産を準備していきました。池袋の「宮城県物産館」に行って「鳴子こけし」を買いました。日本からの土産は様々あるのですが、木材を使った伝統工芸品の「こけし」は喜ばれると思っています。宮城県物産館ができたので東京で本場物が買えるの便利になりました。
再来週アメリカ出張を予定しています。ラスベガスで開催される世界最大の映像通信に関する展示会を見てこようと考えていて、そのついでに仕事で関係する二箇所の会社に行って打ち合わせをしてこようと考えています。
ひとつはカナダモントリオールにある通信会社のオペレーションセンター。ここは我が社のテレビ会議サービスの北米のパートナーです。日本から毎日のようにそこのオペレータとやり取りしているのですが、これまで一回も訪問したことがないのです。仕事の課題の整理や我が社の紹介をしてこようと考えています。次の訪問地は同じ会社のデンバーのコールセンタ。デンバーといっても少し北の「ウエストミンスター」というところらしい。そこにはその会社の本社もあります。
デンバーからラスベガスは直ぐ近くのようです。ラスベガスには大きなコンヴェンションセンターがあり、カジノ客向けのホテルも豊富なので世界中から集まるのに便利なのでしょう。その展示会には世界の主要なメーカが結集するので、一箇所で多くの人と会うことができます。映像関係機器・ソフトの会社は少し変わっていて、我が社と取引のある会社は、イスラエル、イギリス、ノルウエー、イタリヤ、アメリカです。これらの会社の主だった方々が集まるのですから便利ですね。
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