先週、今週の土曜日二回、ニューデリーのお客様ビルの回線敷設工事があったのです。日系企業ということもあって、私も先週ニューデリーの現場にお伺いし工事の手配をしたのでした。先週の工事の「大チョンボ」は、あまりにも情けなかったので日記には書きませんでした。今日の工事は大丈夫だろうと考えていたのですが同じような「大チョンボ」。もう、頭にきてしまって、日記に公表する次第です。
まず、先週の工事の記録から・・・。
場所はニューデリーのビジネスの中心コンノートプレイスのビル。お客様のフロアは4階なのですが、ケーブル引き上げのために1階から3階までの既存テナント宅への立ち入りが必要なので、ビル管理会社・ビル施工業者と連絡をとり、土曜日の4時から回線引き上げ工事することにしていたのでした。
しかし工事の当日(先週の土曜日)の6時頃、ビル工事会社から「約束した回線工事のための作業員が全く来ない。どうなっているのか」というすごい剣幕の電話がありました。直ぐに、回線工事会社に連絡すると「お客様のフロアまで回線を伸ばした。お客様フロアの外まで線を張ったので、月曜には室内を張る」というのです。現場を知っている私は「お客様フロアの外」という点に不審を感じましたが、少し安心したのでした。
しかしビル工事会社の話と回線工事会社の話が全く食い違ったまま・・。「月曜日中に工事が済む」という回線工事会社の言葉を信じて、土・日を過ごしたのでした。私の推理では、回線工事会社が「うそ」を言っているか、あるいは別のビルに配線してしまったのではないかというものでした。この「なぞ」が解けたのが月曜日の午前中でした。
私は電話工事会社の監督する人(インド最大の電話会社)にぜひ現場に向かうよう頼んだのでした。電話工事会社は「うそ」は言っていませんでした。しかし同じビルの違う「棟」に配線していたのでした。そのビルには二つの棟があったのです。現場監督の人は場所を知っているのですが、下請けの工事会社に人間が間違えていたのでした。私も最初に工事現場に行ったときに間違えたのでした。4階は両棟とも仕上げ工事中なのです。そして工事をしている人達に聞いても「何の会社」が入居するのか全く知らないのでした。
私は、回線工事会社の偉い人に電話して、とにかく月曜日中に工事を済ませるように頼み込みました。そして月曜日の夜、ようやく回線工事が終了した旨の連絡を受けたのでした。
この恥ずかしい失敗を二度とくりかえさないように、昨日まで業者対応を十分お願いしたのでした。(今回の業者は前回とは別なのです)「工事は、テナントの都合があるので、土曜日の午後4時から・・・。」しかし、今日工事業者が現場に着いたのは、5時30分頃だったとのこと。そしてテナントの入室許可がもらえずに工事ができなかったとのこと。
今日もひょっとして、違うビルで工事していて遅れてしまったのか。情けなくてやけ酒です。(今日も・・・)
ムンバイは本格的モンスーンの真っ只中。今24日土曜日の8時40分過ぎですが外は雨と風でとんでもない荒れ模様です。アラビア海に面しているアパートの窓に雨が強く吹き付けていてうるさいのです。
ドライバー氏が夜、木の下に車を止めたくないといっていましたが理由が分かりました。夜中の雨風で木の枝を折れて車に落下するのです。朝の道は、街路樹の枝が折れている光景を多く見ます。この雨は夜中降り続いて朝方に止むことが多いみたい。
朝6時の散歩の時間には不思議に雨は小降りになっているのです。ムンバイの健康を気にする人は、ムンスーン期間のちょっとした晴れ間に運動をするのです。しかしとにかくすごい雨の量です。洪水になるかどうかの分かれ目は、雨が長期間続くかどうか、さらに降り続く期間が短期間でも海の水位が高いかどうか(高潮かどうか)によります。まだモンスーン入りして1週間ですが、すごい。台所の水漏れが気になります。
大きな写真アップに挑戦しました。アパート(4階)からの眺めです。海(アラビア海)と運動公園(プリアダルシニパーク)が目の前です。写真の真ん中に、棒が一本見えますが、これは何だか分かりますか?私は最初、突然「棒」が現れたので、何か旗でも掲揚するのかと思いました。
時間が経つにつれ、正体が判明しました。実は、これは「やしの木(本当の名前は知らない)」の新しい「枝(葉)」だったのです。最初、ぐんぐん真っ直ぐ上に伸び、そして中からぎざぎざしたヤシの葉が現れます。葉が開いてくるに吊れ、枝ごと段々垂れ下がってきて普通の枝になります。手品みたいな変身ぶりです。4階の部屋から見上げることになるので、結構な高さです。雨の多いモンスーンは植物達にとってはうれしい季節でしょう。
2005年06月22日(水) |
頼りになるのは水・食料 |
故障した飲料水浄化装置の修理は何時になるやら。仕方がないのでミネラルウォーター1ダースを常備することにしました。また今日はデリーの大和屋さんから日本米「10Kg」が届きました。水と米がこれほど自分を安心させるものとは思いませんでした。気持ちに余裕がでました。(非常に原始的に単純ですが)
6月の第4週は大変忙しそうです。日本から3組の訪問者が日程が少し重なって来印します。せっかくインドに来るのですから、時間ロスのないように、また間違いの無いよう準備したいと思います。
モンスーンに入ったムンバイは、ぐずついた天気が続いています。外気温の変化が激しいので、温度を一定に設定している室内クーラーの効果が、日によって、また時間によって大分変ります。外気温の低いときには冷えすぎるのです。こういう環境で体調を壊すのでしょう。
日本のように、インバーター調節クーラーは普及していません。寝ていても、夜中に暑苦しくてクーラーを掛けますが、次には寒くて目がさめるのです。十分注意が必要です。
日本の「若乃花・貴乃花」の兄弟仲と同様にインドでも非常に有名な兄弟喧嘩がありました。その喧嘩のけ決着が先週土曜日につきました。
喧嘩をしていたのは、インド有数の財閥「リライアンス社」の創業者のふたりの息子。長男のムケーシュ(1957年生まれ)と次男のアニール(1959年生まれ)。2002年に創業者で父の「ディルバーニ」が亡くなった後、兄弟うまくやっているという噂でしたが、最近になって兄弟同士の不仲が新聞で伝えられていたのでした。
2人はリライアンス社の取締役会等で、和解の途を探したのでいたのでしょうが、遂にリライアンス社を分割して兄と弟がそれぞれ別の会社を継承することで決着したのです。10年間は「競業避止の義務」が課したようですが、兄弟の経営能力の競争が始まりました。
私の関係する「リライアンスインフォコム(総合通信会社)は弟さんの傘下に入りました。弟さんの方がどちらかというと「ソフト産業」、お兄さんが「ハード産業」を継承したことになります。
2005年06月19日(日) |
ボンベイチェンバーオケ(ムンバイ室内交響楽団) |
ムンバイはモンスーン入りして、雨が降っている時間が長いですが、アパートが面している「プリヤダルシニパーク」では、朝からサッカーの練習をしています。雨の中を散歩している人達も多く見かけました。晴れているから外出する、雨が降ったら家に居るという単純な発想では過ごせないのだと思います。これから3ヶ月間以上のモンスーンが続くのですから。
今日のムンバイオケ(ボンベイ室内オーケストラの略)は、メンデルスゾーンの「弦楽のための交響曲第7番」の初見大会でした。指揮者からパート譜が送付されてきたのです。パート譜はスコアをコピーして各パート毎に切って張り合わせたもの。全くの手作りです。指揮者が作ったのだそうです。
4楽章形式の古典的な曲という印象です。譜面面はそれ程難しくないので、どのように細かいニュアンスに注意していく余裕があります。ジニ先生が、今回の指揮者は「シャー・ルク・カーン」に似ていると紹介していました。「シャー・ルク・カーン」はインド随一の二枚目映画俳優です。どんな「シャー・ルク・カーン」が現れるか見ものです。
ムンバイではきのうの深夜、強い雨が降り雷もなっていました。いよいよモンスーンシーズン到来です。午前中は晴れて日が差しましたが、湿気があって蒸し暑いです。午後からは不安定な天気になり、雷がなったり、雨がざーっと降ったり。
モンスーンが来ると外に出ることが億劫になり運動不足になりそうです。これから、路上生活者の人達は大変だろうなと思います。夜のケーブルテレビの歴史チャネルで「自爆テロ」のことを扱っていました。自爆テロは、戦いの理論の中では「効率が良い」作戦と理解されているようです。
番組は現在の自爆テロの原点的なものとして、日本の特別攻撃隊のことを取り上げていました。太平洋戦争の最中に、飛行機搭乗員が自分の機の損害で帰還できないと覚悟した時、最も効率的な方法として自爆を考えたことは容易に想像が付きます。
しかし片道分だけの燃料と爆弾を積んで攻撃に向かう特別攻撃隊の発想は、そこからかなり飛躍したと思います。しかし60数年前の日本ではそれが許されていたのでした。私の叔父は特攻隊の生き残りだったので、実家に色々な写真がありました。日本では既に過去になってしまった「効率的な攻撃」がまだ現在の世界で有効な作戦として機能しています。
中東、ロシア、スリランカ、そして「9.11」。「一人の命で何人殺せるか」この判断基準は辛いです。「ひとりの不幸によって、何人の不幸を道連れにするのか」悲しい現実ですが・・・。
2005年06月17日(金) |
ムンバイに帰ります。 |
今のニューデリーの国内線空港からアップしています。
無線アクセスは快調です。
今日は1日、あちこちを走り回り最後に日本食材屋の「大和屋」さんにいって日本米を発送注文し少し日本食を買いました。
「大和屋」さんは予想を超える品揃えです。少し高いですがニューデリーで揃うので感激です。
「そうめん」と「焼肉のたれ」を買ってきました。
空港への時間調整に「田村さん(日本食レストラン)」で晩御飯を食べて空港にチェックインしたところです。
このコースはニューデリー出張の帰り道の定番コースになりそうです。
金曜日の夕方の「田村レストラン」は日本人で混雑していました。
ニューデリーはムンバイと違って日本人人口が多いです。
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ニューデリーに来ています。
いろいろな案件が溜まったので一挙に解決するためにニューデリーに来ています。
最近はジェットエアーは遅れることが多く今日も1時間遅れました。
昼前にニューデリーの空港に到着した時外気温は41度。
後で聞いた話ですが今日16日の最高気温は42度。昨日15日は45度だったとのこと。
日差しは強いし熱風ですね。
でもムンバイほど湿気はないです。
どちらが過ごしやすいか難しいところです。
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今回、初めて無線アクセスインターネットをムンバイ以外に持ち出しました。
今はニューデリーのホテルですが、快適に繋がります。
150Kbpsですが、主要都市の市街地・空港で繋がるので、待ち時間とかホテルの帰ってからとか、メールをチェックするには便利です。
少し高かったのですが、無線アクセスカードを買ったのは正解でした。
明日、帰りに日本食材店によって、日本米を買っていく予定。
ニューデリーには、手頃な日本食レストラン・食材店があります。
さすが首都です。
一昨日から飲料水生成装置(正式名称不明)が故障しています。昨日は水ボトル5本買ってきて、少しずつ使うことにしました。そして大家の兄という人に電話して、今日業者に修理を依頼することと約束したのですが連絡無し。
今晩は面倒くさいので、普通の水道水で「インスタントラーメン」を作って食べてしまいました。以前なら3段階のフィルターで浄化するという浄水装置で浄水した水で作るのに・・・。インドの水道水をそのまま飲むのも時間の問題かも。私の身体は本当は物凄く強いのかもしれない・・・。いやいや注意はします。
ムンバイの私のアパートには殆ど「蚊」がいません。一階には「蝿」はうじゅうじゃいますが不思議と「蚊」には会いません。日本で妻が毎晩「蚊」に悩まされているのは容易に想像できます。(妻の日記による)
私は日本にいるときにはアルコール体質の私が「蚊」の犠牲者になっていました。したがって「蚊」を取る技能においては私が家族の中で「No.1」だったでしょう。しかし、私のいない埼玉の我が家でアルコール濃度の高い血液保有者は「妻」です。多分彼女が「蚊」の集中砲火を浴びているのだと想像できます。しかも彼女は近眼が強いから「蚊」を発見するのも難しく、血圧が低いから寝起きですばやく対応できない。蚊は逃げ放題です。
家に残っている子供達がアトピー体質なので殺虫剤は使わないでしょう。したがって夏場の「蚊」対策は結構大きな問題です。昔、信州の実家で「蚊遣」を吊ったことを思い出します。それは就寝前の儀式のようでした。
布団を全て敷き終わった後、徐に「蚊遣」が登場して、「蚊」が入り込めないように下から上手に吊るすのです。「蚊」は全く「蚊帳」の外。蚊帳の中に入ると、光の状況を変って幻想的で、眠るのがもったいないような感覚だったと思います。蚊帳の雰囲気が懐かしいです。
当時猫を飼っていたはずなので、猫と蚊帳の関係がいまいち思い出せません。 こ子猫が蚊帳を面白がって蚊帳に登ってしまったような記憶があります。スリランカにも「蚊帳」がありました。日本と同じような形式でベッドの上に吊るすのです。しかし一人用です。日本の「蚊遣」のように家族全員がその中に入って眠る環境なんて多分珍しいのでしょう。現代日本には殆どそんな環境はないでしょうから、「蚊遣」がスたるのも分かります。明日、ニューデリーに出張します。
昨日のジニ先生からのレッスン後のお話から。演奏会のその他の曲は、メンデルゾーンの「弦楽のためのシンフォニー第7番」だとのこと。したがって今のところの演奏会の曲目は以下のとおり。
ヴィバルディ、ギター協奏曲 ロドリゴ、アランフェス協奏曲 エルガー、弦楽のためのセレナーデ メンデルスゾーン、弦楽のためのシンフォニー第7番。
メンデルスゾーンの楽譜はイギリスの指揮者の方が郵送してくれるとのこと。 ジニ先生もどんな曲か知らず「難しかったら困るね」と言っています。8番はニ長調でした。7番はニ短調なので少し難しいかなとも思います。ムンバイ室内オケの9月の演奏会にはハイドンのチェロ協奏曲(ハ長調)をやるそうですがソリストが決まっていない。
9月にはオーストリアから指揮者を呼ぶ予定で、オースストリア航空がもうひとつ格安航空券を手配してくれればオーストリアからソリストも呼べるのです。現在ジニ先生が航空会社と交渉中。だめだったら近くのスリランカから「ディッシュー先生」を呼ぶ手もあると話しました。
「水道の水が出ない」 アパートの浄水装置が故障したようで料理用・飲料用の水がでません。普通の水道水はでるのですが、これは煮沸しても不安があるのです。したがって、暫くペットボトルの飲料水を使うことにしました。そして、修理やさんを探すことにします。こういう時は、一般アパートに入ってことを後悔します。
サービスアパートメントなら技術者を呼べば直ぐ直してくれます。東京の厚生担当の人には、この種の困難さはなかなか実感してもらえません。私も困難に直面して、初めて「危うさ」を認識した次第。
妻の日記に「電子レンジを落とした」との記事。電子レンジは「落とせる」ものではありません。信州の実家の電子レンジなんか初期の製品でとてつもなく「重く」落としたら大変です。最近のレンジは軽いのでしょうが。怪我が軽くて良かった。こういう事故(へま?)は連続することがあるので十分気をつけるように電話しました。離れていると正直言って心配です。
身近に生活していると、体調の不調とか気持ちの不安定などには気づくことが出来て、お互いにちょっと話せば大事に至る前に慎重になれるのです。単身赴任で遠く離れていると、それが出来ないのです。
今日はオーケストラ初練習。正式名称は「ボンベイ室内オーケストラ」。インドでは唯一の常設オーケストラ(だそうです)。暫くは弦楽器だけの練習みたい。(管楽器はいるのか)ジニ先生と話したときに「クラリネットも吹けますけど・・・」といったら、クラリネットの方をやって欲しそうな雰囲気でしたがやはり「チェロ」です。
クラリネットはインドに持ってきていません。今日は、ビバルディのギタコン、アランフェス、エルガーのセレナーデの3曲通しでした。いろいろ課題がありますが基本的な練習をすることがポイントでしょう。オケの人達は「変な日本人」が入ってきて不審そうですが、邪魔さえしなければ「OK」みたいに考えているでしょう。
最初は邪魔しない程度の音量にしてギンギンに弾くのはもう少し後にするつもりです。上記の他にメンデルスゾーンの交響曲第8番だそうです(譜面はまだ届かない)。メンデルスゾーンは大学オケの弦楽器トレーナー氏が「難しいから出来たら避けたほうがベター」とアドバイスしてくれた作曲家。でも8番なんて知らないのです。
オケの練習場所はムンバイダウンタウンの最南端の「TATAシアター」の練習室。私のアパートから大分遠いのでレンタカーを自分で運転して行きました。実はインドの運転免許取得依頼昨日(シルディ訪問で少し)初めて運転したのでした。早朝とか日曜日だと道が空いていて比較的安全なのです。
今日もムンバイ名物の「マリンドライブ」を端から端までトロトロ走りました。車種はホンダシティー(日本とは少し違います)。ホンダのエンジンは軽くて走り易いと感じました。
2005年06月11日(土) |
Shirde訪問(シルディ) |
サイディは、「サイ・ババ」が暮らした町です。約100年前、シルディに住み着いた「サイ・ババ」は、その人間性と不思議な力で人々から慕われました。今でもインドの多くの都市に「サイ・ババ」を祀る寺院があります。マハラシュトラ州にシルディの街があるのでムンバイではサイババ人気は非常に高いです。
因みに南インドでいる「サティア・サイババ」も不思議な力があるそうですが、彼は本家「シルディのサイババの生まれ変わりだと称しているようです。
シルディは、ムンバイから北東約290Kmのデカン高原入り口にあります。交通手段は車ですが行き帰りとも5時間かかりました。現地滞在2時間で、都合12時間行程。朝5時30分にアパートを出発し途中でドライバーを拾って国道をひた走ります。
ライバーにアパートまで来てもらうのは大変なので、通り道沿いにある彼の家近くまで私が運転していきました。国道3号線(ムンバイーデリー間)は、日本の東海道のような幹線ですが、ムンバイから60Kmくらい走ると、片側1車線の田舎道になります。
デカン高原の殺伐とした(あまり樹木が生えていない丘)をひた走るのです。国道沿線の「ナシーク」の町で、国道3号線から降りて、田舎道でシルディを目指します。シルディの町に近づくと、サイババの写真とか、ホテルの看板が目立ち始めて、気分が盛り上がります。
そして、シルディの町に入ると、それまでのデカン高原の殺伐さが「うそ」のように急に賑やかになります。シルディの町(村?)の中でも、「サイ・ババ」の住んでいた地区一体は、テーマパークのように整備されています。シルディの町の「サイババ」関連地区の一角は本当にきれいです。そして、その周りを土産物屋が取り巻いているのです。施しを求める人も多く集まっています。
「サイババ」は、イスラム教の「スーフィ」の流れとして位置づけられ、彼自身はイスラム寺院に暮らしました。彼の墓は隣のヒンズー寺院内に設置されています。というよりヒンズー寺院が後から建てられたようです。そのヒンズー寺院が、テーマパークのメインのアトラクションみたいになっています。このヒンズー寺院に参拝するためには、入り口でチケットを入手する必要があるのです。
そんなこことは知らずに行ったものですから5人くらいにインド人聞いて、漸く次第が判明しました。そして、12時少し前私が整理券(チケット)をもらいに行くと、オフィスはお昼休みで1時半までは閉鎖とのこと。「日本からはるばるきて、午後は直ぐムンバイに戻らなければならない」とお願いしたのですが、州政府の役人らしき人は「No」の一点張り。(まさしく官僚の対応でした)
もともと、イスラムの聖人が人気があるといってヒンズー寺院に祀っているという背景を知っているので、あまり意味もないので諦めました。チケットがもらえず中に入れなかった人達が、テレビ画面で儀式の様子を見ています。中に入れない人達ようにテレビ中継しているところは「身分社会」でありながら、サイババという貧しい人達の見方を祭る場所ですね。
ヒンズー寺院の横には「サイババ」がその下で過ごしたという「ニーム」の木があります。「ニーム」の木も立派に祀られています。(屋根から木が伸びています)。ここも重要な巡礼対象です。
シルディで最も重要なのは「サイババ」が暮らしたイスラム寺院です。ちょうどヒンズー寺院の裏にあります。そこには「サイババ」グッズが目白押し。サイババ」が食事をつくるために利用した釜、「サイババ」が点したという火 この辺は拝火教の影響もあるかもしれません)。その他サイババが寄りかかった「背もたれ」とか、「粉引き道具」とか。
寺院内の隅に一匹の猫がいました。ゆったりと横になっていました。カメラを向けましたがどういうわけかその時だけ、カメラが故障し写真は取れませんでした。ひょっとして「サイババ」の生まれ変わりで、今でも信者も見守っているのかなと思いました。
イスラム寺院内には多くの信者が敬虔な祈りを捧げていました。言葉は全く分かりませんが皆同じ節回しで歌っています。このイスラム寺院の参拝客には、多くの女性も混じっています。ヒンズーの女性です。多分イスラムの女性は、この中には入れないのだと思います。しかし、ヒンズーの女性は派手なサリー、パンジャビを着て、堂々と頭と顔を出して参拝しています。
こういうところは、非常に興味深いです。ヒンズーとイスラムが共存する国それがインドです。別に書いたと思いますがインドのヒンズー人口7億人。そして、イスラム人口がインド、パキスタン、バングラデイシュで3億5千万位いるでしょう。これらの国々がイギリス植民地から分かれたのはほんの60年前なのです。その前に数百年はヒンズー・イスラムの渾然一体とした社会だったのです。現在でもインド国内だけでも1億人以上のイスラム教徒がいるのです。ヒンズー・イスラムの共存の秘密は「サイババ」のような宗教の枠を超えた「人物」の活躍があったからだと思います。
今週は週の前半に色々課題が発生し、金曜日の今日その目処がたったので、少し気持ちが良いです。来週の月曜日今日出た結論が「白紙」に戻らない限り仕事は進みます。でもインドではなにが起こるかわからない。とにかく、土日は晴れ晴れと過ごせます。
明日はムンバイから少し離れたところにある「シルディ」の町に行こうと考えています。そこには約100年前に「サイ・ババ」が住んでいたのです。イスラムでもなくヒンズーでもなく奇跡を起こした聖人です。新興宗教と言ってしまえばそれまでですが、この「サイ・ババ」への信仰は非常に広範です。
パキスタン、バングラディシュを合わせると、インド亜大陸の宗教は、ヒンズーが7億人、イスラムが3.5億人くらいになるでしょう。ヒンズーとイスラムは2対1くらい。人々は60年前までは何世紀にも渡って交じり合って暮らしていたのでした。そのように宗教毎に壁は比較的低かったのです。最近におけるその象徴が「サイ・ババ」というわけ。楽しみです。
2005年06月09日(木) |
コンファレンステーブル |
どうも「コンファレンステーブル」には因縁があるみたい。新しいオフィスに引っ越して会議室が確保できたのですが、会議室のコンファレンステーブルがないのです。家主に相談するとRs40000(約100000円)だせば素晴らしいテーブルを用意するとのこと。
インドでテーブル如きに「100000円」も出せないので(私の吝嗇な性格)自家調達することにしました。ローカル社員といっしょに、イスラム人街近くの家具屋が集中している街に出向き、発注してきました。そこは普通のインド人が家具を揃えるところです。基本的にインド価格、インド品質です。
少し贅沢な材料を使う事にしてRs15000(約37500円)で製作してもらうことで契約しました。インドではローカルの注文生産の方が、メーカ品の既製品よりずっと安いのです。発注するために、私が大体の図面を作成しました。(強度計算などできませんが)
長野県の中学校では男子は製図・工作、女子は裁縫を習うのです。昔やったような平面図、側面図とか書いて業者に説明しました。そっち方面の大学に進んだ娘に「発注」しようとも思いましたが、入学早々なので止めました。さて、どんな会議テーブルが出来てくるか。パソコン・電話・電力ケーブル用に直径3インチの穴を二つあけるように指示しましたが・・・。
冒頭の因縁ですが、実はスリランカテレコム(電話会社)に勤めていたときにも会議卓の思い出があるのです。財務部の一角に古い部長室があり、ずっと使われていない状態だったのです。というのも前任者には日本人用のオフィスが別棟に用意されていたのでした。財務部フロアの部長室は使われないままの「お化け屋敷」と化していたのです。
古くて不便でもあまり気にならない私は、その「お化け屋敷」に移ることにしたのでした。実際に調査してみるとトイレ付きのやたらと広い部屋なので、自分は半分使って残り半分を財務部の共用の会議室とすることにしました。
改装が終わって自室には前から使っている日本人用の机・椅子を持ち込んでOK。しかし会議室のテーブルを新しく買うと大変費用がかさむでしまうことが心配だったのです。ところが倉庫に眠っている会議卓を再生するから追加費用は要らないというのです。
家具などを保存する倉庫に行って見ると、古い机とかロッカーが山ほどありました。その中に卓球台より大きいテーブルが埃をかぶっていたのです。使えるのかどうか不安だったのですがOKを出して後は物品担当者に任せました。
2週間位すると例のテーブルが綺麗に磨かれ、新しいニスでぴかぴかに光輝いてやってきたのでした。形は古いですががっしりした木製の大きな会議テーブル。私にとっては、以前は、何時頃・誰が使っていたのか分からないテーブルですが、非常に愛着の持てる時代物のテーブルでした。
直ぐ後で知ったですが、スリランカテレコムには家具工作部隊がいて、事務机、ロッカーなどの製作・修理なども自前でやっていたのでした。さらに、ビル・建物修理用の社員も抱えていることを知りました。日本人には、伺い知れないとんでもない組織だと実感した記憶があります。
追記ですが、ミーティング室、ミーティングテーブルという概念がインドでもスリランカでも普及してないみたい。上級幹部の部屋がやたらと広く、幹部は自分の机の前に部下を呼んで指示するのが普通なのでしょう。ブレーンストーミングしたり話あったりすることがそもそも普通ではないようです。しかし「ミーティングをする」ことは非常に重要です。情報の共有、他人が何をしているのか、他人の心配ごとが何なのか知ることは組織では不可欠です。ミーティング室とミーティングテーブル、椅子、黒板(白板)は、そのためのどうしても譲れない道具です。インドのオフィスにおいても、自ら設計したテーブルを使って、風通しのよい職場にしようと思っています。
2005年06月08日(水) |
50周年特別企画第三回 |
あまり記事にならない周辺のことやら今日の思いなどを記しておきます。小田原の母に電話したのですがもう寝ていました。(時差3時間半はなんともしがたい)50年前に生んでもらって本当に感謝しています。
妻の両親は既に他界してしまいました。誕生日に母に感謝できるだけでも幸せです。まだ80歳ちょっとすぎですから、私の還暦を祝って欲しいなどと考えています。今年は私達夫婦の銀婚式です。
結婚の5年くらい前から知っていますから既に30年の付き合いになる勘定です。苦労をかけていますが身体に気をつけて次は金婚式を目指したいと思います。中年を迎えての単身赴任(それも海外単身)なのでベストハーフが大切なことはつくづく感じています。
お互いに尊敬できる人間性を磨いていきたいものだと思います。それが30年前の出会い一つのきっかけだったのですから(勝手な解釈)。できたら25年の記念にまとまった旅をしたいとも考えています。なにしろ妻には申し訳ないことに新婚旅行はしてなっかたので。長男と長女は既に親の手の届くところから離れています。しかし自宅通学生だからといって、あまり母親に頼るのは良くないと思います。
家の掃除くらい手伝ってもいいのではないでしょうか。(子供達が読むとこを期待して)まあ各人それぞれ別な人生がある訳でそれは自分で探し出すしかないのです。親としてはこれまで世間並みの教育環境は整えたつもりです。親のできることはここまで。世の中の役に立つ人間になって欲しいです。
これからの人生の生きがいとか職業は子供達が自分で勝手に見つけるしかないです。ベストハーフも自分で探し出して欲しいものです。二人の子供達の年齢の頃私達夫婦は既に知り合っていました。これからも自分の信ずる方向に進んでいければいいなと思っています。
日本に帰ったら出来るだけ早く献血を再開したい。密かに確実に世間に貢献できるのはこういう性質のボランティアです。成分献血だと2週間おきに出来ます。南アジア帰国後1年間は献血無用などという制度は止めて欲しい。体重は2kgほど減らせばBESTです。水泳を定期的に行えば確実に減るでしょうが、インドでは手頃なプールを探すのは難しいです。走るとつい足に負担をかけてしまいます。これが問題。
まあ、もう少しすると(?)日本に帰ることになるでしょうが、帰国してからの健康管理の方が心配ですね。何しろ本拠は「新橋」ですから。これから5年、10年は、人生でも大きな岐路となるでしょう。その実感も、準備もまだありません。でも所詮これまでの生き方をガラっとかえることなどできないでしょう。
2005年06月07日(火) |
ムンバイ室内オーケストラ |
今日はジニ先生宅でのレッスンだったのですがレッスンの後、ジニ先生からムンバイ室内オケのことを色々伺いました。ムンバイ室内オーケストラは、ジニ先生が42年間、指導し世話をしてきたのだそうです。
ジニ先生は今75歳(私の母よりは少し若いけれど、母の年代といっていいでしょう)。高齢にもかかわらず50年以上乗っているという「ローバー」を駆って、オケの仕事をしているのです。オーケストラ運営の全ての仕事をほぼ一人でこなしているのです。もちろん全てボランティア。
まず普段のオケの練習(日曜日午前中)はジニ先生の指導です。演奏会前にはオーストリアから音楽家がボランティアで駆けつけるとのこと。その飛行機代をオーストリア大使館に掛け合って、出してもらうような仕事もジニ先生の仕事。プログラム作成から、楽譜の調達もジニ先生の仕事。
8月7日のコンサートの演目でもヴィヴァルディのギター協奏曲の楽譜は、ソリストの考えている伴奏譜とは異なっているため現在調整中とか。オーケストラに必要な楽器の調達もジニ先生の仕事だそうです。オケの楽器を私財を投じて揃えてきたのだそうです。
最近も中国製のフレンチホルンを買ったとのこと。日本のヤマハは「高価」で手が出ないのだそうです。今は「ファゴット」が欲しいのだけれど、資金がないのだそうです。
練習所はパルシーのジニ先生の顔の効く「TATA劇場」のリハーサル室を確保しているのです。政府とか自治体からの援助は一切なし。逆に政府からコンサート入場料に高額の税金が課されるのだそうです。インドの民俗音楽の演奏会は無税なのですが、西洋音楽は税金を払わなければならないのだそうです。
ジニ先生にとっては、インドで唯一の常設オケを運営している「誇り」が唯一の支えのようです。でも、若い世代が手伝っていかないと将来が心配です。ジニ先生のお弟子さんは、皆海外で演奏家になっていてインドに戻ってこないのだそうです。
土曜日、事務所の社員がパーティをやるから家まで来いとのこと。ローカル社員の試用期間が終わった記念か、エンジニアのシスコ試験合格記念かと思ったら私の誕生パーティに代わっていました。インドのムンバイでこんなに暖かく誕生日を祝ってもらえて感激しました。事務所の社員は非常にチームワーク良く各自の配偶者ともども既に何回もパーティをしました。
ローカル社員の私への注文は「早く奥さんを連れて来い」というもの。とにかく歌ありダンスあり、そして各自で用意したというとんでもない量の食事。現在の社員は、全員、ノンベジ・アルコール可なので、色々な料理が可能なのです。なんだかんだで、終わったのは夜中の12時30分。疲れました。
その時間になるとさすがに外は静かです。帰り道、夜のインドの実態を確認しました。いつもの人通りの多い歩道には多くの人が寝ているのです。色々な向きに頭を向けてごろごろ人が寝ているため、歩道はほとんど通行不能なのです。その道路は鉄道駅に繋がっていて、非常に重要で日中は賑やかな通りなのですが、海から吹いてくる風が適当に涼しいのか、夜はタクシードライバー達の寝室になっているのでした。歩道際の道路はタクシーがびっしり止まっています。モンスーンになったらどこで寝るのだろうかと少し心配になりました。
日曜日午前中のムンバイ室内オーケストラの練習を見学してきました。8月上旬のコンサートに向けて、練習を開始したところだそうです。場所は、ムンバイ南端のTATAシアターの練習所。窓からのインド洋の眺めは最高です。ジニ先生が指導していました。(ヴァイオリン専門ですが、チェロも教えています。私の先生)正直言ってもう少し人数がいるだろうと期待していたのですが、1stヴァイオリン2名、2ndヴァイオリン3名、ヴィオラ3名の練習でした。
ジニ先生に」よると練習予定の周知が遅れてこれない団員が多かったとのこと。次回の日曜日期待です。私の参加を快く受け入れてもらい、チェロの楽譜を貸してもらってきました。今現在決まっている曲は、
ヴィヴァルディ 「ギター協奏曲」 ロゴリゴ 「ギター協奏曲」 エルガー 「弦楽のためのセレナード」
ヴィヴァルディ、ロドリゴのパート譜は手書きです。エルガーはコピー。やはり昔からの影響で、イギリス音楽が得意だし楽譜もそろっているのかなと思いました。
2005年06月05日(日) |
50周年特別企画第二回 |
今年50歳の有名人。(インターネットのウィキメディア頁等を参考にしました)
渡辺えり子(女優)、高橋恵子(女優)、伊藤蘭(女優)、いがらしみきお(漫画家)、田中真弓(声優)、ケビン・コスナー(俳優)、太田裕美(歌手)、桜井賢(ミュージシャン;知りません) 所ジョージ(タレント)、大葉健二(俳優:知りません)、ジョン・グリシャム(作家)、矢野顕子(ミュージシャン)、サイモン・ラトル(指揮者)、スティーブ・ジョブズ(企業家)、城ヶ崎祐子(元フジテレビアナウンサー:知りません)、グレッグ・ノーマン(ゴルファー)、佐野四郎(俳優)、春風亭小朝(落語家)、池波志乃(女優)、松本智津夫(麻原彰晃、オウム真理教教祖)、島崎俊郎(タレント)、田中幹保(元バレーボール選手)ケント・デリカット(タレント)、ゲイリー・シニーズ(俳優)、ブルース・ウィリス(俳優)、村井純(大学教授)、寺沢武一(漫画家:知りません)、アンガス・ヤング(ミュージシャン:知りません)鳥山明(漫画家)、上沼恵美子(女性タレント)、西条秀樹(歌手)、トニーニョ・セレーゾ(元サッカー選手:知りません)、メレス・ゼナウィ(エチオピアの首相:知りません)、江川卓(元野球選手・スポーツキャスター)、中村勘三郎18世(歌舞伎俳優)、千代の富士貢(第58代横綱)、掛布雅之(元野球選手)、ティム・バーナーズ=リー(技術者:知りません)、金子修介(映画監督:知りません)、ミシェル・プラティニ(フランスのサッカー選手)、具志堅用高(ボクサー)、明石家さんま(お笑いタレント)、田中裕子(女優)、中川富雄(NHKアナウンサー:知りません)、黒沢清(映画監督:知りません)、ゲリー・コーツィー(元プロボクサー:知りません)、アグネス・チャン(歌手)、平松伸二(漫画家:知りません)、室山真弓(漫画家:知りません)、のむらしんぼ(漫画家:知りません)、今野敏(小説家:知りません)、ヨーヨー・マ(チェロリスト)、大和田獏(俳優)、郷ひろみ(歌手)、ラサール石井(タレント)、坂口良子(女優)、篠田節子(小説家、SF作家:知りません)、ビル・ゲイツ(マイクロソフト社の創立者)、麻岡めぐみ(元歌手)、ローランド・エメリッヒ(映画監督:知りません)、ジグメ・シンゲ・ワンチュク(ブータン王国第四代国王)、朝汐太郎(元力士)、世良公則(歌手)、松山千春(フォーク歌手)、野田秀樹(劇作家、演出家、俳優)、宮川花子(漫才師)、川中美幸(歌手)、関口和之(ミュージシャン(サザンオールスターズ:知りません)、福島瑞穂(社会民主党党首)
ビル・ゲイツ、ブルース・ウイルス、ケビン・コスナーが同じ年生まれだとは初めてしりました。人によって若い印象があったり年上の印象がありますね。高橋恵子さんとか、宮川花子さんは確実に自分より年上だと思っていましたよ。
2005年06月04日(土) |
50周年特別企画第一回 |
50周年企画として過去を振り返って勝手に記録しておきたいと思います。この次は100年か75周年かいつになるかわかりません。
私の故郷は長野県須坂市です。北信濃の小都市でずっと人口5万人くらいです。昔は製糸産業が非常に盛だったので桑畑に影響があるからと信越線の通過に反対した結果、信越線は千曲川の東側の長野市方面を通過しているとか。
県庁があり善光寺のある長野市までは、長野電鉄という私鉄が走っていました。この長野電鉄の須坂から北は、小布施・湯田中へと続いています。当時の長野市には「丸光」というデパートがあって、善光寺参拝とともに、たまに連れて行ってもらう長野市は大きな都会だと感じられました。私の実家は須坂高校という高校のすぐ西側にありました。本籍は確かここかな。今の実家は移転して須坂市の北部にあります。
小さい頃から須坂高校のグランドは子供達の遊び場でした。(因み3人姉弟の真ん中)小さい頃の記憶は結構鮮明で、須坂高校の陸上部や体操部の生徒の練習風景を思い出します。高校生は「随分おっさんだ」と見ていたことを思い出します。このグランドの周りの草原には、「ばった」とか「蟷螂」がいて良く捕まえました。
小学校は家から歩いて15分くらいの小山小学校。当時は木造の古い校舎で、人学年3クラス。クラス名は「東」「中」「西」でした。学校の直ぐ側に有名な「臥竜公園」がありました。池と小山と動物園。桜の名所です。小学校の冬の体育の時間はそこにスキーやスケートに出かけました。山の名前は「臥竜山」といって、夏は昆虫鳥、秋は「きのこ取り」、冬は「スキー」と子供達にとっては非常に愛着のある山でした。
この山には昔城があったという話です。山の至る所に墓があって、「古い墓探し」なんていうのも遊びの一つでした。その頃から「お寺好き」が始まったのかと思います。勉強の記憶はありませんが、親が「習字の塾」へ通わせてくれたことは今でもありがたいと思っています。
今でこそ年賀状はパソコンで作りますが、そうなる前には住所だけは筆で書いていました。小学校高学年に「新聞配達」をしたのは本当に随分昔のことだと思い出されます。北信濃の冬は非常に寒いのです。冬の朝の新聞配達、梅雨時期の配達は大変だったのです。
当時いつごろか正確には覚えていませんが実家でメス猫を飼っていました。三毛の雉猫でした。顔が縦より、横幅の方が広い、円満な顔をしていました。これは非常に賢い猫で子供達と随分楽しく遊んでくれました。寒い冬の就寝時には、よく暖かい猫の「奪いあい」になりました。猫も体温の高い子供達は歓迎だったのだと思います。
弟の布団から逃げてきて私の枕元で「ニャー」(入れてくれ)と鳴くことがあったことを覚えています。掛け布団を持ち上げで、猫の入り込む空間を作り、丸くなった猫と一緒に寝るのでした。この猫の面影は、田舎の実家の白黒写真に残っています。
中学校は常盤中学校という小学校に比べると随分遠い中学校に行きました。私の実家が通学区のはずれだったまでのことですが。忘れ物をしてと取りに走って帰ると非常に疲れるのです。この学校、今では殆どない「肩掛けカバン」だったのです。柔らかい材質のカバンなので、教科書の角が擦り切れたり、ノートは丸くなってしまう。やはり、少し高くともしっかりしたカバンを指定すべきでした。教科書・ノート等の学用品は大切に扱うべきだと思います。
この学校に入って入部したのが吹奏楽クラブ。始めて近くで見る「トランペット」、「クラリネット」、「チューバ」などが非常に眩しかったのです。それまでは、楽器といえば、縦笛、ハーモニカ、アコーディオン程度しか知らない子供でした。最初に宛がわれた楽器が「クラリネット」。何も知らずに選んだのですが、消耗品の「リード」を購入しなくてはならなくて、結構お金が掛かることには閉口しました。
当時の顧問の「A先生」はとても意欲的な方で、クラブとしてコンクール出場を目指しました。当時弦楽クラブと合同で「俄フルオーケストラ」を作って、コンクールに参加し、東京の「虎ノ門ホール」で演奏したのは懐かしい思い出です。その時に泊まった九段会館(旧館)は今も健在です。私は1年生でしたが、3年生の先輩は皆さん楽器演奏が上手く、しかも下級生を上手に統率していたことを思い出します。
コンクール直前の「朝練」に遅れると班長からお説教されるのでした。当時、親にねだって、ステレオを買ってもらい、なけなしの金でレコードを数枚買いました。持っていたのは、交響曲が主で、運命、新世界、悲愴、幻想、モーツアルト40番位かな。幻想をミュンシュで聞いていたのは、少し変った少年の証拠でしょうか。当時演奏会などというものは殆どなく、記憶に残っているのは、友人を誘ってはるばる長野市までバレエの公演(たぶんボリショイかなにか)を見に行ったくらいです。
当時の常盤中学校の教育には今でも疑問が多いです。非常に躾に厳しく体罰も結構ありました。今考えても「こういう言い方は子供を傷つけるな」という反省材料に事欠きません。少し違うかもしれませんが、「ビター・スィート」の感覚かな。後に、信州は教育県だという噂を各地で聞きますが、どこが教育県なのか未だにわかりません。
私の感覚でいうと、田舎なので非常に同質的な人達が住んでいたのだと思います。小さな共同体なので共同体の輪は非常に大事です。それが行き過ぎて、異質な者には嫌う、一定の距離を置く。共同体とうまくやろうとすると、自然と異質であることを恥じる・・・。人と接する尺度は自分達の共同体のルールで定める。その中に上手く入り込めて、上手に立ち回ることができれば快適なのでしょう。それができない人間にとっては、とても辛い。
この頃深夜放送が始まって友達の影響で「オールナイトニッポン」を聞き始めました。ニッポン放送の亀淵社長が新米アナウンサーで入ってきた頃です。セイヤングの「野沢なち・白石冬美」コンビも有名でした。近所の家からもらった古いラジオで、東京の電波を必死に探して、大きくなったり、小さくなったりする不安定な電波で聞いていました。その後深夜放送は高校・大学時代まで、少しずつ聞いていました。
受験勉強をそこそこして無事中学を卒業し長野市の高校に通うことになります。須坂駅まで15分。須坂駅から本郷駅まで電車で20分位かな。そこから坂道を歩いて10分位で高校に行き着けます。本当は電車通学するなんて全く考えていませんでした。実は実家の目の前の高校に進学すれば、朝チャイムがなってから走っていってもOKだったのです。それでも、少し無理をして電車通学しようと考えたのは、私の身体の中で、少しづつ異質な物への憧れが膨らんできたからだと思います。
故郷の須坂市には私の実家と妻の実家があります。でも誰も住んでいません。妻の父母は既に亡くなり、私の母は小田原の弟の所にいます。昔は、新幹線もなし。高速道路もなしの僻地でしたが、長野オリンピックのお陰で、新幹線・高速道路が開通し須坂も近くなりました。これは「堤さん」のお陰です。誰も住んでいない二軒の家の管理と、方々にある親戚縁者の墓参りが大きな課題です。
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