今日は2004年会計年度の最終日です。我がインド事務所においても日本に決算報告するために半年間の決算を締め切ることになります。といっても小さな所帯ですから複雑なことはありませんが。全ての支出は小切手決裁なので、仕訳を投入し、小切手が決裁されたかどうかは銀行預金残高(明日もらうのですが)と照合するだけなのです。そして明日からは「新年度」開始です。
日本の娘は大学生活を始めます。妻と私は実家が信州だったので、大学時代はずっと下宿生活でした。親に「仕送り」で面倒になりましたが自分で炊事・洗濯をしていました。娘は少し遠いですが埼玉から千葉まで通うことになるようです。これから4年間、長男の時と同様に妻が面倒を見ることになります。 私がいない分だけ妻の負担は少ないのですが。
自分の学生時代のことを思い出すと自宅通学生は非常に恵まれていると思います。一人で下宿すると、買い物・食事の準備・掃除洗濯を自分でしなくてはなりません。自宅から通学するからには少しは家のことを手伝って欲しいところですが息子の4年間を見る限りそれは不可能でしょう。
先週の金・土・日、インドでは3連休のところが多かったようです。25日の金曜日は「聖金曜日」(キリストが十字架にかけられた日)でした。土曜日は「HOLI」といってヒンズー教徒の春を迎えるお祭りでした。
実は、この貴重な3連休、MC銀行のMさんからアグラ・ジャイプールの旅に誘われたのですが、直前まで決めかねていたところ飛行機とホテルが既に満杯になってしまい断念したのでした。その週の月・火まで出張が続いたので、3連休はゆっくりとすごすことにしました。
「HOLI]は冬の終了を祝い、春を向かえ収穫を祈願する祭りですが、この日は、カラフルな顔料や、それを溶かした色の付いた水を掛け合う慣わしがあります。町中に顔や身体に色を付けられた人があふれていました。子供達は大喜びです。水鉄砲も売れます。野良犬をカラフルになっています。この日ばかりは、汚された服と、色とりどりの顔が誇らしげに街を練り歩くのです。
3日間ずっとアパートで暮らすのもあまりにも味気ないので、前から行ってみたかった「ガンジーの住んでいた家」と「ビクトリア動物園」を散策してみました。ガンジーの家はムンバイでは少し高級な住宅街にありました。4階建ての立派な家です。中にはガンジーの写真がいっぱい飾ってあり、
3階では人形劇風にガンジーの生い立ちがミニチュア人形で場面が紹介されています。この人形がよく出来ていて、ガンジーの生い立ちを魅力的に表現しています。数あるガンジーの写真で、眼を惹いたのは、ガンジーの奥様の「凛」とした美しさでした。
ムンバイ動物園は、動物の檻が狭く動物虐待状態に近いと言われていて、昨年は動物園回収基金(フャッションショー)にお金を寄付したのですが、行ってみると結構立派なものでした。私の故郷の長野県須坂動物園の動物たちよりずっと良い環境です。シンガポール動物園に比べて、動物は狭い檻に入れられていると言ったって、シンガポールの動物園が立派なのです。(実際に良く考えられていますが)
インド自慢のトラとライオンは動物園のメインコーナですが、暑くてぐったりしていました。インドライオンはアフリカのライオンと違うのかなと思っていましたが、見た目には姿形は同じです。オス立派な鬣がありました。昔からインド象とアフリカ象の違いが先入観としてあったためなのでしょうが、ライオンでは違いはないようです。
熱帯の「鳥」はこの動物園の自慢ですが暗くてあまり良く見えないのです。連休ということで家族連れが多く見に来ていました。人間の子供達が喜んでいる姿を見ているほうが面白かったです。
2005年03月25日(金) |
ラジブ・ガンジー慰霊地訪問 |
チェンナイから約120kmのところにあるラニペットとい町に行ってきました。チェンナイから国道4号線がインド北西部に伸びていてラニペットはその沿線にあります。国道4号線はずっと行けばバンガロール、そしてプネを通ってボンベイに至る長大な国道です。
さて、この国道をテェンナイから40から50kmいったところに「スリペルンブドール」という村があり、その村の沿道に「ラジブ・ガンジーの慰霊地」があります。遠くからも大きなインド国旗がはためいているのが見えます。
1991年5月21日に落選中のラジブ・ガンジーは、国会議員選挙に向けた遊説中にこの村を訪れ、首にかける歓迎の花輪に仕掛けられた爆弾で爆殺されたのでした。犯人はスリランカ国籍をもつタミール人女性だったとのこと。ラジブ・ガンジーはその時は落選中でしたが首相時代にスリランカ内戦終結を目指して、積極的に和平に向けた活動を進めました。
しかし、インド平和維持軍をスリランカのジャフナ半島に派遣し、スリランカ政府を救援する行動に出たことにより、政府に敵対するタミール人の反感を買ったのでした。
ネルーの一人娘の前首相のインディラ・ガンジー(やはりテロの遭遇して死亡)の長男のラジブ・ガンジーは、ネルー家の直系の男子ということでインドの国民期待の星だったのです。彼は政治家としては未熟なところがあり、失敗もあって首相の座を失ったのですが、インドを愛しインドの発展に尽力し、科学・産業の発展を推進した点においては、現在のインドの急激な発展の礎を築いた人物でした。
昨年の総選挙において、彼の未亡人「ソニア・ガンジー」率いる国民会議党が政権を奪い返し、「ソニア」が一躍注目を浴びていますが、インド人が「ソニア」を見る目はどこかに「ラジブ」を慕う気持ちを含んでいるのです。
2005年03月24日(木) |
インドで不動産登記申請 |
アパート契約の最後の仕上げとして、今日ムンバイ市の登記所に不動産賃貸借の登記に行きました。日本においてもマンションの抵当権を消滅させるために浦和登記所に行きました。書類作成から印鑑登録から、日本でも大変なので、インドではさぞや凄いだろうと覚悟はしていました。
中央銀行の近くにある登記所はその日朝から混雑していました。待合室で多くの人々が順番を待っていました。不動産会社の人は、「この外国人(私のこと)が帰国の飛行機の時間が迫っているので順番を繰り上げてくれ」と「嘘」をついて順番が少しだけ繰り上がりました。
登記官の人は書類を「ちらっと」チェックしOKを出して、隣に座っているコンピュータ担当者に書類を渡しました。そのコンピュータ(デスクトップ)のモニターの上にはカメラがついてます。そして、コンピュータデスクには、指紋採取用のスキャナがついています。
このコンピュータの役割は、契約当事者の「肖像」と「指紋」を取り込んで、 それを紙(白黒)に出力し、本人確認の証拠とするようです。出力された顔写真と指紋の横に本人がサインして登記業務は終了。インドは、書類の書式云々よりも、本人確認が最も重要なようです。写真と指紋を取るのですから、代理人では申請できないのです。
そして基本的な書類はすべて紙ベースです。保存やら、探し出すのにさぞや多くの労働力がかかるだろうなと想像されます。そういうところで雇用が生まれるのでしょう。仕事を減らさずに作りつづけなければならないところに、ITの普及の障害の一つがあります。
もっとも、ムンバイの街を見ていると、ITの普及による利便性の向上よりは、仕事を確保する事のほうが、少なくとも政治においては重要な気がします。
きょうチェンナイからの出張を終えて、家に帰り着いて(当初予定していた飛行機の便を変えたりして、いろいろ話題はあるのですが、それは措いて)インターネットの妻のホームページを見てみたら娘が大学合格していたとのこと。
早速、日本は深夜1時過ぎにもかかわらず、電話して「おめでとう」を伝えました。さすがに普段私からの電話に出たがらない娘もうれしそうな様子でした。なんだかんだといって、最後はきっちり帳尻を合わす辺り、我が子ながら大したした者だと思います。
こっちは9割以上浪人を覚悟していたので少し拍子抜けでした。国立大学の前期試験終了早々から、学校に通ってデザインとかデッサンとか勉強したようですが、そんな付け焼刃で通用するほど甘くないでしょうから、前から漫画などを描いていたのが功を奏した?
そういう方面が好きなら有意義な大学生活を送ることができるでしょう。さて、こうなると、課題は息子の就職と、私のインドでの生活。「娘が一年間浪人するだろう」ということで、妻のインド訪問をあきらめていましたが、俄然現実味を帯びてきたかも。娘もデザイン関係ならムンバイの建築を見に来るのもいいでしょう。チェンナイ出張もいろいろ面白いことがあったのですが、追って書きます。
3月18日は娘の卒業式でした。今後の進路がまだ決まらない娘ですが、充実した楽しい高校生活だったと思います。私は茗荷谷にある娘の高校には都合2回行きました。
最初は入学式の日。スリランカから帰国した際の最終日で私は入学式を見ずに、参加者の列に並ぶ娘と妻を置いて成田空港に向かい午前中の便で日本を離れたのでした。期待に胸を膨らますはずの娘は何故か不機嫌でした。
二回目は娘の吹奏楽クラブの演奏会。学校の講堂で行われた演奏会に、妻と長男と3人で出かけました。冬のとても寒い日で、講堂に据えられた電気ストーブも殆ど効果のない寒さでした。そんな中、クラリネット吹奏が上達した娘を見て関心したものです。
我が家には私のと妻のとクラリネットが二台あり、娘は妻のクラリネット(比較的新しい)を受け継いでいます。妻の報告では卒業式とそれに続く謝恩会はとても素晴らしいものだったようです。
朝の埼京線のラッシュにめげずに3年間通い続けたのですから、多分な有意義な高校生活を過ごせたのだなと想像します。因みに息子の卒業式は来年に延びました。
日印セミナー出席、オフィス探しの等のためにニューデリーに出張してきました。新しいアパートにお引っ越してからの初めての出張です。慌しい出張でしたが中味の濃い出張でした。
まずアパートから国内線空港までは、これまでのホテルからより随分近い感じがします。朝早い出発が多いので少しでも近い方が楽です。今回の往路は8時5分初のジェットエアー便で家を朝6時出発しました。この時間帯だと道は全く空いていて約25分くらいで空港に着きました。しかし、それより少し遅くなると、途端に所要時間が長くなります。
東京近辺でゴルフに行くときの「箱崎抜け」と同じで、時間帯ごとの混雑状況で通過時間が全く異なります。余裕があったからといって次の出張ではもう少し遅くてもOKにはならないのです。
この飛行機のデリー到着は午前10時。デリーの街並みはどんどん変化しつつありいつも新鮮です。(道が分かっていないのも一因)主要道路の交差点を立体交差(フライオーバー)にする工事が目立ちます。今回の主要イベントは大使館主催の第二回日本・インドシンポジウム。
2003年に東京で開かれ今回の二回目はデリーで開催されたというもの。日本からは、「森元総理、川口元外相等」の要人が来印し講演されました。セミナー終了後にはデリーの日本大使館でニューデリー在中者も含め懇親会が開催されました。18日は、日本のYRP(横須賀リサーチパーク)主催の無線通信に関するセミナーがありました。
日本から通信会社・通信機器メーカーの方に来印され技術・製品が紹介されましつた。日本側が紹介するは主要なサービスは3G以降なのですがインドはまだそこまでいっていません。少し隔たりを感じたセミナーでした。
今回宿泊したのは国際空港近くの「ラディソンホテル」。ニューデリーもバンガロールと並んでホテルが取れなくなりました。取れても高い。残っているのは、少しシャビーなものばかり。つまり、外国人が大挙して押しかけている証拠です。
今回の日本から出張者もタージ、オベロイといった高級ホテルの泊まっていきました。ラディソンは高級だけど都心から離れている分だけ安いのです。土曜日の午前中の空き時間を利用してラディソンのヘアーカットに行ってきました。これが驚き。ムンバイヒルトンの理容室より格段に上手く、手際が良かったです。まず、首のところを髪の毛が入り込まないように3重くらい丁寧に準備しました。これでほぼ完璧にOK。ヒルトンでは、シーツ見たいな布を首に巻きつけるだけ。次第にこれが緩んでくるので最後には上半身「毛だらけ」状態になります。更にカットの腕も良いのです。丁寧に格好を整えてくれました。
これは、個人の差か、ムンバイとニューデリーとの差か?インフラとか町並みとか、サービスも含めてニューデリーとムンバイの差がどんどん開いていく感じです。
2005年03月15日(火) |
祝、祝、インターネット開通 |
今日漸くアパートのインターネットが開通しました。今、初の日記のアップをしているところです。スピードは「115.2kbps」。一般電話のダイヤルアップよりは速いいのですが・・・。 申し込んだのは「TATAインディコム」のWLL(無線アクセス)の電話機。ムンバイ・ニューデリーの両大都市においては国が大株主の「MTNL」という電話会社が有線電話サービスを提供しています。この会社は昔のNTT(いや電電公社)みたいなもの。そして、通信の自由化でこれに加えて何社か民間が参入しました。
その有力な一社が「TATAインディコム」です。このTATAはインドの大財閥の傘下にあり、ムンバイに本拠があってムンバイでのサービスは充実しいるのです。なぜ「TATA]を選んだかというと早い「インタネット」が使えるからです。 セールスマン氏の説明によると、WLL電話(無線アクセスで保証金Rs1000)経由でのインタネットのスピードは115kbps程度。専用の無線アクセスカード(Rs15000)インターネットでも150kbpsだそうなのです。この程度の差であれば、まずはWLL電話機を使ってみることにしたのでした。一般のダイヤルアップ回線よりは早いです。
セールスマン氏に申し込み書を渡しました。それが先々週の金曜日。翌日の土曜日には自宅に来てもらって、写真、パスポートのコピー、住民票のコピーを渡しました。日曜日には、ヴェリフィケイションということで、若い青年が家までやってきました。しかし、次の週一週間、結局電話機は設置されませんでした。
そして、その週の金曜日の夜に再度ヴェリフィケイションということで青年が家まで来ました。彼は、土曜日の夜には電話機設置工事ができるだろうと言っていました。土曜日には、私の携帯にTATAインディコムから電話がかかり、申し込みの確認がなされました。
電話をかけてきた人に「今日中に電話機を持ってくるのか」と問い詰めたところ、まだ2〜3日かかるとのことでした。パスポートの写し、州政府発行の住民票の写しを添付してあっても全く信用してくれない。何回も同じ事を聞かれます。これがこの国の「手順」のようです。ヴェリフィケイションの青年も、電話問い合わせのオペレータも全て外注業者で、ひとつのステップをこなしているに過ぎず、実際の工事は別なに会社がやってくるので、途中の工程を抜かすことは出来ない。
これでもMTNLの仕事よりは評判が良いのです。そして、昨日の火曜日の夜、ようやく電話機が到着。LG製の小さな電話機です。日本との国際電話はインターネットを使う予定なので、この電話機のサービスプランは市内通話専用です。電話機の後ろの「RJ−45」というインターネット接続のポートが付いています。この「RJ−45」と「RS232C」のコネクタケーブルが市販されていて、通常のデスクトップなら接続可能です。
ノートパソコンには「RS232C」がないので、「RS232C」と「USB」のコネクタケーブルを買ってきてノートパソコンとの接続準備はしていました。電話を設置にきた技術者は「自分は電話専門でインターネットは分からない」というので、電話でインターネット技術者に設定の仕方を聞きつつ設定したのですが、つながらず、結局昨日はあきらめました。
今日、電話機とパソコンを会社に持っていって、会社の技術者の助けを借りて漸く設定が終了しました。私の買った「RS232C−USB」変換ケーブルは、TATAのサービス(電話機)と相性が悪いらしく、彼の変換ケーブルだと上手くつながるのです。結局変換ケーブルを買い換えました。 さて、公表のスピードは「115.2kbps」。夜の8時30分過ぎにインターネットにつないでいるのですが、スピードテストで速度を測ってみると、「75kbps」です。こんなものでしょうか。このスピードでは、画像を見ながらの音声チャットはとても無理ですね。
2005年03月11日(金) |
アパートのこと(その2) |
入居したアパートには家具とか食器がかなり揃っているのです。さらに、オーナが使っていた使用人もひとりそのまま引き継ぎました。オーナには3人の子供居たので、掃除・選択・調理と3人の使用人を使っていました。私は検討する時間もあまりないので、その中の一人に引き続き働いてもらっています。
オーナも勝手知った使用人が引き続きメンテナンスするのであれば安心なのです。彼は、買い物・掃除・選択・調理の準備が担当です。正直言うと、洗濯機の操作の仕方、料理器の操作の仕方とか、食器の在り処は、彼に聞かないと分からないのです。でも大きな問題があります。
彼は「英語」を殆ど理解しないこと。オーナ(アメリカ人)の奥さんはインド人だったでの前は少しも苦労ししなかったのでしょうが、私とはコミュニケーションが取れない。私がヒンディーを勉強すればいいのですが、そう簡単にも行かない。今の所日本から持ってきた、図鑑(野菜とか絵で紹介している辞典)を開いて、「これ買って来て」(shopping程度は分かります)と指差して頼んでいます。どうなることやら。
2005年03月10日(木) |
チェルシー対バルセロナ |
昨日のチェルシー対バルセロナの試合は非常に見ごたえがありました。現在イギリスプレミアリーグでダントツ首位のチェルシーですが、バルセロナの前では劣勢でした。
バルセロナは、ロナルジーニョを核として、各選手の技術と「攻撃」への意欲が非常に高く、7:3位でボールを支配していました。それでも、最終的にチェルシーが二試合通じて「1点差」で勝ったのでした。
バルセロナは何度かの決定的なゴールシーンをムダにしました。チェルシーは貴重なコーナーキックのチャンスのバックスのキャプテンが決勝点のヘディングゴールを決めたのでした。英国リーグでは格下のチームを手玉に取っているチェルシーですが、スペインリーグのバルセロナには反対に押し込まれていました。
イギリスレミアリーグのサッカーは、かなり紳士的なプレーをしている感じです。接触プレーは少ないし強引なタックルもない。ショー的に華麗なパス回しを観客に見せるように。スペインのバルセロは違います。隙があればすぐ「タックル」して、パス回しは許さない。自分のゴールからかなり離れている敵陣の相手のパス回しの時さえ、果敢にタックルをかけてボールを奪おうとします。こうした戦法の違いをいかに乗り切るかが、チャンピオンリーグの決め手になります。
こういう試合を見ているとJリーグだけではだめで、早くアジアテャンピオンリーグを頻繁に開催しないと、全体のレベルアップにならないことが分かります。それにしてもロナルジーニュの技は凄いです。彼の存在は大きい。
2005年03月07日(月) |
引越し荷物到着、領事館「Iさん」宅での食事会 |
5日土曜の夕方日本からの引越し荷物が到着しました。ダンボール箱にして10箱。半分位は食料で占めています。スリランカより日本食の事情は悪いので、日持ちのする食料を大量に送ったのです。なにせムンバイでは日本の米さえ売っていないのですから。
早速送った炊飯器でご飯を炊きましたました。海外単身赴任用の炊飯器(電圧とコンセントが海外仕様)は非常に優秀で美味しくご飯が焚けました。こちらで炊飯器を買うと、こちらの米は上手く炊けるのですが、日本の米には合わないのです。新鮮な食材を買う「方法」と調理方法をまだ考えていないので、土曜の夕飯は定番の「ボンカレー」と「秋刀魚の缶詰(細長いやつ)」と「梅干」。久しぶりのご飯がとても美味しかったです。
(追加)
金曜日の夜ムンバイ日本領事館の「I」さんに夕食を招待され、「I」さん宅にお邪魔し、非常に楽しい金曜日の晩を過ごしました。「I」さんのお宅はマリンドライブに近い「CCI」チャンバーズという立派なビルに入っています。メイドさんのインド料理でビールやらウイスキーやら、私からのプレゼントの「八海山」などを飲み3時間くらい世間話に興じました。
単身赴任の「I」さんと、「S化学のO」さん(現在単身中)と中年と領事館の独身3人の計6人。この次は新装開店の私の家にご招待しようかと考えています。
2005年03月04日(金) |
アパートのこと(1) |
私の新しいアパートはビルの3階にあり、夜はアラビア海から吹き寄せる風が気持ちいいです。家具とか丁度は十分過ぎるほどあるので生活するのに不便はないです。今日の朝ドライバー氏が近所の噂として聞いてきて私に教えてくれたことがあります。私のフラットのあるビルも含めて両隣3ビルは、モンスーン時にあたり一面水が溜まるのだそうです。海に近いこともあり、潮が満潮の時に、大量の雨が降り続くと、雨水が海に流れることができす、このあたりに溜まるのだそうです。シーズンに3回か4回は腰の高さ位まで水が溜まって外出できなくなるとのこと。もちろんそう言うときは電車はストップするし、ムンバイ市内の活動は麻痺状態に近くなってしまうことでしょう。
12月から探しているのでそういうところには気が付きませんでした。でもそれもまた経験です。泥棒の被害も一件あったそうで戸締りに気をつけるようアドヴァイスを受けました。もっとも私は普通のインドの人が欲しがるような貴重品は持ち合わせていません。昨日引越し業者から電話があり、今日か明日引越し荷物をお届けできますとのこと。待ちに待った日本食が届きます。 (追記)やはりというか荷物の配達は来週の月曜日以降になるそうです。
今回入居したアパートは直前まで持ち主が住んでいたので即新しい生活が始められます。パンだけ買ってくれば、トースターとバターの残りを置いていってくれたので朝食を食べるのに苦労がありません。鍋とか,皿の什器類は豊富なのですが、お湯を沸かす「やかん」が見つからないのです。
また夜中に「蚊」が一匹飛び回ったので、教えてもらった蚊取り線香を使おうとしたのですがどこで焚いていいか分からない。仕方なく灰皿で焚きました。でもすぐ消えてしまいます。日本の「豚」の形をした線香焚きが懐かしい。
夜蚊が入るので窓を締め切ると、クーラーが必要になるのですが、寝室のクーラーの電源がどこにあるのか最後まで分かりませんでした。朝は鳥の泣き声で目を覚まします。といってもカラスですが。すぐ近くに運動場の林があるので、カラスと鳩がものすごく多いのです。その運動場では、朝早くから大勢の人達が走ったり散歩したりしています。
きょう予定どおり引越しました。新居は、ムンバイ南部の西海岸に面しています。空気は少し湿っぽい感じがします。ホテルの荷物を整理したらスーツケースからダンボール箱やら7つになりました。衣類が殆どです。これから再収納が面倒です。
さてアパートに移ってホテルと一番違うのは歩き回るスペースがあるということです。最初は少し戸惑うかもしれません。前住人(持ち主)から、屋内の電灯、ファンのスイッチ類の説明を受けましたが、一回では覚えきれません。これから試行錯誤して覚えるしかないです。彼等はゴアに1週間滞在したあと、ロンドン経由でアトランタに帰ります。彼等には、アトランタの広い豪邸(現地で一般的だそうですが)が既にあるので、食器類、厨房用品、主要な丁度類は全部そのまま置いて行きます。主要なもの、テレビとか、冷蔵庫、バスタブなどは値段を見積もったのですが食器類は全部処分してもらってかまわないとのこと。
単身赴任には多すぎる数ですがすぐ住めるので大変便利です。新しい生活はどうなることやら。今日は差し当たりこれからの朝食用のパンを買って会社に戻りました。月末・月初めは決算締めなのです。
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