KENの日記
 < 過去  INDEX  未来 >

2004年10月30日(土) ムンバイの拝火教徒の歴史

ムンバイのゾロアスター教徒の歴史について少しまとめてみました。(ちょっと長いかな)


ムンバイ市には数万人程度の人口を持つ「パルシー」(ペルシャ人)がいます。彼等の宗教はゾロアスター教(拝火教)。世界全体でも10万人程度の信者の数なのです。その中でインド全国で6万人強の信者がいるそうです。


ムンバイはその半分以上が住んでいて、ムンバイは世界中でゾロアスター教徒が最も多く住む都市なのです。ゾロアスター教徒の伝統では、男性が非ゾロアスター教徒の女性と結婚すると、生まれた子供達はゾロアスター教徒となるのですが、逆の場合はゾロアスター教徒になることは許されないのだそうです。今は移民等で外国に行き他の宗教に変る人もいて、他の宗教の男性と結婚するゾロアスター教徒もいて、ゾロアスター教徒の数はどんどん減っているのだそうです。


そういう関係で、ムンバイ市には近郊地域も含めて47の拝火教寺院があります。それは全世界の40%にあたるそうです。寺院には他の宗教徒は決っして入れません。インド10億人の7割程度を占めるヒンズー教徒もこの中には絶対に入れません。ゾロアスター教徒の宗教儀式は他の宗教の人達には、全く「なぞ」なのです。聖なる「火」を祭るといわれる「ゾロアスター教寺院」に加え、「鳥葬」が行われる「沈黙の塔」がひっそりとですがムンバイには存在しています。一見するとただの丘ですが、ムンバイの「沈黙の塔」は一等地の住宅地の丘の森の中にあります。


「ゾロアスター」という人ですが通説では紀元前6世紀頃に「神の言葉」を伝えた者とされています。ニーチェの「ツァラツストラは斯く語りき」とか、R・シュトラウスの同名の交響詩、さらにモーツアルトの魔笛に出てくる「ザラシュトラ」。「ゾロアスター」はその名前に響きの不思議さも手伝って、ヨーロッパで不思議と取り扱われるのことが多いようです。宗教の考え方はどんなものか・・・・これはこれからもう少し少しずつ勉強しようと思います。


「ゾロアスター教徒がインドに来るまでの歴史」
ゾロアスター(拝火教)は最初はカスピ海東部地域で発生したようですが、歴史に登場するのは、紀元前6世紀に成立した「アケメネス朝ペルシャ」の時代だとのことです。この王朝を築いた「キュロス大王(Cyrus the Great)」は非常に寛大で名君であったとのこと。この王朝の下でゾロアスター教はイランを中心に中東全般に広がっていったようです。


キュロス大王(こちらではサイラスと発音しています)はバビロンを征服しユダヤ人を解放したことに加え、奴隷を解放し、人類最初ともいえる「人権憲章」を作ったのでした。この碑文の書かれた円柱が1879年に発見され、本物は大英博物館に所蔵さ、レプリカがニューヨークの国連本部に置かれているのだそうです。


アケメネス朝ペルシャの支配地域は、エジプト、ギリシャから中東、カスピ海東部、インダス川西部に及ぶ広大な地域でした。政治と宗教の関係が詳しくはわかりませんが、宗教にかんしてはかなり寛大であったとことが想像されます。そんな環境の中ゾロアスター教も多くの宗教の中でひとつであったと思われます。ここでゾロアスター教は「アフラ・マツダ」を唯一の「神」とする「一神教」であるという点は、ユダヤ教が一神教であるという点と共に非常に重要でしょう。(自動車のマツダという名前もここから由来しています)


このアケメネス朝ペルシャでは、ダレイオス一世の時代に最も隆盛します。この王は有名なペルセポリスの都を建設したことで知られています。そしてダリウス3世の時代(紀元前4世紀)に新興国マケドニアの英雄アレキサンダー大王に破れ(イッソスの戦いBC333)、衰退の道を歩むことになります。


その後アレキサンダーはエジプトをも征服し「アレキサンドリア」を建設しペルシャの都を破壊しました。しかしアレキサンダーの死後、この地域は混乱することになります。一方、ヨーロッパはペルシャから多くの有形・無形の宝をヨーロッパに持ち込み、先進地域のペルシャに追いついていきます。そしてペルシャが混乱している間に、ローマ帝国がその帝国範囲を急拡大していくのです。


アレキサンダー大王死後の中東地域は数百年間混乱します。バビロンから開放された「ユダヤ教」、そしてゾロアスター教が広まりますが中小国の成立・破壊の世の中で宗教もまた混乱していたことが想像できます。そして「イエス」の誕生を迎えるのです。キリスト教誕生に、ユダヤ教と並んで、ゾロアスター教が大きな影響を及ぼしていたことが想像されます。


その後中東地域全体を統一したのはササン朝ペルシャ(3世紀)でした。キリスト教が西のローマ帝国に拡大していったこととは対象的に、このササン朝ペルシャで支配的な勢力となったのがゾロアスター教でした。ササン朝ペルシャでは支配的な宗教と扱われたようです。一方拡大したローマ帝国はビザンチンに拠点を置く東ローマ帝国がキリスト教を国教として成立していきます(4世紀)。


ササン朝ペルシャとビザンチン帝国の対立が続いていた時代に、7世紀、アラビア半島に「マハメッド」が現れてイスラム教が創始されます。イスラム教はモハメッドの近親者を子孫を通じて急激に中東全体に広まっていきました。それらの国ではイスラム教の伝道者(カリフ)が王となるわけですが、そうしたカリフの中から有力な王が出現しました。そんな中でも「アッバース朝」は有力で現在のバグダットの地に都を建設しました。


このアッバース朝衰退の後に中東地域、イラン地域を支配したのがセルジュクトルコ朝でした。ササン朝ペルシャの衰退以降、中東イラン地域は次第にイスラム教の影響が強くなっていきます。そうした状況の中でゾロアスター教徒たちは次第にイスラム教の飲み込まれていったものと思われます。11世紀のイランの詩人「オマール・ハイヤーム」の有名な詩にもゾロアスター教のことが出てきます。彼はイスラムの詩人とされますが、彼を隠れたゾロアスター教徒だとする説もあります。


そしてイスラム支配に耐えかねた少数のゾロアスター教徒がイランを出てインドに向かいました(11世紀)。この「イラン脱出」のことはゾロアスター教徒の中では非常に重要な叙事詩となっているとのことです。ここで注目すべきは、ゾロアスター教とヒンドゥー教が非常に似ていたということです。二つの宗教はともに紀元前3000年頃、カスピ海東部地域に発生し、ゾロアスター教はイラン方面に、ヒンドゥー教はインド方面に広まっていったもので、元は共通するものがあったようです。


困難な旅路を乗り越えて、イランを逃れたゾロアスター教徒はインドのグジャラート地方の定住しました。この時のインドの王との出会いは有名なものとして語り継がれています。


インドの王様は漸くインドにたどり着いたゾロアスター教徒に、コップに注いだミルクを差し出して、「インドは貴方にミルクを提供して迎えるが、貴方はインドに何をしてくれるのか」と問いただしたのだそうです。ゾロアスター教徒はそのミルクを飲まずに、そこに砂糖を加えて混ぜ合わせ、王様にそのまま差し出したのだそうです。


この話はインド10億人の社会で生き残っているゾロアスター教徒の生き方を端的に現しているようです。そして時代は17世紀イギリスのインド経営の時代になります。グジャラート地方に居たゾロアスター教徒たちは、イギリスが建設し始めた「ボンベイ」に移り住み、支配者イギリス人と良好な関係を築いていきます。その中からインドを代表する財閥の「TATA」家などが出てくるのです。


こうして外観してみると、非常に興味深い宗教であり、人々であることが分かります。



2004年10月25日(月) ムンバイの拝火教寺院

ムンバイには近郊地域も含めて、47の拝火教寺院(ゾロアスター教寺院)があるそうです。この数は全世界の拝火教寺院の40%にあたるのだそうです。ムンバイのゾロアスター教徒は、約1000年前にイラン方面から逃れてきた人達の子孫なのです。拝火教がキチンと社会に残っているは、ひょっとしてムンバイだけなのかもしれません。


今日(24日日曜日)はムンバイの町を散歩しながら拝火教寺院を眺めてみました。眺めてみましたというのも、拝火教寺院は、他の宗教の人間は一切入ることが許されないのです。一箇所の寺院は敷地には入れてもらえたものの、建物は厳重に管理されていて入館は決して許されませんでした。もう一箇所も同じでした。一箇所の拝火教寺院の外に「火」のモニュメントがあり、内側の「火」はこうなっているのかなと想像しました。



2004年10月23日(土) The Hunter Hunted

20日の新聞は「凶悪な密猟者が銃撃戦の末に射殺された」旨を報道しました。彼の名前は「ウイーラパン(VEERAPPAN)」。この密猟者は、象牙目当ての象の密猟、サンダルウッド(白檀)の木の伐採、取り締まりにあたった警察や役人の殺害、仲間中での殺人等、かなり悪いことを積み重ねてきたそうです。


彼の活動エリヤはインド南部のタミールナド、カルナタカ、ケララにまたがる山間部でした。これまでかなりの数の象が密猟されてきたようです。なんでも1970年から1985年の10年間だけでも300頭の象が射殺されたとのこと。さらに44人の警察官の殺害に関与してタミールナド州では107の事件で逮捕状がでているとのこと。彼には55百万ルピー(1億35百万円)の懸賞金がかけられていました。インドの象達は少しは安心して眠れることになるでしょう。



2004年10月22日(金) 飛行機内での食事

一昨日出張で首都デリーまで行ってきました。行きは朝9時20分ムンバイ発、帰りは夜7時40分のデリー発。ビジネスマンに人気のジェットエアーという国内線の飛行機を使いました。飛行時間は1時間50分余り。前回も同じ飛行機会社でした。帰りのにはニューデリーのラッシュアワーに巻き込まれ、飛行場についたのが7時過ぎでした。


チェックインが遅かったので指定された席は3席並びの真中の席しか残っていませんでした。エコノミークラスは1列が3席+3席座席で非常に狭いです。横に大きな人が来たらイヤだなと思いつつ乗りました。幸運にも両側の人がそれほど大きくなくてラッキーでした。帰りの便の私の通路側の横に座った人は、エリクソンインディアの人で、彼はエリクソンスリランカのCEOやスリランカテレコムのCEOを知っているというのです。これは全く偶然なのですが同じ知り合いを持つ方と出会えて非常に幸運でした。


ジェットエアーでは飛行機が水平飛行に入ると早速ジュースが配られます。そして次に食事が出され、その次にアイスクリームが出され最後にお茶がだされます。勿論食事の注文はいちいち「ベジ・ノンベジ」を聞いて回ります。この食事にかまけていると1時間50分はあっという間に過ぎてしまいます。


ふと思ったのはこれはまさしく「機内エンタテインメント」だということです。機内には映画もゲームもありませんしコンピュータを広げるスペースもないのです。しかし退屈しないのです。順番に飲み物、食べ物がサーブされるのをわくわくしながら待つのです。小学校の給食の時間みたいです。人間にとって食事の楽しみは非常に大きいのだと再認識しました。特にインドの人は食事を大切にしますから。


食事の事に気分を集中していると多少座席が狭くても苦にならないのです。隣はベジかノンベジかとかいう興味もあります。ジェットエアーは食事を提供することによって座席を狭くして大勢の客を載せることに成功したのです。更に飛行機の設備も非常に簡略化されています。余分な装備は一切なし。その代わり、食事・飲み物に十分気を使っているのです。良く考えた戦略だと思いました。日本の国内線では随分前から食事サービスは無くなっているはずです。



2004年10月19日(火) Airshow

17日の日曜日午後に行われたムンバイのエアーショーの写真です。ムンバイ南部の「BackBay」を取り囲むマリンドライブはものすごい人出でした。近くに車も近づけないので、昼食をマックに食べに行った帰りは、少し遠くでタクシーを降りました。


エアーショーは大型輸送機の飛行、最新式ジェット戦闘機3機のものすごいスピードの曲芸飛行、ヘリコプター3機による曲芸飛行、そしてジェット機の編隊飛行の順に約1時間行われました。


ホテル33階にある私の部屋はいわばエアーショー見学の一等席でした。33階の部屋で見ていると、ジェット機が突っ込んでくるのではないかという恐怖を感じました。9.11の光景が想像できました。


写真の編隊飛行は飛行機の間隔が7mから10m位で時速300Kmから500Kmくらいで飛行するのだそうです。キレイにそろった飛行でした。写真のバックに見えるビル群はムンバイの町並みです。



2004年10月17日(日) 体調に注意

水曜日辺りから少し身体の具合が悪くて注意していました。頭痛がして身体全体のバランスが悪いようで食欲がなかったのです。といっても朝は普通に食べられるのですが昼と夜は食欲がでないのです。これはひょとして食事の所為かも知れません。


朝はホテルの朝食なのですが昼と夜はしっかりした食事をとっていないのです。一人だとついつい面倒ですばやく簡単に済ませてしまうのです。木曜日・金曜日と日本から出張者が来たのですが、元気な彼等には申し訳なかったのですが一緒の夕食は遠慮させてもらいました。


こいう体調の時は「にきび」とか「唇の近くの「口角炎」ができるのです。今回、眼鏡のツルがあたる直ぐ側に「にきび」ができて眼鏡がずれるととても痛いのです。これは非常に「運」が悪い証拠です。気をつけようと思います。


木曜日・金曜日の二日間少し注意して土曜日の朝ゆっくりしたら大分よくなりました。元気を取り戻して昨日到着したIBMデスクトップコンピュータの設定に行ってきました。でも英語OSなので、日本から持ってきたソフトウエアは使えないのです。インタネットを日本語で表示することが出来るのに日本語入力はできません。


今週の水曜日ごろからムンバイ市南部はとても騒々しいのです。明日の日曜日にマリンドライブという海岸道路が面している有名な「湾」でインド空軍の飛行機ショーがあり、その練習をしているのです。インド空軍の戦闘機は「ミグ」「スホーイ」だとかの旧ソ連製みたいです。大きな爆音を響かせて曲芸飛行の練習をしているのです。


実は私の住んできるホテルはその湾に面していて、部屋は33階の海側なので絶好の場所です。ヘリコプターの曲芸は下に見えるのです。あすの飛行機ショーは非常に楽しみです。



2004年10月12日(火) 嬉しい偶然

インドに来る前のことですが。今年の6月頃でしたが東京有楽町の交通会館の前でインド人のグループに会ったのでした。彼等はインドの卓球選手達で横浜で行われた試合が終了したあと、一日東京見物と飛行機のリコンファームのために有楽町に来たのでした。東京周遊の観光バスに乗り遅れてしまって、どこか手近な観光名所がないのか思いながら、予約を確認するために有楽町の日航オフィスを探しているところでした。


困っているようなのでまず日航のオフィスを案内しました。チケットのリコンファームを済ませた後に手近な観光スポットを紹介して分かれたのでした。新幹線に乗ってみたい」というのですが、遠くまで行ってしまうのでそれは諦めてもらいました。そして別れ際にインドでの連絡先を教えてもらっていたのです。インドに関係した仕事を始めていたので、いつか会うチャンスがあるかもしれないと考えていました。


彼の住んでいる町はムンバイでした。その当時私はインドの仕事を始めていたのですがムンバイに赴任することはまだ決まっていなかったのです。


そしてインドの仕事が進捗してムンバイに赴任したのでした。赴任後一ヶ月が経ち大分落ち着いてきたのでインド人卓球選手に電話をしてみたのです。電話の向こうでは直ぐに私のことを思いだしたようでした。そして彼の職業のことを聞いたところ、彼が勤めている会社は「MTNL」というムンバイの電話会社であったのでした。


日本で会った時に私は名刺を渡したのですが彼は私の会社が通信会社だとは判らなかったようです。「MTNL」という会社は株式こそ上場していますが、67%の株式を政府が保有する会社で、ムンバイとデリーの二大都市で電話(有線、無線)を提供しているのです。全くの偶然で電話口でお互い下手な英語で驚きを表現したのでした。


さっそく彼は自分の上司と相談して彼のオフィスを訪問できるようにアレンジしてくれましたのでした。そして今日ムンバイ郊外にある彼のオフィスに挨拶に行ったというわけです。彼の話では「MTNLのトレーニングセンタ」だというので、日本の我が社の訓練施設を頭に浮かべつつ訪問したのでした。途中既に名物になっているムンバイの渋滞に巻き込まれました。


訓練センターのある場所はムンバイ北部で国際空港の少し北側の「ポワイ湖」という湖のほとりです。非常にキレイな新興の都市です。そこには「ヒラナンダニ地区」といって大きな病院を中心とした新興の街があり、後で聞いたところ大きなコールセンタもあるのだそうです。そのヒラナンダニ病院の隣の大きなビルが「トレーニングセンタ」でした。


トレーニングセンタといっても「MTNL」の新規事業の目玉の一つだそうで、通信・コンピュータの訓練スペースを提供する事業を行っているセクションでした。大きな訓練棟ビルの後ろには、20階建て300室あまりの宿舎(ホテル)が付属しています。そこにはプールとかアスレティックジムがあります。2005年当初のオープンを目指して最後の工事が進められているとのことでした。


彼等のターゲットは東南アジア・南アジア・中東・アフリカ等だそうで、国際空港に近い立地にゴージャスな設備を備えて客を呼び込むというものです。そして「訓練は楽しく」という考え方を全面に出してるのだそうです。宿泊施設は「5スターホテル」並に作っているとのことでした。


ムンバイは東アジアと中東・アフリカを結ぶ中間点に立地していて交通の便は非常に便利です。新興都市の周りはまだ開発が進んでいないのですが、そこだけは高層ビルが立ち並ぶ近代的な街なのです。近くのホテルのレストランで昼食を頂いたのですが、そこの二階にはなんと日本食レストランがあるとのこと。(実際はタイ料理みたいですが)。


さらにインド映画産業の中心地の「ボリウッド」とは10Km離れていません。ここにどれくらいのハイテク企業が集中できるかがポイントです。インド人卓球選手ですが「A.M.ワルンカー」という彼は実は卓球のインドチャンピオンだったのです。日本の企業でも良くあるように、企業が有力なスポーツ選手を雇用して支援するプログラムで彼は「MTNL」に入社していたのでした。そして、この訓練センタの所長さんも卓球ファンなので彼をこの訓練センタにスカウトしたのだそうです。


今日は所長さん以下センタの幹部の方達と話をさせていただきました。日本で想像していたのとは大分事情が違います。これから頭の中を整理してよく考えていかなければならないと思っています。因みに彼の直接の上司が世銀プロジェクトでスリランカに2年間行っていたということで、ここでまた偶然の話が膨らみました。非常に嬉しい偶然が二つも続きました。



2004年10月11日(月) ビクトリアターミナス

ムンバイに数多く残っている「ネオゴチック建築」の中でも、もっとも有名な建物です。イギリス人の建築家「フレデリック・ウイリアム・スティーヴンス」の設計・施工により、10年の歳月をかけて1888年に完成したのだそうです。規模をさることながら細部の装飾の凝り方はすごいです。


インドの伝統的な絵画に「細密画」がありますが、そういうものを見ていると、細かいデザインを無数に並べる構図は一般的に好まれているのではないかと思われます。「ネオゴチック建築」においても、無駄とも思える細部の細工が目を引きますが、そうした方向はインドの人達の気持ちに合致しているように思えます。


この建物は今年三月に「世界遺産」に指定されました。こうした素晴らしい建物を上手に保存してほしいものです。ビクトリアターミナス駅は、現在でもセントラル鉄道の終着駅として立派に活躍しています。この駅の界隈は土産物や日用品を売る人達と乗降客とで毎日ごった返しています。


ムンバイにはこの「ビクトリアターミナス」の他にも、大規模な「ネオゴチック建築」の建物が沢山残っているのですが、観光名所にはなっていません。観光とか人に自慢するとか、ムンバイの人達はあまり考えていないように思えます。まさに、生活の一部にそういう場所があるだけという感じです。



2004年10月09日(土) 最近の夕食

最近良く利用している夕食の素材を紹介します。泊まっているホテルに隣にオベロイホテルにショッピングモールにサンドイッチ屋さんがあるのです。そこには、普通のサンドイッチの他、ピザ、ブリアニ、ハンバーガーなどを売っていて、夜7時30分ごろまで開いているのです。


狙い目は「ノンベジ・ブリアニ」(Rs100)です。小さなビニールパックにぎゅうぎゅう詰めしたものです。これをレンジで暖めてもらいホテルの部屋で頂くというパターンです。最近、「ノンベジ・ブリアニ」が売切れてしまうことが多くそういう時は「ベジ・ブリアニ」にします。味は殆ど変わらず、鶏肉が入っているか、いないかの違いです。こちらはRs70です。


これだけではつまらないので部屋ではこれに、マヨネーズ(キューピー製)をかけます。ブリアニの味と日本のマヨネーズの味は結構あうのです。チキンブリアニ・・・卵・・・マヨネーズのつながりです。さらに、これにインスタントの味噌汁をつけると、ブリアニ定食の出来上がりです。


それにしても「ノンベジ」アイテムの売り切れが目立つので、少しは仕入れの量を変えれば良いのになかなか改善しません。



2004年10月08日(金) 日本では連休

明日から日本は3連休。でも台風で大変かもしれませんが。事務所の入っているビルの今年の祝日は「10日間」です。2004年の設定は以下のとおり。

1月 1日 新年

1月26日 独立記念日

2月18日 Mahashivratri

4月 9日 Good Friday

5月 1日 May Day(土曜日だった)

8月15日 建国記念日(しかし日曜なので、元々休みです)

9月18日 Ganesh Chaturthi(ガネーシュ祭りの始まり)(土曜日だった)

10月 2日 Ganesh Jayanti(土曜日だった)

10月23日 Dashera

11月12日 Divali

12月25日 Christmas(土曜日です)


そして基本的に土曜日は半ドンで働きます。土曜日が祝日に当たると初めて「連休」になるのです。従って3連休なんてありえないのです。さらに、年中暑いので、夏休みという概念がないみたい。インドの人達の働く時間は長いです。この連休中に妻の?回目の誕生日と、?回目の結婚記念日がやってきます。とりあえず、誕生日おめでとうございます。



2004年10月07日(木) 携帯STD、ISD開通

今日の日記からブログにしてみました。

これから、日記に写真を使ったりできます。

他にも色々な事ができるみたいなので、少しずつ勉強していきたいと思います。

私は会社の仕事で、2004年9月からインドのムンバイに来ています。

2003年12月までは、スリランカのコロンボに2年間ほど住んでいました。

その時のことはホームページ内の他のページに詳しく書いてあります。

これからインドで経験したことを、このページに書いていこうと考えています。

ムンバイで仕事を始めるに際して、色々なことをしなければなりません。

今、ムンバイで携帯電話の申し込みをしている最中なので、インド携帯電話料金を解説します。

先々週に申し込んだのに、未だ市内通話(州内通話)だけしか通じないので、少し頭にきていますが・・・。



9月当初からしばらく間はプリペイド方式の携帯電話を使っていました。

プリペイドカードはムンバイ市内の至る所で売っています。

料金分使い切ってしまっても、簡単に「リフィル」することが出来ます。

でもやはり、会社名義で契約して、後払い(ポストペイド)方式の方が便利なので、切り替えているという次第です。

(因みに契約した業者はハチソンのオレンジというブランドです)



携帯端末は従来から持っていたGSM端末をそのまま使っています。

これはスリランカでGSMサービス開始したときに記念に頂いたものです。



1.最初費用

後払い払SIMカード代:Rs500(保証金)、Rs99(カード代)(1Rs=2.5円程度と考えてください)

これだけ払うと、州内電話が可能になります。

インドでは、ほぼ州単位に23の通話サークルが設定されています。

このサークル内に閉じた通話が州内通話です。

他のサークルに通話する場合は、STD通話といって、州際通話料金となります。

更に外国に電話する場合は、ISD通話といって通常の国際通話になります。

Rs599支払うと、州内だけの通話が可能となるわけです。

月額の料金プランは「Talk999」というものを選びました。

これは月額使用料(Rs349)と、ディスカウント料金適用料(Rs650)の組み合わせです。



2.このプランで適用される料金(通常より安くなります)

州内電話の料金は、対モバイル:Rs0.5/分、対固定電話:Rs1.05/分。

さらに、対モバイルSTD通話をRs.0.5/分で、50分まで通話できます。



3.STD、ISD通話

STD、ISD通話は、会社の信用度を測った上で、最初に保証金を支払う必要があります。

私の事務所にも携帯電話業者の人が来て、「何をやっている会社なのか」とか質問していきました。

残念ながら我が社の名前は、インドでは全く通用しませんでした。

聞き取った情報を基にして、漸く今日になって、必要な保証金額が算定されたようです。

代理店の話だと、最初に1回線につき「Rs10,000」預ける必要があるとのこと。

明日手続きしようと思います。



これを支払うと、STD通話は、Rs2.99/分、ISD通話は、Rs15.99/分(中近東、アフリカ、太平洋諸島を除く)で通話できることになります。



4.ローミングサービス

上記の他に、月額使用料を払って、ローミングサービスを受けます。

つまり、ムンバイで契約した携帯電話をデリーやバンガロールに持っていっても使えるようにします。

  Rs49/国内ローミング、 Rs149/国際ローミング(国内を含む)

日本の携帯電話の料金システムも複雑ですが、インドもひどく複雑です。

さらに競争が激しいため、料金変更が多くて最新の料金情報についていくのが大変です。



2004年10月06日(水) ブログ開始、インドの携帯電話

今日の日記からブログにしてみました。これから、日記に写真を使ったりできます。他にも色々な事ができるみたいなので、少しずつ勉強していきたいと思います。私は会社の仕事で、2004年9月からインドのムンバイに来ています。2003年12月までは、スリランカのコロンボに2年間ほど住んでいました。その時のことはホームページ内の他のページに詳しく書いてあります。


これからインドで経験したことを、このページに書いていこうと考えています。ムンバイで仕事を始めるに際して、色々なことをしなければなりません。今、ムンバイで携帯電話の申し込みをしている最中なので、インド携帯電話料金を解説します。


先々週に申し込んだのに、未だ市内通話(州内通話)だけしか通じないので、少し頭にきていますが。9月当初からしばらく間はプリペイド方式の携帯電話を使っていました。プリペイドカードはムンバイ市内の至る所で売っています。料金分使い切ってしまっても簡単に「リフィル」することが出来ます。でもやはり、会社名義で契約して、後払い(ポストペイド)方式の方が便利なので、切り替えているという次第です。(因みに契約した業者はハチソンのオレンジというブランドです)


携帯端末は従来から持っていたGSM端末をそのまま使っています。これはスリランカでGSMサービス開始したときに記念に頂いたものです。

1.最初費用
後払い払SIMカード代:Rs500(保証金)、Rs99(カード代)(1Rs=2.5円程度と考えてください)これだけ払うと、州内電話が可能になります。


インドではほぼ州単位に23の通話サークルが設定されています。このサークル内に閉じた通話が州内通話です。他のサークルに通話する場合は、STD通話といって州際通話料金となります。


更に外国に電話する場合は「ISD通話」といって通常の国際通話になります。Rs599支払うと州内だけの通話が可能となるわけです。月額の料金プランは「Talk999」というものを選びました。これは月額使用料(Rs349)と、ディスカウント料金適用料(Rs650)の組み合わせです。



2.このプランで適用される料金(通常より安くなります)州内電話の料金は、対モバイル:Rs0.5/分、対固定電話:Rs1.05/分。さらに、対モバイルSTD通話をRs.0.5/分で、50分まで通話できます。


3.STD・ISD通話
STD・ISD通話は、会社の信用度を測った上で、最初に保証金を支払う必要があります。私の事務所にも携帯電話業者の人が来て、「何をやっている会社なのか」とか質問していきました。残念ながら我が社の名前は、インドでは全く通用しませんでした。聞き取った情報を基にして、漸く今日になって、必要な保証金額が算定されたようです。代理店の話だと、最初に1回線につき「Rs10,000」預ける必要があるとのこと。明日手続きしようと思います。これを支払うと、STD通話は、Rs2.99/分、ISD通話は、Rs15.99/分(中近東、アフリカ、太平洋諸島を除く)で通話できることになります。


4.ローミングサービス
上記の他に月額使用料を払って、ローミングサービスを受けます。つまり、ムンバイで契約した携帯電話をデリーやバンガロールに持っていっても使えるようにします。
Rs49/国内ローミング、 Rs149/国際ローミング(国内を含む)


日本の携帯電話の料金システムも複雑ですがインドもひどく複雑です。さらに競争が激しいため、料金変更が多くて最新の料金情報についていくのが大変です。



2004年10月03日(日) ムンバイ日本人会

今日はムンバイ日本人会の臨時総会がありました。場所は日本領事館、時間は午後3時から。初めてなので、どんな雰囲気であるのか興味がありました。
ムンバイ日本人会有権会員数は128名だそうで、60名以上の参加がありました。日本総領事館の一階ロビーを使って行われました。


議題は、少し寂しく「日本人幼稚園の閉園」について。園児数の減少(駐在員減少と単身赴任の増加が要因でしょう)に伴い、幼稚園運営が難しくなってきて、2004年末の閉園の了解を取り付けるというもの。ムンバイは商業都市で、インドの金融・商業の中心ですが、残念ながら工場を迎え入れるような広い土地はありません。(ほんとうは探せばあるのかしれませんが)日系企業の進出は、北の首都ニューデリーか、南のバンガロールに集中してしまうようです。銀行さんでもムンバイからニューデリーに要員シフトを考えているところがあります。


さて、日本人会ですが100名ちょっとという規模でとてもきっちり運営されている様子です。小さいながらNHKのワールドプレミアムの受信体制を整えたりしています。幼稚園も10人未満の園児でよくやってきたと思います。


さて、これから日本人在住者減少の中、これまでのような活動ができるかどうか心配です。ところで、通信事業者の我が社がムンバイに来たということで、日本人会でもインターネットやケーブルテレビで専門家が来て良かったみたいに考えている人がいますが、残念ながら事務屋の私では、あまり力になれません。



2004年10月02日(土) 祝日

今日は全国的に祝日のようです。といっても州によって違うので本当のところは判りませんが、少なくとも入居しているビルは完全に締め切りです。何の日かというと「マハトマ・ガンジーの誕生日」なのです。やはり「ガンジー」というと今でもすごく尊敬されています。あまりに崇拝されすぎていて、ちょっと冷静な評価とは言いがたいくらいです。


今日本屋さんにいって、本を眺めてきたのですがガンジーに関する本は以外に少ないのです。今度日本に帰ったときに伝記を買ってこようと思います。今日本屋さんで見つけて確認してきた本は3冊。ルピー残高が少ないので来週以降買うかどうか決めるのですが。


1.英語・ヒンズー辞典。もちろん日・ヒンズー辞典などは売っていませんからこれしかないのです。でも購入はもう少し勉強が進んでからにしようと思います。これはRs330


2.劇画「マハーバーラタ」。探していた3冊の分厚い漫画です。ゴルゴ13みたいなタッチなので面白そうなのです。これはRs980


3.今日発売の「ムンバイのパルシー写真集」。ムンバイに住むパルシーの人の写真がぎっしり詰まっています。「拝火教」の宗教儀式は部外者には一切見ることが出来ないので非常に興味のアル写真集です。でも値段がRs2500。立ち読みで我慢することにしました。



2004年10月01日(金) 下半期

10月1日から2004年度下半期に入ります。ということは9月末で半期決算を締め切らなければならないといいことであります。インド事務所は9月から活動開始しているので、一か月分の決算が必要でした。この決算が面倒なこともあって、9月の支出は最低限必要なものに限っていたのでした。


決算処理は今日と来週の月曜日で終わる予定です。本当は今日取引銀行から月末残高通知を受け取る予定であったのですが、無理でした。実はインドも4月から翌3月までの決算なので、各会社ともこの時期は忙しそうです。その影響もあって残高確認は来週持ち越しです。


自分で一人で小切手を書いて払い出しているので間違いが無いかどうか心配なのです。色々な方面にローカル社員の紹介を頼んでいるのですが、まだ決まりません。来週から精力的に面接を行う予定なのです。


(追伸)
今日からブロードバンドのインターネットが開通しました。事務所が入居している大家さんに頼んでいたところ、きっちり1日からOKでした。ブロードバンドといっても100から150Kbpsがいいところです。それでもダイヤルアップ接続よりはずっと早いです。


前から少し知っていたのですが、大家さんのところのインターネット技術者が10年前位に阪大に留学していたとのことで日本語が少し話せるのです。彼は店子として「日本人」が来たということで大喜びです。非常に優秀な技術者です。仕事を始めてから30分でつながりました。


彼はクリスチャンで何でも食べられるので、日本で生活はとても楽しかったようです。ラーメンとか鍋物とかお好み焼きとか、日本食を懐かしがっていました。今度お土産でも持ってきてやろうかと思っています。


さて、ブロードバンドがつながったので、日本から持ってきたウェブカメラの実験をしました。実家のパソコン内蔵カメラでは写りはよくありません。こっちの画像は結構きれいに写るみたいです。スリランカ時代は、もっぱらチャットでしたが、今度は映像付きの音声チャットが出来そうです。




Ken [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加