KENの日記
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2004年07月31日(土) ビクトリアターミナス駅

今年のユネスコ会議で、熊野三山神社や熊野の参道などが新たに世界遺産に指定され、NHKでは早速、特集番組などを放送していましたが、同じ会議において、ムンバイの「ビクトリアターミナス駅」も世界遺産に指定されたのでした。


ビクトリアターミナス駅の建物はムンバイにあるネオゴチック様式の建物中でも代表的なものです。非常に雄大であり、そして非常に細かい装飾が施されています。今日土曜日の雨の小ぶりな時期を見計らって行って見ました。


ビクトリアターミナス駅はボンベイの中央駅です。長距離列車と近郊列車の両方が発着します。土曜日だからでしょうか大きな荷物も抱えた人達や、通勤客でごったかえしていました。しかし、私は、朝晩の通勤時間帯、休日などの池袋駅を知っているので、人の多さはそれほどびっくりしませんでした。


インドの鉄道駅は切符が無くてもホームまで入れます。長距離のディーゼル機関車と客車と近郊の電車を見ることができました。近郊電車では日本には無い「コンパートメント方式」を目の当たりにして感慨が深かったです。


というのも、スリランカに関する英語の本を読んでいて「ひとつの客車には三人ずつ座れる座席4つからなる客室が幾つかある」という表現に出会い、どんな列車か想像がつかなかったでした。スリランカでもフォート駅まで列車も見に行きましたが、そんな構造の列車は無かったのでした。


ところが、今日まさしくその表現どおりの列車に出会えたのでした。実は、インドの列車は幅がとても広いのです。真中の通路の両側に、3人掛けの椅子が進行方向に向いて直角に二つずつ向かい合わせに並んでいました。そして、それら4つの椅子がひとつのコンパートメントを形成しているのです。


この形式はとてもユニークだと思いました。かつての日本の長距離列車は二人ずつが向かい合う「4人」の世界を形成しました。インドの列車は、まず向かい合う6人が世界を形成し、同じコンパートメントの12人がもうひとつの世界を形成するのです。さらにコンパートメントが4つ連なって一台の客車になるです。家族が多いととても便利だし、多くの友人との旅などではとても面白そうです。因みに最後尾の車両は女性専用車両でした。埼京線より歴史は古そうです。


駅の外観はというとあまりに大きいので少し離れないと全容がつかめないのです。従って駅を出て、駅から続く通りから写真を撮ってきました。壮大な建築を見ていて、音楽のことを思い出しました。


それは世に言われる「名曲」のスコアをコンピュータで分析し、名曲の秘密を探ろうとした試みのことです。結局、名曲の秘密は分からなかったのですが、名曲といわれる曲にはひとつの共通点があったのだそうです。


それは「バランスがいい」という事だそうです。長い音符、中庸程度の音符、短い音符、高い音、中音域の音、低い音、和音の数、進行具合、音の強・弱などに適当な多様性があって、それでいてバランスが取れている。


ビクトリアターミナス駅は、正しくその表現にぴったりです。壮大で、きめ細かい。見るものを圧倒します。実はムンバイには、ビクトリアターミナスに匹敵するような建物が沢山残っているのです。



2004年07月30日(金) ムンバイのクラシック演奏会

新聞で30日の夜にクラシックの演奏会があることを知り、事務所の入っているビルの秘書の方にチケットを購入してくれるように頼んでおいたのです。最初は既に売れ切れだと言われていたのですが、キャンセルが出て聞く事が出来ました。演奏会の内容は以下の通りでした。


ボンベイ室内管弦楽団演奏会
2004年7月30日 6時30分開演。場所:実験的劇場(ホテルの近く)


客演指揮およびバイオリン:ヴァヒーダ・カーデム・ミサーカ
曲目
パッヘルベル カノンとジーグ
モーツアルト バイオリン協奏曲第5番

アルブノーニ アダージョ
グリーク     弦楽のための組曲「ホルベルク」

アンコール シュトラウスのピチカートポルカ
バッハ バイオリンソナタからアダージョ


6時30分に始まって8時20分には終わっていました。金曜日の夜には手軽な演奏会だと思いました。会場は小さなホールで300人入ればいっぱいでしょう。講演会をするための部屋みたいでした。他の立派なホールがあるみたいですが。


しかし、正直言って始めて「スリランカシンフォニーオーケストラ(SOS)」を聴いたときより、がっかりしたことは否めません。技術云々をいうつもりはありませんが、演奏している方達がぜんぜん楽しそうではないのです。


「自分達がいい音を出している」と感ずる瞬間がないのではないでしょうか。基本的な技術の問題なのかもしれませんが、演奏者が楽しまなくては聴衆が楽しいはずがありません。


これに比べ、スリランカのSOSは、チャイコフスキーの交響曲とか、ブラームスのピアノ協奏曲とか非常に無謀な選曲をしますが、演奏者は最後には非常に楽しみます。自己満足でもなんでも楽しんだら勝ちみたいなところがありました。


ムンバイ室内管弦楽団の演奏を聞いていて、選曲にはあまり無理はしませんが、やっていて面白くもないと言う感じに聞こえました。管楽器がほとんどいないというのも原因なのかもしれません。管楽器奏者は時に自意識過剰なところがありますから。


パートでは、チェロが一番充実していました。トップの方のソロはなかなかうまかったと思います。チェロは全員で5人。バイオリンは結構人数がいる割に、音量がでていませんでした。


楽団の方は男性が多いのには驚きました。そして平均年齢もかなり高そうです。聴衆はというとこれはもう「老人」がほとんどでした。若い人はほんの少し。演奏する側も聞く側も高齢です。若い人の間でのクラシック音楽人気は非常に低そうです。


仕事でインドに来ていますが、こうした演奏会などで、外国の方と同じ趣味を共有できるという感覚はうれしいです。外国がとても身近に感じられるのです。聴衆の特徴でもうひとつ。外国人がほとんどいませんでした。コロンボ首都なので外交関係者が多かったのでしょう、演奏会には沢山の外国人の方が来ていました。日本人が他にいるかなと探しましたがいませんでした。



2004年07月29日(木) インドの人達の英語

インドの人達は英語に対して特別な気持ちを持っているようです。市内を流しているタクシーの運転手はほとんど英語を話しませんが、ホテルで雇い上げるレンタカーの運転手は英語を話ます。先日、バンガロー出張の飛行場までの車の運ちゃんは、何回も自分の英語が「上手かどうか」を聞くのでした。彼は英語が話せるおかげで、外人の固定客を持っているのです。


スリランカでの生活では正直言って「スリランカ英語」に少し慣れることができました。スリランカの人達は独特の発音、イントネーションが特徴です。でも、インドに来て見るといろいろな英語に出会うというのが正直な感想です。


スリランカ英語と同じような英語から、すごく上品な英国式の英語、そして少し巻き舌のアメリカ式、そしてシンガポール英語に代表される東南アジア英語です。そして、ここが大事なのですが、色々な英語を話す人々の間で、当然意思疎通は図られていますが、インドの人達は、より洗練された英語を話せるようになりたいと考えているらしいことです。


人間関係はとても複雑です、特に根深いカースト制度を持つインドでは、特に気を使うみたいです。そればかりでなく、インドの人達はとても他人に気を使います。相手を考えた英語を大切にするのではないかと思われます。


正直いって、スリランカでは、周りの雰囲気もあって、あまり洗練された表現を勉強しませんでした。宿舎に帰れば、タミール語、シンハラ語の達者なメイドとお互いにブロークンな英語で話していたのでした。


ただ意思疎通だけの手段ではない、もう少し次元の違うコミュニケーション手段として考えてみる必要がありそうです。インドに来て見て、自分の英語をもう少しブラシュアップしないとまずいなと思い始めました。


一方、今後のインドのことを考えると、少し分からないことがあります。それは「アメリカ」の存在が大きいということです。アメリカのITの大企業がインドに進出していますし、インド人がアメリカでMBAをとって帰ってくる例は相当多いようです。


インドでまで「アメリカ式英語」を聞きたくない感じがします。イギリス植民地時代の古い建物が沢山残る「ムンバイ」において、綺麗なブリティッシュイングリッシュを話す人の数が増えていく事を期待したいです。



2004年07月27日(火) バンガロール出張、バンガロールクラブ

日帰りでインド南部の「バンガロール」に行ってきました。目的はバンガロールに住んでいるITコンサルタントの「T」さんに会うためです。バンガロールはインドのシリコンヴァレーとも呼ばれていて、ITカンパニーが集積しているのです。


Tさんは元々薬品関係の仕事についていて、その後IT関係のコンサルタントを始めた方で、急成長するインドIT産業の中で活躍しているのです。伝統のある財閥の力が強いことに加えて、欧米企業の進出が著しく、またアメリカで勉強してきた若い技術者が「ベンチャー」を立ち上げるというように、インドには様々なプレイヤーがいるのです。インドのビジネスを考えるのは、まず人と合うことが大切だと思っています。


さて、ムンバイ−バンガロール間の飛行機便ですが、「JetAirways」という飛行機会社が頻繁に飛んでいます。今回の日程は以下のとおりでした。


ムンバイ  (10時20分)−バンガロール(11時55分) 9W443便
バンガロール(22時30分)−ムンバイ  (0時5分)   9W9442便


ムンバイは、デリーとバンガロールという日系企業の集中している都市へのアクセスがよく、日帰出張が可能なことを体験しました。出入国審査がないので飛行場に30分前に着いていれば飛行に乗れるのです。ホテルを8時に出ると、9時過ぎにはムンバイのサンタクルズという国内線の空港に着きました。


ムンバイの空港は市内からかなり離れているので、市内からどれくらい時間がかかるのか把握しておく必要があります。「モンスーン」時期で雨が降っていることに加え、丁度学校への通学時間のため、途中の道は大変混雑していました。


なぜ通学時間帯に混雑するかというと、有名な私立学校には子供を車で送っている親が多いし、それほど裕福でない親達は、グループでバンを雇って子供を学校まで送るのです。有名学校の前は車が集中することになるのです。なぜ、私立の有名学校が良いかというと、低学年からキチンとした「英語」を教育するからだそうです。貧しい人達でも英語が出来れば職に見つけるチャンスが増えるし、流暢な英語が出来ることは自慢のひとつでもあるのです。


バンガロールでは、ニューデリーから日本に帰る途中の「M」さんと合流しました。実は「M」さんの紹介でITコンサルタント氏と面会することになったのです。オベロイホテルでゆっくり昼食を取ったのですが、「M」さんといろいろ話すことができました。


びっくりしたことに、「M」さんは私と同郷で長野県出身だったのです。私が長野の上田に勤務していた当時、「M」さん諏訪にいたそうです。そのころどこかであってりるかも知れません。「M」さんはその後ロンドンに勤務されました。「M」さんが大の音楽好きということも知りました。非常にうらやましいことに、「M」さんロンドンを基点にして、ヨーロッパの有名な音楽祭やコンサートに出かけたのだそうです。そういうことは、スリランカでは経験できません。インドでも無理でしょう。


さて、ITコンサルタント「T」さんのオフィスにお邪魔してお話を伺った後、すぐ近くの「バンガロールクラブ」というところに立ち寄り、Tさんの自宅で夕食をご馳走になりました。


「バンガロールクラブ」はイギリス統治時代の1864年創立といいますから、140年前の建物です。非常に立派です。インドの人達はイギリス人の良いところはキチンと真似して大事にしています。丁度この日、クリケットアジアカップのインド対パキスタンが行われていて、どこのテレビも人だかりでした。


このクラブにはプールやテニスコートや子供の遊び場があって、夕方でも家族連れで賑わっていました。もちろレストラン、バーやちょっとした集会室がたくさんあるようです。


このクラブの「名物」は若き日のチャーチルが騎兵隊員としてバンガロールに居て、彼の未払いの請求書(1901年)が残っているということです。その請求書は最近償却されたのだそうです。


「T」さんの家は街の中のマンションでした。とても美味しいインド料理をいただきました。ムンバイ行きの最終飛行機は結構混んでいました。出発直前の機長の挨拶で、クリケットのインド−パキスタン戦でインドが勝利した旨アナウンスされ、機内は一時歓呼で多騒ぎになりました。その後離陸するとすぐに眠ってしまいました。



2004年07月26日(月) DHL便

先週の木曜日に日本から発送した荷物が今日の午前中にムンバイの事務所に着きました。DHLにお願いしたのですが思いのほか順調でした。
因みに「DHL」は創業者3人の名前から取ったとのことです。「Adrian Dalsey, Larry Hillblom and Robert Lynn (D, H, and L)」


さて、荷物ですが開封された形跡はまったくありません。申告書だけですんなり届いたようです。スリランカでの経験上、外国からの箱に詰めた荷物は、必ず開封されて、何か無くなっていたり、あるいは増えていたりするのが普通だと思っていました。さすがに大国インドではそんなことをいちいちやってはいられないのでしょう。


ただし使ったダンボールの箱は大分傷んでいました。前回インドに来たときに、手荷物として同じ飛行機で運んだ「ダンボール箱」がぼろぼろになってしまったので、今回十分しっかりガムテープで梱包したのがよかったです。多分、飛行機の乗り換えがあって其の時に大分荒っぽく扱われるのだと思います。


とにかく日本から比較的手軽にしかも早く荷物が届くことが確認できて少しほっとしました。貴重品は運ぶのは難しいと思いますが。先週日本でお会いしたムンバイの会計士の「プラカシュ」さんにお会いしました。7月15日の知り合いの会計士二人とともに、日本の会社との打ち合わせのために二日間の滞在予定で来日されたのですが、打ち合わせ予定の日が一日延期されてしまい自由時間が出来たので、私はお友達ともども東京を案内したのでした。


東銀座のインド料理レストラン「ナイル」で昼食を取り、浅草の浅草寺を案内したのでした。その時の写真をファイルで持ってきたのでファイルで差し上げました。


「プラカシュ」さんはそのお礼にと「夕食でもいっしょに食べよう」「我が家に来ないか」と親切に誘ってくれました。しかし、そのお誘いに応えるはもう少し後ににしようと思います。


日本でのインド料理店での昼食で知ったのですが、彼等3人は「卵」も遠慮する完全は「ヴェジタリアン」なのです。もちろん「アルコール」は一切飲みません。「タバコ」も吸いません。


ついでに言うと、3人の中の一人の方は「ジャイナ教」の方で、「ヴェジタリアン」でも「地下で取れる野菜は食べないヴェジタリアン」なのです。つまり、ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、ニンニクなどは食べないのです。日本では、キャベツとピーマンの炒め物を作ってもらっていました。


その時に、私にはチキンカレーを勧めてくれたのですが、彼等3人の前では少し「遠慮がち」に食べざるを得ませんでした。彼等3人はとても気さくで、気の置けない人達なのです。しかし、こういう雰囲気にうまく馴染んで、上手に対処していくには、もう少し時間が必要だと思いました。



2004年07月25日(日) 雨の日曜日、サイレントチェロ

きょうの日曜日は一日中雨が降っていました。ホテルの部屋の温度は25度くらいでとても涼しいのです。日本は夏休み最初の日曜日で相変わらずの暑さであったようですね。


モンスーンの時期は観光客が減るので、航空運賃とかホテルの宿泊代が安くなるのです。でも雨では観光の楽しみは台無しになってしまうので、実際は観光の閑散期のようです。しかし、ホテルの前のマリンドライブは地元の人達で賑わっています。


観光客ではないですが雨に日曜日にホテルで何をするのか。今回はそうした対策に万全を期してきたのでした。それは「サイレントチェロ」です。実はヤマハが比較的安いタイプの「サイレントチェロ」を一年前くらい前に出したことを知って早速購入し、今回機内持込でムンバイまで持ってきたのです。


ヤマハの最新のサイレントチェロの「SVC50」は、これまでのタイプより小さく収納できるのです。チェロを演奏するための弦・指版はありますが、共鳴箱はありません。その代わりに、ハイポジションの演奏で左手で本物の感触を得るため、共鳴箱の一部が取り付けられています。さらに、共鳴箱の胸に当たる部分と、両足で支える部分が取り外しできる形で取り付けられるのです。


持ち運ぶ時には部品を全てはずしゴルフバックくらいの大きさになるのです。成田のカウンターではシンガポール航空の日本人の受け付けの方が、大分心配してくれました。まず、成田−シンガポールは何とかなっても、シンガポール−ムンバイ間は持ち込み禁止になるのでないか・・・等。


まず、シンガポールまではジャンボなのでOK。ファーストクラスの大きな収納戸棚に入れてくれました。さて、シンガポール−ムンバイのジャンボより少し小さい飛行機(747)ですが、これもOK。なにせ、普通のインド人乗客の荷物は大変な量なのです。普段からそういう客に慣れている空港職員は、すんなりOKしてくれました。


このサイレンとチェロの音は、電気的に増幅された音をヘッドホンで聞くことになっています。さすがに共鳴箱に共鳴する振動の快感はありませんが、それでも自分の発生させる音を増幅しているので、音の良し悪しは奏者次第と言うことになっています。


共鳴箱がなくとも、演奏するとそれなりの音がしますが、本物のチェロに弱音器をつけた音よりは小さい感じです。従って、夜の練習とか出先のホテルで練習するには持って来いです。


SVC50には「弓」は付属していません。従来の弓で済まそうかともおもったのですが、弓のないチェロ本体を置いておいても仕方がないので、奮発して「弓」も購入しました。アメリカ製のカーボンファイバー製です。カーボンファイバーは品質が安定しているし上部なのだそうです。随分進歩しているものです。


これによって雨の日曜日も完璧です。前の旅行の時にはシンガポールで「ヨーヨー」を買って来て、気分を紛らせていたのですが、今回は格段に気分がいいのです。これで美味しい日本食があったら文句が出ないのですが。


(追伸)ホテルの部屋でNHKの海外放送を見ることが出来ます。日曜の夕方「新撰組」をやるのかと楽しみしていると「経済最前線」をやっていて「新撰組」はなし。NHKは海外放送(無料版)の番組をもう少し改善すべきです。



2004年07月24日(土) ムンバイから

金曜日からインドのムンバイ(旧ボンベイ)に来ています。これまで二回来ているのですが日記には詳しく書いてきませんでした。今回はちょっとだけ詳しく書きます。ムンバイに来ている理由は会社の事務所を立ち上げるためです。このことは会社が報道発表したので書いてもOKになったのです。


私の勤めている通信会社が、インドの国際・長距離通信会社(VNSL社といいます)と共同でインドでIP−VPNサービスを提供することになったのす。そして、日本とインドの連携をスムーズにするために連絡事務所を開くというわけです。


ただし事務所を開くといってもそう簡単にはいきません。4月中旬にインド政府に事務所開設の申し込みを済ませたのですが、7月20日にようやく許可が降りたのです。次の手順として、このインド政府発行の許可証をもってムンバイ市で登記する必要があるのです。今はこの段階です。


これまで、ムンバイには何の「足掛かり」もなかったものですから、ゼロから事務所を立ち上げることになります。さしあたり当座の事務所は確保出来ていてそこを拠点に登記の進捗チェックだとか、会計ルールの勉強だとか、銀行口座開設の準備をすることになります。この事務所はムンバイ市のオフィス街の「ナリマン・ポイント」というところにあります。


7月下旬のムンバイはモンスーンの最中です。今年のムンバイのモンスーンは雨が少ないのだそうです。インド東部の州では洪水で犠牲者が出ているところもありますが、西部では雨が少ないです。そして気温も高くないのです。日中でも30度そこそこ、夕方は30度を下回るのでとても涼しく感じます。今年の東京の夏は、こちらよりだいぶ厳しいです。


(ムンバイ情報)
ムンバイ市内は三輪車の乗り入れ禁止されています。三輪車が町に入ると「交通渋滞」を起こすからです。その代わりに黒と黄色の古いフィアットの小型タクシーが町にあふれていいます。


このタクシーは基本的にはメータで走ります。外国人観光客に対してはメータを倒さずに走って、高い料金を請求するドライバーも多いのは事実ですが。メータ料金は初乗り(メータ:1)が13ルピー(33円くらい)です。今日はホテルから少し離れた本屋さんまで行きました。メータ「3.5」で50ルピーでした。


出かけた本屋さんの名前は「クロスワード」。綺麗な本屋さんで大変混雑していました。ここで、アルファベットで書かれたヒンディー語の辞書を探したのですが、残念ながらそういう本はないのだそうです。ヒンディー語はナーガリー文字で書かれますが、これは「文字」を覚えなければまったく読めないし、意味はわからないのです。一方、市内の道路標識とか、新聞紙上ではアルファベットで表記されたヒンディー語を多く使うのですが、これは「音」は想像がつくものの「意味」は分かりません。


でも、アルファベット表記の方が少しばかり容易に思えます。因みにベトナムのベトナム語は表記だけはアルファベットが基本です。単語の知識と文法を理解すれば読めそうな感じがします。


目当ての本がなかったので、子供向けの「インドの歴史」を買ってきました。前回来たときに気になっていた「劇画マハーバーラタ(全3巻)」ですが、売り切れて品切れだそうです。大変人気があるようです。8月に増刷されるそうなのでそのときに購入しようかと思います。


晩御飯は、ホテルに近いマリンドライブに面した「スーナ・マハール」というイタリア料理店で食べました。ここはピザとパスタ料理だけで、夜10時からジャズのライブがあるのだそうです。「タンドーリチキンの入ったペンネのナポリタン」(210ルピー)。Haywardsビール(1マグ)(65ルピー)でした。インド料理店に比べると少し割高です。


ホテルまでは「マリンドライブ」を歩いて帰りましたが、さすが土曜日の夜でカップルやら家族連れが繰り出していて、ものすごい人出でした。



2004年07月23日(金) 初耳情報、周恩来暗殺未遂

シンガポールからムンバイに向かう飛行機で配られていた7月21日付けの「The Indian Express」の記事で面白いものがありました。


1955年4月11日に香港からインドネシアに向かったエアーインディアのチャーター機が上空で爆発事故を起こし飛行士等3人が助かったものの、残りの乗客・乗員16人が死亡した事故に関するものです。


この飛行機には、インドネシアのバンドンで開かれる予定のアジア・アフリカ会議に出席するため、中国と東ヨーロッパの代表団とマスコミ関係者がのっていたのでした。


今回中国政府が公表した機密文書の中で、この爆発事故は中国の「周恩来」を暗殺するためになされたものだということが明らかにされたそうです。


実際、「周恩来」はこの企みを事前に知って、この飛行機には乗らなかったのだそうです。「周恩来」は4月14日にインドのネルー等に会うために別の飛行機でラングーンに向かったのだそうです。


「周恩来」はこの企みを知りながら、チャーター便に乗った他の乗客には何も知らせなかったのだそうです。つまり他の乗客は「おとり」となったのだそうです。このことは、単に「周恩来」が冷たい人間だったとだけ解釈することは早計だと思います。暗殺者側に犠牲を払っても生き延びる「冷徹」な決意を示したといえるでしょう。


当時「周恩来」が毛沢東の専制の中で、またその取り巻きの間で繰り広げられた権力闘争の中で、生き延びることは大変なことだったと思います。


飛行機に関連した「殺害事件」は、一時期毛沢東の後継者と見られていた「林彪」の死亡事故(事件)が有名です。これはロシアに逃れようとして撃墜されたのだと記憶しています。もし「周恩来」も飛行機事故で亡くなっていたら、中国は飛行機暗殺で有名になっていたことでしょう。



2004年07月22日(木) ムンバイ到着

先ほど23時頃無事ムンバイに到着しました。空港まで迎えにきてもらったホテルの運転手によると、これまでのところのムンバイのモンスーンは、雨が少ないのだそうです。夜の外気温は30度くらいでしょうか。日本の猛暑で鍛えられたので暑くは感じません。


ホテルに入ってチェックしたこと。
1、インターネットにダイヤルアップで接続したこと。
2、こちらで使う携帯電話(オレンジ)の通話時間残高を確認し、充電したこと。これから3週間こちらで仕事をします。



2004年07月13日(火) 心配なスリランカ

スリランカのインターネットニュースがちょっと心配な記事を載せていたので紹介します。


今年3月初旬に反政府組織LTTE内で北部勢力(プラバカラン氏)と東部勢力(カルラ氏)の内部抗争が起こり、ブラバカラン氏の掃討作戦にあって、カルラ氏は外国に逃れて姿を消していたのでした(タイ国に逃れていた模様)。


そして、7月7日にはコロンボで自爆テロがありました。これは反政府組織LTTEを離反したカルラ氏を、コロンボのタミール人団体が正式なタミール人の代表と認めようとしたこと対して行われたものでした。


11日のニュースは、そのカルラ氏が一ヶ月以内に政治活動を開始しようとしていると伝えています。カルラ氏はプラバカラン氏をインドでのラジヴ・ガンジー暗殺事件の首謀者として責任を追及するとともに、プラバカラン氏が和平交渉の裏での武器購入を進め、戦争を準備していると非難しているのです。


さらに同じ11日に、インド政府がプラバカラン氏のラジヴ・ガンジー暗殺事件に関与しているとして、スリランカ政府に求めている身柄引き渡し要求は今後とも撤回しないと改めて表明しました。


この一連の動き・報道で北部のプロバカラン氏の立場は非常に悪くなります。プラバカラン氏はタミール人の間では圧倒的な人気があります。彼が政府に対して抵抗運動を始めたのでした。そのプラバカラン氏は自分を裏切ったカルラ氏を絶対許さないでしょう。カルラ氏を狙ったテロを企てるでしょう。さらに、スリランカ政府がカルラ氏を擁護しようものなら、スリランカ政府との和平交渉は無に帰してしまうでしょう。


スリランカ政府内部には、この情勢をチャンスと見て、カルラ氏を支援してLTTE内部分裂を起こし、親政府的なリーダを擁立し一機に和平を実現させようと考える人達もいるはずです。しかし、この行動は非常に危険です。多くの血が流れることになります。


スリランカ政府特に大統領には慎重に行動してもらいたいです。



2004年07月08日(木) コロンボで自爆テロ発生、LTTE分裂

7月7日、スリランカの首都コロンボ市内の警察署で爆弾テロがあり、自爆テロの犯人と4人の警官が死亡、多くのけが人が出た模様です。自爆テロの犯人は、スリランカのタミール人政党の「EPDP」(Eelam People's Democratic Party)の党首の家の近くをうろついてたところを警察に見つかり、警察署で取り調べを受けようとしていたところで持っていた爆弾を爆発させたようです。


この事件の背景を少し説明しておきます。今年の3月上旬のことですが、スリランカの反政府タミール人組織のLTTE(もちろん非合法です)内で分裂事件がありました。LTTEの指導者「プラバカラン氏」が配下の有力な軍司令官(カルナ氏といいます)を突然解任したのでした。LTTEの指導部内に対立があったようです。


その後、プラバカラン側は、カルナ側を制圧しようと武力に訴え、カルナ氏は独自の抵抗組織を立ち上げようとしたのですが、プラバカラン氏側の弾圧でカルナ氏結局国外に逃れたようでした。


この間、スリランカでは4月に総選挙が実施され、和平交渉を推進してきたUNP政権が破れ、クマラトゥンガ大統領率いるPA政権が樹立されたのでした。コロンボのスリランカ政府はLTTE内紛に対して中立を表明していたのですが、政府軍がLTTEの反乱分子を陰ながら支援してきたのは事実のようです。


南部のタミール人社会における穏健な人達は、選挙において合法的な代表者を選出し民族問題を解決しようとしています。そのひとつが「EPDP」という組織でした。この政党は今回の選挙で全得票数の0.3%を獲得して国会に「1議席」を確保しました。


実は、この「EPDP」がタミール人の非合法組織のLTTEの内紛を解決しようと、「プラバカラン」「カルナ」氏の仲を取り持とうと画策したのです。これが7月6日のことです。インターネットに配信された記事です。実のところ、そんなに簡単に収まるはずがないと思っていました。


July 06, Colombo: The EPDP, which has openly agreed to give its fullest cooperation to former LTTE eastern commander Karuna to join mainstream politics, has invited LTTE leader V. Prabhakaran to also take the democratic path, giving up military action.


こうした動きがあった翌日の爆弾テロということです。プラバカラン氏サイドが裏切り者を一人前に扱おうとした「EPDP」を攻撃したというのが真相のようです。いずれにしろ和平交渉当事者が誰なのかが不安定な状況(政府側もLTTE側も)では、和平はまだ遠い感じです。残念です。



2004年07月04日(日) まとめて記録

もう7月です。梅雨が明けていないはずなのにとても暑い日でした。近くの木が茂っているお屋敷の近くを通ったのですが、もう「セミ」が鳴いていました。セミも勘違いするほどの暑さの連続です。


記録1.「焼酎」
今日焼酎が飲みたくて近くの森田商店まで自転車で買いに出かけました。日本酒が豊富なので良く買うのですが、今日は焼酎です。先月、職場の上司の送別会が麻布で行われ私も参加してきました。そこで出された「赤ワイン」(オーストラリア産で銘柄は忘れました)も美味しかったのですが、ワインの横にならんだ出された焼酎「朝日」の水割りがとても美味しかったのです。店の人が丹念の水とかき混ぜて「水割り」を作ってくれたのが印象的でした。


ということで、最近「焼酎」の品揃えも充実している「森田商店」に行ってみたのです。しかし、残念ながら「朝日」は最近入荷しないのだそうです。とても人気が出ているのだそうです。「朝日」の代わりに同じ「黒糖」焼酎の「弥生」を推薦してもらい買ってきました。


「黒糖」(さとうきび)焼酎は、酒税法で奄美群島だけで製造することが認められているのだそうです。奄美群島がアメリカから返還されたとき、奄美の主要農産物である黒糖(サトウキビ)で焼酎を造り飲んでいた実績が評価されてのことだそうです。非常に口当たりが良いので、本当に「飲みすぎ」に注意しなければなりません。しばらくはまりそうです。


記録2.「歌手」
いま、ソプラノ歌手「ガリーナ・ヴィシネフスカヤ」にはまっています。残念ながらCDがあまり出ていないのです。それでも復刻された昔のCDを捜しだしました。ロシア歌曲の一枚と韓国製のオペラアリア集を買い求めました。


「ヴィシネフスカヤ」は名チェリスト「ロストロポーヴィッチ」の奥様として有名です。夫妻は1975年(たぶん)に、ソビエト当局の弾圧に耐えかねて西側に亡命したのでした。当時ソルジェニチンを支援していて弾圧されていたようです。


旧ソビエトの演奏家というと、ムラビンスキー、リヒテル、オイストラッフ、ロストロポービッチ等が有名です。西側の音楽家を凌駕するようなとてつもない名人ぞろいなのです。今回、さらにヴィシネフスカヤという名歌手を知りました。ヴィシネフスカヤは20台半ば(1960年台初め)でボリショイオペラの主役に抜擢されています。そのころの録音を聞いたのですが「美しく、そして強い」のです。


1960年代は「キューバ危機」の後、フルシチョフが失脚してブレジネフ体制が確立された時代で、1961年にはガガーリンが宇宙飛行に成功した年でもあります。冷戦構造の中でソビエトの国家の威信をかけた芸術活動であったのでしょうが、しかし、芸術家にとっては「演奏」がすべてです。すばらしい演奏です。




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