KENの日記
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2004年05月28日(金) 帰国しました。

今日シンガポール経由で帰国しました。朝、シンガポールで日本行きに乗り換えました。午前0時35分のムンバイ出発から通算すると、飛行機での移動時間は11時間くらいでしょうか。ムンバイからシンガポールまでの便はほぼ満席。インド人が多くて子供連れも結構いて賑やかな便です。


これに比べてシンガポールから成田までの便は空席が目立ちました。この路線は日航、全日空も都合の良い時間帯で飛んでいるので、そっちがメインになってしまうのかしら。ところで今日驚いたのは、成田着陸時のシンガポール航空便の減速の仕方です。着陸は午後5時2分。着陸後すぐに急ブレーキがかかったのは、短い滑走路を使ったからではないでしょうか。ものすごい衝撃でした。長い滑走路は使えない時間帯なのかしら。そしてその後、飛行機は延々と自走したのです。飛行機が止まったのは5時25分ごろでした。それも建物から遠い滑走路の隅っこに止まったと思うと、タラップ自動車が近づいてきました。そして、タラップの下にはバスが迎えにきました。重い荷物をもってタラップを降りるのは大変です。これから雨が降ったらどうするのかしら。成田空港では海外の航空会社の扱いは良くないのかしら。


ところで、飛行機が誘導路を延々と自走している間、窓からは「滑走近くの畑」やら、それを厳しく囲うフェンスやら見えました。これが空港建設反対派の人たちの畑なのだとわかりました。そこが誘導路に使えればもっと便利なるようなところに畑がありました。成田空港が都心から遠くアクセスが悪いことが仕方ないにしろ、成田空港の滑走路で延々20分以上、飛行機が自走するのはあきれてしまいました。シンガポール航空の女性アテンダントはす済まなそうにしていましたが、これは日本の方が悪いのだと思いました。



2004年05月22日(土) 町で少し買い物

テレビの天気予報を見ていると「モンスーン」が近づいているようです。インド南部ケララ地方からタミールナドのチェンナイ付近まで、幅広いモンスーンの帯に覆われています。モンスーンは台風のような個別の低気圧ではなくて、湿気を多く含んだ帯状の気団のようです。インド南部にモンスーンが上陸してから、ムンバイに達するまで焼く10日なのだそうです。今日の新聞では6月6日ごろモンスーンが到着すると予想しています。新聞・テレビで一生懸命報道するところをみると、余程厄介者のようです。

別の報道ですが「エヴェレストを早く登る記録」が破られたのだそうです。ネパールの26歳のシェルパ「ペンバ・ドルージ」さんと言う方が、これまでの記録を2時間あまり短縮して「8時間10分」で頂上にたどり着きました。最近の記録は、すでに使われたロープや道筋を利用するので、どんどん短縮されているのだそうです。普通の登山隊は2週間から3週間かけて登るのだそうです。

午後泊まっているホテルから少し離れた本屋さんに行って見ました。ケンペスコーナにある「クロスワード」という書店です。非常にお洒落で洋書を沢山売っています。英語が普通に通じる国なので英語の本があって当たり前ですが。インドで印刷されたペーパバックの小説が山ほど売っています。捜しに行ったのは「インドの法律・税制度」の本だったのですが、そういう本は置いていないのです。アメリカのビジネス書は豊富なのに。

折角なので、興味のあるインドの本、特に「ラーマーヤナ」と「マハーバーラタ」を捜してみました。日本ではインドの古典文学として非常に硬苦しく翻訳されいる場合が多いのですが、インドでは誰でも知っている物語なので、子供向けの本があるのではないかと思ったからです。案の定、非常に小さい子供用から、少し成長した子供用など、様々な種類の絵本となったものがありました。絵の綺麗な「ラーマーヤナ」の絵本(英語版です)をRs300で買ってきました。

面白ろそうなのは「劇画マハーバーラタ」の全3巻です。マハーバーラタは戦争の物語なので「劇画」にあっていると思われますが、さすがにこれは買いませんでした。

本屋さんのあった「ケンペスコーナー」ですが、この四つ角の近くに「タワーオブサイレンス」に通ずる通路がありました。町の繁華外の一角で非常に不釣合いですが、これもインドなのでしょう。

町に出たついでに安い運動靴を入手しました。これでホテルのフィットネスセンタで運動ができます。



2004年05月21日(金) ソニア・ガンジーのこと

今日5月21日は、ソニア・ガンジーの夫のラジブ・ガンジー(Rajiv Gandhi)が亡くなってから13年目の記念日にあたります。朝のテレビ放送では、記念碑に花を捧げるソニアの姿が報道されていました。今週水曜日に電撃的に「首相就任」を断った「ソニア・ガンジイー」は、今、新首相候補の「マンモハン・シン」と並んで時の人となっています。


勉強ののために「ソニアと夫のラジブ」のことを調べたので記録しておきます。ラジブ・ガンジーは1944年にインディラ、フェローツェガンジーの長男として誕生しました。ソニア・ガンジーは1946年にトリノ近郊のオバサンジョのマイノ家に生まました。


二人は1960年後半にケンブリッジ大学に学び、そこで知り合って1968年に結婚しました。ラジブはいたって普通の学生であり、卒業後は飛行機パイロットとして働いていました。ソニアにしてみれば、「インドの英雄ネルー」の直系の孫というものの、政治野心のない、誠実でハンサムなインド上流階級の紳士と結婚したつもりであったと思われます。


ソニアは結婚後義理の母でありインド首相のインディラと非常にうまくやってきましたし、ソニアとラジブは二人の子供(長男はラウル、長女はプリヤンカ)に恵まれ、本当に幸せな家庭を築いていたのです。


ところが、ラジブの弟の「サンジャイ」が1980年に飛行機事故で亡くなってしまうと、母インディラはラジブを政治の世界に引っ張り込んでしまったのです。たぶん、インディラは弟の方に政治家の資質を見出していたのでしょうが、弟の死でラジブに後を託すしかなくなってしまったのです。


政治の世界に疎かったラジブの運命が、非常なスピードで回転し始めたのでした。彼は1981年の総選挙で国会議員に当選して「母インディラのアドバイザー」として政治に首を突っ込んでいくことになります。そして1984年母インディラが暗殺された後、母を継いで国民会議党の代表に選ばれ首相に就任するのでした。40歳で首相に就任したラジブの政治は大きく言って二つの側面を持っていたと言うことができます。


ひとつは、21世紀を睨んだ「インド社会の発展」というビジョンです。貧困の解消、差別の撤廃、国際協調の推進といったネルー・インディラに続く社会民主的な目標設定、そして「若さ」を前面に打ち出した清新さでありました。この考え方の下に、彼はスリランカ民族紛争解決のために「インド平和維持軍」を派遣して政府側を支援したのでしたが、これを嫌ったタミール人ゲリラの自爆テロによって、1991年インド南部タミールナド州で亡くなったのでした。それが5月21日なのです。


ラジブの政治の暗部は、いわゆる「政治腐敗」なのです。裏の世界の事情に疎いラジブは、「金」の問題で国会議員を落選することになるのです。スウェーデンの機関銃製造会社からの多額の賄賂受け取ったという問題が致命傷となって1989年の総選挙で落選してしまったのです。そして復活を目指して選挙遊説をしている最中に死を迎えてしまいました。


ソニアは、パイロットの妻からファーストレディに成ってしまったのです。外国人のソニアは、ソニアはラジブと結婚するにあたって、ラジブが政治活動に首を突っ込むことを恐れていたようです。ラジブとの約束で「彼が政治にかかわるならば離婚する」と約束していたようです。


そのソニアは、1991年の夫の死以降数年間喪に服していたのですが、1997年に国民会議党に入党します。本来政治活動に気が向かないソニアですが、国民会議党は彼女の「カリスマ的な人気」に目をつけて国民会議党の代表に祭り上げてしまったのです。


しかし、この間のインドの政治はバジパイ率いる「BJP」(インド人民党)中心の連立政権が政権を運営をしてきました。この「BJP」政権は国民会議党の敷いた近代化路線を順調に発展継承し、近年のインドの経済発展をもたらしたのです。伝統ある国民会議党は野党であったのです。


2004年4月の総選挙においては、経済発展の実績を背景に「BJP」連立与党が圧倒的に勝利するだろうと考えられていました。ところが、インドの人々はソニアが率いる「国民会議党」を選んだのです。6億人の有権者の投票による世界最大の民主主義投票制度において、歴史的な勝利を得てしまったのです。敗れたバジパイ氏は「BJPは敗北したがインドの民主主義は勝利した」と、インドの選挙制度、そして人々の選択を素直に賞賛しました。


「勝ってしまった」ソニアは、選挙後の5月16日の日曜日に連立政権樹立のためのパーティを開きました。この席上で事実上「ソニア」の首相指名が決まったのです。他方、表面的に言うと「月曜日」のムンバイ証券取引所の株式が大暴落。裏では何が進んでいたのかわかりません。水曜日夜の突然「首相就任事態」になったという訳です。


ニューデリーのインディラ・ガンジー記念館には、インディラとラジブの暗殺された時に身に着けていた血に染まった服が展示されています。この一週間、夫と義理の母をテロによって失ったソニアが、自らその地位に着く決心をして、そして辞退したのでした。あまりの激動で心中を察することはできません。


しかし、テレビや新聞で報道された「亡き夫」を偲ぶ白いサリーに身を包んだソニアの姿が非常に印象的で、非常に美しいことは確かでした。新聞に載ったラジブとソニアの美男・美女のカップル、幸せそうな家庭の写真と対照的でした。


最後に本当に蛇足ですが、インドの隣国「スリランカ」では、同じく夫をテロで失った「クマラトウンガ大統領」が、4月の総選挙で勝利してしまったので政権樹立・運営に必死です。そして、反政府組織の「LTTE」は内部分裂を起こしていて、13年前のラジブ暗殺の責任の押し付け合いをしているのです。



2004年05月20日(木) インドの新首相(予定)

火曜日夜の「ソニア・ガンジー」の突然の首相就任辞退で、国民会議党を中心にする新連立政権樹立は混迷しましたが、水曜日にはソニア・ガンジーが「Manmohan Gurmukh Singh」氏を首相に指名すると発表しました。


水曜日の朝刊は「マンモハン・シン」氏を歓迎する記事で埋め尽くされています。頭にターバンを巻いて、度のやや古めかしい強いメガネの奥に少し悪戯っぽい目を輝かせています。地味な印象で学者然としていて、謙虚で誠実そうな雰囲気は好感が持てます。新聞に載っていた新首相の経歴を紹介します。


生年月日     1932年 9月26日 (71歳)
生まれ 西パンジャブの「Gah」(現在はパキスタン領)
妻 Gursharan Kaur
子供 3人の娘
卒業大学 パンジャブ大学、ケンブリッジ大学、オックスフォード大学
経歴 1957−1969 パンジャブ大学教員
1969−1971 デリー経済大学教授
1971−1972 外国貿易相の経済アドバイザー
1972−1076 財務省の主任経済アドバイザー
1976−1980 RBI(中央銀行)ダイレクター
1980−1982 政府計画委員会の主任メンバー
1980−1983 インド日本共同委員会の委員長
1982−1985 中央銀行総裁
1985−1987 政府計画委員会副委員長
1987−1990 ジュネーブの南南委員会事務局長
1990−1991 首相の経済アドバイザー
1991−1996 国会議員当選、財務省
1995 再選


新首相は1991年から始まった経済改革を推し進めてきた人物でした。新聞の見出しでは「CFOがCEOに就任」というものもありました。彼は土曜日22日に首相就任の宣誓を行う予定です。



2004年05月18日(火) ムンバイから。インド総選挙後。

こちらムンバイは非常に暑いです。今回どれほど暑いか確かめるために携帯「寒暖計」をもってきています。外は日陰でも30度前半。日にあたると30度後半になります。室内は冷房をガンガン聞かせて20度前半。いきなり外に出るとメガネが曇ります。


インド女性が普通に着ている「サリー」と「パンジャビ」ですが、大きな布のあまり(サリーの場合)と大きなスカーフ(パンジャビの場合)は、外に出た時には「日除け」になるし、室内では肩に巻いて「冷え防止」になります。


インドでは今週政治・経済に大きな動きがあります。現地の新聞報道から少し紹介します。


(日曜日の出来事)
ソニア・ガンジーが国民会議党のリーダに選ばれ、彼女が日曜日に連立を組む予定の国会議員を招待してパーティを開催。彼女は水曜日に大統領に首相就任の宣誓を行う予定。でも少数党間での連立政権樹立は必ずしもうまく行っていない様子であり、国民会議党は苦しい政権運営になりそうだとのこと。


(月曜日の出来事)
日曜日の連立政権樹立の動きを受ける形で、月曜日のムンバイ証券取引所は株が大暴落。Sensex(株価指数)は一時17%下落(5021→4227)。月曜日の終値では指数4505で11%の値下がりとなった。
国民的英雄のネルーから続くインドの名門から新首相が選ばれることになった翌日の大暴落でした。インド版ブラックマンデーでした。


(火曜日夕方)
ソニア・ガンジーは首相就任を断ったという報道がなされました。こちらのテレビはその話題で持ちきりです。中身はわかりませんが・・・。ただ、良く考えてみれば、ソニア婦人にとって義理の母と夫が殺殺されてしまった「インド首相職」に、周囲の雑音のある中で自ら進んで就任する気にもならないでしょう。民主主義が定着しつつあるとはいえ、過激分子は消えていないでしょうから。水曜日からの動きが注目されます。



2004年05月15日(土) 再びインド出張

来週の月曜日からインドに出張です。前回は始めてのムンバイだったので少し緊張しましたが、今回は二回目なので少し余裕があります。ホテルまでついてしまえばいいのですが、夜中に見知らぬ空港でうろうろするのは非常に心細いものです。


さて、日本も暑くなってきましたが、この5月・6月はインドでもっとも暑い時期なのです。デリーなど内陸では40度を越す日がざらにあるということです。でも日本のように湿気がないので日光を避ければ過ごせるのです。室内の天井の送風機だけでも、結構涼しく感じるのです。でも帽子は必須です。


ところでインドの総選挙の結果が昨日明らかになりました。4月の下旬から五月雨式に投票が行われ、昨日一斉開票の結果が明らかになったのです。今回与党のBJP(インド人民党)が破れ、野党であったインド国民会議派が過半数は行かないものの最大議席を確保し、連立政権を作ることになりそうです。


この国民会議派はネルー、ネルーの娘のインディラ・ガンジー、その息子のラジブ・ガンジーと代々首相を輩出してきた伝統ある政党なのです。この政党は社会民主主義を標榜し、社会主義的な政策を採ったため、前々回の選挙でバジパイ率いるBJPが効率を重視した産業政策を押し出し、政権を奪取したのでした。


しかし「BJP」の産業政策が地方と中央との経済格差、人々の間の所得格差を拡大してしてしまい、効率中心の産業政策に批判されたという観測がなされています。スリランカの総選挙においても与党が負けました。すべてではないにしろ、産業政策によるそうした不平等への不満が背景にはったことは否めません。発展途上国の産業育成政策の難しさを痛感します。


しかし政権が変わってもインドの潜在的な成長力は大変なものがありますし、経済界は政治とは一定の距離をとっているので大丈夫です。選挙明けのムンバイがどんな様子か楽しみです。



2004年05月06日(木) 携帯電話

母用に携帯電話を買おうと思っています。昨日、インターネットのオークションで落札失敗した後、NTTドコモのドコモショップに電話したり、インターネットサイトで色々調べました。


それで分かったことですが、NTTドコモグループでも「ドコモ関西」には、欲しい機種がありました。京都宇治のドコモショップはホームページ上に在庫機種の一覧表を載せているし、電話で聞いてみたら確かに目指す「F671i」があるとのこと。


その店になくても、管内のドコモショップの在庫がシステムで分かるので調べることは可能とのことなのです。しかし、関東地区を統括するNTTドコモとは別の会社なので、こっちに融通してもらうわけには行かないのです。関西で契約し関東で使うと通話料金が少し高くなるのだそうです。


仕方がないので、近くの浦和のドコモショップに電話しました。返答は非常にそっけないものでした。
「(先方)その機種の在庫はありません」。
「(私)どうしてそんなに早く在庫が分かるのですか」。
「(先方)展示している機種しか在庫はないのです。前にもその機種の問い合わせあって断っています」。
「(私)他のショップの在庫はわからないですか」
「自分の店の在庫しか分からない仕組みです」。


関西ドコモは強敵KDDI(京セラの本社は京都)との競争で、東京よりずっと「サービス」がいいのだろうと思いました。それにしてもあまりにひどいので、今日ドコモのお客様相談窓口に電話してみました。


基本的には昨日のドコモショップの対応と同じでした。NTTドコモでは、支店も廃止していく方向で、販売はドコモショップに任せることにしているようです。昔は県単位に在庫の把握をやっていたみたいですが、今はその制度はないそうなのです。従って、一軒一軒ドコモショップに聞いて回ることになるのだそうです。


最後に、NTTドコモのオペレータがドコモ埼玉の電話番号を教えてくれました。廃止になったドコモ埼玉支店のようです。ここで再び私の要望を伝えたところ、支店の担当の人が、主要なドコモショップに電話して調べてくれることになりました。多分お客が聞いても「そっけない」対応になるのでしょうが、管轄する「ドコモ支店」から電話するとキチンと調べてくれたのではないでしょうか。


その結果「久喜中央ショップ」に在庫があることが分かりました。さいたま市から少し遠いけれどそこまで会に行くことにしています。今回、つくづく思ったのは、携帯電話端末が流行に左右されていて、どんどん高機能化し複雑になっていること。さらに日本の携帯オペレータでは機種は殆ど似たようなものを売っていることです。


二つに折れて小さくなり、電話の半分の大きさの液晶画面はゲームをやったりメールを送るのに便利なのはわかります。でも少し複雑すぎです。今日インターネットで世界の携帯電話の販売状況のニュースが流れていました。世界の2004年第一四半期の携帯電話販売台数のベスト5が判明したとのこと。第1位はノキアで4500万台。2位モトローラ2500万台。3位はサムスン(2000万台)。4位はシーメンス。5位は韓国のLGとソニーエリクソン。


日本のメーカは5位に漸く入っていますが、それもGSMサービスのはずです。日本のオペレータと仲良く携帯マーケットを築いてきた日系メーカの名前はありません。日本のメーカは、一方で途轍もなく進化してしまった日本の市場でセッセと新商品開発をしているのです。


日本で普及している第二世代の携帯電話は世界からは孤立した存在です。日本以外では使えないのです。私はGSM携帯を2台持っていますが、タイでもシンガポールでもスリランカでもインドでも、日本を出さえすれば殆どどこでも使えるのです。日本に帰ってくると使えないのです。


世界のGSM携帯の契約数は10億を突破しました。非GSMのもうひとつの巨大市場の北米ではGSMサービスの伸び率が非常に高いのです。こと携帯に関して、日本は「鎖国状態」といっても過言ではありません。確かに鎖国下で優れた単一民族が爛熟した文化を謳歌しているのですが、残念ながらコスト競争には勝てないのです。日本国民は高い通話料金を払い続けなければならないのです。



2004年05月05日(水) ゴールデンウィークの終了

このゴールデンウイークに長野の母をさいたま市のマンションに迎えました。母は今年の一月に80歳になって、本人も家族も、母が一人で長野で暮らすことに限界を感じたのでした。長野は寒いので、これまでは厳寒の一時期に、弟の小田原の家や、埼玉の私の家に来たことがあったのです。でも高齢のため、これからは同居することにしました。そのために、これまでに準備はしてきました。埼玉県でもマンションの北側の母用の寝室は結露するので、結露対策の二重窓の工事を準備中です。マンションの理事長に申請書は出しているのですが、回答が来ません。業者とはいつでも工事を開始できるようになっているのです。


母用のベッドのの手配も済みました。近くの家具屋さんで実地に見た上で、申し訳ないのですがインターネットで注文しました。正直言ってインターネット店舗のラインアップは豊富なのです。そして、北側の母用の部屋のタンスの一段を空けて母用にしました。これから少しずつ母用の「部分」が増えていくでしょう。


というのも母が気兼ねなく暮らしていけるように考えたのですが、あまり孤立させてしまうと運動不足になる心配があるし、適当に誰かが部屋を覗いたほうがいいので少し荷物は残しあります。この連休の3日に長野に車で帰って、姉の家に行っていた母と4日にさいたまに帰ってきました。長野道ももう少しで完全4車線化が完了するところまできました。坂城更埴間で渋滞したものの、3時間40分くらいで長野から帰ってきました。


今日は、朝から母用の携帯電話を探しました。なにしろ高齢なので電話機の使い方がわからないのです。実家の電話はダイヤル式で、実は母にはダイヤル式の電話が一番わかりやすいようなのです。でもダイヤル式の携帯電話なんてないので昔の機種ですがF671i(ラクラクホン)を探しています。インタネットオークションなどをコマメに見て探そうとおもっています。


というのも一部の関西ドコモショップでは、販売しているのです。今日実際に某ショップに電話したら売っていると言っていました。関西ドコモ管内は全ドコモショップの在庫検索ができるのだそうです。ところが、関東では全くない。在庫の検索さえできない。横のつながりが全くないようです。つれない回答しか帰ってこなかったのです。グループ会社の中でも稼ぎ頭のドコモですがサービスは良くないです。携帯電話調達の次は「メガネ」です。母の加入で我が家は5人全員「メガネ」です。母はしばらくきちんと視力検査していないようなので、メガネが合っていないようなのです。こちらの生活に慣れてきたら、じっくり作り直そうかと思っているのです。同じような話題を妻が書いているとおもいます。




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