今日LTTE(タミール人反政府組織)が正式に「和平交渉中断」と「東京援助国会議欠席」を決定しました。
「和平交渉」はこれまで6回行われました。タイのバンコクなどを会場に行われたのですが、その成果が芳しくなかったのです。また「東京援助国会議」は日本とノルウェーが共同開催する形で9日・10日に東京で開かれることになっていました。一方の当事者が欠席するようでは会議は成功するはずがありません。
これまでも何回もここの書きましたが本当に残念です。それは国民の想像力・思考力の問題だと思います。「他人の痛みがどれだけ実感できるのか」ということです。敬虔な仏教徒の多いこのスリランカでこうなるとは・・・。
(近況) 5月中旬から会社の組織変更があり、私の仕事の範囲が広がりました。これが問題。追加になった業務とは「電話料金の請求・回収」なのです。日本での経験でもこれは大変苦労する業務でした。料金を払わない人(払えない人)に督促したり、通話停止したり、貸し倒れ処理したり・・・。
そうした通常の業務に加えて厄介なことがあるのです。それは、スリランカは「人脈やらコネやら」が幅を利かす国なので、そうした人達を通しての要求が非常に多いのです。
いわく「SLTの幹部職員の友達だが、なんとか通話停止を解除してもらえないか」、「通信大臣の家族なんだがなんとか早く電話をつけてもらえないか」とか日に何通も手紙を貰うし、電話問い合わせの量といったらとんでもないものです。私の秘書には迷惑をかけています。
電話局の方ではそうした要望が来るとつい上部組織に下駄を預けることになります。電話局から要望を受け取った本社はというと、本社権限でルールを曲げて要望を受け入れを決めます。電話局はというとますます、「複雑な案件は本社へ」という無責任体質になっていきます。
私はこの国で選挙権もないので、国会議員や官庁の役人・SLTの幹部職員に媚へつらうこともないので、是々非々で事を進めています。とにかく第一線のサービスを任されている電話局が責任をもって対処することが決めてです。更に本社は電話局の人達の決断の梯子をはずすことにならないようにします。
少しずつでもいいから改善していきたいと思っています。
2003年05月29日(木) |
株主総会終了、建築家「バワ氏」死亡 |
昨日私の会社の株式上場後始めての株主総会が無事終了しました。スリランカ最大の株主数なので、大きな体育館を借りて開催したのですが、期待に反して参加した株主の数はあまり多くはなかったです。
日本の株主総会は会社関係の株主が「賛成」「議事進行」等と発言して運営を主導することが多く、正直言ってつまらないのですが、こちらはそういうことは一切なく議論は聞いていておもしろいです。
といっても1/3英語、2/3はシンハラ語なので、議論は良くわからないのですが。昨年は企業買収をしたので財務に関する質問が多いかとおもって準備していたのですが出番はありませんでした。これで、子会社プロジェクトの資金繰り、取締役会、株主総会が一応済んだので少し気が休まります。
ところで、今日の新聞記事は「スリランカの建築家ジェフリー・バワ氏が亡くなった」ことを報道していました。黒海議事堂を設計したり、スリランカの多くの有名ホテルを設計した人です。83歳だったそうです。
スリランカの内戦終結を確実にするための援助国会議が、来月の9日・10日東京で開かれます。これは日本政府とノルウェー政府の共同主催になるようです。
ノルウェーは随分前から停戦の橋渡しをしてきた関係で、日本政府はスリランカへの最大の援助国であることからこの役を買って出たのです。今週ノルウェー首相が日本を訪問し最後の調整をしているはずです。ところが、内戦の一方の当事者「LTTE」はこの会議をボイコットする姿勢を崩していません。そろそろ時間切れのようです。
スリランカの野党勢力(大統領も野党)は政府への批判を強めたり、LTTE批判を始めています。コロンボの雰囲気は決して良好ではないです。「内戦終結、は無理で武力で制圧しない限り解決しない」といる強行意見が目立ち始めました。
LTTE側の要求は、「北部・東部地域の復興のために、一時的に憲法の枠を超えて、自治権を与えて欲しいというものでなのです。」 つまり現スリランカ政府の指導下では復興が進まない、援助国からの援助も機能しない。暫定的にLTTEが財政を握り、自ら統治を行っていくという提案なのです。これは北部・東部の復興の遅れに対するLTTE側の解決さくなのです。
このLTTE側の要求には国内の批判が高まっています。これが永続化すると国家の分割になりかねないからです。この対応をめぐって最後の駆け引きが続きます。
2003年05月25日(日) |
月曜日から忙しくなります |
相変わらずですが、月曜日から忙しくなりそうです。私の会社(SLT)では火曜日に取締役会・水曜日に株主総会が控えています。
昨年12月に我社の政府保有株を売り出すと同時に、コロンボ証券取引所に上場したのです。今年の入って値がついたのですが、今でも売り出し価格を下回っています。政府から買った人は不満だらけです。実は私も買いました。日本のNTT株と言い、スリランカのSLT株といい、うまくいきません。
週末に日本帰国ができなかったことから、日本往復の飛行機の中で勉強しようと思っていた「SLT財務報告」を会社に行ってやってきました。今回は不満の多い株主から質問が来そうなのでしっかり準備が必要です。
ところで、私のホームページを見た中学校時代の友人からメールを頂きました。彼(Mさん)とは確か、保育園・小学校・中学校が同窓のはずです。中学校の時に同級となったのでした。中学校の先生が厳しかったことから、よく二人で叱られたものでした(叱られ仲間は他にもいますが)。30年近くあっていませんから、お互いどんなに変わっていることやら・・・。私のホームページには数箇所に私の写真を見ることができるのですが、彼はどれが私であるのか判らなかったそうです。
今日私の故郷長野県の須坂近辺で二つの葬式が行われました。
前から書いているように、ひとつは私の妻の弟の奥様の葬儀。まだ41歳だったはず。残された義弟と子供二人のことを考えると胸が傷みます。妻からの話によるとこの葬儀には横浜等遠くから多くの弔問客を迎えたようです。
もうひとつは私の母の弟つまり私の叔父の葬儀です。この叔父には子供が無かったことと、亡くなった私の父がこの叔父の店でずっと働いていたこともあって、小さい頃は随分可愛がってもらいました。この叔父からプレゼントされた古い腕時計は健在です。
この二人には、去年の12月に会ったのが最後でした。妻の父が昨年12月亡くなり、その葬儀のために帰国した時に義妹とは会っています。そのときは義妹は多少疲れているかなという雰囲気でした。弟夫婦は共働きなのでキツいのかな考えていましたが、今考えると脳の腫瘍は随分進んでいたようです。実際彼女が異常を訴えて入院したのは今年の春の連休の時で、そのときには手の施しようが無かったようです。
叔父はいうと心臓パイパスの大手術を受けてから約10年。こんどは胃がんの手術をするということで入院していた叔父のところへ、母と一緒に見舞いにいったのでした。この叔父には随分世話になったのでぜひ見舞いをしておきたかったのです。手術しても大丈夫かどうか心臓の検査をしたあと、3月に胃がん摘出手術が行われました。本人は大きな手術に慣れていて飄々としていましたが、奥様(叔母)は大分心配していました。叔母には知らされていたのかもしれません。方々に転移した「ガン」はとりきれなかったようです。
今日、妻から話を聞いてまた驚いたのですが、二つに葬儀で取り仕切るお寺様が同じだったようです。義妹の葬儀は彼女の実家を喪主として行われたのですが、彼女の実家と私の母の実家のお寺様が一緒だったとのこと。そのため義妹の葬儀が午後一時から、叔父の葬儀が午後4時から行われました。
昨日書いたように、昨日朝の飛行機が飛んでいれば私は両方の葬儀に参加できたのです。非常に残念です。昨日と今日は、近くのガンガラーマヤというお寺にいって二人の冥福を祈ってきました。その後、貴重な日本酒を一人で飲みながら思い出に耽りました。
母は私が帰国できなく残念そうでしたが、弟が小田原から駆けつけてくれたので助かりました。相変わらず妻には苦労を掛けています。
5月23日は私の人生の中でも忘れることのできない日になるでしょう。すこし長いですが忘れないうちに書きます。
義妹(妻の弟の奥様)が昨日亡くなり、残された家族・親戚の方たちのことを考えると、ぜひ帰国して葬儀に参列し、少しでも力になりたいと考えました。通夜が23日・葬儀が24日という連絡を妻から受けたので、22日(木曜日)の夜にスリランカを発つと少なくとも葬儀には参列できるので、帰国を決心し会社で方々の手配を済ませましたた。来週の火曜日はこちらの会社の取締役会・水曜日は年次株主総会が控えているので日曜日の午後に日本を発って月曜日の早朝コロンボに戻るという強行日程です。
スリランカから日本に戻る方法は3つあります。 1.コロンボからシンガポール経由で行く方法(シンガポール航空利用、シンガポール・成田はシンガポール航空利用) 2.コロンボからバンコク経由で行く方法(キャセイパシフィック・日本航空を乗り継ぐ方法) 3.コロンボからモルジブを経由して成田に行く方法。(スリランカ航空・ダイレクトに近い)
ここで、例のSARSの影響からシンガポール航空便はシンガポール・東京間が週二便運休(金曜は運休)。スリランカ航空便は隔日運転で金曜日は運転なし。従って、23日早朝はバンコク経由のキャセイ・日航しか選択枝はありません。これを予約したのでした。
コロンボ出発午前2時45分、バンコク着朝7時10分。乗り継ぎの日本航空は、バンコク朝8時40分発、成田午後16時40分。スカイライナーに飛び乗り、日暮里でJRに乗り換え、上野から長野新幹線で長野まで行き(約1時間半)、長野から長野電鉄線で実家のある須坂まで30分。夜9時前には実家にたどり着けると考えました。
私は、成田空港についてから、空港のスカイライナーまで走り、日暮里でも階段・改札の場所を頭の中でシミュレートし、肝心の上野駅では最短で地下四階の新幹線ホームまでたどり着く構図を頭に描いていました(この長野新幹線が曲者なのです)。
さて、コロンボのバンダラナイケ国際空港ですが、シータの旦那さんに運転を頼んで、余裕で23日の0時30分には到着し、搭乗手続きを始めました。発着案内ボードには、キャセイ航空便バンコク行きに「遅れ」のサインがあり、4:00出発となっていました。手続き窓口で確認したところ、「一時間くらいの遅れなので、8時00分にはバンコクに着く。40分あれば乗り換えは楽勝。心配するな」ということなので、午前1時30分出発のシンガポール便のコロンボ・シンガポール便を見送ってキャセイに予定とおり搭乗手続きをして、出国手続きを終えました。
出国手続きが済んでしまえば、後は飛行機の出発を待つだけです。午前4時まで時間があるので長椅子に横になって少し眠ることにしました。
しかし、午前3時ごろに周囲が騒ぎ出したことで目を覚ますと、何人かの客が航空事務員と結構激しく口論していたのでした。近くに行って様子を聞いていると、キャセイ便の遅れは相当大幅なものになるということなのです。なんと23日の午後3時出発。実に12時間後になるという情報なのです。
私は12時間このままコロンボで無駄に過ごすことはできないので、何とか別の便を使えないかキャセイの職員と交渉しました。でも彼らの説明は要領を得ないものでした。キャセイ便搭乗予定の人が詰め掛けるし、対応は遅いし(夜中なので人がいないのでしょう)、とんでもない混乱した光景でした。
結局なんだかんだあって、最終的に午後3時のキャセイ便でバンコクに行きJALに乗り換える方法が日本に行く最も早い方法だという説明を受けました。それだと24日の朝6時45分に成田のつくのだそうです。朝7時のエミレーツ航空便がクアラルンプール経由でシンガポールに行きますが、それでクアラルンプールとシンガポールに行ったとしても、その後の成田までの乗り継ぎがないのです。成田は朝の6時から着陸開始なので、夜に着く便を逃してしまうと朝まで便はないのです。
こうなったら仕方がない。早朝に成田に着けば、頑張って午前中に長野にたどり着けると算段し、午後からの葬儀に参列すべく覚悟を決めました。
キャセイ航空は、待ち時間が10時間以上あるのでコロンボ市内のヒルトンホテルに宿を取るということになりました。それに従ってひとまず空港を離れることにしました。コロンボヒルトンは私の会社の直ぐ近くなので、前日休暇をとって休んだ秘書と打ち合わせができることも利点なのです。夜明け少し前のコロンボをキャセイ手配のバンでコロンボ市内に戻りました。もちろん入国処理など一切しませんでした。
ヒルトンホテルで早い朝食をとったものの客室の準備ができないというので、ロビーで待たされます。ビジネス街に近く設備の整ったヒルトンは混んでいるので、そう簡単に空きがあるとも思えません。結局9時ごろに部屋が手配されました。私はオフィスの秘書と連絡をとり、一旦オフィスに顔を出しました。昨日の業務の後始末の手配をお願いしたあと、日本の妻と連絡をとりました。
ここでまた一大事。昔から親しくしていた叔父(母の弟)が23日早朝に亡くなったというのです。その叔父は母の弟ですが女系家族の中で唯一の男で本家を継いでいた方です。私も私より年長の「いとこ」がすべて女性であった中で始めて男だったので結構境遇が似ているのです。実際、子供がなかった叔父には随分可愛がってもらったのでした。叔父は心臓バイパス手術した後、今年3月に胃がん摘出を行い、母の話では手術のあとけっこう元気だという情報を得ていたのでした。
今、スリランカで故障修理に出しているスイス製の時計はこの叔父からのプレゼントでした。最近調子が悪かったので修理をお願いしていたのです。Vesak休暇もあって修理がはかどらず、今回時計なし日本に帰るつもりでした。なんだか叔父の病気とダブります。
この叔父の通夜・葬儀が、なんと義妹の通夜・葬儀と全く同じ日程になったのです。23日通夜・24日葬儀。場所はまだ特定できませんが、実家の須坂市近辺で行われるのか確かです。こうなってはなんとしても午後3時の飛行機に乗って日本に帰らなければと思いました。ついでに、コロンボで時間ができたので、叔父から頂いた時計の修理が終わったかどうか問い合わせ、直っていたらぜひ日本にもって帰ろうと思いました。修理屋さんの開店には時間がるので床屋にいって頭をすっきりさせ葬儀出席の準備をすることにしました。床屋さんで秘書から時計修理が終わっているとの連絡を受けたので、コロンボのペタにある修理屋に直行し時計を受け取りました。時計は元気に動いています。飄々とした叔父の顔が心に浮かびました。
コロンボでやり残したことをすべて済ませたので、ヒルトンホテルに戻り、シャワーを浴びてさっぱりしました。実際この日はほとんど眠っていないのです。12時には空港に戻るバスがくるというので昼食をすませることにしました。キャセイ便の遅れで困っている日本人四人でテーブルを囲んで昼食を取り、チェックアウトを済ませ(もちろんタダ)バスを待つことにしました。
ロビーで待っていると大型バスが玄関の外にやってきました。キャセイの関係者らしい人の話では「1時45分にバンコクからのキャセイ便がコロンボに到着する。これがバンコクに折り返すので3時には出発する」というもの。安心して12時30分ごろバスに乗り込みました。
ところがバスは一向に出発しないのです。私は睡眠不足・昼食満足・シャワーでさっぱりという状態なのでバスの中で「うとうと」しました。しかし一時間経ってもバスは出発しません。そしてやはりキャセイの人がバスの中に入ってきて「もう一度ホテルに戻ってくれ」との発言。
私は、キャセイがはっきりしないので、チケットを手配してくれた旅行代理店に状況を知らせてくれるように連絡しました。その結果「キャセイ便は欠航」ということでした。その後この欠航ニュースはホテルロビーで待つ他の乗客にも伝わり、あちこちでキャセイ担当者に詰め寄る場面がみられました。実際キャセイ航空便に何があったのか今は全くわかりません。キャセイ担当者からは一切の説明がありませんでした。
旅行代理店によると24日の早朝にはタイ航空(キャセイと共同運航)便とスリランカ航空便があり、スリランカ航空便を使うと24日の一時ごろに成田に着くことができるようなのです。しかし、これを使っても二つの葬儀参列には厳しく、実質日本滞在24時間ではコストパフォーマンスが悪すぎると判断し日本帰国を断念しました。最初からこの案を考えていれば実行したかもしれませんが、すでに23日の一日間でかなりのエネルギーを費やしてしまったので自分でも体力に自身が持てなかったのです。他の方達はそのままヒルトンホテルで待機が続きますが、私は宿舎に戻りました。入国手続きをしていないのですが、キャセイの人がレジデンスビザを持っていれば手続き不要というので、何もしないで宿舎に帰ってきました。(ほんとうに大丈夫かしら)
いろいろありましたが、全く偶然に重なった二つの身近な人の葬儀でしたが残念ながら出席できません。もしキャセイ便が予定通り飛んでいたら、この運命的な出来事も違う展開になっていたでしょう。明日、土曜日こちらコロンボでお二人の冥福を祈るとともに、ご家族の方たちがこの悲しみを乗り越えていけるように祈りたいとおもいます。
最後に、妻には力になれず非常に申し訳なく思っています。私の分も含めて日本で立ち回ってもらうことになるので、くれぐれも身体に気をつけて、気持ちをしっかり持っていてほしいと思っています。
義妹(妻の弟の奥様)が手術をするも手遅れだったようで、今日の午前中亡くなりました。確か今年で41歳のはず。子供は小学校の4年生と一年生の二人。残された家族のことを考えると胸が傷みます。
金曜日に通夜・土曜日葬儀ということなので、金曜日の一日休暇をもらうと、葬儀出席のために日本スリランカ往復ができるので急遽帰国することにしました。
SARSの影響でコロンボ−シンガポール便が減便になっているのし、頼みのコロンボ−成田直行便(モルジブ経由)は生憎金曜日は飛んでいないので、キャセイ航空・JALをバンコクで乗り換えるルートしか残っていません。コロンボを夜中の2時45分発、バンコク朝7時10分着。バンコクからJALで成田着16時40分です。新幹線を使って長野には夜の9時前には着けそうです。
妻の家族は、義父を昨年の暮れに亡くしたので、妻の弟の二人だけになっています。大きなショック受けている弟さんの力になれればと思っています。亡くなった義妹の実家は私の実家から遠くないので、私の母と一緒に葬儀に行ってこようと思っています。
コロンボ帰国は26日(月曜日)の午前2時の予定。それから仕事です。
NHK海外放送。スリランカでは夜の9時から「おしん」を放送しています。スリランカの放送局でも白黒のぼろぼろ画面にシンハラ語をつけて放送していますが、こちらはカラーも鮮明な非常に綺麗な復活版です。日本でも放送しているのかしら。
これを見ていると、このドラマがなぜいろいろな国で人気があるのか少しわかってきます。
まず、脚本が非常に丁寧に作られています。ストーリーは破天荒なものですが、それに違和感がない。いかにもありそうに書かれているのです。それと「おしん」のひたむきな勤勉さと強さは、貧乏な人の模範です。
さらに配役の人の役作りがずば抜けて深いです。主役の「おしん」はじめ、みんなの山形弁がすごいし、外国の人にはわからないと思いますが、方言に洗われる「素朴さ」「強さ」を上手に生かしていると思います。
こういう番組は今では作ることができないのかしら。昔の日本の丁寧な「仕事」を見せてももらい、うれしいやら、悲しいやら、です。
スリランカ南部を襲った集中豪雨は大災害をもたらしました。内陸部のラタナプラ、海外沿いのゴール、マータラが洪水に見まわれて、200人以上の死者がでており、同じ位の人が行方不明になっています。
これだけの災害は57年ぶりだそうです。日本みたいに毎年台風がきていれば、それなりの備えもあるでしょうが、57年ぶりだと過去の記憶もないので備えも忘れてしまうでしょう。長期間平穏であったために備えが出来ていなかった「つけ」が一度に来たのだと思います。
こちらの雨は熱帯なので、降るときにはものすごい勢いで降ります。ほんとに滝のようです。しかしそれほど長期間降ることはめったにありません。しかし、その勢いで数日間降られたらひどいことになるのです。
スリランカの街には必ずと言っていいほど、街の中心地に時計台があります。遠くから見えるようにかなり高く作られています(5m以上はあるでしょう)。ラタナプーラではその時計台が水に沈みそうになったというからすごいです。
今回の災害では地滑り(土砂崩れ)で多くの方が亡くなったり、家を失ったりしました。推測ですが熱帯地方の樹木は成長が早いですが、根の張り方をそれほどしっかりしていないのかもしれません。椰子の木など非常にバランスが悪いなと思います。いろいろな要素が絡まって大災害になってしまったようです。
2003年05月18日(日) |
日本のことを考えると・・・ |
日本のことを考えると日本時間になるみたいです。
妻の弟の奥様(義理の妹になるのかしら)が重大な病気が発見され、先週2回手術をするも非常に危険な状態にあるのです。私がこちらに居るので、妻が忙しく立ち回ることになります。
妻には昨年の後半は病床の義父の世話で、長野・さいたまを頻繁に往復してもらいました。今年も春の連休に義父の墓を建てるために長野へ帰ってもらったのです。その最中に、義妹の病気が発見されたのでした。
妻には身体が休まる暇がないので、くれぐれも気をつけてもらいたいと思っています。昔十二指庁潰瘍をやっていますから。日本のことを考えると、生活時間帯まで日本に戻ってしまい、早起きしてしまいます。
今日はべサック休暇でした。スリランカ国内旅行をしようと遺跡が豊富な「文化三角地帯」の主要なホテルに予約の電話を入れたのですが、どこも満員。しかたなく明日日帰りで旅行することとしました。
そんな関係で、宿舎のテニスコートでテニスレッスンを受けることにしました。料金は一時間で1200ルピーで最初の基礎から教えてもらいました。
何人参加しても一時間その値段です。つまり二人だと打つボールの数が半分になるだけ、従って一人だと「休みなく」打ち続けることになります。これは非常に疲れるレッスンでした。
普段からランニングや遠泳をして体力の維持に努めているのですが、瞬発力は確実に衰えてきているようです。すばやい動きが続きません。それとボールを捕らえる感も悪い。
やはり中年は中年なりの運動をすべきだと痛感しました。力を抜いて省エネ運動を心掛けないとだめだなと思いました。
30年以上前に叔父からもらい大切に使ってきた腕時計が故障したので、「思い切って」スリランカで修理しています。日本に帰ってから直そうかとも思ったのですが、古い時計で部品がないのは世界共通だろうからと思い、コロンボの「RADO」代理店に修理に出したのでした。
実は先週末に修理が終了して受領したのですが(ドライバー氏にすべて依頼したのです)文字盤がガタガタするので再度修理してもらっていたのです。今日聞いたら「螺子巻きの軸が折れた」ということなので、心配になって店に行ってみました。
場所はコロンボフォート駅正面の薄暗い露地を入った2階にありました。すごく怪しげなのですが「RADO」の看板があり、中で職人さんが私の時計を修理していました。こういう専門性の高い職業は店構えで判断してはいけないと自分に言い聞かせました。「直るから心配するな」というのですが正直言って非常に不安です。中の駆動部分は大丈夫なようなので無理しないで欲しいと言ってきました。一両日中に直せるかどうか結論がでます。
私もスリランカに慣れてきた様で「だめになってもあきらめよう」という最後の覚悟はできています。「作ったものは何れは壊れる」「貴重品を持ってきて壊しても持ってくるほうが悪い」程度は考えておかないと、外国に住むことはできないでしょう。
五月に入ってから雨が多くなりました。今日は朝から一日中雨です。時々雷が鳴っています。
ヒッカドアコーラルガーデンホテルのSCUBA店「アンダウオータサファリ」は四月一杯スリランカ南部で営業していて、五月から北部のトリンマーレに移るといっていましたが、本当にぴったりのタイミングです。五月に入るとスリランカ南西部では午前中でも海の波が高いです。
今日は一日中雨なので、朝から音楽を聞いたり練習したり、どっぷり音楽に浸っています。
スリランカに持ち込んだCDでこれまでほとんど聞いていなかった「くるみ割り人形」を大音量で聞いてみました。演奏はハインツ・レーグナー指揮のベルリン放送交響楽団。淡々とした演奏ですがキレがいいので面白いです。特に「パドゥドゥ」は美しい表現なので何度も聞いてしまいました。バレエはそれほど多くはないけれど結構息長くファンです。初めて見たのは中学の頃、貯金を貯めて長野へ見に行きました。確かボリショイだったはず。その後もロシア中心に時々みました。ロシアの「若い」女性は本当に綺麗です。今はやはりキーロフでしょう。
チェロをしっかり弾いたのでようやく少し前のレベルに戻った気がします。海外出張があったり、仕事が忙しくて肩が凝ったりして、思うように弾けず、実はスランプに陥っていたのです。実は昨日の土曜日のレッスンが急に中止になってしまったのですが、頑張って練習して前に進もうと思っているのです。
スリランカでは来週水曜日から週末まで連休になります。べサックの時期です。仏教徒にとっては非常に重要な祝日です。私の職場でも社員有志で仏教の僧をよんで話を聞くというので、少しばかり寄付を行いました。さらにせっかくだから我が家の仏陀像(スリランカの風景参照)を職場に運んで説教に場に設えました。
こういうのは個人の話なのでいいのですが、政府を始め、コロンボの大企業が、大々的にベッサクを飾り付ける装飾を施そうとしているのです。我がSLT(テレコム)も同様で去年とは比べものにならないような金を使っています。今日その予算でもめてきたのですが・・・。
飾り付けというのは、何千という電球を使った「ライトアップ」とか旗などを目一杯吊るしたりするのです。ビルの壁面や道の中央分離帯に設けられます。設備調達に加えて、電力消費量は大変なものだと思います。昨年は電力不足の中でよくやったなという感じでしたが、今年は停戦継続中なのでさらに盛大のようです。
でも、昨日も書いたように反政府組織はスリランカ政府の思いやりのなさに業を煮やして和平交渉から去ったのです。平和を謳歌するコロンボとは対照的に、北部・東部地域では電力はおろか、水・食料の不足に苦しむ人たちがいるのです。コロンボの裕福な人達はそれがわからないのかしら。実際ひとつの国の中でこんな格差があってはとてもまとまりません。大きな力の結集はできません。
さらに残念なことは、たしなめるべき仏教僧・寺院が政府と歩調をともにしている点です。「仏陀の教えはそういうことだったですか?」と大きな疑問を持ちます。はっきりいうと「そんな金があったら、北部・東部の困っている人に寄付せよ」です。外国に平和をアピールしたい・観光客を呼ぶためにイベントをしたいのはわかりますが、すぐ近くに仕事がなく食料がなくて苦労している人がいて、実はその人達と長く争っていたところを仲直りしようとしている時期に、その人達へ配慮せず、自分達だけが浪費をするのは罪悪というものです。
仏教徒のお祭りである「ベサック」が民族対立を助長するようなことがあったら大変です。社会の成熟度ばかりでなく、スリランカの仏教そのものに疑問を持ち始めています。
6月に東京で「スリランカ援助国会議」が開催されます。今日はそれに出席する予定のBOI(海外投資を管轄する役所)の長官の開催する小さなミーティングに出席してきました。
スリランカ政府はこの援助国会議を投資呼びこみの大きなチャンスとみて、既にスリランカで一定の成果をあげている企業に、その情報網を使って、スリランカ投資に意欲のある日本企業を紹介して欲しいという訳です。
統計的には膨大な人口を抱えるインドに近く、仏教国で日本と繋がりの太いスリランカですから無理な話ではないのですが・・・。
でも話を聞いていると非常にむなしくなってきます。「紹介してくれ。アポイントを取ってくれ。できたらスリランカでの成功話をしてもらって興味を引いてくれないか」。これから離陸を目指して頑張ろうという国の長官がこれでは時間がかかるな、という印象です。
スリランカ反政府組織LTTEの和平交渉出席拒否をいう事態を受けて、この五月初めから日本の明石特別大使が来錫され、政府・LTTEと勢力的に交渉されています。
首相との会談に引き続き、昨日は北部のバニに移動して、LTTEの責任者との会談が設定されました。LTTE側は基本的に明石大使の調整を評価しつつも、政府に対して、「緊急的な人道的・復興支援」が十分になされていないことに不満を表明しました。
明石大使は、6月に東京で開催される援助国会議までに、和平交渉を再びもとに戻して、日本の面目を保ちたいところでしょうが、果してうまく行くかどうか。援助の金をチラつかせてもLTTEは動かないかもしれません。なぜなら、外国の援助・投資が、北東部の貧しい人達の生活にどれくらい影響を与えるのかわからないからです。
ここは、じっくり両者を説得する覚悟が必要です。援助国会議を材料にするのは良くないのではないかとおもいます。
スリランカでは来週水曜日から三日間祝日です。
14日(水)は「聖なる預言者モハメッド」の誕生日、15日は5月の「満月」。16日は「ベサック満月に続く休日」。
土日を繋げると5連休です。地元ではベサック休暇を家族で楽しみます。外国人は母国に帰省したり、旅行に出たりします。実は私はこのチャンスを利用して旅行しようとおもっていたのでした。
しかし、子会社モビテル社のプロジェクトの関係で忙しくなりそうで、旅行計画は中止にしました。せいぜい仕事を進めようとおもいます。
でもまた疲れがたまりそうなのです。こういう期限を切った仕事が曲者。
まず、「期限」の考え方が違うかもしれない。一般的には「期限」は「それまでに目的が達成される期日」と考えられますが、実はそうではないかもしれない。
(解釈1)目的が達成されるかどうかわからないが、さしあたり自分の役割を果たす目標期日。
(解釈2)目的達成はもちろん自分の責任範囲ではない上、自分の役割も全部必要かどうかわからないから、さしあたり無難な範囲は処理して、様子を見ていよう。その中に自然と期限は過ぎていくものだ。
(解釈3)皆予定通りはかどるとは思っていないのだから、無理するのは損。そこそこ付き合っていよう。
このほかにも色々な考え方があるかもしれない。そういう状況の中で、最終の金支払いを担当する財務の職場は本当に疲れます。
今日土曜日はレッスンが急遽中止になってしまったので、午後から釣りに出かけました。といってもはじめから魚を釣ろうという気持ちよりは、郊外の海でボケっとしようかという感じです。メードを頼んでいるシータの親友がコロンボ南のワッドゥワに住んでいて遭いに行くということなので、丁度そこが釣ポイントでもあることから、車で一緒に行くことにしました。
今日は「釣り」の話はしません。 シータの親友というのは相当貧しい家庭の人でさらに身体障害者なのです。シータの家も山の中で電気が行ってなくて結構苦しい家庭事情なのですが、彼女が同情するくらいだから大変だろうなと想像していきました。
ワッドゥアはコロンボ南部約20Kmくらいのところにあります。海辺はところどころリゾートホテルが建設されています。彼女の友人の家は浜辺の椰子の林の中にありました。まわりには同じような小さな家(材木と椰子の皮で作られています)が並んでいます。もちろん電気はありません。井戸で水を汲んでいました。一家総出で私を歓迎してくれました。動物がすごいです。やぎの一家(10匹以上)と犬、鶏、猫みんな家族です。ちかくに子豚が走り回っていましたがこれは隣の住人のようです。
彼女の友人は足が不自由で松葉杖と車椅子での生活ですが、とても明るくかわいらしい方でした。友達の友達は友達です。シータがこの友人の家にしばしば泊まってくるので、どうやって寝ているのか聞いたら、彼女の寝床でくっ付いて寝るのだそうです。友達との関係もそこまで行くとすごいです。
正直いって彼等は私がどう見たのか非常に不安でした。別世界の人間であるに違いありません。実際私の一食分の食事代で家族全員どれくらい食べていけるか計算するのは怖いです。こんの気持ちを和らげてくれたのは彼等の明るさであり、帰り際に出くわした夕餉の喧騒でした。電気がないからでしょうが、隣近所の子供たちも大人たちも動物も、夕食を控えて外に出てくつろいでいました。道は大混雑です。でもそこには何とも言えない懐かしさがありました。
「失われた10年」・・・いろいろなところで使われています。日本ではバブル崩壊後処理できない不良債権を背負い停滞する経済を指しています。これは10年では済まないでしょう。
スリランカでは、10年前の今日、当時の大統領「プレマダーサ」がメイデー行進の最中に銃弾に倒れました。今日はその10回目の命日です。その後、政治は混迷し、民族紛争の泥沼化して、この10年間はスリランカ国民に大きな停滞を与えてしまったのです。
「プレマダーサ」は何を考えていたか。それは発展途上国の「貧困」問題です。彼の最も重要な政策は「住宅政策」であったのです。彼は国内に多くの住宅地を造成し、貧しい人達に生活の基盤を与えました。先進国においても投資の重要な要素は「住宅建設」です。住宅建設は森林伐採、土地開発、土木作業、住宅建設、電気ガス水道のインフラ整備等の需要を喚起します。そして多くの様々な雇用を生み出します。彼は並行して農業用地を整備し地方の産業振興を図りました。こうした活動を通して、地方に労働需要を起こし、貧しい人達に基本的なインフラ設備を供給したのでした。
彼は、民族対立問題、発展途上国の主要課題を正確に把握していました。「貧困対策」に加えて「教育問題」にも腐心し、初等教育を充実させ、次代を担う子供たちに夢と希望を与えたのです。
その後の10年がどうであったか。今はどうなのか。直視することがつらいです。政府の経済政策は外資導入・経済の自由化です。確かに我がNTTを初め、Shellとか、マレーシアの会社とかが投資を行い、基本的なインフラ整備は進んでいます。しかし、政府が外資導入と同時に外資と約束したことは「料金の値上げ」なのです。相当の賃上げ(インフレ)がない限り、一般庶民はそうした恩恵を受けることはできないのです。外資導入が成功するには、それと歩調をあわせた着実な「貧困」の解消がない限り貴重な「富」は海外に流出するだけです。
石油とか金が採掘されれば別ですが、そうでない限り基本的に農業政策をしっかり確立し、地方の貧困問題を解決することが大切だと思います。IT産業振興とか、金融ハブなどの夢はありますが、まず足元を固める必要があります。教育問題はさらに深刻です。子供の将来を考える人達は無理して、一部の有名学校に進学させます。しかし大学教育は停滞しています。さらに大学を出ても職はありません。10年前から全体の識字率があがっているとは思えません。
その意味で、今こそ「プレマダーサ」大統領の政策に立ち戻る必要があります。特にスリランカ北部の貧困対策は深刻です。この解決がない限り、民族紛争の再燃は避けられません。
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