ゼロの視点
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2007年01月04日(木) ひさびさに謹賀新年

気がついたら、2007年になっている・・・・・(汗)。

そのくらい、愛犬マルチンが2003年9月に亡くなったのを皮切りに始まった、日本にいる母のことを主体に、めまぐるしい変化が起こり始め、来る波来る波をこなすだけで過ごしていたら、もうあっという間に2007年っ!!!!!!!!。

ひえーーーーーーっ。

いやあ、それにしても、本当にいろいろと感慨深いことがあった・・・。また、あらためていえば、2003年くらいから、私は本当に自分の人生を歩みだしたのかな?、と、思われてならない昨今。

母とのことだけにかかわっているようにみえて、実は、フランスでの生活でも色々と充実した変化が起こっているような気がしている。

2003年に、それまで漠然と抱えていた不安が的中して、現実になり、それを受け入れる云々以前に、現実は厳しいほどまで刻々と進化しながら、問題を私に提示し続けた。そして私は、フランスと日本を行き来しながら、《わたし》のアイデンティティを、心機一転、構築しはじめ・・・・・・。

今でも、ふと思い出すこと・・・・・・。

それは、大学を卒業して社会人になってしばらくしてからのこと・・・・。親元から出勤し、私としてみれば、通う場所が大学から会社に変わった・・・ぐらいの認識しかなかったあの《青い》時期のことだ。

それゆえ、何ゆえに稼ぐ必要があるのか?、なんていう意識はまるでなしの私。おまけに、朝晩の最寄り駅までの送り迎えは、母に運転してもらっていたわけであり・・・。

どんなに遅く家に戻っても、冷蔵庫を開ければ、もしくは、コンロに置いてある鍋を開ければ、そこに母が用意してくれていた料理があった。で、その料理があまりおいしくないように感じただけで、ぶーぶーと文句を母に文句を垂れたものだった・・・・(汗)。

ま、ある意味、牽制症候群な犬なのかもしれないが・・・・・?!?!?!?!。

また、そこそこ稼いでいたので、母の迎えがあろうがなかろうが、酔っ払って、降りるべきの駅を乗り過ごして、遥か彼方の私鉄終点駅で駅員に起こされて、電車を降ろされようが、そこから連日1万円近くタクシー代を払って自宅に戻ることなぞ、当時の私にとって、たいしたことではなかった・・・・・。

さて、そんな母だが、2003年9月22日に長年一緒に暮らしてきた愛犬マルチンを失ってから、急速に衰えだした・・・・。もちろん、私が1998年3月から日本を離れ、フランスで放浪しはじめてから、母なりに衰えだしたのかもしれないが、愛犬の喪失は、私が予想していた以上に相当な衝撃を母に与えたようだった・・・。

それからというもの、私の遠距離介護が始まった。

遠距離介護などという言葉をあえて使ってみたけれど、これは、私と母との関係をあらためて確認する作業だったのだと、今、強く認識している。

で、認識したとはいえ、その答えはまだはっきりしていないが、とにかく、彼女は本当に私の母なのだ・・・・、ということだけは、はっきり認識できた(汗)。

それゆえに、私の父がかつていて、そんな両親に育まれ、ふとフランスで暮らしていると言葉では簡単に表現できるとはいえ、流れとして、ある意味、必然的に、今、フランスはパリで夫と暮らしているのか?!?!?!、と、思えてしかたがないことも多々ある昨今・・・・・・。

認知症、つまりは以前でいう痴呆症な人間をターゲットに運営されているのが、《グループホーム》というところ。調べれば調べるほど、胡散臭いこともたくさんあるけれど、それはどんな社会においても同じこと。

では、それ以上になると、個人の運・不運であり、いかに良いグループホームに出会えるか?、または、その出会ったすばらしいホームに、ちゃんと入居できるか?、という問題が常につきまとう・・・・。

世の中、需要と供給というのは、いつも同じバランスシートで存在していない。ゆえに、いいホームを発見できたからといって、そこに自分が思ったシナリオ通りに入居できると思ったら大間違い。

2005年10月、私は夫と共に日本にいた。当時、まだ母はヘルパーやデイサービスなどの助けを受け、なんとか自宅で一人暮らしをしていた。そして、私が里帰りをするたびに、母が通うデイサービスにちょくちょく顔を出し、母とは別に、私なりにそこのスタッフ全員と色々とコミュニケーションをとっていた。

そんな甲斐もあって、母の状況と共に、母の一人娘、つまりは私という人間が、日本にいず、フランスにいながらも色々と母の今後について気をもんでいるということを、スタッフ全員が本当によく理解してくれるようになり、私が日本に帰るたびに、色々と有意義なアドバイスをくれるような間柄になっていた。

そして、2005年10月のある日、私は夫を引き連れて、母の通うデイサービスに一緒に朝から終わりまで参加してみた。もちろん、私だけでは、ちょくちょくこうしてデイサービスに参加していたとはいえ、フランス人夫を引き連れて参加したのは、これが始めてだった(笑)。

国籍なんのどうでもよく、誰でもコミュニケーションしてしまう我が夫の性格も加味して、本当にその日は楽しく過ごすことができた。また、ある意味認知症が入った高齢者だった《おかげ》で、西洋人に対する《日本人独特》な距離感というのをデイサービスの利用者達は、夫に示すこともなく、本当に私にとっても面白くも貴重な一日であった。

そして、その日も終わり家に帰ろうとしている私たちに向かって、このデイサービスの運営者が、《私たちはグループホームも運営しているのですが、これを機会に見学してみませんか?》と、申し出てきた。

もともと、意味不明に好奇心旺盛な私は、夫の意向も尋ねることなく、すぐにその申し出にOKを出し、グループホームへ見学に行った。

そして、そこに一歩足を踏み入れた私は、近い将来、ここに母を預けたいっ!!!!!!、と、強く思ったのだった・・・・・。本当にそのくらい、私にとって、またはきっと母にとって理想郷だったのかもしれない、のだ。ここ以上の理想郷はありえない・・・・・・・っ。

夫と共にホームほ見学を始める・・・。すると、一人の職員から私に《あなたのご主人は英語を話しますか?》と。で、もちろん私は、《はい》と答えると、さっそくその職員は90歳を過ぎた、一人の女性入居者を私たちに紹介してきた。その女性は、15年間、アメリカで過ごしてきたとのことで、英語を話す機会があると、認知症ながらも、意識が一瞬でもしっかりするとのことだった・・・・。

もちろん、我が夫は英語の達人でもあるので、さっそく喜んで彼が彼女の相手をすると、さっきまで彼岸に行きかけてた?、と思われる表情をしていた彼女が、活き活きと英語で夫に話し始めるっ。

が・・・・・、勿論、彼女も認知症・・・、ゆえに、所詮彼女が活き活きしたとはいえ、英語で同じフレーズを何回も話すのは当たり前。でも、夫はそれに1時間以上、根気よく付き合っていたのが、おそらくそこの職員を感動させたのだと思う。

そして、私なりのコミュニケーション、そして夫なりのコミュニケーションが、このグループホームの職員に少なからず特別な印象を与えることに成功したのと同時に、奇跡が起こったのであった・・・・。

このグループホームは、本当に人気があって満員ゆえに、いつ入居できるかわからなかった・・・・。が、不意にこのホームに欠員ができたときに、ホームの運営者が一番に私に連絡してくれたのであったっ!!!!!!!!。

もちろん、責任者の申し出に即OKを出した私。

そして、それが現在に至っている。

といことで、2006年2月から母はそのホームで、第2の人生を歩み始め、それと同時に私の実家は、空き家となった・・・・・。

以後、以前と同じようにコンスタントに日本に里帰りしているゼロでありますが、誰もいなくなった実家を相手に、今度は、どうやって実家を維持するか?、または売っ払ってしまうか?、という問題を抱えつつ、とりあえずは、新たな里帰りをエンジョイしつつある昨今。
母の一連の問題で、日本に戻るたびに色々動いてきた私だが、動きつつも、そこには《日本に住んでいる日本人》ではないコミュニケーションの仕方が確かにあったのだと思われ、それゆえに、本当に感謝してもしきれないほどのヘルプを様々な倍媒体から得られたっ!!!!!!!。

すべては、《あたって砕けろ》ではないが、規則ということを無視した上で、どんな人とも人間同士として、交流してみること・・・・・。日本語でいえば、時には《なあなあ》なのかもしれないが、そういった仏式のコミュニケーション術を適度に交えた上に、私なりのやり方を真摯に交えていった挙句、母のことをはじめ、母国日本では、私にとって、《新た》な契りを得られる経験だった・・・。

2006年の11月中旬から12月中旬まで日本にいたが、ますます強くなる日本での私の関係をひしひしと感じることができた。逆にいうと、ますます私にとって、私が住む国は、フランスか日本か?!?!?!?、というのが真面目にわからなくなっている・・・・・(汗)。

未だかつてない程までの、強い絆を日本で得つつ、また同じものをフランスでも得つつ・・・・・。

ということで、新年早々、いい意味でも悪い意味でも悩みが尽きないゼロでありました〜っ(笑)。で、今年もよろしくお願い申し上げますっ。










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