ゼロの視点
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本日は、再び母とかかりつけの病院へ。新大久保の駅を降りて、病院までの道を進んでいくと、母が同じ世代くらいの人に突然声をかける。
????、と思って相手の顔を見ると、なんとそれは母の3歳下の妹・N叔母だった。またしても、奇遇な再会。N叔母は先日の検査の結果を聞くために病院へ来たようだった。
そこで、N叔母を説き伏せ、母の診察が終わるまで待ってもらって、その後新宿でランチすることにした。
今日の目的は、先週の母の知能テストの結果と、医者曰く本当に母の脳に器質的な問題が見当たらないのだったら、脳外科に通う意味もないわけであり、それに際して、転院するための手続きを頼むことだった。
日本の病院は、痴呆は精神科。で、現在の母には欝的なものからくる仮性痴呆の疑いもあるので、とにかく精神科に私としては移りたい。おまけに、介護保険申請をするにしても、かかりつけの精神科医をみつけたほうが何かと便利ということも学んだので、すべてのことを洗いざらい担当脳外科医に話す。
“あんた、本当によく喋るわねぇ・・・”と半ば母をあきれさせるほど、きちんと医者に説明した結果、相手のほうも、こっちの状況をよく理解してくれたらしく、明日までに転院に際してのすべての資料(脳のMRI写真含む)および、医者の意見書を早急に用意してくれることを約束してくれた。
ここまでコトを進めるつもりで里帰りしている私。ま、すべては予定通りとはいえ、自分的には、もう3週間近くこれだけに時間を費やしているので、ちょっとイライラ。長い目でみれば、まだ順調に進んでいるほうなのだろうが・・・。
たかが3週間、されど3週間と自分に言い聞かし、ポジティブに考えるように納得させるのだが(苦笑)。これが、日本に常時住んでいる身だったら、もう少し気分的に余裕があるのだろうが・・。
が、しかし、だ。これもある意味、思い込みなのだろうと気が付く。というのも、確かに私は日本から直行便で11時間かかるところに住んでいる。が、会社員でもないし、子供もいないからこそ、時間さえ調整すれば長期間実家に戻ることが出来る。
が、たとえ日本に住んでようとも、仕事だの子育てだの、フルタイムで忙しい人はたくさんいるはず。実家から程遠くないところに住んでいてさえも、なかなか自分の親だけのために数週間を過ごせるか?、といえば本当に難しいことなのだと思われる。
フランスは家政婦(時給制)を比較的安く雇うことができる。で、現在、パリでヤモメ生活を送っている夫は、友人の紹介とやらで、廉価で働き者という家政婦をみつけ、時々掃除などをしてもらっているらしい。
夫曰く、このアパルトマンに住んではじめてといえるほど、家の中がキレイになってしまったらしい(笑)。夫は感動しすぎて、たくさん記念写真を撮っているほど・・・・、と本日の時点でまだ夫と奇妙な同居をしている友人が教えてくれた。
ま、そんな感じで、自分のスケジュールさえなんとかなれば家を空けておいても平気な状況があるというものまんざらでもない。
さて、母は、“ああ、わたしだったら夫をこんな長期間独りにさせておけるほど薄情じゃないわ・・・”とほざく。もちろん、その瞬間キレル私。で、口から出てきた言葉は、奇しくもばばあっ。
先月、さんざん自分の姑に対してばばあと連呼した日記を更新していた私だったが、今度は国を変えて自分の母に対して、ばばあをキレル時がきたっ!!。
実は、母の母、つまり私の祖母は1992年の秋に痴呆の果てに、90歳で他界した。祖母は、母の末の妹宅でずうっと同居していたが、徐々にボケがはじまり、いよいよおかしくなった時に、自宅にかかりつけ医を読んで知能テストをした結果、完全な痴呆になっていたことが発覚。
テストとほぼ時を同じくして、祖母は自宅で骨折。そして入院。あとはお決まりの完全なる痴呆へまっしぐら。それでも、ボケでまでしてプライドが高かった祖母は、入院してもあまり食事にも手をつけず、断食するように徐々に肉体も弱っていき亡くなっていった。祖母としたら、そこまでして生かされたくなかったのだと、私は解釈している。
祖母は、自分の末娘とその夫&孫3人と暮らしていた。そこに、わしの母や、本日病院でばったり会ったN叔母などがちょくちょく実母の様子を見に行くという生活が基本パターンだった。
しかし、言い方をかえれば、そういった末妹の存在があったために、実家を簡単に離れることができたといえる母の立場を私は見逃さないっ。たしかに、彼女の夫、つまりはわしの父は性格的にクセモノだったけれど、夫にかかりきりになれるほど、実家を放置できる母と私の立場はちと違う。
そんな違いに目も向けず、母の口からポロッと出た言葉が、前述の、“ああ、わたしだったら夫をこんな長期間独りにさせておけるほど薄情じゃないわ”・・・・、だ。
もうこうなると、母がまだらボケだとか欝的かもしれんという状況は、どうでもよくなってしまう。
“あんたは、自分の親が同居していることで安心しすぎてたんじゃないか?”
“同居家族なりの解釈もあるから、色々なことがいえなかったというのは言い訳じゃないか?”
“もし自分の母親が、奇妙なことを言い出したら、自分の判断だけでもっと早く医者に診せることができたんじゃないか?”
“痴呆の初期ですと言われたとしても、そこで、自分の母親をただの役割以前にもっと知ろうとしたのか?”
“おばあちゃんにとっての生き甲斐というものを、本当に理解しようとしてたのか?”
等とポンポンと口をついで出るフレーズ。
そんな私を前に、母はタジタジ。もしかしたら、こういったショックがもっとボケを悪化させるのかもしれないが、もうそんなの構っちゃいられないっ。ばばあぁぁぁぁぁぁあっ。
とはいえ、アタマにきてもしょうがないので、気分転換にペットショップに行ってみた。そこには、お買い得品としてバーニーズマウンテンドッグの子犬がいた。
信じられないほどかわいいっ!!。
が、これは40キロ以上になる大型犬だ・・・・・・・・・。
72歳の母親に託すには、ちと問題が・・・。
ああ、でも、こんな狭いショップの檻に入れられている子犬を見ると、金を払ってでも救ってやりたい気持ちになってくる。それほど、かわいい子犬だったのだ・・・・・・・・・。
里犬探しのところもあったってみたが、独り暮らしの高齢者にはあまり譲ることはしたくないらしい・・・・。
私は個人的に、雑種フェチ。どうなるかわからない(サイズを含む)ところと、オリジナルなところが私を虜にする。純血種はあまり興味がないのだ。もし、純血種にまでこだわっても欲しい犬種といわれれば、シェパード、ラブラドール、そしてバーニーズマウンテンドッグに秋田犬と、すべて大型犬。
故・愛犬マルチンのサイズは中型犬。洋犬の地が混ざった非常に運動量の激しい雑種だった。で、マルチンの信じられない足腰の強さと、サイズを考慮し、純血種を探すとなれば、一番近いのがボーダーコリーになる。あの、フリスビーが得意な犬種だ・・・・。
奇しくも、母も同じで小型犬は好きではない。でも、年齢的に大型犬は無理となれば、中型犬で扱いやすい犬種になってくる。マルチンの面影を残すボーダーコリーは、今の母では難しい可能性が濃厚。しかし、かわいい・・・・・・・・・、ああっ。
シェルティでもいいか・・・・、と思いしばらく観察していたが、どうも泣き声が甲高い。中型犬といえど、小型犬に近い泣き声に私は感じだ。その点、故・マルチンは声が意外に低かったので、気が付くとそれに近いものを探している私達。
そして、あらたに候補になったのが柴犬、だ。できればオスよりメスが欲しい私達。さーーて、私の里帰り最中に、柴犬のメスと運命の出会いができるのだろうか・・・・・・?!?!?!。
近くの公園でドッグショーをやっていることを知り、フラッと母とでかけてみた。
おりしも、本日は30度以上ある蒸し暑い日。炎天下、オーナーの言うことを聞き、一生懸命頑張っている名犬らを見ると、辛くなってくる。まるでお受験に狂っている両親の期待に応えようとしている子供のようにもみえる。
私の近くで、出番を控えたチワワとオーナーの姿が、ちょっと面白かった。それはそれは丁寧にブラッシングされたチワワに対して、非常に緊張な面持ち&体格のよいちょっと893のような面構えのオーナー。
もちろん、彼のジャケットはダブルの金ボタン。ズボンは、ちょっと短めに裾上げされており、靴と裾の間にキッチュなソックスが隠れ見える。
光るナンバープレートでもつけたクルマ運転してそうな人なのだが、豆のように小さなチワワのために、震えんばかりに緊張している彼の姿は、知らず知らずのうちに我が親子の笑いを誘ってしまった・・・・。
駐車場にたくさんあるクルマのナンバーをみてみると、全国各地の地名が書いてある。はるばる旅をして本日ここにつれてこられたワンコ&オーナー達。ついつい、自分がこれらのワンコだったら・・・・、と考えると、アタマがクラクラしてきた。
ただ、ショーを見ているうちに、徐々に我が母に、新しい犬を与えることも悪くないと確信はじめたゼロでした。
またまた、高校からの幼なじみのM嬢が二人の息子と一緒にやってきた。
彼女も実家を出て久しいのだが、こうやって私が里帰りすると、それにあわせて極力やってきてくれる。わしの母も小さい子供と犬だけは、猛烈に大好きなので、一石二鳥、というわけだ。まるで孫のレンタルのようで、妙に笑える。
さて、M嬢とは高校1年時のクラスで、知り合った。最初の頃は、お互いに激しく牽制しあっていたのだが、気が付いたら、その後の自分の人生において欠かせないパートナーになっていったのだが。
そして、奇遇にもM嬢が来る数時間前に、暇つぶしに昔の自分の机の引き出しなどをガサガサと漁っていると、私がこまめにつけていた中学3年〜高校1年までの日記を発見。
学校という狭い世界において、そこで嫌がおうにも巻き込まれることに対しての不満だの、怒りだのがたくさん書かれた日記・・、だ。非常にイタくアオいしろものゆえ、逆に笑える。
“今日は雨、だから学校へ行くのをやめた”というフレーズをたくさん発見(汗)。あとは、“NHKの朝の連続ドラマおしんがはじまってしまったので、それをついつい見てしまって遅刻”などというフレーズも多かった。おまけに、学校があと10分、始業時刻を遅らせてくれれば、安心しておしんを見ることができるのに・・・、と当時の私は怒っていたらしい・・・・(汗)。
想像していた以上に、やっぱりやる気のない高校生だった自分を再発見。日記を丸ごと読み返したM嬢も、それを読んでいる間にすっかり昔にタイムスリップしたようだった。
M嬢と、エコー&ザ・バニーメンの日本初コンサートに一緒に行ったのを契機に、学校を早退してでも、色々なコンサートやライブなどに行く相棒になっていく。つまらん学校(学業)以外に楽しみを見つけて、どんどん遊びまくりだす瞬間が日記に綴られていた。 そんなM嬢に“ママーーーっ、だっこして!!”と駆け寄り、甘える息子二人が高校生になったらどうなるんだろうか?!?!?!。その時のためにも、この日記をとっておこうと、M嬢と笑いあう。
夜は、M嬢が息子を彼女の実母に預け、わしらは居酒屋へ。ま、いつものパターンだ。母にとっては、3回目の居酒屋体験だが、だんだんと慣れてきたらしい。
母にとっては、幼少時代、彼女の父が居酒屋で油を売っているところを、母(わしの祖母)に命じられて派遣され、父を家に連れてくるというのが役目だったのだが、こうして今度は自分が客としてカウンターに座ることに対する違和感というものが未だにあるらしいから、おもしろい。
実は、5月25日の夜から、友人M氏がパリのわしらの自宅に住み始めている。
M氏は30代後半のプロカメラマン。パリで暮らすという長年の夢を果たすために、長いこと準備を重ね日本を発ち、とうとう25日からパリで暮らし始めた。本来なら、私がパリでM氏を受け入れる予定だったのだが、急遽母の件で日本に私が戻ったので、夫が彼を迎え入れた。
これが、本当にドタバタコメディのようである。おそらくM氏は1週間ほどわしらの家で暮らした後、姑のワンルームに移り、そこで仮住まいしながら自分の部屋を探す予定になっているのだが・・・・。
M氏の彼女Y嬢は、私の元同僚。知らないうちに、いつしかY嬢の彼であるM氏とも友達になっていき、気がついたらわしらの結婚式に、わざわざ彼がやってきてくれ、素晴らしい写真を撮ってくれるまでになっていた。この時、彼女Y嬢のほうは、仕事でパリに来ることは出来なかったのだが・・。
さて、いざという時に本当に頼りにならないことを自他共に認める我が夫と、Y嬢曰く、“我が夫と同じように頼りにならない”らしいM氏は、わしらの存在抜きに、ただ今パリで共同生活中。
隠しカメラでもあったら覗いて見たいぐらいだ(笑)。
さんざん夫には、M氏の到着時間およびその方法などを言っておいたが、やっぱり直前になって私にSOSメールを送ってくる。“Mは何時にくるんだってけ?”と・・・・・・・・・・・(汗)。
また一方、M氏にも、私に予定を言うのではなく、夫自身にきちんとメールを打って事前に確認しておくように・・・、と伝えておいたにも関わらず、どうもそうではないらしい・・・・。
M氏のパリ空港到着は17時ごろ。荷物引き取り作業時間などを含めてまっすぐわしらの家に来ても19時頃になるか否か・・・・。
一方、夫のほうは19時からアパルトマンの住民の間での会議がある。これはあらかじめM氏のほうへは伝えておいたので、彼は空港で時間を潰しながら22時前後に夫のところへ到着するようにしたようだった。
そしてそれを夫に伝える私・・・・。もうこの辺で少しイライラしてきていた私だった。というのも、なんでコイツらは自分達でダイレクトに連絡しあわないのか?!?!、ということ。
案の定、きちんとM氏の予定を伝えておいたにも関わらず、勝手にM氏を待つというチョイスをする夫・・・・。それでいながら、突然“M氏がまだやってこないっ”と日本時間の午前3時前くらいに電話してくる・・・・・。
いらいら、いらいら、いらいら・・・・・・・・・。
で、どうやら夫は待ち切れなくなって、21時すぎぐらいにアパルトマンの会議に出席。が、自分の不在時でもM氏が家に入れるようにと、まず玄関のドアを半開きにし、アパルトマンのエントランスにはM氏あての張り紙をしておいたようだった。
我がアパルトマンは、非常に何重にもアクセスするためのコード(暗証番号)があるので、確かにドアを半開きにしておいても泥棒に入られるリスクはまずない。
エントランスには、インターフォンがあり、通常我が家を訪れた人はそれを押して、わしらのいずれかがロックを解除し、訪問客が中へ入る仕組みになっている。
さて、M氏は22時過ぎに我が家のエントランスに到着したようだった。中へ入ろうと思っても、インターフォンに誰も答えない。夫としては、この年トランスを出入りする人に便乗して中へはいってしまえ・・・、ということだったが、折り目正しいM氏にはそんなことはできなかったようだった。
そして、そこでひたすら夫の帰りを待つことにしたM氏。深夜まで長引きそうな会議に嫌気がさした夫が23時すぎに戻ってくると、そこにはスーツケースと一緒にM氏が・・・・。
夫は激しく驚いたようだった。
“どうして、誰かに便乗して中へ入らなかったのか?!?!?!”
とはいえ、めでたし、めでたし、こうして二人は落ち合いました。まるで恋愛物語のようだ(笑)。
その後は、会議で腹ペコな夫が冷蔵庫に残っていた、私が日本出発前日に購入したと思われる“野菜ハンバーグ”なるものを発見し、それを自分とM氏のために焼き始めたようだった。
ちょうどその頃、私が彼らに日本から電話したのだった。M氏が、夫が何か自分の為に料理していると聞くや否や、“何作ってんの?”と不審に思ってたずねると、上記のシロモノだと言う。ヤバイ予感を感じつつも、どうやらこの二人は賞味期限をきちんと確認した上だと聞いて、ホッとする。
さてさて、この異文化なオトコ二人の奇妙な共同生活はどうなることやら・・・・・(笑)?。
午前中は、母にくっついて、彼女の長年通う習字教室へ行ってみた。もうかれこれ、彼女はどのくらい習字を続けているのだろうか?、私にはよくわからん。ま、それほど長いのだ。
ただ、母がおかしくなってきてからは、彼女はあまり通わなくなってしまっていた。幸いにも、ここ数週間前から再び教室に足を向けるようになってきてはいるが、私としてはまだまだ危うい。
さて、教室に到着すると、でかい“コブつき”でやってきた母を、仲間が歓迎してくれる。私はフランスから持ってきたお菓子をくばる。今では、母よりも調子よくあらゆる世代の人とコミュニケーションするようになってしまっている私が、さりげなく皆に話しやすい空気を作っていく。
というのも、私としては教室の仲間は、絶対母の異変に気づいていると思っていたからだ。とはいえデリケートな話題ゆえ、こっちがあえてその話を切り出さないと、皆が奥歯にモノが挟まったような会話になりかねないと思ったからだ。
母の習字の先生は、いち早く母の異変に気づき、忽然と教室に現れなくなった母に対して定期的に電話をして説得していてくれたことが判明。独りだのなんだのとグチグチ言っていた母だったが、やはりチャンスには未だ見放されてないことを実感。
そして習字の先生は、“でもね、何度も電話するとかえって迷惑かしら・・・、って迷ったこともあるのよ”と私に言う。そこで私は“いやあ、母は自ら引きこもりガチになって、どうしようもなくなったから私がこっちに戻ってきているほど、ガンガン彼女に電話してくださって本当に感謝しております”と述べてみた。
今回の里帰りのひとつの目的。それは母の隣人や教室の仲間などと、私自身がコンタクトを最大限取ることだった。
母はもう30年以上、現在の住宅地に住んでいる。で、この住宅地は昭和40年代中盤に建設されたもの。ゆえに、同時にここに引っ越してきて、子育てをしなんて同胞がたくさんいる。
だから観察するとはなしに、30年なりのコミュニケーションというものが存在するのではないか?、と私は思っていたのだが、それは確かに存在していた。母をよく知る隣人らは、愛犬を失ってからの彼女の沈みように、どう手をだしてよいかわからず、とはいえあまりにも危ういので、そうっと見守ってくれていたのである。
私が実家に戻ると、ピアノを弾くので、その音で隣人らは“ああ、ゼロちゃんが戻ってきている”と判断してくれる。とある隣人はそれで、ある時クルマの出し入れをしている時にやってきて、“お母さんに何かあったら、すぐ連絡したいからパリでの連絡先を教えてっ”とまで言ってくれた。
本当にありがたいことだ。そして、母が嘘をつこうが否かに関わらず、こうして実際に私がここにいなくとも、色々と私に情報を流してくれる“スパイ”を確保できる安心感(笑)。
ということで、本日は習字教室の人らともガッチリコンタクトが取れて、一安心。
さて、本日は本当に快晴だった。このまままっすぐクルマで家に戻るのは惜しかったので、その足で父の墓参りへ行くことにした。高尾にある都営霊園はちょっと遠いのだが、こんな日にはいいドライブにもなる。
途中のスーパーで弁当を買って、墓の前で母とピクニック。芝生の上に二人で座り、のんびりと色々なことを話した。家の中で顔をつき合わせて、険悪な雰囲気になるのとは全然違う。やはり自然の開放感が、私達をもリラックスさせるのだろうか?。
また、父の墓参りへの懐かしいドライブルートなどを走っていると、母も色々と喚起されるのか、痴呆症状はみられない。ま、こういった状況が続くのが一番だが、まだ油断できないのがちとキツイいんだよなぁ・・・。
さて、全然話は変わるが、本日から深夜に懐かしいテレビドラマが再放送され始めた。それは山口百恵と三浦友和主演の『赤い衝撃』。典型的なコテッコテ大映ドラマは、非常に笑えるし懐かしい。日本滞在中は、毎晩これを見てしまいそうな予感がするゼロでした。
昨日はさんざん呑んで喋ったので、Y嬢も私も朝寝坊。居間でテレビをダラダラ見ながら過ごす。
Y嬢の仕事の苦悩などを聞きながら、テレビも見る。今は、北朝鮮に拉致された人たちにとって、いまだその国に家族を残している人たちについてのニュースが四六時中流れている。
そして、気がつくと今度は昼下がりのワイドショーの時間。Y嬢の解説を元に、日本での旬な芸能情報だの、ファッション情報だのにしばし見入る。成金マダムの生活レポートなど、なかなか笑えるネタ満載。それにしても、実に拝金主義だな・・・、と思わざるをえない我が祖国。
ケチでいることが人生の美徳のようなフランスに暮らし、いつしかそれが身に染みてしまった私という存在を再認識する瞬間でもある。
ファッションチェック等という企画もたくさんある。本日Y嬢とボーッと見ていた番組では、いかに今流行りの“ロールアップ”(ジーンズの裾をあえて折って穿くという流行)を極めるか?、というものだった。
さすがにハウツー本が売れる国だけあって、おしゃれに対しても、“こうすべき”という概念がたくさんあり、今更のごとくビックリ。個性をめざしながら、同じことを皆で一斉に再現する不思議。
この現象をいいか悪いという次元で判断する気は毛頭ない。とにかく、そういった現象があること自体に驚いている私、というだけなのだが・・。
ダラダラするだけして、Y嬢を最寄の駅にクルマで送っていく。そして、夕飯は、母と一緒にひたすら色々なものを千切りする作業に没頭した。なぜならフードプロセッサーなるものがない我が実家。ゆえに餃子の具を作るのにはなかなか時間がかかるのだ。
私も凝ると徹底的に凝る性格ゆえ、いかに具を細かく切るか・・・、などになるともう大変。が、母も今回はこれを楽しんでいたようだ。そして、二人の共同作業の結果できあがった餃子は、うまかったっ!!。
昨日の晩は、結局なんとか幼馴染M嬢と近所のファミレスで二人っきりで色々話した後、我が実家に一緒に彼女もやってきて、母を交えて団欒。
さすがに私とM嬢は小学校からの付き合いなので、我が母とのこともよく知っている。わしらの会話に参加してくる母の姿をみて、M嬢は“ゼロが言うほどボケてないじゃん”と言ってくれるのだが・・・・・。
M嬢の母親は、ケースワーカーなので近々相談に行かせてもらうことにした。いい病院の紹介など期待できそうである。
さて、本日の午後は再び母と一緒に病院へ。脳外科部長との話し合いだ。先週と同じく、母のMRIの脳写真をみながらの会談。あくまで脳外科の話なので、精神科医的な話は望めないのはわかっていたが、彼曰く、母の脳の状態で、それを使わずに過ごすことは“脳に対して失礼”とのことだった。思わず、私が思っていることを違った表現で医者が述べてくれたので、笑ってしまった。
が、ますます脳自体に問題がないのであれば、他の可能性・・・・、つまりは鬱病が浮上してくる。
脳外科部長との話し合いが終わり、今度は作業療法士との検査。つまりは知能テストなのだが、母はなかなか答えられない。というより、答える努力をしないように私には見える。すぐ諦めてしまって、“わかりません”とぃう母・・・・。
作業療法士も、母がすぐ諦めてしまうことに気がつく。なので、私なりの母を観察してきた感想を述べてみる。痴呆というより、鬱病の可能性もあるかもしれない、と30分くらい延々と自分の見解を述べると、作業療法士も早急に今回のテストの結果をまとめて、脳外科部長と話し合い、来週また特別にアポイントを取れるように手配してれた。
さて病院のあと、大学時代の友人Y嬢と待ち合わせ。彼女は本日と明日は休暇なので、ここで落ち合ってから一緒に私の実家に向かい、今晩は我が実家に一泊することになっている。
Y嬢の母君は、2002年の12月に脳梗塞の発作を起こし、以後言語療法士の世話になっている。また脳梗塞の再発を防ぐために食事療法だのなんだのと、家族全員で色々な試みをして現在に至ってもいる。
そんなわけで、以前とは違ってきてしまった“母”という対象に関しての、付き合い方においては、Y嬢は私の先輩でもあるのだ。なんとも頼もしい存在とでもいえようか・・・。
3人で実家に戻ってくる最中に、Y嬢と母は妙に意気投合している(笑)。予想はしていたものの、どこかこの2人には共通点があるようだ。なので母も活き活きとしてY嬢と話している。ただ、“てめえ、調子に乗るんじゃねえよ”と母に言いたくなる自分もあったのだが・・・・。
家に戻ってから、3人で我が家から徒歩5分のところにある居酒屋へ。先週の土曜日に高校時代からの親友M嬢と一緒に初体験した近所の居酒屋。これは同時に我が母初めての居酒屋体験でもあったりする。
そして今晩は、母にとって人生で2回目の居酒屋体験。どうもご飯類ときちんととらないと食事をとった気がしないらしい母。つまみながら、酒をチビチビ・・・、ということが苦手らしい(笑)。なので、この居酒屋唯一のメニューだった“丼モノ”を母ように注文してみると、彼女は妙に落ち着きだした。
母は丼モノを平らげ、生ビールを一杯のんだら、すっかり眠くなってしまったようで、先に帰っていった。以後、昔のようにY嬢と延々と酒のみながらお喋り。
住宅街にある居酒屋ゆえ、どんな客が来るのか非常に興味があったので、色々と店主にインタビューしてみた。駅前にあるわけでもなく、なかなか固定客というものができそうでできないらしい。また、いつ繁盛するかというのがなかなか検討がつかないらしい。
今日は店を閉めようか・・・、と思うと突然午前0時すぎに人がやってきたり、こんなこともあるから、ずうっと店を開けておこうか・・・、と思うと誰も来なかったり・・・、なかなか大変そうだった。
で、気がついたら、わしらが店主の人生相談をしている感じになってしまっていた(笑)。
午前1時すぎに居酒屋を出て、すぐ隣にある24時間営業のコンビニにY嬢と出向いて、しばし店内をブラブラした後、家にもどり、またまたお喋り。わしらが就寝したのは、午前4時近くになっていた。
本日は母と一緒に、まず教会へ。
昨年の夏まで2年間ロンドンで留学生活をしていた、敬虔なカトリック信者である、小学校からの幼馴染M嬢とそこで落ち合うため。また、そこのフランス人神父に挨拶に行くためでもあった。
このフランス人神父には、昨年夫を連れ立って里帰りした際に、とてもよくしてもらったこともあり、フランスでしか手に入らないお菓子を持って挨拶をしてみた。1926年生まれの高齢を全く感じさせない彼のバイタリティーは、健在だった。
今回は、夫はパリで留守番と神父に伝えると、ちょっと彼はガックリしていた。これを単純な夫に伝えたら、きっと喜ぶのだろう・・・・。
幼馴染M嬢は、実は現在京都で撮影の仕事をしている最中。しかし、ちょっとスケジュールに狂いが出て、たまたま実家を拠点にして都内で数日仕事をしていたので、ラッキーとばかりに久し振りに会うことになった。
彼女と昨年会ったのは、昨年の4月、パリで。当時は留学生という顔だったが、本日はさすがに仕事をバリバリしているのか、プロの顔だった。
ところで私の母も、なんちゃってカトリックだったりする。なぜ、なんちゃってなのか?、というと、若気の至りで洗礼を受け、彼女にしては熱心に教会に通ったものの、その後知り合った未来の夫(つまりはわしの父)に、“科学者の妻たるもの、つまらぬ宗教にはまらないでほしい”とのことで、説得され、以後教会通いを止めていたのだ。
父も父だが、そんな説得に簡単に応じる母も母だ(笑)。そんなところを私からさんざんからかわれていた母だったゆえ、どこか教会通いを復活させることに迷いがあるようでもある。また、母からすると、教会通いする人の中には、妙に“いい人ぶっている人”が混じっているので、それが嫌なのだとか、言い出す。ま、確かに一理あるが、そこはまあおさえて、おさえて・・・・。
私としては、洗礼を受けてない私にも、信者にもその強烈な個性でエンターティナーとして楽しませてくれる神父がいる教会に、信仰しようがしまいが、とりあえず通うことで色々な年代、国籍の人たちと母が交流するようなことがあるといいなぁ・・・、という思惑がある。
が、当の本人は、あくまでわたしの付き添いという風体で、その場に存在している・・・・・(汗)。そんな母を見て、里帰りの疲れがたまり余裕がなくなっている私がツイツイきつい口調になる。それにつられて、母もキレル。
夫との喧嘩を終わらせてパリを経ち、日本に戻ったら、今度は母だ・・・・・、ああっ。
本来なら、教会のあとM嬢と一緒にどこかでランチでもしようということだったが、この分だと不可能と察し、母をクルマに乗せて、険悪な雰囲気のまま彷徨う。人気のない公園の駐車場にクルマをとめて、車内で親子喧嘩。
母も私も、それぞれの理由で怒っている。母の一言一言がある意味正論だったりして、私はどんどん狂っていく。が、不思議なことに、こんなマイナスな状態でも、言いたいことをバンバン言ってくる母に対して、ちょっとホッとしている自分もいたりする矛盾。
以前の私だったら、ここで意地を張り通したのだろう。が、夫との喧嘩なども含め、意地になることが対して意味を成さないことを少しは学んだのか、母に対しても、自分も矛盾を少し落ち着いた声でそのまま伝えてみる。
すると、それが意外にも母を少しずつ静め始めたようだった。これはもしかしていけるかも?、と同時に思った私。というのは、この一時間後に、太極拳教室の無料体験講座に2人で参加する予定だったからだ。
昨年の12月に母がパリに来て、カルチャーショックから精神的変調を来たし、あの手この手で母をリラックスさせる方法を夫と共に試みた私達だったが、その中のひとつで太極拳はかなり母にそれなりの効果をもたらしたので、私としてはこれは一つの賭けでもあったのだ。
“私に適当な趣味を無理やり押し付けて、自分だけ安心してまたパリに戻るつもり?”という母の私に対する不信感(確かに一理あったりするから汗・・・)と、“いつまでも被害者ヅラして心配させるんじゃねーよ”という私の怒りが、ここでなんとなくやんわりと交差したのかもしれない。
その後、落ち着きだしたわしら親子は、色々と話し出し、母のほうもリラックスしはじめ、太極拳体験講座に行きたいと言い出してくれた。
なので、急いでクルマを飛ばして会場入り。無料体験講座とあってか、かなりの人。およそ80人ほどいただろうか・・・。
私の夫の太極拳暦は半端じゃない。以前にも書いたが、本場中国で、最後には中国人相手にソレを教えてしまったほど。私自身においては、日本にいた時には太極拳自体になんの興味も覚えなかったものだが、さすがに夫の熱心さに負けてトライしているうちに、いつしか自分でも好きになってしまっている。
が、太極拳には2大流派がある。それは楊式と陳式である。夫の太極拳は楊式、となると私の師は夫なのだから、必然的に楊式。そして母がパリで熱心に取り組んだソレも楊式、となる。
そして、今回の体験講座は陳式。地元で楊式を探し回ったものの、どうしてもそれを発見できなかったので、背に腹は変えられない。
今回の講座には、陳式の大家といわれる中国人がやってくる。が、誰もが大家と平気で名乗りかねない中国人と思っていた私だったが、今回の講師は本当に凄い人だった。
結局、楊式だろうか陳式だろうが、“気”をいかに自然に利用し、身体と宇宙を一体化させていく運動なのが太極拳。さすがにこの点には敏感になっている私は、講師の動きを見ているうちに虜になってしまった。
日本に住み始めて15年強という講師は、日本語も堪能かつ、本当に太極拳の真髄に迫る説明もうまい。この場に夫がいないのが悔やまれるほどだった。フランスでも道場やぶりのように、色々なところを実は訪れているが、これほど端的かつ自然に説明&デモンストレーションできる講師もできないと思う。
母が興味を持とうが否か以前に、私がここに住んでいたら通ってしまいそうな講師だったのだ(笑)。
無料というわりには、本当に講師は熱心に教えてくれた。娘が親を放ったらかしではまっていくのに反応するように、母も母なりに動きについていこうとする。
とはいえ、全くの初心者の母の動きは遠くからみていると、笑えるほどリラックスしていない。そしてパリで私の夫とマンツーマンで特訓した時と比較すると、彼女の出来ははるかに悪い。
一方、多くの受講者が全員平等に動きが見られるように、色々と場所を変えてデモンストレーションをする講師。そんな講師のあとを一心不乱に追いかけて、一番講師から近い所で、なんとか動きを真似しようとする母。そんな母を目で追いかけながらも、私自身の楽しみもやめられない。
さすがに母は、最後には見学に回ったが、本当に熱い講座だった。そして絞めに講師自身の単独デモンストレーション。これは圧巻だった。身体の芯から発する講師の深い息遣いと集中力がひしひしと伝わってきて、彼が演じ終わるか否かのところで、鳴り止まぬ拍手を一番に送っていた私だった。
たまたま暇つぶしに入った100円ショップにて、黒いリボンを発見。
そして、それを即購入する。
実家に戻り、マルチンの額入り特大写真に黒いリボンをかけてみた。
これで、母が徐々にマルチンの死を本当の意味で受け止めだすか、な?。
昨日の午後はまず役所へ出向き、介護保険の申請の仕方、およびその仕組みについての説明などを聞いてきた。あらかじめ日本に来るまでに調べこんでいたものの、どうしてもわからぬこともあり、係員に矢継ぎ早に質問。
また介護申請したあとで、要介護以上の判定をもらえば色々とサービスを受けられるが、もし自立と判定された場合の可能性なども念入りに質問。
というのは、母の場合、身体はすこぶる丈夫。そしてまだらボケなので、大丈夫な時は、本当にこの人のどこがボケているのか?、という感じになってしまい、介護認定をするために役所から送られてきた調査員相手に、自立の判定を下されてしまう確率がかなり濃厚だから、だ。
しかし、私としてはデイケアのようなサービスを、母が受けることができるのなら、それを獲得したいのが本音。もし要介護と認定されても、そののち自立と判定されるまで回復するなら、それはそれで素晴らしい。
来週の月曜日に、もう一度かかりつけの病院へ出向いて、今度は脳外科部長から色々と説明を受ける予定になっているが、その説明次第で、すぐに申請ができるようにあらかじめ準備だけはしておきたかった。
極力、今回の実家滞在を延長させるつもりでいる私とはいえ、母がこのまま閉じていく一方なら、こういった手段を使わなくてはならない。
ドウ転ぶのか?、ま、それは最終的に母次第なのだが・・・。
通常、申請してから結果がでるまで一ヶ月。が、私には時間がないので、事情を説明すると、役所側も考慮してくれると申し出てくれた。なので一安心。これでいざ申請するとなったら、手続きは早く済みそうだ。
その後、役所近所の映画館でまだ上映されている日本映画『クイール』を、母を連れて観にいく。
一匹の盲導犬・クイールの感動的な人生を描いたもので、前評判や宣伝では“涙なくしては見られない映画”と言われていた。
犬の死がテーマの映画を母がどう受け止めるのか?、というのが私の目的。それと同時に、リスクもあるのだが・・・。でも、あらかじめ映画のあらすじを母に説明したら、自ら“観たい”というので、一緒に行くことにしたというわけ。
最初は自分の体験が、映画によりフラッシュバックを招き、母が号泣しはじめたらどうしようと思っていたが、実際には、周りの観客がみんなゴーゴーと泣いているのに対して、私達親子だけが泣いていなかったという状況。ちょっと笑ってしまった。
とはいえ、きっと何か確実に母の心の底では何かが響いていると想像して、とりあえず映画のパンフレットを購入しておいた。あとで時間がある時に読み返して、一人で思い出す作業もできるかな?、という理由にて。
のちに、パンフレットにたくさん掲載されている、犬の写真を見ては、目を細め、満面の笑みで“かわいい、かわいい”という言葉を連発させている母だったが、それはそれ。彼女が常に探しているのは、“自分が失った愛犬・マルチン”でしかなかった。ま、当たり前なのだが。
それにしても、母は、おそらくマルチンを失ってから、思い切って泣いたりしていないと思われる。
いつもそうなのだ、母は・・・・。マルチンを想っては、涙がこぼれるということは数え切れないほどあっただろうが、悲しみを吐き出すような泣き方をした母というものを、私は一度も目にした事がない。
父の死を通しても彼女は泣いていないのと同じように・・・・。
ボーっとしているふりをしながら、家事をしている母のうしろ姿を眺める。その以前より小さくなった彼女の身体のなかに、どれほど未消化の悲しみが蓄積されているのか・・、と想像すると、こっちのほうがキツイ。
吐き出す術をあえてブロックしているのか?。 それともソレができないのか?。
私としては、いつか母がボロボロとその悲しみを解放することができる日が来ることを祈ってやまないが、かといって、彼女なりに悲しみを和らげるために、あえてまだらボケの世界に突入することを選らぶのなら、そこから無理に引き出すのも考えものかもしれない、と思うこともある。
里帰り中は、私なりに母を連れ出し、彼女を刺激することは決してやめないが、その過程中にもし彼女が何も自分のやりがいを発見できなかったら、それはそれでしょうがないのだ。
一緒に行動することにおいて、またこうして母をもっと知ろうとすることによって、すでにそこから新しい私と母の関係が始まっているのだろうから。
昨日の日記で、医師からの質問『今日は何日ですか?』というのに対して、きちんと5月18日火曜日と答えられた母だったが、2004年のところは思いっきり1993年と答えたと書いた私。
確かに、ギョッとする答えだったのは確かだったが、なぜに1993年なのか?、というのを知りたくなった。
さて、母は時々私に向かって、“うちの小さいゼロはどこ?”“私の子供のゼロはどこ?”等と尋ねてくる。ま、たいていこういうことを尋ねてくるときは、母の頭があっちの世界へ行っている時。まだ、一日のうちごく稀だからいいものの、これが常にとなると、完全な痴呆の世界へようこそっ、となるのだろう。
で、母があっちの世界へ旅立っている最中は、あまり抵抗しないほうがよいというのをここ数日で少し学んだので、今までだったら“わしがゼロじゃ、ボケっ!!”とかムキになって言い返していたところを、本日は他人になりすまして母に“あなたのゼロってのはどんな人?”とインタビューしてみた。
母は嬉々としてして“私の子供のゼロ”について語り始めた。そしてそれを一字一句間違えずにノートにメモする私。
(1)うちにいる女の子(30歳まではいってないと付け足す)
(2)性格はいい時と悪い時があるが、基本的にキツイ
(3)小遣いが欲しい時だけ声が変わり、「ねえ、ねえ、おかーさん、お金貸しえー」と平気で言える甘ったれ
(4)会社のクルマを使って、あっちこっち走り回っている(取材のこと)。
(5)親と一緒に住んでいる。なぜならお金がないからだと思うし、親と離れられないのよ、あの子
(6)背が高いくせに、ヒールの高い靴が好き
(7)家に帰ってくると、「お腹すいた、何か食べるものある?」と聞いてくる
(8)まだ結婚してない。あんな自分勝手な子は誰ももらってくれないはず
ま、こんな感じだった。 ひえーーっ。
(4)の彼女のこたえに基づいて、私の以前働いていた会社名を尋ねると、彼女は見事にそれを言い当てる。そしてそこから、彼女の語る“私の子供のゼロ”というのが1993年頃だということが判明。
確かに、あの当時は会社に行くとき、最寄り駅まで朝晩母にクルマで送り迎えしてもらい、基本的には実家暮らしだった。愛犬マルチンもすこぶる元気で庭をかけまわり、かわいい悪戯をして、母は充実した生活をしていたのだと想像できる。
残業だの、出張だの、遊びなどで、ちょくちょく外泊はあったものの、それでも、母にとっての私は、まだそれほど遠い存在ではなく、まだまだ子供で、面倒をみる甲斐があったのだろう。
逆に私にとっての1993年ごろは、最悪だった。会社勤めも嫌だし、だからといって経験もなし。鼻っ柱だけは強くとも人生はうまくいかない。ま、典型的な荒れた青春時代の延長ってところでしょうか(汗)。
ああ、親子間でのギャップの激しきことよ・・・・。
1994年まではそれでも、実家にいた私だったが、1995年からはとうとう実家を離れ、別のところで暮らしだした私(といっても都内で、母がよく出没する病院のすぐ近く)。一度、1997年に10ヶ月ほど実家をベースにしたことはあったものの、それ以後はフランスへ来てしまっている私ゆえ、母の最良時の記憶が1993年あたりに留まっているのは理解できる。
(5)の回答には、ちょっと怖くなった。“あの子は親から離れられないのよ”と嬉しそうに語る母・・・・。あの当時の母には、そんな確信があったのだろう。共依存体質そのもの。ゆえに、親の金も借りずに海外へ行ってしまい、そのまま外国に住み着いて、外国語もそれなりに習得して、たくましくなっていく娘に対して、どこかで裏切られたという感じを母は抱き続けているとも推測される。
だからこそ、愛犬マルチンの死を受け入れられないと同時に、私の巣立ちも未だ心の底では全く受け入れられない母。“私がいないとダメ”と思っていた存在が、皆彼女の元から去ってしまったわけなのだから・・・・。
このインタビューのあと、母は幸いにも、この11年の“時差”に自ら気づいた。で、二人で色々と話し合ってみた。母は“やっぱり私はどこかでゼロの成長を受け入れられないのかしらねぇ・・・”と、妙に寂しそうな口調でもらす。
私の夫は、過干渉な自分の母親から離れるために、外国語に堪能になったと、自分の精神分析医との間で、その理由を発見している。その時は、そりゃあ、あのばばあから逃げるには、そのくらいのことまでしなければならないものなあ・・・、と、夫のことをつい爆笑してしまったのだが、実は人のことを笑ってられない私だった(汗)。
日記まで平気で盗み見ようとするような母に対して、夫は英語だの、中国語だのを利用して、母には解読不可能な日記を書く、というわけだ。そして、フランス語圏以外の友人を徐々に増やしていき、母親には干渉させない方法を、知らず知らずにとってきていたともいえる。
コントロールしきれない子供を育ててしまった親の不幸か、それともコントロールしたがる独占欲の強い親をもってしまった子の不幸か・・・?。
しかし、コントロールするという考え自体を放棄した瞬間から、そこには不幸じゃなくて、幸せだけが育ちはじめると考える私なのだが、いかがなものだろうか?。
2004年05月18日(火) |
だから言ったのに・・・・・ |
本日も病院通い。時差ぼけになっている暇がない。
再び新宿区百人町へ出向き、ちょっと緊張しながら神経内科へ。順番がきて、診察室へ入る。
昨日も思ったことだが、日本の病院ってのは診察室が狭いなあ(例外もあるのだろうが)・・・、ということ。すっかりフランス式のだだっ広い診察室だとか、まるで応接間のような診察室だとかに慣れてきてしまっていた自分にビックリ。
医者が母の頭部MRI写真をたくさん診せてながら、説明。母の脳には特に異常もなく、平均的な70歳代のものだという。ひとつだけ脳出血の後はみつかったが、これも古いものであり、またよくあることらしい。そしてこれが最近の危うい母の挙動・言動を引き起こすものとは言えないと断言された。
脳の中心に空洞が出来ている写真を見せられる心の準備をしてきた私ゆえ、ここでちょっと拍子抜け。
さて、医師は簡単な知能テストを母にやらせた。本日は何日ですか?、という質問に対し、迷いながらも、母は“5月18日火曜日”ということが出来た。が、何年という質問には、2004年と答えるべきところを、堂々と1993年と言い切った。私も医師もビックリしたものの、そんな驚きは顔にはまったくださず、平然としているが、私は冷や汗たらーーり。
テストの結果は、激しい記銘力の低下。相変わらず、だ。おまけに、3月にやった同じテストよりも結果が悪い。脳には異常がなくとも、激しい物忘れ。あきらかに日常生活での刺激がない証拠。
やっぱりだっ!!。
私はずうっとこれを信じて疑わなかった。だからこそ、10年以上も前(私はまだ日本にいる時)から、私が巣立ち、マルチンがいなくなった後の自分の人生設計を考えておけっ、と口がすっぱくなるほど言っていたし、それなりに色々な提案もしてきたのだっ。
なのに、“大きなお世話”だの何だのと全く私の提言にも耳を貸さず、私が居なくなった後は、マルチンに病的なまでにのめり込んでいった結果が、これ、だ。
これを考えると、ハラワタが煮えくり返ってくる。“だから言ったじゃないかーーーっ!!”と、今にでも母に馬乗りに飛び掛って、首を絞めたいほどだ。
が、想像だけで充分。老いている母にそんなことして、翌日の新聞に、“国際結婚の悲劇”だのの見出しで、面白おかしく語られ、犯人の鬼娘はサイトも持っていたとこのサイトの存在を暴かれ、顔写真まで晒される・・・・、なんて状況になったら、さぞかしゼロの視点の読者には楽しんでいただけるだろうが。
母と適当に話しながら、内心イライラしながら小田急HALCへ。ここで母より6歳下の妹・F叔母と待ち合わせ&ランチ。
F叔母には、よく母の家に行ってもらい、彼女の様子をみたり色々と面倒をみてもらっている。母には、ただ時々F叔母が訪れるというだけじゃなくて、自分から病院の帰りにでもF叔母の家にフラッと遊びにいくように、といつも言っているのに、やらない母・・・・・。
音沙汰がないと、さすがに心配になってF叔母が母のところへ行く。“今から行くわよ”とF叔母が言うと、“今、忙しいから来ないで”等と平気で言う母。そして、挙句の果てに“ひとりで寂しい”とほざく母。
こんなことは私も百も承知。母を前にして、F叔母と私で、本当に面倒くさい性格だっ!、と言い合う。それを見て、ゲラゲラ笑っている母。わからん。
食事の後は、喫茶店でまたまた3人でお喋り。とにかくこのF叔母というのが強烈に面白い性格なので、そのコメントに爆笑しまくり。と同時に、さすがにこの人達姉妹だっ!!、と思わせる口癖もあって、時にゾッとする瞬間も多々あり。とにかく、基本的には口が悪い&女の強い家系なんだ・・・、と再認識。
笑いすぎたのと、やはりどこかで時差ぼけが抜けてないのか、帰りの電車の中では、ヨレヨレだったゼロでした。そんな疲れた身体に、炊き立てのご飯と大トロの刺身、そして出汁のたっぷりきいた味噌汁はうまかった。
2004年05月17日(月) |
現実と虚構のハザマにて |
前々から早くて4月、遅くて5月には一度日本へ行こうと思っていた。とはいえ、いつ戻るともハッキリ母には言えない状況。変に期待させて、それが延期となり、また母がガックリしてボケるというのは避けたかった。
が、虫の知らせなのか、なんか母が変なような気がしてきたのは4月頃からだった。3月いっぱいは、そこまで“変?”という感じはしなかったのだが・・・・。
4月になってから、どうやらまた母は痴呆っぽくなってきていた。昨年の9月に天国へ行ってしまった愛犬マルチンを夕方になると探し回っている様子。
犬小屋を覗く。
マルチンがいない。
大変だわ、マルチンが逃げちゃったっ!!。
そして、いつも一緒にいっていた公園へ行き、探し回った挙句、“ああ、そういえば死んじゃったんだ”と気づく、というのの繰り返し。
どうしても、マルチンの死という現実を受け入れられない母。と同時に、日常生活での物忘れも激しくなってくる。毎日を無気力状態で過ごす、生きた屍。やばすぎる・・・・。
5月のゴールデンウイークに母のところへ訪れた、母の妹夫婦とその娘であるM嬢から、報告メールが来た。現実と虚構のハザマを行き来する母のことが書いてあった。
母に帰国の電話をすると、ちょうど5月17日にかかりつけの病院へ行くことになっていると言う。丁度いいので、それに同行するために航空券を購入、そして、本日となったわけだ。
母の病院は新宿区百人町にある。母は軽度の糖尿があるので、もう長いことこの病院へ通っている。総合病院で、脳ドックにもかなり力を入れていることを知ったので、昨年母に検査をやってもらったのもこの病院。各科のコミュニケーションもよく、母の脳ドッグの診断は、長年かかりつけの担当内科医にもすぐ通知されるし、糖尿の数値は脳外科医に提示されるゆえ、こちらも楽。
本日は、内科の日。病院の廊下で順番を待っていると、後ろでわしらの苗字を呼ぶ人がいる。振り向くと母の3歳下の妹N嬢だった。実は彼女もこの病院がかかりつけ。そして廊下で3人でおしゃべり。叔母は叔母でちょっと厄介な病気を抱えているので、彼女はその検査で本日来ているとのこと。
こういった総合病院は、診察日の予約をとるのが非常に難しい。なので、たとえ内科とはいえ、母と一緒に診察室に同行して、現在の説明と脳ドックの結果を示したら、うまくいくと内科医自身がうまく連携して、明日にでも脳外科の予約を取ってくれるかもしれない?、と期待して行った私。
一世一代の演技でもして、それを母の担当内科医にお願いしようと思っていつつ診察室に入ると、開口一番、担当医が“○○さん、最近物忘れがひどくなってませんか?。みんな心配してますよ”と話し出したので、私からあえて説明する手間が省けた。
なので、この内科医の話に便乗させてもらって、私が日本に滞在するには期限があることなどを伝えると、医者同士の内線電話でさっそく明日、脳外科ではなく、脳神経内科の医者との予約を取ってくれた。ああ、ラッキー。
診察室の前で、心配そうにわしらのことを待っていてくれた叔母N嬢にもそれを伝える。母が会計を済ませている間に、今度は母の6歳下の妹F嬢へ電話する。彼女とはこのあと一緒に新宿でランチする予定だったのだが、急遽明日の予約もとれたことだし、いっそのこと明日にランチを延期できるか?、と申し出ると、快くF叔母は受け入れてくれた。
これから長いツライ検査を控えているN叔母にお礼と、応援エールを送って別れる。
その後、新大久保にたくさんある韓国料理屋のうち、ことに怪しそうなビルの地下にあるレストランを選んで、そこに母と一緒にはいる。昔、この界隈に住んでたこともある私にとっては、非常に懐かしい場所でもあったりする。ゆえに、私は楽しいが、母はちょっと警戒気味。笑える。
久々の冷麺とユッケに舌鼓をうった。
その後、大型本屋に立ち寄る。母は私のあとをついて回る。ま、私と一緒にいる時間が楽しいというのはわかるのだが、これが私をちょっとイライラさせる。なので、つい“ねえ、あなたは自分がこれを読みたいっ、とかこういう本を探しているっ”というのがあるの?、などと詰問してしまう。
大人のドリルなどというボケ防止の本もたくさん店頭に並んでいる。これを手に取りながら、母と物色。と同時に、心の中で“もう遅いのか?”などとちょっとうろたえる私。明日の脳神経内科の診察にて、少しは詳しいことがわかるといいのだが、現時点ではわからない。
もし、アルツハイマーのような典型的な脳の萎縮が発見されたら、大人のドリルをやってもねえ・・・、というわけだ。
それでも、ブラブラとショッピングなどをやり、帰りの電車の中でも母と話がはずみ、本日はつつがなく過ぎたように思った。
昨日の昼過ぎに、高校からの親友M嬢が二人の小さな息子を連れて我が家にやってきてくれる。
彼女は、本当に長いことしょっちゅう私の実家にやってきては、連泊していたので、母のこともよく知っている。けっこう強烈なキャラだった母を生で見ていた彼女ゆえ、遊びに来がてら、同時に母を客観的に観察できるというわけだ。おまけに母は、犬および小さい子供が大好きなので一石二鳥。
その後、5人でクルマにのって川原へ遊びに行き、散々子供連中と遊んだ。
母は、過保護タイプゆえ、M嬢の5歳と2歳半の息子が縦横無尽に走り回る姿にオロオロ。M嬢の息子連中が、危なそうなことをやる前から、手を出して助けようとする。
M嬢はある程度は注意するけれど、母ほどではない。私には子供はいないが、私も母がどうしてあそこまで手を出さないでいられないのか?、が理解できん。
同時に、こういう母をみていると、色々なことを再認識することもできる。
私は小さい時、大人しかった。靴もはかずに家を飛び出すということもなかったし、とにかく親にとって、私の挙動は扱いやすかったはずだ。ま、言動は時に凄かったと思うが・・・・(汗)。その頃の私を知っている人は、今でも“ゼロは変わったわねぇ”と言わないではいられないらしい。ま、本人としては、変わったつもりはないのだが。
次に、私が成長して今度は愛犬マルチンを飼うようになった時のこと。母のマルチンに対する世話の仕方と、私のソレは全く違っていた。母は、マルチンが危ないことをしないようにどんどんと手をだし、その結果甘やかしていく。なので、階段も怖がって登れない。特に、実家の階段は急なので、確かに怖いと思えば難しいのだが・・・・。
そんな母とマルチンのやり取りと見ていると、妙にイライラしてくる自分を発見した。というのは、マルに自分を投影していたのだともいえる。なぜ、思う存分やらせないのか?、もしマルチンが痛い思いしても、それはマルチンなりに危険を身をもって学ぶいいチャンスでもあるのではないか?、等。
本当に危ない時には手を出すというのではダメなのだろうか?、ということ。
そんな母に対抗するように、私はマルチンの階段昇降レッスンをしてみた。マルチンが怖がる数段目以上の階段に、好物の餌を置く。マルチンはそれを食べたいが、怖くて登ることができない。イライラして、母の方を向いて吼えるが、味方になってくれる人がいないとマルチンは悟ると、とうとう食い意地で、登れなかったはずの階段を登りだす。
これを一段、一段高いところへ設定していくうちに、とうとうマルチンは階段を簡単に登れるようになってしまった(笑)。欲というものは、生物をここまで進化させるのか・・・、と思わず笑ってしまったほど。
とはいえ、母の過保護により階段なんて登れないと、ある意味“マインドコントロール”されていたマルチンだったが、やりゃあ、できるのだった。
母はよく外出しても、“ああ、マルチンがかわいそう”とさっさと用事を済ませて、すっ飛んで家に戻ってくる。私への場合も同じである。もしくは亡き父に対しても同じだったことは火を見るよりも明らか・・・。
私は、これが本当によく理解できなかったし、今でも理解できない。世話好きというのを通り越して、他人を世話している自分を満たす行為じゃないか?、とさえ高校時代の頃から思っていた。
母は、色々と習い事などもしていたが、教室が終わったあと、仲間とのつるんで一緒に食事に行くなどほとんどしたことがない。“夫が待っているから、かわいそう”“娘が待っているから、かわいそう”“マルチンが待っているから、かわいそう”というわけだ。
旬な言い方をすれば、“共依存”な母というところだろうか。
親友M嬢は3人姉妹の末っ子。思春期の頃、彼女は彼女なりに家族全員からガキ扱いされるという環境にかなりフラストレーションを蓄積させており、昔から私とM嬢は、こんな状況も含めて、あの人はこういう人だけれど、実はその背後にこういうことをしたいというエゴが隠されているだのなんだのと、延々と話し合うのが大好きだった(笑)。
私は、高校までは地元で母の手の届く範囲(自転車で数分)で生活していたが、その後大学、就職などの機会にどんどん母の生活圏から離れていった。が、相変わらず一人暮らしには猛烈に反対していた母。なので、酔っ払おうが深夜になろうが、実家に戻る生活を送っていた。ま、だんだんと外泊の回数は増えていったとはいえ・・・。
同じように、一人暮らしを簡単に許してもらえぬM嬢とは、私の免許取得(1989年)を皮切りに、しょっちゅう日本中を逃避旅行する相棒として、道路が続く限り果てしないドライブを繰り返した。
M嬢がフラッと我が家にやってくる。そして、私がフッとクルマのエンジンをかける。そして、フラフラと何かに導かれるようにクルマに乗り込んだら最後、どこへ行くかわからない・・・・、そんな旅だ、半日で中国地方まで行ってしまい、九州の果てまで行き・・・・、なんてことはザラだった。
今思えば、夫もそうだ。15歳で家を出る理由として、イギリス留学のチャンスをゲットし、その後は、ヒッチハイクでヨーロッパ中を放浪し、それにも懲りず、今度はトルコ経由でアジアまで仲間とクルマで行ってしまったわけであり・・・・。
ま、私とM嬢の場合は、日本という島国に住んでいるゆえ、クルマを飛ばしても必ず、そこには限界があったゆえ、夫ほど遠くへいけなかっただけかもしれない。
私も去り、愛犬マルチンも天国へ旅立ち、ブラックホールに落ちてしまったかのような感覚に苦しめられている母。果たして、私の滞在期間中に、そこから抜け出す糸口を、彼女が発見することができるのだろうか・・・・?。頭が痛い。
昨日から引き続き、飛行機の中・・・・。呑んで、食って、映画見て、気がついたら激しく熟睡していた私。
飛行機の後部座席の2席分を独り占めして、足を窓の所に引っ掛け、身体を伸ばしきって寝ているうちに、着陸前の“お食事の時間”。やることもないので、またコレをぺロリと平らげる。あとは着陸まで、搭乗時に貰っておいたフィガロ、ル・モンドそして週間文春を読みながら暇つぶし。
日本にいた頃は、毎週、週間文春と週間新潮、そして毎月、噂の真相を読んでいたものだったが、今となっては活字で雑誌が埋め尽くされているとはいえ、記事の内容がどーでもいいことばかりで辟易。気がつけば、芸能人やアナウンサーの噂だの、社会的に切り込んだ記事らしいが、どこか国民を煽情するだけのような表面的な記事。どこにも記者なりの解決策などの提案はなし。つまらん。
これって編集部のやらせ記事だな・・・、とかわかりきってしまって面白くない。フランスの雑誌、新聞だと、ものすごく頓珍漢なこともあるけれど、書いている人の息吹が生で感じられることが多い。
ネットなどで日本のニュースをチェックする毎日だが、各新聞社の記事についても、似たり寄ったり。色々なことを書きたい記者というものがたくさんいるのだろうけれど、報道規制や、自主規制、おまけに、取材なしの外国通信社経由のまとめ記事が多く、非常に面白くない。
そんなわけで、興味ある世界的な事件などがあると、日本語はもとより、フランス語、英語で、各社の新聞やネットを読み漁るクセがついてしまった・・・・(汗)。
たかが三ヶ国語とはいえ、同じ事件に対して、まったく見解や意見が違うのが非常に面白いのだ。もうそれは信じられないほど違うこともしばしば。国民性の違いなどもひしひしと感じ、そこで改めて自分の母国である日本に対しても再認識できる、というわけだ。
こんなことをやっていると、知らず知らずのうちに、同じ日本人とはいえ、日本に住んでいる日本人とは、自分が求めようが否かは別としても、だんだんと違ってきてしまうのかもしれない・・・・(汗)。
どの国を贔屓にするか・・・・?、という問題でもない。
たとえば、フランスどっぷりの我が姑殿と話していても、基本的には日本から出たことのない日本人(私の母を含む)のソレを全く同じであり、それはそれで彼らの意見。それを否定する権利などは、私には全くない。当たり前だ。
それほど、視点を変えるということの難しさも感じる。また、視点を複数持ったところで、どうなるものでもないわけであり・・・・・。
なんてことを暇つぶしに考えているところで、めでたく成田に着陸となった。11時間30分の空の旅も終わり。
機内を出ると、むっとする湿気。ああ、日本に戻ってきた・・・、と意識より先に身体が反応する不思議。
成田に到着すると、帰巣本能で実家に戻る手続きをし始める。自分でも笑える。ほとんど無意識状態での手続きともいえる。
巨大なスーツケース(フランスに戻る際に、日本食をたくさん詰め込む予定にて)で帰国しているため、それを宅配業者にたのむ。代金1500円なり。次に成田エキスプレスにするか、リムジンバスに乗るかで一瞬悩み、双方の時刻表を吟味したあと、今回はリムジンバスを選んでみた。
私の行き先の乗客はほとんどいなかったので(次のターミナルからはたくさん人は乗ってきたのだけれど・・・)、一番に並び、バスの最前席をゲット。1年ぶりの日本をバスの最前席の車窓から観光しながら実家に戻ろうとしていたものの、気がついたら熟睡。結局、成田から目的地まで、私の感覚だと10分くらいで終わってしまった。
あとは、またまた、ひたすら自分の帰巣本能に従って私鉄などに乗り、帰宅。ほとんどパブロフの犬状態。
さあ、最近、かなり痴呆疑惑のある我が母親は、私の帰国日を本当にきちんと覚えているのだろうか?!?!?!。こんなふうに、実家の扉を開く前にちょっと緊張・・・。が、幸いなことに母は、さすがに自分の娘の帰国日は覚えていてくれた。ちょっと一安心。
母には、適当に本日に家に到着すると伝えておいた。というのも、だいたい何時とか指定すると、それに合わせてそわそわする母が想像できたからだ。そして、その指定時刻からちょっとでも遅れると、事故にあったのではないか、飛行機は無事に到着してないのではないか?、等、彼女の“子供の不幸”に関する妄想はきりがない。
そして、実際に私が実家に戻った瞬間、我が母からいきなり“心配したのよ”等といわれたら、私も逆ギレする可能性(いつまでたっても大人扱いされない悲喜劇っ)もあるゆえ、こうして適当なことを言っておいた・・・・、というわけだ。
夕食もあえて用意しなくていい・・・、と母に伝えておいた私。実家に戻って、一息ついてから、実家のすぐ隣にあるファミレスにて母とディナー。ここ一年のパリでの写真や、昨年の12月に母がパリにやってきた時の写真などを一緒に見ながら、夜は深けていった・・・・・。
午前10時前に起床。午後5時過ぎに家を出る予定にあわせ、再び準備およびアパルトマンの掃除などをせっせとやる。
まだ夫に対して激しく頭にきているので、掃除するペースが非常に早い。怒りに任せて掃除すると、こんなに綺麗になるのか?!?!、と妙に関心。
実は、私の不在中、色々な用事があり、夫が私の代わりにやらなくてはいけないことがたくさんある。それプラス、私の里帰りの主な理由が決して明るい話題のものではなく(実母の痴呆疑惑)、キッチンのシンクも壊れたままだし、夫も夫なりにかなり不安だったのだと思う。
そこまでは理解できる。が、今回ばかりは夫が私より先にパニクる理由はない。ここが理解できんのだ、わしはっ!!。私はパニクる以前に一歩一歩着実に進んでいるのに、その足を引っ張るような彼の挙動・言動・・・・。
幼児がえりか、おぬし?。
何度考えても、掃除しまくっても、腹がたつ。
で、同時に情けない・・・・。
何度も出るため息。
しかし、こじれたまま出発するのも、嫌だ・・・・。
さてどうするか?。
予約しておいたタクシーが自宅前に来る時間寸前に、夫から電話。この口調だと、自分が悪いことはよくわかっているようだが、自分が悪いとははっきり口にだせない様子。そこで、私が何か話せば、また調子にのって、私も悪いと言い出しそうな気がしたので、こんな出口のないアホらしい夫のゲームに乗る気もない。
なので、もし本当に何か言いたいことがあるなら、空港へ来い、と提言してみる。チェックインの為に早く行くだけで、私も空港では時間をもてあます。仕事の終わりを待っても、充分に夫は空港に来られるはず・・・。
夫もそれを承諾し、午後6時半に全○空のカウンター前で待ち合わせをした。
おりしも本日はストの日。幸いなことにタクシーで空港に向かった私だが、想像以上の渋滞。動かないタクシーの中で、暇つぶしにRERの路線マップを見てみると、夫の会社から空港までかなりある。果たして、ヤロウは本当に来られるか?!?!?!。サスペンスっ。
私の飛行機は午後8時出発なのに対して、すでに午後6時すぎにはチェックインを終わらせた私は、ボーッと日本人観光客をウオッチングしながら、夫を待つ。
パリはスリが多いと脅かされてきているのか、多くの日本人が非常に警戒しながら、仲間同士で荷物の入れ替えなどをしていて、非常に興味深い。ウエストポーチの中に、またポーチ。それはまるで箱根不思議箱のようだっ。
こんな様子を見ているとあっという間に時間が経つ。手元の時計を見るとすでに午後6時45分。搭乗ゲートには午後7時10分には入るように言われているが、夫は果たして来るのか?。
午後7時。私を楽しませてくれた日本人観光客も全員チェックインを終えてしまったようで、もうそこには誰もいなくなった。
現在、夫の携帯はぶっ壊れている。なのでいざという時の連絡用に私は自分の携帯を持参。が、この携帯は週末かけ放題の契約をしているから、夫に空港で渡しておきたい。じゃないと、無駄払いになってしまうから。
しかし、このまま夫が来られなかった場合を考えなくてはいけない時間になってきた・・・。日本まで持っていって携帯をフランスに送る・・・・?、いやいや、それじゃ、高いし、時間もかかる。じゃ、空港から送る・・・・・?、でも、郵便局はもう閉まっている。
困り果てて、全○空の責任者に、代金は払うので、これをパリの自宅に郵送してくれないか?、と頼んでみた。責任者はビックリした顔で、戸惑っていた。搭乗ゲートにあと少しで行かないといけないゆえ・・・、とこちらの理由を言うと、責任者は“あ、実はあれは出発15分前までに登場ゲートにいればいいんですよ、だからまだまだ時間はあるので安心してください”とのお答え。
なーんだ、これからはもっとギリギリに空港に到着しようっ、と心に誓う私(笑)。そして、ホッとしたところに、焦り顔の夫の姿を遠くに発見。午後7時15分のことだった。
私をみつけるや否や、堰を切ったように“どうしてこんなに遅くなったか?”という理由を話しまくる夫。
ストでRERの本数が少ない。焦った夫は北駅での乗り換えで、全力疾走をして、足がもつれてひっくり返り、いつもファスナーが閉まってない彼のかばんからは、あらゆる書類が四方八方に飛び出した、とのこと。
打ち所が悪く、ヨロヨロと起き上がろうとしているところに、駅構内を巡回している若い警官らが“大丈夫ですか?。”と声をかける。みっともない姿をしている夫に対して、妙に憐れまれたことに返って頭に来て、無理して起き上がり、そのまま走り去る夫・・・・。
このままじゃ遅れると思い、駅構内の公衆電話を探すが、なかなか見つからない。やっと見つけたと思い、自宅の電話回線を使う方法で電話をかけようとする夫。これには暗証番号が必要なのだが、焦りすぎて何度も暗証番号を間違えてしまい、その回線はブロックされてしまい、電話もできず。
ますますパニクる夫は、絶望的になってホームに走り下りていき、空港行きという行き先だけを見てRERに飛び乗る・・・・・、が、これが実は各駅停車だったことが後で発覚。ここで夫が逆上の雄たけびをあげていただろうことは容易く想像できる(笑)。
そして、ターミナル1に無事到着するには、まだ難関があったそうだ。空港内のバスがなかなかこなく、もう夫は気狂いになる寸前だったらしい。
こうして、悲惨で笑える彼の物語を充分に話しつくした後、彼はふと一息いれて、“ぼくが悪かった”“あれは八つ当たりだったと思う”と自分の非をアッサリと、とはいえ喉から搾り出すような声で認めてきた。あまりにも素直に認めてきたので、内心ギョッとしたが、それは顔には出さない私。
私としても、この一言を聞くか聞けないかで、今後の日本滞在が大きく変わるので、一安心。
そんなわけで、出発30分前に無事仲直りしたゼロ夫婦でした・・・・(汗)。
私も単純な人間なので、無事仲直りして、飛行機に乗り込んだあとは、すっかり夫のことも忘れ飲んで、食って、映画見て、おまけに熟睡までしてしまった(笑)。
日曜日の朝から、夫との喧嘩が続いている。土曜日まで続いたバカンスではそんなこともなく、平和に暮らしていたわしらだったが、パリに戻ってきていきなり、久し振りの喧嘩となった。
理由は、私からすれば、夫のわがままだ。日曜日の朝からバカンス気分を一変して、早朝から日本へ電話したり、色々と出発までに調べることも多々あったので、それにかかりきりだった私。
その日、私より遅く起きてきた夫は、いつまで待っても自分をかまってくれない妻にだんだんとイライラしてきたのだと思う。そこに、今度は日本語で電話が入り、夫には宇宙語のようにしか聞こえない日本語で、電話相手と長話。
さて、我が家のキッチンの水が詰まり始めて早3週間。排水溝に詰まったものを溶かす液体を流し込んでもダメ。ゆえに、今じゃ洗面所で皿洗いをしているのだが、この日は、このことが非常に気になった夫は、妻が電話で長話をしている間、なんとか自分でこれを直してみようとトライしはじめたようだった。
修理作業の過程において、洗面器が必要になった夫。しかし、洗面器が見当たらないので、電話中の私に突然話しかけてくる。が、私は友人ととても大切で重大な話をしているので、彼に答える余裕はない。そして、彼に後でね・・・、と答えると、また自分を素っ気無く扱ったと早合点した夫は、その場を立ち去る時に“無駄話ばかりしやがって”と捨て台詞。
余裕がない私とはいえ、こういう言葉はスポンと耳に入ってくる。で、もちろんカチンときたっ。それでも、用件が残っていたので、まだまだ電話を続け、ようやく終わった頃、訳のわからん作業を風呂場で続けている夫の背中に向かって、
「さっきの、無駄話云々ってどういうこと?」と聞くと、興奮した夫が
「僕は朝から一生懸命働いているのに、そんなことも気にせず長電話しているなんて信じられない」とほざく。
喧嘩のゴングがなるには数秒もかからなかった。
「日本語だったからどんな話をしていたかわからなかったんでしょ?。だからもっと真面目に日本語勉強するか、じゃなかったら、わたしの電話が終わるまでまって、どんな話してたの?と聞いたうえで、ぶちきれるなりなんありすればいいじゃないっ。」
ある意味正論をぶつけられてしまった夫は、折れるに折れなくなって逆ギレ。
夫「キッチンのパイプが詰まっているのに、平気で電話しているやつが信じられない」
私「そんなの3週間前からそうだし、そのたびに私は色々トライしているわよ」
夫「そんなの口だけだ」
私「でも、私はアンタみたいに、たった一度修理作業しただけで威張れるような能天気で自分勝手な性格じゃないから、いちいちいわないだけよっ」
夫「なんだとっ」
私「アンタが会社から帰ってきたところを捕まえて、毎日のように、今日はどんなにパイプの水通りをよくするために頑張ったか?、なんて延々と私に訴えられたら、アンタも鬱陶しいでしょ!!」
夫「うるさい」(←もうわけがわからない応答しかできなくなってきている)
私「自分を見て、自分を構って、頑張っている自分を励ましてって、これじゃまるで子供じゃん。もうちょっと相手のことも考えることができないの、いい年して、さ。」
夫「いい年して、ていったなっ!!」
私「日本にいるわしの母がボケはじめてるかもしれないって言ってあったわよね。それに関して、出発前に色々やることがたくさんあるってことも、すでに言ってあったわよねぇ。」
夫「だからどうした」
私「でね。もし本当に激しくボケちゃったりしたら、私は当分日本へ行ってしまうだろうし、そうなったら、水道が云々で八つ当たりしようと思っても、あんたの隣には誰もいないの。」
夫「・・・・・・」
私「でも、今のうちから色々と手を打っておけば、それを極力避けることもできるわけ。そんな将来を見据えたことをやっているのに対して、たった一回水道修理に取り掛かっただけで、完全に修理もできないやつが、子供みたいに荒れていると、私はなんのために、色々と頭をひねっているかがよくわからんっ!!」
夫「俺が悪いのかっ!!」
私「ばーか」
とはいえ、本当にやることが山積みだったので、夫と喧嘩していること自体時間の無駄だと思われたので、さっさと自分のことに専念することを再開。おまけに、喧嘩はしたものの、それを延々と引きずることもせずに、あとは普通に振舞っていた。 が、きっとこれもおもしろくなかったのだと思う、お・や・じ。こっちが前向きに何かをやっていると、それをぶち壊すような発言を日曜日から繰り返している。
そして、とうとう出発前夜の今夜、売られた喧嘩を本格的に買ってやった。出発前夜まで喧嘩を打ってくる夫の神経がわからん。「喧嘩でもなんでもいいから、構ってほしーーんだろ、きさま、というと思ったとおり逆ギレする夫。
ここにまで及んで、まだ私のほうが悪いだの、傷ついただのと被害者の席に座ったまま言い続ける夫に対して、絶対今回は、自分の非を認めさせてやると意地になる私。
明日は、空港まで送りに来るといっていた夫に、来なくていいと伝え、今晩が2人の最後。明日の朝も、一緒に起きるつもりはないので、ここでさよならを伝える。おまけに、日本ではやることがたくさんあるので、連絡もほとんどしないし、滞在期間が延びても、それに対して相談するつもりもないと伝える。
荷造りする時間まで、喧嘩を売ってきた夫が、どこまで自分を悔い改められるのか?、見ものだ。
夫は、そのまま折れるきっかけを再び失い、床についた。私は朝の5時過ぎまで準備。あー、疲れた。
夫と姑は、早朝からチャリティーバザーに出かけていった。私は、留守番。たった一人でのんびりと朝食を取る喜び。庭に朝食セットを運び、食後の一服。背後には、うるさい姑もいない。ああ、パラダイス。
昼過ぎに、またまた大量に無駄買いした品物をひっさげた親子が戻ってきた。懲りない人たち、だ、まったく。
さっそく彼らの戦利品の品評会がはじまる。これは普通に購入したらどんなに高いか・・・、等と得々と語る姑の顔は、不気味なほど活き活きとしている。
姑の家で過ごしていて改めて思ったことだが、彼女の家に私達が“お邪魔”させてもらっている時は、たいした問題は起こらない。が、姑がパリにやってきた時が、やはり先月のような(ばばあシリーズ参照)になることが多々ある。
彼女の自分のテリトリー、自分の家、自分のやりかた、などにわしらはあえて反抗しようとも思わないし、彼女のやりたいように仕切らせてあげている。だからこそそこに衝突もなく、彼女も気持ちよく生きている。わたしにとっては、口うるさいが憎いまではいかない、そんな姑で留まっていてくれるから、やりやすい。
が、パリにやってくると、彼女はわしら、および夫の弟家族のやりかたすべてに口を挟んでくるから、みなに総スカンを食らうというわけだ。
パリ・・・・、それは彼女の自己矛盾の源。カトリックで、ブルジョワで、レンヌではそこそこ自分のコミュニティーを築き、ご意見番のように生きている姑にとって、パリにはあまりにも多くの“自由”がある。それが、彼女を苛立たせ、不安にさせ、その矛先を自分の息子達およびその家族にぶつけてくる、といったところだ。
さて、どんな自由が彼女を錯乱させるのか?、といえば、ゲイがあちこちで手をつないで歩き、結婚もしないで家庭を持つ男女、そして飽きたらすぐ別れて、別のパートナーを見つけようとする人たち、エシャンジスト、フランス人よりも多いように見えてしまうほど目立つ移民らの存在、素行の悪そうな青年ら、あちこちにピアスをしている若者、タバコをふかしまくる若い女性・・・・等など。
こんなことが、彼女を非常にヒステリックにさせ、またそんな街パリに行ってしまって以来、決して地元のレンヌに帰ってこようとすらしない息子らに恨みをぶつけるわけだ。
息子達が選んだ自由を憎む、自由じゃない生活に激しい執着を持つ姑。いまさら彼女は自分の生活は変えられない。が、心のどこかで姑こそあこがれていたのかもしれない。
その点を低姿勢に自己分析などする人間だったら問題はないのだが、あくまでも自分のやり方がすべてという姿勢を崩さない姑が、パリにやってきて色々とわしらに再教育しようとするから、鬱陶しい。
そんなわけで、先月は姑のことで怒り狂っていた私だったが、今回は姑のお膝元滞在だったゆえ、たいして問題も起こらず、快適に過ごすことができ、おまけに怒るという無駄なエネルギーを消耗することもなく、よかったよかった、という感じだった。
夜7時過ぎのTGVにてパリに戻る。さて、フランスでののんびりした時間もこれから先は少しお預け。数日後に迫った里帰りの準備をしなければ・・・・・(汗)。
昨日から、なぜだか庭仕事に励んでいる私達。
実は、毎年春になると、姑が専属の庭師を連れて数日La Bauleの別荘に泊り込みで庭の手入れをしていたのだが、その庭師が癌で倒れてしまったため、今年は私達がやることになった。
私も夫も、樹木をみれば、“あ、木だ”“花だ”というくらいで、その種類などには非常に疎い。言い換えれば、ほとんど庭仕事というものに興味を示したことがなかったし、そんなことは誰かがやるものだ・・・、と思ってこの数十年を当たり前のように過ごしてきた人間。
ゆえに、庭仕事に取り掛かるまでが大変だった。だって、やりたくないんだから・・・・。まるで締め切り日寸前までモノが書けないかのうような行動をとっていたわしらだったが、とうとう尻に火がついたので、昨日の夕方から庭仕事に取り掛かった。
すると、意外に面白い(笑)。私は一心不乱に草むしり。夫はなにやらなれない手つきでシャベルなどを持ち出し、樹木の植え替えやら、屋根のうえにたまった枯れ葉などを、同じように一心不乱で掻き落としている。
しかし、かなり広い庭なので、草をむしっても、むしっても、全然減った気がしない・・・(涙)。ゆえに、もっとムキになって、むしらざるをえない。こんなことをやりながら、今は病に倒れてしまった庭師のことを思う・・・。凄い仕事してたんだな、彼・・・、と。
草をむしり、樹木を植え替え、土を綺麗にならし・・・・、我ながらよく働いたように思えて、満足。
午後8時まで働いて、家を閉め、レンヌの姑宅へ向かった。途中、あちこち寄り道して帰ったので、姑のところへ到着したのは午前0時前。待ちくたびれた姑がイライラしていたのは火を見るより明らか。
到着するなり、いかに心配したかなどをヒステリックに言い出した姑の言葉にうんざりした夫がすかさず怒鳴りかえし、あっという間に喧嘩突入。今回は、そんな親子には巻き込まれずに、さっさと冷蔵庫を開けて、食べたいものだけを自分ひとりで口に頬張っていたゼロでした。
午前10時頃に起床。昨日から泊まらせてもらっているC&B夫妻とその子供達と一緒ににぎやかな朝食。 その後、彼らに自転車をかりて、近所を観光。といっても観光名所というものがあるわけではないが、Cのガイドで晴天の自然の中、健康的にサイクリング。
Cがわしらに用意してくれた自転車のうち一台は、タイヤの空気が抜けているのを発見。なのですかさずそれを夫に渡し、私はタイヤ状態のよいモノを選ぶ。
そんな自転車を渡されたとも知らず、一生懸命チャリを漕いでいる夫。“最近、ぼく運動不足なのかな・・・、けっこうサイクリングってツライよね”と涙目で私に訴えてくる(笑)。
Cの案内で、聖人にはなれなかったものの、Quillyという村では有名だった聖職者が修行したといわれるゆかりの地へ。彼の名はJulian Chateau。一説によると、じゃがいもを人間用に食べられる食品として世にだしたとかいうことだったが・・・・・、本当か?!?!?。
彼は、その生涯を閉じるまで厳しい修行をしていたらしい。畳一畳半の低い天井の中で、石のベッドに石の枕で寝起きをし、わざわざいばらの道のようなルートを使って、8キロほど離れた街を往復。もちろん裸足。
そうして、煉獄を過ごし、キリスト教信者の間では、死後、彼は天国に行ったとされているが、あまりにも典型的なカトリック“マゾ物語”の主人公なので、不敵にもニヤリとしてしまう私達。“またか・・・・”という感じだ。
彼のゆかりの地は小さな教会となっているのだが、その脇には、奇跡の泉がある。それはちいさなプールのようでもあったが、その中に女性が入ると不妊症が治り、子供を授かるというので今でも巡礼者が絶えないとのこと。興味津々でその水を眺めてみたが、どうも入る気はしなかったゼロだった。
見渡す限りの緑の大地、あちこちにのんびりと生息している牛、そんな景観の中、再びのんびりと自転車を漕ぐ。自転車を漕いでいるうちに、わしらも実はパリの家に長いこと使ってない自転車があることを思い出す。
今のアパルトマンに引っ越した際、ふと漏らした一言“自転車が欲しい”という言葉をさっそく聞きつけた姑が、どこかのチャリティーバザーで安値で購入した中古自転車を、さっそく送りつけてきた。私としては、“マイチャリ”を店先で吟味してから選びたかったのに、出足をくじかれた。
が、ま、ないよりもマシということで、チャリが届いてからはよくパリの街中をサイクリングしていたこともあったのだ。夜ディナーに招待された時も、わざわざチャリで挑んでみたりと、今思うとよくやったな・・・・、ということばかり。
が、ある日、盗難防止のために購入したすばらしく頑丈な鍵を自転車に設置。そしてその鍵の鍵をなくしてしまったため、今では自転車置き場に寂しく放置されて数年、というわけだ。ちなみにこの鍵がないと、チェーンソーでもない限り、頑丈なロックを壊すことができない。
気候もよくなってきたことだし、久し振りにパリに戻ったら自分達の自転車をなんとか乗ることができるように、努力してみようか・・・、と牛を眺めながら夫と語り合った。
牛の鳴き声のマネがウマイ夫に、ここでやってもらった。以前アイルランドを旅行中、ふとクルマを停めたところに数頭の牛がおり、そこで夫が牛の鳴き声の物まねを始めた所、夫がひと鳴きすると、牛4頭が一歩こちらに進んでくる、という事態になった。これを延々小一時間ほど続けた結果、何歩も進んできた4頭の牛は、最後にはわしらの目の前に迫ってきていたのだ。
が、今回は、ここQuillyの牛にはそれほど相手にされなかった夫。なんだかちょっとがっかりしていたようだった。
本日のLa Bauleは雨。おまけに風も強く、窓から見える樹木が、まるでダンスでもしているかのように激しく動いている。
家には、ヒトケが戻り、おまけに昨日からヒーターをガンガン使ったおかげで、いくらか温もりというものが戻ってきているように感じられるのが救い。
そんなわけで、またまた本日も気がついたらヒーターの前で、2人でひたすら読書。時おり、つけっぱなしにしてあるテレビを、意味もなく見入ったりすることも多々あり。
さすがに夕方近くになって、そろそろ動こうか・・・、ということになり、出かける準備をしはじめると、サッと天候がよくなる。おおっ。
そういえば、ここずうっとこんな奇妙なことに見舞われている。5月1日の一族集会の時も、移動する時は雨にあわなかった。そして会場に入ると激しい雨。散歩しようと外に出ると、晴れる・・・。
その翌日は、“死の気配”のする作家JPBの家を後にクルマを発車させ、一路La Bauleへ進路をとると、突然の激しい雨。ワイパーをフルに活動させないと前が見えないほどだった。そして、久しぶりにたくさん働かされてしまったワイパーが息切れするように、壊れた。
幸い壊れたワイパーは助手席側だったので、運転には支障がないので、そのまま進む。30分もすると、今度は壊れたはずのワイパーが再び動きだした。が、今度は壊れたはずのワイパーが、運転席側のソレを邪魔するような奇妙な動き。
2人で“なんか変だよねェ・・”と顔を見合わせるものの、ま、動くのだし、いいか・・・、という感じで、激しい雨の中を進む。
そして、その15分後。とうとう助手席側のワイパーが運転席側のソレをブロックさせてしまい、両方ともアウトになってしまったっ!!。前が全然見えない・・・・、ひえーーーっ。
慌てて高速道路の側道にクルマを止め、しばし呆然。さて、どうするか・・・?!?!?!。雨に打たれながら、ワイパーの点検&俄か修理などをする。
するとどうだろう、突然太陽が差し込んできたのだ。そして、みるみるうちに雨があがり、快晴になってしまった。ああ、助かった。ブルターニュの空は、女性のようなもので、いつ突然また変わるかわからないのだが、恐る恐るルートに戻ってみたが、結局別荘に到着するまで、一度もワイパーを使わずに済んだ。
というわけで、本日も出かける準備をしはじめると晴れになり、気分よくそのまま、La Bauleから小一時間のQuillyという小さな村に住む、夫の従弟Cの家へ行く。ここで従弟と書いたが、正式には、夫の父方の従妹の息子だ。彼は40歳。その妻Bは30歳になったばかりだが、すでに3人も子供がいる。
5月1日の一族集会にて、私がBと意気投合したこともあり、こうしてありがたくも招いてくれた、というわけだ。2年前からC&B夫妻は、あえて村暮らしを選び、現代風ヒッピーのような生活をしている。
もともとブルターニュ民族歌謡の歌手でもあったCは、仕事を終えたあと、村で隣人らをまじえて、ギター片手に歌ったり、という生活を送っている。マルセイユ生まれの妻Bは、最初村暮らしに抵抗はあったものの、今ではすっかり気に入っている、とのことだった。
私にできるか?、と問われたら、否・・・・。やっぱり、どうしてもできん。夫は日曜大工得意じゃないし、私も全然そんなことやりたくない。いくら自然と動物がいようと、バカンスの間の体験だけで充分、というへタレな性格ゆえ。鍵ひとつで外出できるアパルトマンの生活と、あとは縦横無尽に走るメトロとバスでどこにでも出かけられる生活は、今のところやめられない。
それに、コミューンのような組織自体が私にはとっても難しい。いつか気が狂う自分を想像して、思わず笑い出してしまったほど。
夜は、4人で一族の噂話などで午前2時過ぎまで盛り上がった。ああ、酒のみすぎで、アタマがグラグラする・・・。
昨晩遅く、La Bauleの別荘に到着したわしら。冬の間締め切れた家は、じんわりと湿っており、寒い。
本日は晴れてはいるものの、まだ肌寒く、気がつくとヒーターの前で丸まっているわたしたち。ここには今週の金曜日まで滞在予定だが、それまでに、いくらか暖かくなるのだろうか?、と不安がよぎる。
パソコンもない、電話もない世界というものも悪くない。とはいえ、いちおう各自、携帯だけはあるのだが・・・。
居間でテレビをつけっぱなしにして、各自読書。ただそれだけで一日が終わりそうになったので、急いで買い物へでかける。姑からクルマを奪ってきているので、ソレのおかげで郊外型の大型スーパーへ買出しに行ける。
パリの日常生活ではクルマを利用しないゆえ、たまにはこうして、一軒家に住み、クルマで買い物という生活パターンも、私たちにとってはとても新鮮。スーパーでは、大型の買い物カゴに思う存分ものを詰め込んで、大出費。ま、たまにだから、いいか・・・。
夕食は暖かいものを選んだつもりだったが、それでも冷え込む。そんなわけで、結局本日はヒーターの前でうずくまったままで終わってしまった。
昨晩から宿泊しているDAONの木賃宿を後にして、夫の祖父のゆかりの地を訪れた後、わしらのLa Bauleにある別荘に向かう途中、とある作家の家を訪ねた。この作家JPBは、夫のお気に入り作家の一人。ひょんなきっかけから、JPBとコンタクトを取った夫は、本日、彼の家でランチの約束をゲットしたのだった。
1920年生まれのJPBは、今年84歳。数年前までは、パリにも頻繁にやってきていたものの、さすがに足腰も弱り、現在は、自分の里で執筆活動だけに専念している。私個人としては、それほどJPBの著作には興味はないものの、とはいえ、とある著名作家がどんな私生活を送っているか・・・、ということに非常に興味があったので、喜んで夫に同行する。
11時半に彼の家に到着するはずが、道に迷い、正午過ぎの到着・・・・(汗)。予定到着時間にたどり着けないと焦った夫が、まったく別人の家に入り込んで、“ボンジュールJPBっ!!”と挨拶した時は、死ぬほど爆笑してしまった。見ず知らずのわけのわからぬ男性に、勢いよく挨拶されて困る人・・・・・。
さて、ようやく到着したJPBの家は、非常にブルジョワで小さな城ような家だった。憧れの作家の家にようやく到着して、錯乱気味にクルマを駐車させて、玄関とは全然違う方向へ走り出す夫。
そんな夫と同時に、玄関からのんびりと姿を現すJPB。JPBは、“どこへ走り出しているんだ、こいつ?”、という感じで、あらぬ方向に全力疾走している夫のことを観察している。
この妙なコントラストがまた私を爆笑させる。勘弁してくれ、夫よ・・・。
ようやく玄関というものの存在を悟った夫とともに、そこに立ちすくむJPBのところへ私たちは進む。と同時に、別のドアからJPBの妻が私たちのほうへ近寄ってくる。彼の妻は、私が想像していたタイプとはかけ離れていた。
玄関で4人で挨拶をかわすと同時に、なにか、私を気詰まりにさせる雰囲気を感じてしまった。とはいえ、それがハッキリと何か・・・?、とはまだ分析できなかったのだが・・・・。
JPBの妻が色々と私に話し掛けてくる。私個人としては、JPBの哲学などを色々知りたかったのに、彼の存在も無視できないので(だって、そこまで図々しくなれない、あまりにも日本人な女性なもので)、彼女の相手をする。
彼女と話していると、妙なズレを感じ始めた。うまく形容はできない。でも、何かおかしい・・・・。
さて、どうしたものか・・・・・、と思案しつつ、JPBの妻Mがとりあえずその場から姿を消したあとは、JPBのご自慢の数千冊を誇る書斎見学と、今までの著作および、研究の話に3人で燃える。
一通り楽しんだ後、サロンでアペリティフ。妻Mが数種類のアルコールを運んでくる。再び4人での会話。が、どうも会話に妙なズレがあるのを再発見。そのうち、妻のMがランチの準備と称して席を立った後、JPBから彼の妻に対しての説明があった。
彼の妻Mは、実は3年前瀕死の交通事故に遭ったとのこと。妻Mは標準速度でいついもの道をのんびりと走っていたところ、自殺志願者のとある女性ドライバーが、反対車線を走るMのクルマめがけて突入してきたそうだ。そして、正面衝突・・・・・。
自殺志願者はその目的を遂げたものの、哀れなMは、その事故のおかげで涅槃を一ヶ月の間さまよった挙句、左半身麻痺になってしまった、とのことだった・・・。
Mは今でこそ身体の麻痺はほとんど取れたものものの、事故当時に受けた脳の損傷が残っており、事故以後痴呆もどきになってしまったらしい。
それで納得がいった私。だからこそ、彼女が会話に入ってくると、そこには必ずしも“妙なズレ”というものが強く感じられたのだ。そんな彼女は1931年生まれの73歳。
また、少しは状況が理解できた私は、JPBの家に入った瞬間に感じた“気詰まりな気配”の理由がわかったような気がした。それは、まさしく死の気配。JPB夫妻の横には、大鎌をかかえた死神の存在が活き活きと感じられるようだったのだ・・・。
JPBの高齢プラス、長年の糖尿病でほとんど視力をうしない、足腰もかなり不自由。そんな彼と一緒に、現実と妄想の区別がつかなくなった妻Mの存在。2人は、2人して支えあっている。しかし、このバランスが一端崩れたらどうなるのだろう・・・・、と考えたらきりがない恐怖。
JPB曰く、彼の妻Mは事故に遭うまで料理の達人だったとのこと。が、現在は、満足にステーキを焼くこともできなくなっている。現に、私たちというゲストの為に、地鶏の丸焼きをMは準備してくれていたのだが、オーブンを覗くと、彼女曰くきちんと焼けているというその中の地鶏は、回転してない。つまりオーブンが作動すらしてない、ということ・・・。
キッチンに行ってランチの準備をすると言い、サロンを後にしたMだったが、JPBが私にちょっと彼の妻の様子をみてきてくれる?、と頼むので、城のような家の回廊を疑心暗鬼に進む私。 そして、回廊の一番奥にあるキッチンのドアを発見して、その中に入ると、作動してないオーブンとその隣に置かれた鳥かごの中の十数匹の鳥の鳴き声。そして、そこにはMの姿はない・・・・。
人間の気配が消えたキッチンにこだまする鳥の鳴き声は、私にとってホラー映画以上の恐怖だ。
かなり怖くなりながらサロンに戻り、JPBに“あの、奥さんの姿が見当たりません・・・”と報告すると、彼は“キッチンの置くにドアがあるから、きっとその中にいるかもしれないから、よかったら確認してきてくれないか?”と私に言う・・・・。参ったな・・・。
とはいえ、ま、ちょっと確認してきましょうか・・・、ということで再び長い回廊を歩き出す私。そしてそこを歩いている途中に、回廊の窓から人の気配を感じたので、ふと見ると、広い庭園のベンチにボーっと座っているMを発見。Mの姿は、まるで“彷徨える魂”そのもの。今にでも、現実の世界から旅立とうとしているかのようだった。
背筋がゾッとした・・・・・・・・・。
一点を見つめて動かないM。遠くから聞こえる鳥のさえずり・・・。これが、老いというものなのか?!?!?!。
このまま観察だけしていると、私のほうがアタマが錯乱しそうだったので、ボーっとしているMのところへ勇気を出して近寄り、“お料理手伝いましょうか?”と提案してみた。
そんな私の提言に快く乗ってくれたM。その後は2人でキッチンに立った。とはいえ、どうもオーブンの回し方すらわからないM。Mの自尊心を傷付けないように注意を払いながらも、とはいえ、生焼けの地鶏は食べたくないという私の欲求をどうやって両立させたらよいのだろうか?!?!?!。ああ、困った。
結局、地鶏はとりあえず焼けた。
が、部位により生焼けのところがあった。
そんなことはキッチンの状況でよくわかっていた私は、図々しくも生焼けじゃない部分を手っ取り早く自分の皿に取り分けてみた。ま、アル意味エゴイストな私、というわけである。
が、夫とJPBは、腿の部分が大好き。そして腿の部分こそ生焼けというわけで、彼らは満足にランチが取れなかった。
彼ら夫婦とわしら夫婦、全部で4人。なのに、テーブルには5人分の皿。何度もわしらは4人だと妻に説明するJPB。が、妻は“あら、もう一人いるわよ”と言い続け、架空の人物を城のような家中を探しまわる・・・・。
食後、広大なJPBの庭を4人で散歩する。足腰が不自由で、なかなか前へ進めないJPB。そんな横を同じく事故の後遺症でうまく歩けない彼の妻M。それとは対照的に、春ゆえに咲き誇る花々。栄枯盛衰・・・・・・。
こんなに私のアタマが混乱する散歩というのも珍しい。たかが数百メートルの散歩に1時間半かかった。
JPBの頭脳は、老いていく彼の身体に反して、ますます冴えている。逆にいえば、彼の脳がとりあえず身体を動かしているともいえる。また、そんな彼の存在に、寄りかからざるを得ない妻M。2人で1人、一心同体。そして、そこに忍び寄る死の気配。
一刻も早くここを去りたいと思ってしまう自分。それに反して、JPB夫妻は私たちをたいそう気に入ってくれたようで、“今晩はここに宿泊してくれ”と何度も提言してくる。ありがたいこととはいえ、私はここに留まるには、ちょっとキツイ・・・・・・・。
家中を支配している死の気配から、私は逃れたかった・・・・。
さもなくば、近々私が里帰りする理由・・・・、つまりは私の母が、もしかするとJPBの妻Mのようである可能性が濃厚である、ということから眼をそらしたかったのかもしれない。
なんとか、18時過ぎに彼らの家を離れることができた。それでも、しばらくの間は、今までの状況をどう私のアタマの中で処理していいのか、全くわからなかった。PCで言えば、フリーズしてしまった状態、だ。
とにかく、本日は形容のない精神的な戦慄を覚えた日になった。
昨日の夜にパリを発ち、レンヌの姑宅で一泊したあと、 Mayenne地方のDAONという小さな街で開催される、夫の父方家族の集まりに出席。正確には、夫の父方の祖父の子孫が集合した。
夫の父方の家族は、カトリック、子だくさん(要するに中絶なんてもってのほか)という、まるでアイルランド人みたいなところがある。夫の祖父には4人の子供がおり、その3番目の子供が夫の父H。Hには2人の子供だが、それ以外の3人の兄弟には、4人、5人、6人とそれぞれ子供がおり、またその子供達が、さんさか子孫を増やし、今回の集会では、90人弱が集合。これでも、欠席者がいるから驚きだ(笑)。
世代もかなりバラバラなので、老若男女が入り乱れる。夫世代の従弟達には、みんな子供がいて、その子供達がまた子供を産み、その子供も子供を産み、まるでネズミのように繁殖。ゆえに、夫の年上の従弟達には、すでに“おじいちゃん”や“おばあちゃん”になっているものもたくさんいる。
わけがわからなくなりそうだったが、そんな人のために、有志が系図&年表を作っておいてくれたおかげで、なんとか把握できた。
夫の父方家族の集合ゆえ、今回は、ばばあこと我が姑殿も、パワーダウン(笑)。めでたし、めでたし。
夫の父の姉は、アイルランド人と結婚。その子供達が、ブルターニュ地方の昔の歌を歌い場を盛り上げる。この子供達は、実際、ブルターニュ民族歌謡のコンサートなども開催している。
が、弁護士だの、医者だのが多い家系。彼らの裏で、“あそこのウチは、ちょっと栄えてない”だのの、お決まりの陰口もミミに飛び込んでくる。ああ、泣き笑い。歌手くずれなど、成功のうちには勘定はされない、というわけですな・・・。
それにしても、10歳前後の子供達がどのくらいいただろうか?!?!?!。彼らは、物凄いパワーで会場を走り回っていた。朝から晩まで、といっても過言ではない。スゴイ。ここは幼稚園か?、と思ったほど。
夫の顔は、父型系。だが、眼球はかなり姑に似ている。なので、遠くから見ると、見事に彼の従弟達との共通点を発見できるのだが、近くによると、ああ、夫の目の中に姑の姿が見え隠れする・・・、ってな感じで、またまた泣き笑い。
会場にいる各人と、10分ずつ喋っても、かなりの時間を消化する。途中で、突然、疲れが出たので会場からトンずらして、クルマの中で30分ほどマンガを読んで休憩。会場内では、私の捜索命令が出ていたようだが。
読んでいたマンガは、先日S嬢が貸してくれた今市子作の『百鬼夜行抄』。妖怪だの、霊だのが出てくる不思議絵巻。これがまた面白く、ついつい読み耽ってしまった。
そしてまた復帰。結局昼の12時から始まった集会は、午前0時過ぎまで続いた。飲んで、話して、歌って・・・・。日が暮れてから、断然元気になってきた私は、義理家族との集いを楽しんだ。
それにしても、どうして日が暮れると元気になるのだろうか、私?。一番キツイのは、夕暮れ時、いわゆるガス欠だ。この時に一瞬休めるか否かで、その後の態度が変わってくる。さすがに、夫はこんな私の性格を知っているゆえ、一瞬行方不明になったときは、あえて探さないでいてくれたらしい(笑)。
幸い、夫の弟家族が、姑を彼女の家までクルマで輸送してくれるというので、ここで姑とはおさらば。わしらは、DAONの木賃宿にこの晩は宿泊。明日からは、ばば抜きで、別荘のあるLa Bauleでのバカンスだ。
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