ゼロの視点
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2003年04月29日(火) |
Stupeur et tremblements |
とうとう、観てきてしまった・・・・・、例の映画"Stupeur et tremblements"。色々と観たくなくなるような噂を耳にしていたけれど、とにかく観てみようと思ったのがきっかけ。
夜9時半過ぎの回を、シャンゼリゼのとある映画館にて。まず、驚いたのが、観客には、私と夫の二人しかいなかったことっ!!。人が少ない映画館には慣れていたとはいえ、本当に二人っきりだった(笑)。
さて、映画が始まって、“そんなのあり?”って感じで、異常にハイテンションに怒鳴り散らす日本人上司の姿に、違和感を感じながら、画面を見ていると、なんと、知人を発見。なにげにサラリーマン役をやっているひとりが、知っている人だったのだ(笑)。
そんなわけで、映画自体よりも、その人のなにげないサラリーマンぶりがうつる度に、笑ってしまって、ストーリーどころじゃなくなってしまった。ああ、本当にビックリ。
さて、主人公の女性の奇妙な日本語にもかかわらず、みているうちに、なんだか自分がはじめて社会人になった頃を思い出してしまった。夫は夫で、昨年リストラ危機にあって、女性上司から、嫌がらせをうけていた頃のことを思い出していたようだ。
ま、私もそうとう世間知らず&鼻っ柱が強かったので、ある意味会社側からは異人種とマークされていた。ゆえに、その試練として、主人公がやったような“意欲をなくさせる”ようなことでもなんでも、やらされていたことがあったなぁ・・・・、と走馬灯のように思い出す。さすがに便所掃除なんぞは、やらなかったが(笑)。
ということで、外人からみた日本社会というのではなくて、今じゃどこにでもある、会社でのいじめみたいなものが、不覚にも感じた。とはいえ、デブで怒鳴ってばかりいる上司なんて、大会社にいるんだろうか?。いくらなんでも、やりすぎて、映画自体の質を完全に落としているようにしか思えなかった。
それにしても、伝票ひとつまともに扱えず、サラリーを出してもらえていた時期(バブル崩壊前)、この主人公は日本の企業で働けて、おまけに、それをネタにして作家になれたんだな・・・・、と思った。いい時期でよかったね、と思ったゼロでした。
今から一ヶ月前ほどに、夫のところに、神父Aから電話がかかってきた。神父Aは、夫がサン・マロの寄宿舎学校にいた頃のラテン語の教師。夫と知り合ってから、サン・マロを訪れるたびに、時間があれば彼のところへ訪れていた。
神父Aは、現役を退き、この間まで日本語でいう“老人ホーム”に住んでいた。老人ホームとはいっても、書斎はあるし、食事はホームが全部用意してくれて、自分で自分のことができるかぎり、そんなに不自由をしていないようにも見えた。
彼の部屋には、そりゃあ、たくさんの本が所狭しと積み上げられていた。本の背書きを見るだけでも、彼の知識量がおのずとわかる・・・・、そんな感じだった。本当に、彼は光っていた。
そして、ここ1年くらいサン・マロに行っても、なかなか時間がなく神父Aをゆっくり訪れる時間がなく、そのままになっていた先月に、彼のほうから夫に電話がかかってきたのだ。
彼の声からは、往年の凛々しさが完全消失して、まるで絶望の淵からのような感じだった。その語りを聞いているだけでも、彼が、もうどうしようもない程の閉塞感に囚われてしまっているのが、痛いほどわかった。
そして、一ヶ月弱たった先週末、なにか妙な予感がして、夫と二人で神父Aのいる老人ホームへ電話してみた。すると、彼は、いなかった・・・・・。従業員の話では、神父Aは、病院に担ぎ込まれたとのこと。
転院先の電話番号を聞いて、すぐさま電話をすると、応答なし。あらためて病院の関係者に事情を聞いてみると、神父Aは、現在ベットに縛り付けられているとのことだった。
ふいに、彼は自殺を試みたのか?!?!?!、との思いがよぎった・・・・。それは未だに定かでない。とはいえ、ベッドに縛り付けられるというのは、相当のことではないとありえないのでは・・・・?!?!?!、と考えてしまった。なので、個室に備えつけられた電話が鳴っても、彼は受話器を取ることもできなかったのだ。
さて、本日、時間をおいて、夫が神父Aに電話したら、久しぶりにつながった。でも、それはあまりにも哀しい会話だった。電話口の彼は、本当に言葉少なく、チカラもなく、ただ、『あまりにも長い・・・・』というだけだった。それでも、縛られていたことについて、夫が質問したら、彼は
「話すと長くなってしまう・・・。もう疲れた。歩行器をあてがわされ、それに見を任せ、ただ院内を歩くだけの生活なんだ・・・・」と本当に弱弱しい声で、一つ一つの言葉をゆっくりと、それでいて搾り出すように話していた・・・・。
本当に 彼が自殺未遂をしたのかどうかわからない。とはいえ、キリスト教では、自殺は罪=地獄へ行く・・・、と定義されている。そして、彼は神父だ。でも、どうみても、また彼自身が発する信号を感じるだけでも、自殺云々のことではなく、彼の置かれている現状こそが“究極の煉獄”でしかないように感じられてならない。
誰もが迎える老い・・・・。私もいつかこの時を迎える・・・・。
神父Aと夫の会話を聞いているうちに、本当にどうしようもない“やりきれない”感覚に襲われ、胸が張り裂けそうになった。今の時点で、神父Aは果たしてまだ神の存在を信じているのだろうか?、と疑問を持つのがやっとだった。
2003年04月27日(日) |
とある雑誌の記事にて・・・・ |
土曜日の夜、ハムレットを観劇してきた。ところどころ、スペシャルな語彙があって、判らないところがあったが、幸いにもストーリーは完全に把握していたので、救われた(笑)。
さて、土曜日は予想以上に仕事もして(睡眠時間を削りに削って)はかどった安心から、またいつものように本日の朝(日曜日)は、信じられないほどの寝坊・・・・。気がついたら、ギニョルが終わる時間だった(汗)。
起床と同時に、朝早くから起きていた夫が、“ハラ減った・・・”ということで、いきなりランチ。ワインも飲んでしまって、寝起きなのに、すでに昼寝したいモードに・・・・・。ここで、私は、“遅くおきたけれど、自分の生活モードを守るために、あくまでも軽い朝食をとった後、仕事に復帰するっ”と宣言してもよかったが、いかんせん、性格があまりにもエピキュリアンなため、ついつい心地よい選択をしてしまう。
さて、ランチのあと、ほろ酔い気分のまま、とある日本雑誌を読み始めた。そして、ある人のインタビュー記事を読んでいると、強烈なデジャヴに襲われる。アレっ、アレっ、アレっ?!?!?!?!。
絶対この人のこと知っているという感覚・・・・・・。そうしたら、本当に知っている人だった(笑)。なぜなら、大学の先輩の夫だったからだ。昔、友人から“この人”についての、曖昧な輪郭だけを伝えられていたので、なんとなく、彼のことを知っていた。そして一度だけ、“その人”を先輩と一緒にいるところに出くわしたこともあった。
が・・・・、実際に彼が何をしているのか、実はよく知っていなかった(笑)。そして、本日、雑誌の記事を通して、よーーーーくわかってしまったのだ。
記事を読んでいて、もしかしたら、私の仕事を将来かぶる可能性もあったりして、意味もなくドキドキ、ワクワク・・・・。と同時にヘンなライバル意識も生まれてきて、なんだか落ち着かなくなってきた。それプラス、結局昔から知っている知人・友人の多くは、大企業などに勤務していず(勤務できない、というのが正しいっ)、好きなことだけをやって、それを極めている(現在のところ)人しかいない・・・、という現実にも、少しウロタエタ。
さて、私は思うところがあって、大学のゼミの人たちとは、意識的に距離を取っている。というよりも、現在のところ“ゼロは行方不明っ!!”という立場をとって久しい。それでも現在交流のある同窓生たちは、私と同じように、大学との距離を取っている人ばかり。
それにしても、ネットというものは、ある意味怖い。なぜなら、今回、この記事を通して、好奇心にかられて彼らのことを検索したのだが、たまたま彼らが本名で活躍していたので、あっという間に、彼らの近況に到達できてしまった。ま、ある意味商売なのだろうから、本名も隠さないほうがいいのかもしれないが、じゃ、私が同じことをするか?、といったら、答えは100%“NON”だ・・・・・。
今、執筆中の本も、私がギブアップしないかぎり、来年の4月には書店に並ぶはずだが、それには、日本においての私の本名をさらすつもりは毛頭ないっ!!。奇妙なことに、夫の姓と自分の名前を晒すのは、そんなに気にならない。が・・・・・、そこに複合性として、自分の苗字をさらし、さらにはそれを漢字で晒すことに、異様なまでの抵抗がある・・・・・。
ああ、自分でも、自分が奇妙に思えてならない。なんで、そこまでして、自分の素顔を出したくないのか?!?!?!?!。ま、一つの理由に、インタビューでもなんでも、ダイレクトなコンタクトを好む私。ゆえに、ダイレクトなコミュニケーションには、どこまでも自分を晒すことに躊躇はないが、自分をしらない不特定多数の人には、自分の素顔を知られたくない・・・・、という、あまりにも強い願望があるのだと思う。
そんなわけで、ゼロという名前を用いて、書きたいことを書き、ストレスを発散し、それでいて、仕事のように、原稿チェックもないでいられるこの空間は、現在神経衰弱気味になっている私の最低限のバランスを保つのに、少しだけ役立っている・・・・・、というわけだ(笑)。
さて・・・・・、久しぶりに、この先輩とコンタクトを取ろうか否か・・・・・?!?!?!、
だいぶ前に、突然Mから電話がかかってきた。
「山海塾の公演に行くけれど、よかったら、ゼロと夫の分のチケットを同時にとってきてもよいか?。という提案だった。もちろん、断る理由もなく、即答OKを出してチケットゲットをお願いした。
そして、本日、その公演に行ってきた。開演前、路上であまったチケットをゲットしようとするたくさんの人々に遭遇。あらためて、パリにおける山海塾の人気度を実感する。
私が山海塾という存在を知ったのは、いつだったろうか?!?!?!。あまりにも遠い昔ではっきりとは思い出せない。とはいえ、一度もその公演を生で観た事がなかった。関係者だの、もっと分野を広くいえば、舞踏関係者など、私に興味があろうとなかろうと、昔は私の周りにゴロゴロいた。関係者は、土方巽と実際に仕事をして、友人だった人間にまで至っていた・・・・・。
逆に、舞踏を実際に観る前から、あまりにもその裏事情だけに詳しかったのかもしれない(苦笑)。2月に舞踏に詳しい日本人女性にインタビューしたが、彼女曰く、山海塾はもはや舞踏というカテゴリーに留まっていないという意見をいただいていたが、今回、公演をみて、なるほど・・・・・っ、と思った。
さて、観客のほとんどは、非日本人だった。薄々想像はしていたものの、本当に非日本人ばかりで、ビックリ。公演の終わりには、観客のほとんどが、席を立っての拍手喝采だった。
公演のあと、同行した弁護士Mと、精神科医A(共に女性)と夫と私で、タイレストランへ行く。ふつふつと様々な疑問が湧いてきたので、ディナーをしながら、完全に私のインタビュー時間となった。というのも、ふつふつとした疑問が沸いてくる瞬間を逃すと、まったくいいインタビューができないので、今回は強引なまでに、私のやりたいようにやらせてもらった。
また、帰宅してから、夫に、夫としてではなく、一人のフランス人として、あらためて長いインタビューを試みてみた。想像以上によく喋ってくれたので、質問しながら、ソレをメモするのにいささか戸惑ったが、それはある意味本当に有意義だった。
なぜ、フランス人が、禅という曖昧な概念に惹かれるのか?、そして舞踏というものが、日本でより、人気があるのか?、そういったことを根本的に理解するには、欠かせないインタビューになって、少しは私の仕事への不安が消え去ったような気がしている。
ま、もちろん、人に話させること自体、こっちがある程度勉強してないといけないのだが、思った以上の収穫を得られると、その地道な努力も報われる・・・・、という感じか?。
西洋の宗教観、倫理観、道徳観、そして著名な哲学者の論理などを照らし合わせて、あくまで西洋と東洋の差がまるでないような設定でインタビューするのが私のネライ。質問にキチンと応えるか否かは、実はそんなに問題はない。彼らが語ろうとすることに、どんな語彙を選ぶか、またはどんな表情をするか?、等ということが、一番真実にことを語っているように見えるのだ。
そんなわけで、私は電話でのインタビューが嫌い。なぜなら、相手の反応をダイレクトに感じることができないから・・・・・・、です。
夜中、調査でPCとにらめっこしていたが、どうもPCの調子が悪い・・・・。読んで、読んで、読みまくって、コレだっ!!、と思った資料を印刷しようと思うと、画面が真っ暗になって、突然再起動が始まる・・・・・・。
ウォォォォーーーーーーーーーーっ!!。とかなり太い声で絶叫していた。あまりの怒りに、空手チョップでパソコンを真っ二つに割ってしまいたい衝動にさへ駆られた。でも。突然、なにもかも嫌になり、誰かと話しして憂さ晴らししようと思い立った。しかし今は、夜中・・・・。
というわけで時差を利用して、日本にいる母と、友人に電話してみた。この時、午前3時半。
母とは、例の“症急性呼吸器症候群=SARS”について話した。先週は、フランスの空港から降りた人が、激しく咳をしたうえに、マスクをしたままTGVにのって、それを恐れたフランス人などが途中下車してしまった、という騒動があったのを、母に話してみた。
すると、母親は大笑い。電話の向こうで、ずうっとバカみたいに笑っている・・・・(汗)。なにも、そこまで笑わなくとも・・・・・。そして笑いながら、
「今度、メトロが込んでいて、座る場所がなかったら、サッとポケットからマスクでも取り出してごらんなさいよ、ゼロっ!!。絶対座れるわよ」とアドヴァイスしてくれた・・・・。おまけに、
「そうそう、あなたの夫にもやらせてみれば?。二人でやったら、どこいっても人口密度が少なくなって、いいんじゃないのォ?。なんだったら、マスク送ろうか?。」とのことだった。
ゲッ、この母親、相変わらず不謹慎だな・・・、と思いながら、ソノ手も悪くないと思ったりもした。ちなみに、母親からいつも日本から送ってもらっているのは、雑誌『噂の真相』のみ。それプラス、マスクか・・・・・、ううーーーん。
その後、友人Mに電話。電話しながらも、再起動したり、ウイルスチェックしていたが、ウイルス発見もなし、なにもなし・・・・・、でも、動かん・・・・、なんでェ・・・・・・・(涙)?!?!?!。そんなわけで、もっとおしゃべりにチカラが入る。二人で、盛り上がってしまった。
安い、プリペイド式のテレフォンカードを購入しておいて、本当によかったと思った。まさか夜中に、こんなことで役立つとは思わなかったが、なかなかのスグレものだっ!!。午前3時半に電話をはじめて、午前5時半まで。実に2時間も喋って、それでも、安い!!。いい時代に、外国に住んでいるなあ、と実感した。
午前5時半から、気を取り直して(まだ相当ハラワタは煮えくり返っていたが)、資料を読んで、午前7時半に就寝した。
2003年04月23日(水) |
思いがけないプレゼント |
バカンスも終わっちまったし、残るは、仕事のみ・・・・・・・。そんななか激しく気分が落ち込んでいて、夕食の買い物にも行きたくなかった。まだ店はたくさん開いているという時間なのにっ!!。
ついつい、仕事=ひきこもり、になりやすい私だが、本日も“いかに買い物に行かずして、晩飯をつくるか?”ということにアタマをヒネッテいた。
冷蔵庫には、豚バラ肉が500グラムあった。醤油が切れているので、ソレを使うメニューは本日はできん・・・・・。じゃ、どうしようか?。必死になってあちこちに散らばって保存されている、缶詰だの、瓶づめだのを掘り返す。そして、とあるものを発見。豚肉を揚げて、それにまぜるだけという甘辛ソースだった。ラッキーっ!!。
これに、餃子なんかがあるといいのになぁ・・・、と妙な妄想をしながら料理をしていると、電話がなった。友人の中国人Wからだった。今度餃子の宅配サービス業を始めるにあたって、試食をしてほしいとのこと。もしOKだったら、今すぐ餃子を宅配してくれると、彼女は言った。
え、え、えェェェェェっ?!?!。嬉しいーーーーーーーーーーーーーっ!!。
この電話から30分後、本当に餃子が届いた。スゴすぎるっ。届けてくれたのはWの友人の、中国人男性。とってもかわいい男性だったので、餃子だけでも感激してしまう状況に、さらなる感激。
ちなみに、餃子の種類は3種類あるそうだ。3種類×12個。幸せすぎるっ。あんまり嬉しいので、その勢いで日記書いているゼロでした。落ち込んでいる時に、こういったことがあると、それだけでも嬉しいものっ!!。すべての状況に感謝して、仕事に立ち向かえそうになってきたっス。
さて、これから調理(冷凍してあるので)してみますが、どんなお味でしょうか?!?!?!。
イースター休暇にどこへも出かけず、パリに留まるというのは初めてのこと。一度はやってみたかったので、なんだか嬉しい。
さて、相変わらず、この休暇を利用して、一日一善じゃないが、一日一本の割合で映画を見続けてきた。
金曜日は、奥田瑛二が初監督した『少女』(Une adolescente /2001)。小さな映画館に客がチラホラ、という感じだった。パリ映画祭で賞をとったらしい、この作品。昔の日活ロマンポルノみたいな雰囲気を出したかったのだろう、きっと奥田瑛二は・・・。少女役の小沢まゆは、不思議な魅力を出していたと思う。 きっとこの映画を一人で観に来ていたフランス人の50代以上の男性(何人かこういうのがいた)は、いつかこういうことがわが身に起こることを望んでいたことだろう(笑)。とりあえず、友人Gは、絶対だと思うに1ユーロ。
土曜日は藤田敏八監督の遺作『リボルバー』をパリ日仏会館にて。各シーンで爆笑しているフランス人もたくさんいたが、うちの夫はただの一度も笑わず・・・。だから、今回は一緒に来なくていいと伝えておいたのにっ!!。日本映画鑑賞も仕事の一つなので、私はせっせと足を運ぶ。帰りのメトロの中でも文句を言いたそうな夫だったので、このまま家に戻っても喧嘩になりそうなゆえ、シャトレで途中下車して、二人で友人Mのアパルトマンに立ち寄って酒のんで、おしゃべり。
さて、『家族ゲーム』にはじまり、上記の2本の映画には、必ず飲食物をぶちまけるシーンがあったのが、印象に残った。 "péter les plombs"(ヒューズが切れるという意味から、ブチ切れるという意味)を日本人がすると、こうやっちゃうのか?、と思ったほど、3本の映画における各シーンに類似点があり、面白い発見となった。
日曜日と月曜日は、映画館に足を運ぶ時間を逃したので、家でテレビにて鑑賞。とはいえ、映画館のように照明を全部消して、雰囲気を出してみた(笑)。
日曜日の晩は、懐かしい映画『オルカ』(1977年)。エンニオ・モリコーネの哀しい旋律とリチャード・ハリスの演技、そしてシャーロット・ランプリングの暗い目などが、どうも私のツボのはまる。何度観ても、なんだかしらんが、この映画が好きなことを再発見。
月曜日の晩は、やっぱり懐かしいイギリス映画『O Lucky Man!』(1973年)。リンゼイ・アンダーソン監督&マルコム・マクダウェル主演という、黄金コンビによる3時間弱の長編映画。これも、妙にツボにはまったっ!!。ブラック・ユーモアがたまらない。
ああっ・・・・、この日記を書いているうちに、色々と仕事のネタがアタマに浮かんできたので、仕事に復帰します・・・・・。
再び、現在開催中の80〜90年までの日本映画特集に行ってきた。今回は『家族ゲーム』(1983年)。
20年も前の映画になってしまったんだ・・・・、というのが正直な感想。また20年前は、ちょうど受験を終えて、私が高校生になってた頃だと思う。そんなわけで、時代も個人的にはマッチしているわけだ。
会場には、たくさんの非日本人の方々がきていた。耳をすませて会話を聞いていると、日本語できる人も結構たくさんいた。さすが、パリ日仏会館(笑)。今回は、じっくり人間ウオッチングをしたかったので、夫より先に家を出て、一番に会場入り。早めに座って、その後続々を入ってくる人などを眺めていた。
松田優作も、伊丹十三も、すでに亡くなってしまったんだなぁ・・・、とあらためて実感。また、20年経った今でも、ものすごく面白い作品だとも感じた。日本のテレビでこの映画が初放映されたとき、衝撃のラストシーンが丸々カットされてしまい、監督の森田芳光が猛烈に激怒したということがあったらしいが、このラストなくしては、この作品は語れないっ!!、と・・・・。
非日本人の方々も、各シーンでかなり爆笑していた模様。うちの夫は、それほど爆笑していなかった。私は私で、よく笑っていたと思う。
夫曰く、この映画を見て、哀しくなったらしい。なんで、こんなにシラケているんだこの家族は・・・・、と。そして、この映画が風刺モノだとしても、それができただけの背景が実際に日本にあるなら、キツイ・・・、とも、のたまった。
キサマはそんな風に、この映画を見たのねェ・・・・、ふーーーん、と妙に面白くなった私。ということで、この機会を利用して、6・3・3制の教育、受験地獄、またそれにかかる養育費用について、ザッと説明。こういう機会がなく、ただ説明しただけでは、自分に本当に興味のないことは、さっさと忘れる夫なので(笑)。
話もどんどん長くなり、腹も減ったこともあり、カレー屋に場所を移動して、まだまだ二人で話す。結局、夫は
「親がたいしたことに興味のない生活をしていれば、子供だって、それを必然的に学んでしまうわけで、そこでどんなことを本当に学べるのか?、と考えると、薄気味悪い」ということを述べた。で、私は
「じゃ、あなたは自分の家庭に満足してる?。」
夫「うん。母親はうるさいけれど、とはいえ、両親が活き活きと(自分勝手にとも通訳できる)が好きなことをやっていたと思う。少なくともこの映画と比較して・・・・。」
私「でも、それでも社会で成功しろだのなんだのと、ウルセーあんたの母から逃れたい一心だったでしょ、あんた・・・・・、それでも、満足?。」
夫「それでも、自分のやりたいこと、数々の趣味を含めて、自分を基準にして現在まで生きてこられたのだから、満足だと思っている」
ということでした。
その答えを聞いていて、ま、まず、あなたの弟は、同じようには家族を語らないだろうね、と突っ込んだら、彼は苦笑いをしていた。ああ、義弟を連れてくればよかった・・・・・。
さて、いつか夫に見せてみたい日本映画・・・・・・、それは『鬼畜』と『震える舌』かな、とりあえず。でも、今回の上映プログラムには入ってないのだけれど、ね。
夫が、先週末からバカンスと称して、我が家にいる・・・・・・。
そんなわけで、なかなか自分の時間が持てない・・・・・・・・。
それも、来週の火曜日まで、休みなんだそうだ・・・・・・・・。
ああ・・・・・・・・っ!!。
昨日、本当に久しぶりにカルチェ・ラタンを二人で散策しているうちに、大昔に映画大好き人間だった、私のDANが騒ぎ出した。夫も、さらに大昔のソレが刺激されたようで、せっかく“夫がバカンス”であり、“バカンスにもかかわらず、パリを離れない”というのが始めてなこともあり、今週中は一日に一度は、映画館に足を運ぼうということになった。いずれにせよ、わたしゃ、どうせ、完全には仕事モードになれないのだから・・・・・・(苦笑)。
触発されたのは、カルチェ・ラタンだったが、結局今夜は、パリ日仏会館で現在開催されている、“80〜90年の日本映画特集”に足を運んでみた。
たまたま、本日選んだ時間が、『ヒポクラテスたち』(大森一樹監督、1980)だった。この映画といえば、3月末に自殺してしまった古尾谷雅人が主演っ!!。トウの昔にプログラムが、パリ日仏会館から送られていたので、この機会は、本当に私にとって奇遇だった。
ああ、なんて懐かしい日本の雰囲気・・・・・・・。1980年とえいば、wたしゃ、13歳じゃないかっ!!。古尾谷雅人も強烈に初々しい。なんて、足が長いんだっ!!!!!!。
夫は、戦後のベビーブーマー。この映画も日本の戦後の復興が完全に終わり、ある意味、無気力になった時代をものすごくよく描いている。ゆえに、今回は、これを夫に見せてみたかった。
ただ、字幕がフランス語でちゃんとあったとはいえ、それこそ完璧に日本語を理解してしまう、イチ日本人としては、逐一字幕とダイアローグを比較して、本当のニュアンスが、日本語を理解しない“外人”にどこまで伝わったのか疑問だった。とはいえ、私を含む、きっと日本人が、語国語以外の映画をみても、同じことが起こるのだろうから、なんともいえないが・・・・・・。
さて、今回この映画を見てみて、物凄く面白かった。脱力と、タナトスが延々と交錯していく映画のように思われた。映画が終わった瞬間、思ったことを黙っていられないフランス人観客達が、口々に、「全然笑えないよ・・・・・」「重いねぇ・・・・、この映画」と言っているのが、妙に面白かった。
出口に向かい、エレベーターに乗っている間、夫が「ああ、医者にならなくてよかったっ!!」(なれるか否かの問題は別として)とデカイ声で独り言を言うと、乗り合わせていた人たちが同時に笑い出した。
本日は結婚記念日・・・・・・・・・。
奇妙なことに、夫がこの日に何か私を驚かせようとしているのは、うすうす気付いていた。でも、私には一抹の不安があった。それは、ただの夫の独り善がりで、わけのわからないところに連れて行かれたくないっ!!、という思い・・・・・・・・・。
なので、数日前から、それとなく“やさしい口調”で夫に尋ねていた。が、敵もさることながら、口が堅いっ!!。なかなか口を割らないのだ。こんな時、
「どーせあんたのことだから、くだらねえこと考えてるんでしょ!!」なんて言ったら、あっという間に喧嘩になることは火を見るよりも明らか。なので、本当に、本当に、穏やかに質問を続けてみた(これは、私の性格からすると、かなり努力がいる・・・・・)。
だいたい、結婚記念日に何かをやりたいっ、という考えからして、私には奇妙に感じた。それでも、どこに行くのか知りたかったので、“脅す意味”もあって、こう尋ねてみた。
私「結婚記念日に何をしようと思っているの?。」 夫「オレに任せておけ」(間違っても、オマエに任せると考えたら、イテモたってもいられない、とはあくまでも言わない私)。 私「あなたになんでも任せたいけれど、それでも知りたいな・・・。だって、これは私の誕生日ではないわけで、二人の記念日なんだから・・・」 夫「ま、それもそうだな・・・・・・」 私「で、何がしたいの?」 夫「それは秘密っ!!」
こんな問答をずうっと繰り返していて、そうとう忍耐力がなくなってきた私は、とうとう直接的に研いだ出してみた。もしかして、あんた、この店行って、あとで、ここに私を連れて行こうと考えていない?、という感じに。
すると、あてずっぽうに言ったことが、すべて当たってしまっていたようで、夫が狼狽する。その姿をみて、あーーーあっ(汗)と思う、私。
そこで、夫が思い込む以外の可能性としての、結婚記念日の過ごし方を提案してみた。いつものようにたくさんの友人・知人を家に呼んでいいけれど、すべてのメニュー構想&買い物のことから、テーブルセッティング、そして後片付けまで、全部あなたがやってくれると想像するだけで、まるで夢のようだし、最高のプレゼントになる・・・・、と。
すると、夫は、苦笑いして、しばし、私を見つめてくる・・・・・。
実は、すでに結婚記念日に際して、ちょっと海外旅行でもしようか?!?!、と夫から提案があったが、私が思いっきり却下していたという付箋がある。海外旅行といったって、安上がりにモロッコとかその辺だったのだけれど(笑)。
とはいえ、同じ家計でやりくりする私達。おまけに5月下旬に出来れば日本に行きたい私としては、今、散財しては・・・・、そして、また、ずうーっと遊んでしまっては、まったく仕事がはかどらんっ!!、という思いもあって、s即座夫の申し出をムゲに断っていたのだ。
それでも、何かを意地になってもしたい夫・・・・・(汗)。というわけで、月曜日の午後は予定は未定のまま、過ぎていった・・・・・。
さすがにケツに火がついている私は取材先のアポイントを取るために数時間集中して仕事したが、同時に今夜無事に過ごせるのか?!?!?!、等、心のどこかで気になっていた。
ある程度やることだけやった私は、気分転換にピアノを弾いていると、遠くの部屋で何か電話をしている夫の声がする。どうやら、夫はどこかのレストランに予約した模様・・・・・。つまんないレストランに予約して、味に失望したうえに、出費するのはイヤっ、となぜか言えない自分がいた。ああ、こんなこと珍しいっ!!。
でも、夫のやりたいことだけでは面白くない。なにしろ、ふたりにとっての記念日なのだから(笑)。ということで、ここ一ヶ月以上、バタバタと対人関係に忙しかった私。ゆっくりと映画をみたくなり、パリスコープを見て、ロンドンの友人から勧められていた映画“Bowling for Columbine”を、ディナーの前に、カルチェ・ラタンに観に行くことにした。
イースターのバカンスで、パリにはそんなに観客はいないだろうと見込んで行ったが、その通りだった。空いているの映画館って、なんとも言えず落ち着くものだっ!!。
映画の感想は、恐らくたくさんある各言語のサイトに譲るとして、私個人としては、嫌がられようともなんとしても、自分の聞き出したいことは実践していく監督、Michael Moore の姿勢に好感が持てた。それにしても、チャールトン・ヘストン・・・・・・、あれって、ヅラっ?!?!?!?!。
その後、散歩しながら、夫が半ば意地になって予約したレストランに出向き、たらふくになって帰宅した。レストランでは、なんだかんだいって、楽しんだゼロでした。
さて、来年の結婚記念日まで、わしらは続いているのでしょうか(笑)?!?!?!。
2003年04月13日(日) |
フランスは第二次世界大戦でどうだったか? |
本日明け方までのパーティーゆえ、起床は必然的に午後・・・・。ギニョルを見ながら、ブランチ。
ギニョルでは、英米のイラク征服による、フランスの自虐的“ギャグ”多し。これらを見ていて、あらためてフランスの国民性に興味を持った。ここまで自虐的になりつつ、思いっきり自分たちのことを笑うことのできる民族っ!!。もし、日本が、一時的にも判断に誤って、予想外の損失をしたら、そこまで即座にギャグにはしないだろう・・・・、と思った。
昨日のDに触発されたわけではないが、今、自分がフランスに住んでいるからこそ、第二次世界大戦でのフランスの立場を直に、フランス人に尋ねてみたくなってしまった(笑)。おまけに、よくわかっていそうで、実際フランスがどうだったか把握しきれていない自分も再発見。
1939年9月から1940年5月までに、“奇妙な戦争”というのがあった。フランスとイギリスがドイツに宣戦布告しながら、実際には攻めずにらみ合い・・・・、という状況が何ヶ月も続き、実際にはフランスは宣戦布告したにもかかわらず、ドイツ側にとうとう攻められた、という話。
この時のフランス人側としての、心境をズバリ夫に聞いてみた。
夫「ポーランドを攻めたら、僕達は許さない、っと思ってしょうがなく宣戦布告したけれど、本当にこれでドイツ軍に攻められたらどうしよう・・・・・、って思ってたんだよ、フランス人は・・・・。」 私「・・・・・・・」(実際には死ぬほど笑ってしまって、質問さへ続けられず・・・・)。 夫「で、にらみ合いと言うけれど、実際にはフランスはそこまで攻めようとは思ってなかった。でも・・・・、宣戦布告したのがフランスなのに、実際に攻めてきたのは、ドイツだったんだよ」 私「・・・・・・・・・」、またもや死ぬほど笑って、呼吸困難・・・・。
夫の両親、つまりは私の義理の両親は、戦中が青春時代だった。まだ生き残っている姑は、まるで昨日の出来事のように第二次世界大戦のことを語る。特に、夫の父親は、当時まだフィアンセとしてのわしの姑がいたとしても、実際には独身。つまりは家族がないので、軍の人員不足から、しょうがなく(断る理由がなく)兵士となっている。
さて・・・・・・。あらためて、戦中のフランスの立場を検証したくなったので、ネットで調査。そうしたら、ものすごく面白いサイトを見つけたっ!!。 『第二次世界大戦フランス空軍史』とGoogleで検索すれば、発見できると思う。残念なことに、詳しくはこことか書いて、直リンができるような技術は、私にはない・・・・・・・(涙)。
もう、爆笑しまくりだった。近々、このサイトの管理人にお礼のメールを送ろうと思っている。そのぐらい、私にはヒットしてしまったのだ。一字一句それを訳していったら、夫がタダの笑いじゃなくて、苦笑いに変わったほどだ。
フランス人の配偶者を持つ方、フランスに住んでいながらもフランス人との対応に苦労している方、フランスに憧れを持つ方、それとも、あくまで日本軍のほうが優秀だったと思いたい方・・・・・、いずれにしても、様々な立場から楽しめるサイトだと思う、ゼロでした。
また、これは、同時に仕事のネタになった、イエーーーーーッ!!。
土曜日の夜は、パーティーだった。最近、人に会いすぎて疲れていたのであまり気が乗らなかったので、とりあえず、夫に先に行ってもらう。
一人でダラダラと家で過ごし、ソロソロ顔をだしたほうがいいかな?、と思ったら、パーティー会場から電話・・・・・。「早く来てっ!!」等。というわけで年貢の納め時。23時過ぎに家を出る。
メトロに乗るのも面倒くさかったので、門を出たところで瞬時にタクシーを拾う。ああ、人と喋るの面倒くせえなぁ・・・、と思いながらも、気がついたらタクシーの運転手にインタビューしてた(笑)。 彼の運転手としての人生はすでに35年だという。じゃ、それならと思って、いつものごとく、印象に残った客について尋ねてみた。
運転手「王様とか乗せたことあるよっ!!」 私「へえ、どんな王様」 運転手「そりゃ、もちろん、色の黒いところの王様だよ、ワハハっ!!。白い国の王様なんか、タクシーなんか乗らないものっ!!」 私「とはいっても、どの国?」 運転手「地図にものってない、アフリカの小さな国じゃないかな。でも、彼らは面白かったよ。その逆でフランスでちょっとだけ名の知れた有名人ってやつを乗せたことが数回あったけれど、なんだかね・・・・・・。 私「なんだかねぇ・・・・、ってどういうこと、もっと知りたいな、具体的に!!」 運転手「ううーーん、なんとういうか、あまりうまくいえないなぁ・・・・」 私「スノッブだったの?。」 運転手「ま、そういうことだな・・・・・・。」
ってな感じでした。その後どんどん話が変わって、財テクの話になった。この運転手は毎日新聞の株式の欄を見るのが趣味なようだ。それでたくさん稼いだかは知らないが。
その話を聞いた瞬間、顧客としての日本人像を聞いてみたくなったので、さっそく質問。これも、時によっては仕事のネタになる可能性があるのでっ!!。彼曰く、バブル崩壊の後は、日本人の顧客は減ったように感じるとのこと。それを聞いて、内心、本当かなぁ・・・・?!?!?!?、と思った私。もうちょっと深く話を聞きたくなったところで、目的地の16区のとある場所に到着してしまった。ああ、残念っ!!。
さて、久しぶりに会う友人・知人らと適当に挨拶を済ませ、飲みたいだけシャンパンを飲んだら、急に元気になってきたので、手当たり次第に今後のフランスの立場を尋ねてみようと思った。
飛んで火にいる夏の虫・・・・・、と言う感じで、この話題にのってきたのが友人のドイツ人D(♂、42歳・銀行員)。彼は、非常に自分がドイツ人であることを誇りにしている(笑)。で、おまけに人を挑発するのが趣味。フランス人の前で、ボクのオヤジはSSだったとか、言ってのける。それを聞いて笑うフランス人もいれば、マジで怒り出すフランス人もいる。
彼の妻Vは美しい弁護士のフランス人女性37歳。彼女はDに惚れまくっている、信じられないくらい・・・。そんなことも含めて、フランスの未来について質問する際、
「私もあんたも、フランスにおける外国人であり、とはいえ配偶者がフランス人なんだよね・・・・・、この点においてどお思う?。」と尋ねてみた。
D「それが問題なんだよ・・・・。ボクは絶対シラクがスタンドプレーで、いい気になってアメリカやイギリスに楯突いたのが許せないんだ!!」 私「なんでそお思うの?。」 D「正義もなにもないんだよ、この世の中。だからこそ、英米に楯突いてもしょうがないのっ!!。」 私「へえ、興味深い意見だね。もっと聞かせてっ!!」 D「変な人道主義みたいなものに捕らわれてしょうがない国民性があるフランス人が、アホにみえてしょうがないんだな、ボクは・・・・。」 私「でも、あんたの奥さんもフランス人でしょうが・・・・、彼女はなんて言ってるの?。」 D「彼女は感情的には、米英の“蛮行”に対してOKとは言えないが、ボクが散々現代社会、とくに資本主義社会においてのルールについて説明したら、納得したよ。」 私「へえ、そうなんだっ!!。私なんか、フセイン政権が崩壊した時に、ただ今後のフランスの行方をダンナに質問しただけで、妙にうちの奴は呼吸が抗えっていたけれど、ね(笑)。」 D「Vもそうだったよ。でも、今はね・・・・・。」 私「今は何よ?。」
と尋ねたところで、彼の妻Vがやってきた。彼女の今までの会話の進展を話し、あらためて彼女の意見を尋ねてみた。すると、苦々しく表情でVが、
「私はフランス人だから、なかなか現状に対して肯定的になれないけれど、きっと夫のDが正しいのかもしれないわ・・・・・、残念なことに・・・・。」と答えた。それを聞いて、至極満足顔のD。
私「でもさ、あんたの国もアメリカに反対してたよね・・・・。うちの国は考える余地もなく、アメリカ万歳だったんだけれど、ねぇ・・・。これに関してはどう思う?。」 D「日本のほうが正しいと思う、絶対っ!!」と答えてきた。
ちなみに、Dに“すでに戦争で人を殺したことがあるか?”と尋ねたら、ちょっと誇らしげに“OUI”と言っている。戦士であることが、または資本主義社会でたくましく生き残ることが、彼としての人生の醍醐味だとも語っているから、彼自身の哲学では矛盾がないのだろう。
他に、ホメイニ革命以来フランスに亡命しているイラン人A(自称アナーキスト)に、今後アメリカがイランを攻撃する可能性があるかもしれないが、個人的にどお思うか尋ねてみた。
A「どうせヤルなら、さっさと攻撃するべきだ、アメリカはっ!!」 私「でも、いいの?。あんたの家族、まだテヘランに残っているんでしょ?」 A「もちろん。でも、いずれにせよ、政府がバカだから、一刻も早くブッつぶれて欲しいんだよね、個人的に。」 私「政府云々じゃなくて、自分の故郷が滅茶苦茶担っていく様を、冷静にテレビで見ていられる?。」 A「そんなのたいしたことじゃないよっ!!」 私「へえ・・・・・・・・・・・・・・・・・・、わたしゃ、まだそのレベルにまで達してないよ。例え小泉のことをアホと思ってもなんでも、故郷が、家族が、そして友人が、その渦中で苦しんでいる様を感じるだけで、居たたまれなくなると思うんだけれど・・・・・」 A「執着なんて、くだらないのさっ!!」
とのことだった。
結局、この二人と長々と話してしまったので、それ以外の人とこの主題で議論することができなかった・・・・・・・・。非常に悔やまれる。BBCでもCNNでも、本日こそ一番、フランスのことを味噌クソ言っている段階だったからこそ、実際にはどのくらいのフランス人が、アメリカ側に突如翻るか?、というのが知りたかったのだが・・・・・・・。
ま、それは、次の機会に・・・・・、ということで・・・・・。
ここ数日、時間をみつけては各国に住んでいる日本人の個人差サイトを覗いている。個人差があるのは当たり前とはいえ、在住国いかんでかなり戦争に対する意見が異なっているからだ。
殊に、バクダッド陥落からのアメリカ在住日本人サイト(決してすべてではないのを改めて記しておく)では、アメリカ人以上にアメリカ人になってしまって、完全にブッシュとその取り巻きが説く、“善と悪のウルトラ二元論”になっている人のを発見。
どこを支持するか?、という問題以前の、カルト宗教信者のような異様な頑なさと、絶対に自分が正しいと信じて疑わず、それを他人に“ごり押し”する姿勢が読み取れたので、少しばかり寒くなった。
以前ル・ペンが大統領選挙の最終決戦に残ったとき、フランスは集団ヒステリー状況に陥った。ま、確かにル・ペンが大統領になってしまうのは、個人的に嫌だったから、デモにも参加した。とはいえ、ただ、ただ、反対、反対、と言いつづけている人を見て、またはそれらの人に話し掛けてみて、具体的な個人の考えというのは、意外に掴めなかったことが多々あった。それも特に若い人達。
なぜ、どうして、といった問いかけ(自分自身に対しても)は最低限必要なんじゃないかな?!?!?!、と思うがどうだろうか?。絶対相手が悪いと思う場合、時に、その相手に自分の考えを投影させて、怨んでいるということが多々あるように・・・・。
議論というのが成り立たないとき、それは自分と違うものを許さないところから発生する。ある意味、私はそれをただ日本の会社で働くだけでも、薄気味悪いくらい味わっている。それが例え実際行為における爆撃行為ではなくとも、村八分などに代表される行為で取って代われる。
幸か不幸か、私は日本の企業に10年も勤務していないし、“私は私”とやっている私を、様々なカタチで型に押し込めようとしてきた人もいた。が、奇妙なことに、誰もあてにせず、もくもくと反旗を翻しつづける私に、徐々に陰での援護者がつき、とうとう最後には、上司を免職に追いやることができた。
これは、あくまでも個人的な体験。そして、これに対して、人にコメントも求める気もない。しかし、その当時は、本当に他者からの、または組織というものからの説明もできない“価値観の押し付け”が、吐き気がするほど嫌だった。
ロンドンから来ていた幼なじみのM嬢は、真面目なカトリック信者。で、私は無神論者。しかし私達の25年来の関係で一度も信仰に関するいさかいは発生してない。なぜなら、価値観の押し付けこそ、この世で一番怖いものはないと二人が昔から考えているからである。
逆に、同じカトリックでも、原理主義者とも思われる姑は、価値観の押し付けの天才。押し付けたがる人=他者をコントロールしたい人でしかない。自分の正義感と、他者の正義感の違いなどおかまいなし。それは、相手の文化を理解せず、自分の文化を押し付けるのをなんら変わりない。
自分以外のものに狭量という恐怖。それは、集団ヒステリーを引き起こさせるに充分だ。
叩くまではなんとかなったブッシュとその愉快な仲間達。じゃ、どうやって今度、イラクを復興させていくのかが見ものである。イスラム教の土地に、ブッシュ的解釈のプロテスタントなモノがどこまで根を植え付けられるのか?。また、その根は、さらなる仲違いのもととなるのか否か?。
今回の戦争に支持を掲げている日本を母国に持ち、アメリカに真っ向から反対するフランスに住み・・・・・。
じゃ、私はどうするか?。
そんなの決まっているじゃないですか・・・、いつどうなるかもわからないの昨今、毎日を楽しく生きるだけッス。映画“Le Pianiste”(戦場のピアニスト)の主人公じゃないが、体勢に反対する否かじゃなくて、実際その状況に陥ってしまえば、どうやって生き延びていくかしか考えられなくなってしまうのだろうから。
結論として、冒頭にあげたちょっと“私としては”寒かった人に対しては、またその人の観点として、反論しようと思わない。そういう人がいてもいて当然なんだとも思う。しかし、こういった考えが日に日に勢力を増してきて、世を制覇(押し付け)するようになってきたら・・・・・、と考えると非常に薄気味悪いわけであります。おしまい。
月曜日から、ロンドン滞在の小学校からの幼なじみM嬢が我が家に滞在していた。そして、本日の昼過ぎに彼女は、ロンドンに戻っていった。
彼女と私の実家は徒歩5分くらいのところにある。昔から、アポなどまったく取らずに、気の向くままフラッとどちらかの家に立ち寄り、夜に、意味もなく話し込むというのが習慣だったが、今回も同じ。ロンドンだろうが、パリだろうが、顔みた瞬間に同じ習慣が蘇ってくる。
そんなわけで、北駅で彼女を見送ったときも、我が実家に遊びに来ていた彼女が、5分歩いて彼女の家に戻っていくのとほとんど変わらない印象を覚えた。
彼女は、映画の勉強をしている。そして、作品も無事に仕上げ、おまけに論文も難行苦行の末に完了して、パリにやってきた。なので彼女にとったら、本当のバカンス。逆に、私は、長いバカンスを終える段階。刻々と近づく、仕事の悪夢の再開が、足音をたてて近づいてくるのがよくわかる・・・・・・。
完全に仕事を手放していた訳ではないが、今週一杯のダラダラを最後に生活を一挙にひきしめにかかる予定。予定は未定などと言ってられない。比較的快適な拘置所生活を経て、刑期が決定し、とうとう務所に入る心境?!?!?!?。オツトメの日々がスタートするのだから・・・・・。
日曜日の午後、BBCワールドを見ていたら、スゴイ映像が飛び込んできた。ジャーナリストのJohn Simpsonが同行していた部隊(クルド人とアメリカ特殊部隊)のところに、アメリカ軍が誤爆してきたのだ。
突然、テレビカメラに血が飛ぶ・・・・・。カメラマンがそれに焦りながら、血を手でふき取ると、その血がカメラにへばりつく。その曇ったレンズの向こうに転回される、地獄絵図。
カメラの前に血だらけになって倒れる人、また、人々の会話が続く。開戦以来、毎日テレビで馴染んでいたJohn Simpsonも、左足が裂けたズボンを穿いたまま逃げ惑っている・・・・・・。
解説もなにもなく続いていく映像。現場での会話を耳で追いながら、テレビの前で身動きできなくなった。倒れる人、燃え上がるクルマ、逃げ惑う人、瀕死の怪我人を搬送する人・・・・・。
最後に、John Simpsonがその現場で短いコメント。「戦地ではこういったことが起こりうる。これが戦争だ。でも、地獄だ・・・・」と言っていた。そこでは、彼の通訳として同行していた25歳の男性が被弾して亡くなった。それに対して、彼は「こんなこと、言葉で表現できない」とも。
その後私は、BBCワールドと、CNNと、LCI(フランスのニュースチャンネル)を交互に見て、報道の仕方、コメントのつけ方などをチェックしてみた。CNNはこの事実をすこしだけ、最小限の義務として報道、でも悲惨映像はなし。BBCでは、もちろん何度も報道。LCIは時折皮肉な言葉を交えながら報道・・・・、という感じだった。
テレビだけじゃ物足りないので、以後ネットで英語・フランス語、日本語のそれぞれのソースで検索。そのうち、色々な記事を読み漁っていくうちに、すっかり夜が明けてしまった。おかげで戦争のことには妙に詳しくなってしまったが、仕事からは完全に離れてしまった。アル意味では、仕事から無意識に離れたかったのが理由かもしれないが・・・・・・。
それにしても、個人的に衝撃を受けた報道だった。誤爆云々というより、バーチャルだが、あまりにも生々しい“戦場”を目の当たりにしたことによる。イラク兵などは何千人単位で命を落としている。戦争は市民を巻き添えにせず、兵士同士で行うものとは言うが、それにしても・・・・・・・。
アメリカは志願兵制度をやめて、徴兵制にすればいいんじゃないか?とさえ思ってしまった。じゃないと、「アメリカ万歳!!」と言って、そう簡単に戦争にやすやすと賛同できなくなると思うから。
イラク兵の姿をみていると、第二次世界大戦中、竹やりでB29を撃墜しようとしていた日本を思い出す・・・・・。世界一の軍事力で叩きまくっているのだからね、アメリカは・・・・・。もしマジでイラクが核を持ってたら、とっくにアメリカのどこかに核爆弾を落としてもいい頃じゃないか?。
核持ってそうだと言いながら、持ってないことをなんとなく確認して、そんな雰囲気をつくりあげて、石油ももっててにくたらしいから、イラクをブッ叩け!!、って感じなんだろうなぁ、きっと。
そういえば、鎖国中の日本にやってきた“黒船のペリーさん”も日本を研究して、最後には大砲をぶっ放しながら、港にやってきたものだ。やっぱり、アメリカの外交にはいつも、大砲→ミサイルなどで脅すという行為が先で、そのあとに、ちょっとだけ言葉での外交というオプション(もし簡単に相手が降伏した場合)がついてくることがある、って感じなのだろう。
ふと思った奇妙な違和感・・・・・・。
というのも、いとこI嬢の3月4日から4月1日までのパリ滞在と、ロンドンでの小学校からの幼なじみM嬢との日々、そして、同じくロンドンでの大学時代からの友人のライブなどが同じ時期に重り、日本じゃないのに、まるで日本にいたときのように、古い付き合いの人ばかりに集中して会ったからだと思う。
例えば、I嬢と時を過ごせば、瞬時に自分の家系の習慣に知らず知らずのうちに戻ってしまうし、ロンドンのM嬢と過ごせば、もうそりゃ、小学校からのことがつい昨日のように当たり前に存在し、そのうえ、互いの現在がある。またロッカーH氏と喋っていても、膨大で無益な時間を過ごした仲間だっただけあって、妙におもしろい。
私をふくめて、全員がそれぞれの道を歩んで、それなりに変化してきているのは確か。I嬢の帰国と同じくして、H氏やその彼女KI嬢も日本に帰国していって、私の生活は日常に戻った。そう、日本人じゃない夫との、私にとっては異国での生活・・・・・・。
恐らく、日本でこれらの人に会ったら会ったで、たいした違和感を感じなかったのだと思う。きっと、パリで一極集中的に懐かしいメンバーと再会したことが、理由のような気がしている。
いつもの生活が再開しても、夫は、この一ヶ月私の身に何が起こったのか、私と同じようには感じられないと思う。例え、彼が外国人として異国に10年近く滞在してた経験があっても、だ。
今回の経験を通して、幸か不幸か、自分は夫の世界と、友人と、家族と時にうんざりするくらいコミュニケートすることができる。では、夫はどうか?!?!?!。パリで一緒に暮らしている妻としての私を通して、現在の私は理解していると思うが、日本での私というのは、おそらく類推でしか判断できていないのだな・・・・、と思わざるを得ない。
夫の家族を含め、その生い立ちの背景を理解するには、フランス語のマスターが最低限必要だったし、それゆえ、知らず知らずのうちに努力(この言葉は好きじゃないが)してきたのかもしれないが、日本語がまったくアウトな夫は、果たしてどこまで日本および、そこで生まれ育って、現在パリで暮らしている妻としての私が理解できるんだろうか?!?!?!?!?、と考える。
すっかり、日本モードになって夫に本日あったことを語ろうとしても、そこには妙に外人ヅラした夫がいて、妙な戸惑いを感じる(笑)。“あんた何モン?”って思ってしまうのだ。
5月中旬以降に私は免許の更新で日本に戻るが、今回のことを通して、夫を絶対同行させようと思った。個人的には夫なしのほうが断然気楽なのだが、様々な機会で生の日本を見せる必要を感じたし、またキレイ事なしのソコでの人間関係を知らしめる必要があると痛感した。
すでに、現在の仕事で私の校正係りとして活躍している夫だが、それだけでは駄目。日本について書く仕事の機会をもっと深く利用して、ただの校正じゃなく、彼にも彼なりに日本についての考えを打ち出してもらおうと思う。
ある種、イデアリストな私もあるが、どうせ夫婦であるなら、もっともっと相互理解を深めたく思う今日この頃。相手に合わせたままというのが、どうしてもできない自分というのも再発見。キミがここまで自分をみせたなら、私も見せなくてはならない、みたいな気負い?!?!?!。
外人の日本かぶれ、もしくは日本人のフランスかぶれ、等はたくさんいる。とはいえ、かぶれていられるのは、じかにソレ自体に触れない、もしくは触れなくていい立場であるからこそ。アル意味、美味しいとこ取り、とも解釈できる。そう・・・・・、まるで類推と実感が違うように。
ま、こんな風に書いてきたが、単純な例を挙げれば、不幸にもフランス語が理解できるようになってしまった今、見聞したくもない夫家族のソープオペラを意に反してマジマジと理解せざるを得ない。が、夫は幸いにも日本語を理解しないし、自分の義理家族もフランスからは遠い国に住んでいるゆえに、彼にとっては対岸の火事でいられる夫。そんな彼に、不条理な嫉妬を感じているだけなのかもしれない(笑)。
とにもかくにも、今回は、私自身において、いい刺激になった。まだまだ考察&トライすることがたくさんあることを発見したのだから・・・・。
ここ数日、昨日までロンドン&パリにいたH氏がくれた本を読んでいる。『犯罪地獄変』(犯罪地獄変編集部・水声社・1400円)は、妙にはまる本だ。久しぶりの日本語の本というだけでも、嬉しいものだが、この文章が実にリズムがあって、笑えるのだ。
これだけ私のツボにはまる本を、みやげとして選んでくれたH氏には感謝感激。さすが、大学時代に、膨大な時間を無駄に費やしてきた仲間だっ!!、と思ってしまった(笑)。この本をロンドンのライブハウスでもらった時も、いとこI嬢が、「さすが、H氏、ゼロの趣味のよーーーく知ってるねえ」って言っていたほど。
恐らく、この編集部の人たちは、私と同世代の人達。文章の合間に挟み込まれる時代の皮肉なとらえ方が、面白い。この本が実際何部売れたのかは全く知らないが、書いてる人が相当楽しんで書いてるな・・・、って感じだけはよく伝わってくる。恐らく実際は、書きたくない事件を書かなくてはならず、無理して書いていることもあっただろうけれど。
さて、現在私が10月末までに書かなくてはならない本は、文章で遊べないことが判明。もちろんフランス語で書くだけで“遊ぶ”こと自体、非常に苦しいのだが、そうじゃなくても、あらゆる意味での遊びは、極力避けなくてはならないのが現状。
これだけでも、相当やる気が削がれる・・・・・・。なので、未だに“これだっ!!”というリズムを見つけられず、すでに4月に突入。心臓がバクバクと遠鳴りを始めてきている。今でこうなのだから、締め切り近くになったら、私の心臓はどうなってしまうのだろうか?。
さて、ロンドンの幼なじみのMが来週パリにやってこられることになった。彼女は本当だったら、すでにパリにきているはずだったが、学校に提出する英語でのレポートを期限内に終えられず、モガキ苦しんでいた。
私とI嬢が、3月の末に彼女の家にお邪魔してたとき、彼女はパニックの真っ最中。おまけにレポートと思っていたシロモノが、実は修士論文だったと、締め切りを過ぎてから発覚しているアリ様。
ある日の明け方、老人のようにトイレに起きたら、キッチンに灯りがついていた。恐る恐る足音を忍ばせて、キッチンに行き様子をうかがってみると、M嬢がボーーッと椅子に座って、タバコを燻らせていた。薄明かりに映える紫煙と、なんとも物悲しい彼女の背中。ああ、彼女、煮詰まってる?!?!?!?!。
とにかく、色々とあったが、彼女は無事論文も提出、学校からもOKをもらい、晴れて自由の身になったとのこと。本当に、よかった、よかったっ!!。
しかし、だ・・・・・。近々修羅場パート2に突入しようとしている私。今私にできることは、この姿を垣間見て、“明日はわが身”とキモに命じることだけだったりして。
2003年04月02日(水) |
Adieu Leslie Cheung |
昨日の夕方、3月4日からパリに滞在していた、いとこI嬢をオペラのバス停まで送りに行った。長かったようで短かった奇妙で可笑しな日々もこれでオシマイ。I嬢が無事にバスに乗ったのを確認して、帰宅。
久しぶりに日本のニュースをネットで見ると、ビックリする記事があった。香港人俳優のレスリー・チャンが転落死、という記事。さっそくクリックすると、まだ詳しいことが記載されていない。どうしたんだ?!?!?!。
彼のファンサイトなどもみつけて、状況を知ろうと試すものの、そこでもやっぱり確かな情報が掴めていない様子。
1993年の秋、私は2週間弱の休みをとって、パリに旅行客として滞在していた。友人Sに連れられて、カンヌ映画祭でパルム・ドールを獲得したばかりの映画"Adieu ma concubine"(邦題:さらば、わが愛〜覇王別姫)を映画館に観に行った。
友人Sとのフランス語と英語ちゃんぽんの会話(旅行客としての、私の当時の語学力は惨めそのもの)ですでに疲れ果てていた上に、どんな映画かサッパリわからないまま、この映画がはじまった。中国語にフランス語字幕の長編映画・・・・。ううっ、キツイ。映画の始まりでは、必死に字幕を見ていると、肝心な映像を見逃しそうでヒヤヒヤした。
しかし・・・・・、だ。主演のレスリー・チャンの演技に救われたのだ。たとえストーリーの詳細がわからなくとも、それを充分にカバーしてくれるほど魅力的な演技。ものすごくハンサムというわけでもなく、オトコとしてみたら、背も低いけれど、“女優”として彼を解釈するなら、それはものすごく味があり、映画にどんどん引き込まれていったものだった。
こんなことを思い出しながら、もう一度ニュースを見てみると、今度は転落死の文字が、自殺に変わっていた。これじゃ、映画と一緒じゃないか?!?!?!、とあらためてビックリ・・・・・・。
私の知っているレスリー・チャンは、幸か不幸かこの一作の映画のみ。「ブエノスアイレス」は未だ観ていない。歌手としての彼のこともよく知らない。だからこそ余計、この映画と、彼の人生の終え方が重なってしょうがないのだろう。
そんなわけで、何故彼がこういった選択をしたのか?、という理由が知りたくなり、日本語サイトだけじゃなく、広東語サイトまで枠を広げ、4月1日の夜は、友人Hが我が家を去った後、一晩中広東語と格闘していた。アル意味私の現実逃避ともいえる。
しかし、広東語・・・・・。だいたいの意味は推測できても、肝心な文法を知らないので、訳せそうで訳せない。漢字の意味も日本語のソレとは違っていることも多々あり、ああ、よくわからんっ!!。たくさんの記事を読んだ割には、ものすごい消化不良・・・・、というより消化不可能(涙)。
こんなことをやっているうちに、夜が明けそうになったので、寝ることにした。夫には、仕事をしていたとイバッてみた。
いずれにせよ、死の原因などは、その本人にしかわからない。たとえ広東語ですべての新聞等を読みこなせても、わかるはずがない。自分の意志で、死に完全に到達しようという行為。こういう選択を自分がしたいと思う日が来るんだろうか?、と漠然と考えていた・・・・・・・。
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