2007年08月26日(日) |
岩波文庫「レ・ミゼラブル」1巻 |
中断に中断を重ね、やっとこさ読み終えた。 ミュージカルには間に合わなかったけど、5分の4は読み終えていたので 間に合った部分もありまして、 より舞台を楽しむことになりました。
この大作をあの舞台はよくまとめているな〜と思いました。 ほとんどダイジェスト版みたいなんだけどね。
***
1巻には私の大好きなシーンがいくつかあります。 バルジャンが銀食器を盗み、それを司祭様に許されるシーンです。 舞台でも、初めてみたときから泣けて泣けて・・ここで泣く人はあまりいないみたいで恥ずかしいのですが。
原作では、そこに至るまでのバルジャンの人間性と世間の風当たりの強さとかが詳しく書かれていて さらに、司祭と別れてからも罪を犯す場面もあります。 簡単に罪をおかしたわけではないし、改心したわけでもない。 そんなことが分かる場面です。
そしてマドレーヌ市長となってから、自分の代わりにバルジャンとして処刑される人物が現れ、それを救いに行く場面があるのですが すごく悩んでいるバルジャンが描かれているのです。 もうすごくいらいらするくらい、揺れ動いているのです。 読みながら「さっさと行け!」と蹴飛ばしたくなるくらいです。 散々、理由をつけたりこじつけたりして、行かないで済む算段を考えるんだけど結局名乗り出るのです。
舞台でははしょってるから簡単に名乗っているように見えるけど(名乗っても地獄、名乗らないでも地獄みたいに歌ってるけど)バルジャンがちょっと人間離れしているようになっているのですが 原作では、ここまで悩みぬいている。 まさしく彼は普通の人間なのです。 いえ、どちらかといえば、過ちを犯しやすい弱い人間だったのです。
私は原作と舞台のあわせ技で、とても良いものを見せてもらったと思いました。
神様が本当にいるとしたら、もしいなくても、自分の生き方を決めるのに これほどの手本はないのではないかと思います。
人生にはいくつもの苦難が起きます。 その人それぞれに、乗り越えられる困難が訪れるといいます。 自分がどうするべきか、考えてもわからない、 楽をしたくて、でもそれでいいのか、何度でも悩むと思います。
それは本当に、当たり前のことなのかもしれないと思えました。 悩まぬ者は死者だけだというのですから。
どうしてこんな目に、とわが身と運命を呪うこともあるけど くじけずに、自分の心を裏切らない決断を下していくことに意義があるのだと思えました。
この作品は本当の名作なんだなと分かりました。
もうすぐ不惑です。 もう15年前くらいに、周囲の友人がこのミュージカルを見てました。 原作ももちろんありました。 でも、全く見る気、読む気が起きませんでした。 子どもの頃のアニメとか児童書で、子どもや女性がひどい目に合うとわかっていたから、辛くなると思っていたのです。
でも、今の私はそうは思いません。 この時にこの本に、舞台を知ることが出来て本当によかったと思います。
2007年08月25日(土) |
月組「MAHOROBA」「マジシャンの憂鬱」 |
宝塚で2大好きな謝先生と正塚先生だから、今回は見に行かないと!と誓ってました。
ショーの部は流れるような演出でダンス大会でありながら日本人なら大抵知ってるであろうヤマトタケルの物語。
トップコンビは円熟の美しさ。 瀬名さんはトップに相応しいなぁと改めて感心。 といいつつ私はやはり遼河はるひさんがいいなぁ〜いつも目に飛び込んできます。
場面としては海の場面のダンスが特にスピーディーで複雑で楽しかったし、椿の舞台装置は電光パネルはエリザとか思い出すけど、こちらのが効果的ね〜
「マジシャン」は久しぶりのコメディで正塚先生らしい!
堅い女性と軽いノリだけどハートあったかな男性が段々距離を近づけてくのね。 ちょっと展開が強引だけど、これは話よりも雰囲気ですな。 皇太子妃役の娘役さんがきれいだったわ〜
先週の土曜日から5回も観劇!!ほんま遊び狂った週だったわ〜
2007年08月20日(月) |
最近、パラ見した本たち・・・ |
→「難民化する若者たち 生きさせろ!」雨宮処凛 太田出版 2007年 他人ごとではない現実がここに・・ 若者(人間)を食い物にしている社会がここに・・ パラパラと斜め読みですが、どこもかしこもなんでしょうが 真っ先に読んだのは著者の弟さんの働いていたY電機の話。 洗脳されて取り込まれたカルト宗教から家族を取り戻すくらい難しい、その会社から弟さんを脱出させるには・・・ 企業の倫理なんて消滅したのね。 Y電機ってあそこよね・・もしそうならCMから降りて欲しいと思いました。 そんな企業の広告塔になんてなら無いで欲しいよ・・ Y電機の娘が交通事故に遭い、死亡というところの周辺記事がまた恐ろしいです。 本当に恐ろしいです。 Y電機で商品を買ったこと無いけど、買ったことなくてよかったとさえ思いました。 安さを追求して恩恵を被ってしまうことが怖くなりました。 これは読みたいです。
巻末の広告の頁にのっていた同作者の「アトピーの女王」も気になりました。 なんだか本当に他人事には思えません。
→「愛され上手になる祗園流・女磨き」桐木千寿 講談社 2007年 こういう本て沢山あるので、柳の下のどじょうは何匹目?と思いつつ、表紙をめくると・・ 美女の写真と「愛されたいと思うばかりの人は愛されません。80点をめざす」と幸せになれます。 と愛されたいばかりの女子を肩透かしするような文が・・w 「女性の品格」といい、相変わらず女性の生き方の難しさか、生き方指南の本が流行るわけですね。 昔から「押してだめなら引いてみな」というのですし。 「愛されたい、欲しい」と思ってばかりじゃ、幸せもドン引きで逃げていくよ、ってことですね。
→「自分ので実験したい 命がけの科学者列伝」レスリー・デンディ他 紀伊國屋書店 2007年 あぶり焼きになった英国紳士たち、袋も骨も飲み込んだ男、笑うガスの悲しい物語・・とまあ 自ら被験者となって、人類に貢献というかどうしてここまで・・と驚愕。 巻末のこの本以外にも続々ある事故実験科学者 たちの偉業が・・ あれ?ピロリ菌を飲み込んだ科学者はないのかな・・・ これも是非、読みたいです。
「ポップカルチャー年鑑2007」 なんだか面白そうだ。
2007年08月17日(金) |
自然淘汰という人もいたけど |
昨日はホームセンターへ行きました。
ホームセンターには巨大なエレベーターがあります。 私たちが乗ろうとしたところ、就学前の男の子をつれた夫婦が降りました。 ところが夫婦は我先にとさっさと降りていってしまい、子供が最後に離れてついていくのでした。
乗り込んだ後に、私たち親子は口々に「無責任な親だな〜」と憤慨。 私たちが乗り込む予定だから、大丈夫だと思ったのかもしれないけど 私たちの行動が絶対とも限らないし、機械も絶対に安全とは限りません。 あの巨大なエレベーターの扉が閉まって男の子がはさまれたら絶対に怪我をすると思います。
そうなってからでは遅いのですが、 本当にのんきな親たちです。 でもこういう大人に限って、絶対に他人のせいにするのだろうね。
他人のせいにして、裁判に勝って、お金を取れても 傷ついたり、失ったりしたものは帰ってきません。
いつもそう思うのですが、そういうユルい親って 危険察知能力がかけてるので、一生わからないんだろうね。 そんな親の元に生まれてしまった子が不憫でなりません。
どんなに気をつけても、避けられない落とし穴があるのに まったく気をつけないで、わかりやすい谷底のふちを上見て歩く人もいる。 仕方ないことなのかな。
あと、私は占い師の弟子でもあります。 四柱推命や気学を主に扱っています。 これが、また宗教と同じスタンスで、どこか引いた目で見ながらやるという複雑なことになっています。 この若さで、全てを宗教や占いに委ねるにはどうしても抵抗があるからです。 神秘主義者とか非科学的なことを妄信する人は、私にとってかっこいいことではないからなのです。 でも、占い師である・・・。言ってることとやってることが全く違うという事実ですよ。
そんな矛盾を抱えながらやっているのは、自ら占いを用いてみて、役立つことが多いのです。 神秘というより、実用に向いています。 そして、それで実際に自分や友人が楽になることがあるのです。
それは、普段から、楽しく心地よい生活をしようと心がけているけど、アクシデントがあってうまくいかない。 占いを使う。そしたら今は、たまたま悪い時期なのだとわかる。この時期を抜ければよくなる。と納得する。 それでもうまくいかない場合は、神頼みといえば言葉は悪いけど、人間の力でじたばたしても仕方ないと諦めるが肝心です。 今、何か困難があっても、それは必要な困難なのだからと、きっと乗り越えたら、自分にとってよいことになると思うのです。
実際、お客さんで日常では考えられない困難が起きて相談しに来る方がいます。 占ってみると、その方にとって衰運の時期だと判明します。 そしてその時期を過ぎたら好転すると予想します。 それで、ひとまず待ってみようと、短気を抑えるわけです。 そして、時期が来て本当に解決したりするのです。 これで私の占いがよく当たる、とお客は喜び、これからも 何かあったり困った時は私に相談しようと考えるわけです。
でも、私の占いがよく当たる、というのは実はちょっと違うと考えているのです。 このお客さんは、自分の運に従って、私と出会い、行動したと思います。 世の中にはいろんな人がいて、運勢どおりに歩んでいる人もいればそうでない人もいます。
運勢どおりの人は、鑑定しやすいし、結果も出やすい。そうでない人はそれなりに。 運の良い人が、ピンチのときに、自分の運の命ずるままに助けを受けにやってきたのではないか 悪い考えや行動に取り付かれそうになったそのときに、 日ごろの行いが良いとか、神様の力か先祖さんに守られているとかで 悪い行動に足止めがされたのではないかと思います。
そんなことを考えたら、私の占いがどうこうではないのではないかと思えるのです。 私は通過地点で、ショートカットなのかもしれません。 自分を救うのは自分だけ、これも以前から納得して思ってることです。
そんなわけで宗教にはいっても、よく当たる占い師にみてもらっても、人生は変わらないと思われます。 自分を幸せにできるのは、自分の行い、考え方からだと実感するのです。 それ以外のことは、全て補助であり、自分がどう生かすと思うのです。
ちょっとわかりにくいかもしれないけど、私はここ10年間でそんな考えが浮かんできました。
+++
占いに限らず、私はおこがましくもいろんな方にいろんなアドバイスを送ることが度々あります。 それを実行して、上手くいったと、感謝されることもあります。 逆にアドバイスを求めるだけは求めて、何も実行せずにいる人や私に哀しい思いをさせる人もいます。
そのたびに実感するのです。 人は自分で自分を助けているのだな〜と。 決して私の力なんかではないのだと。
どの人にも同じように、助けの手や勉強のチャンスが訪れるのですが、 その時に、補助の手や知恵を受け取れない人もいるのです。
(私のアドバイスが絶対に正しいわけではないので、 私のいう事が間違ってると判断して、右から左へ受け流す人もいるでしょうけど。)
神様を信じることや良い心がけでいるように努力することは ピンチや危険のあるときに、それを逃れる知恵や助けを得るチャンスを引き寄せる行為なんじゃないかと思うのです。
不思議な偶然や人との出会い、それはどこから来るのかと考えたら、それしかないな〜と思うのです。 そして幸せとは自分の思い通りに全て行くことではないということを忘れないでいれば間違いないと思います。
2007年08月14日(火) |
喪男の哲学から信仰と占いまで |
「喪男の哲学」を読み進み、この本に書かれているキルケゴールとかニーチェなど過去の哲学者やが神について語ったことは、すごく納得できるな〜と思いました。 前の日記にちょっと書いたように、「○○に萌えれば萌える程、○○に萌えない人を打ち倒したくなってしまう、という悪循環にハマった」というようなことです。 先駆者は常に、集団を嫌っているのに、いつのまにか自分がそのカリスマに持ち上げられてしまい、皮肉な結果になってるという部分です。
ところで、私は祖母の信仰にしたがって特定の宗教の信者ではあります。 が、自分でも本当に信者なのか?と時々疑います。 それは、ほとんど宗教活動らしきものをしていないからです。 それでも、その宗教には「それもまあいいじゃないか」という雰囲気が漂っています。 私にとっての、その宗教の良さは「押し付け」がないということでありました。
ただし、私の周辺だけで、私の知らないところでトンデモナイ人がイケてないことをやってる可能性はあるんですが・・ ある特定の人を集団のサンプルにしてしまうのは愚かしいことです。 それはある国の人を一人しか知らないのに、その人をその国のイメージに限定してしまうことですよね。
そんなイメージの恐ろしさを書いておきながら、私の宗教に対するイメージもステレオタイプでお粗末です。 例えば、どんなに寒くても暑くても苦行のように布教してまわる。 どんなに迷惑がられても、いかにこの教えがすばらしいかをひたすら説く。 困っている人に、この宗教に入れば助かると入信を薦める。 この宗教に入ったら、奇跡的に難を逃れたことを売りにする。 といったところでしょうか。
そんな私ですが、祖母の入信した経緯はとても自然で、それまでの宗教のイメージと一線を画しています。 祖母はとても困難な状況に置かれているときに、近所の人で、同じように困難な状況に置かれているのに いつもほがらかで、楽しそうにくらしている人を知っていて、ある日、その理由を尋ねたら その信仰のおかげだ〜ということを教えてもらったそうなのです。 そして、その宗教は「どんな教えなんですか?」と尋ねられたら 「どうぞ私をみてください」ということだそうです。
ある意味、究極に理想の世界です。 私ももし、そういう質問されたら、そう答えたい。 しかし、私は質問もされないし、未だ「私を見て!」などとはよういいませんでしょう。
そして美輪明宏さんの本を読んでいたら「信仰と宗教は別物」と書いていました。 その時も、私はなるほど〜っとものすごく納得したのです。
+++
集団になり、何かに価値をもたせる行動になると、それはもう自分と神様との対話とはズレが生じます。 神様の教えを忠実に守るよりも、人間社会のルールやしがらみに身動きがとれなくなるのです。 実際、祖母の信仰している宗教内でも集団になれば、それはそれでいろんなルールがあって つい「それって人間が勝手に考えたんだしぃ〜神様はそんなことこだわらないと思うよ〜」とつい思ってしまうのです。 そんな私は、ある特定の宗教の信者でありながら、どこかその宗教の集団には属せない半端ものなのでしょう。
この世の現実と折り合えない部分、葛藤などが生じたときはどうするか。神に代わるものはあるのか。 キルケゴールもニーチェもその答えを明確にできないままだったそうです。 「信仰とは人間個人が自分を救うためのものだ」と語った人物なのにです。
自分の中の良心、プライド、心地よいもの、美しいと思えるもの、それを裏切らないように生きること。 私が信じている宗教の神様がすすめる生き方は、私が理想とする生き方そのものです。 私はまだ未熟でいたらないので、その行動をするのには全然程遠いのですが 間違いそうになったり、おかしくなったときに、ニュートラルに戻れるというのはやはり信仰があるからだと思います。
それに、神様が「やるといいよ」という事が全て出来ていたら 宗教に入る必要はないかもしれません。 神様が必要だから、こその宗教・信仰活動なのでしょうから。
世の中には集団の中で、自分を高めていける人もいれば、 個人で自分を高める努力をするのが向く人もいます。 私は後者なのでしょう。
+++
でも、徹頭徹尾個人なのではありません。 私は祖母、母、私と3代目なのですから。 祖母が種を植えて、それが着実に育ち、次世代へ受け継いでいるのです。 初代でできなかったことが、二代目では頑張ってやれるようになり、三代目では簡単に出来たりするのです。
前人未到のことをやるのは大変ですが、周囲で、親しい人がやってることは当たり前のようにできるのですから。 つまり、祖母の代から、「よりよく、楽しく、生きていく」ことを心がけている家庭に生まれた私はとても恵まれていたのです。 だからこそ、集団の中にはいって頑張らなくてもすんでいるのでしょう。
でも、それもキルケゴールやニーチェには救いにならないのかな〜 私は何に救われているのでしょうか。我ながら不思議です。
デカルト、ダンテ、ゲーテのようにやはり萌えの世界に行っているからなのかとも思う。 現実の世界で、モテない、あるいは理想の男性が現れないから、二次元に行くという図式ですね。 しかし、完全にその世界に行ってしまってるわけではないし、ちょっと中途半端。 女の身ではちょっと難しいのかな〜?
しかしうすうす思っているのは、セルフコントロールの世界かもしれません。 私は私が思うような自分であり、行動したりできたときに喜べます。 それはすごく些細なことでかなくてもです。 朝6時に起きれて、ゆっくり音楽を聴きながら読書をする。 新しいジャンルを知ること。 自分がしたことで、他人に喜んでもらえること。
自分と他者との共存、そしてバランス。 これがうまくいくととても気持ちがいい。 これは、二次元の世界に行ってしまったきりではできないことです。 これは、ステレオタイプで申し訳ないけど、おしゃべり好きな女性のが有利かもしれません。 でも、もしかしてこれって「俺萌え」なんでしょうかね〜
続く
2007年08月12日(日) |
当たり前にやってもダメだったとき・・ |
HP新書の「女性の品格」装いから生き方までをパラパラ読み。 どっかの書評で、「当たり前の事しか書いてない」という感じの感想を見ていたので ま、その通りです。 でも、その当たり前の事が当たり前でない世の中なので 当たり前のことを書いている本が本として成立するわけですわ。 そして当たり前の事を当たり前にやってのける人にも価値があるわけですね。
実際世間には、話し方、服装、メイクなどをとってみても、 その辺り優等生ではない私からみても、なんじゃこりゃ〜!という人々で溢れている。
若い子の勘違い〜いつかはわかるよ〜的なものもあれば おばちゃんはもう女を捨ててるんだね〜 これは見てみぬ振りをしてあげなくては・・という感じまで幅広いのですが どの時代なら、この「女性の品格」にある当たり前の人が沢山生息していたのでしょうか?
人は見た目が90%、それは美人ということではなく、服装、振る舞い、話し方から判断される。
そんなこと、小さい時からわかっていましたよ。 だって、きちんと挨拶できたり、服装もちゃんとしていたら、大人のウケがいいんだもん。 影でルール違反をしても、勉強ができなくても、その大人のツボさえ抑えておけばお咎めは少なかった。
あからさまに態度も外見も乱れているし、ルール無用で、勉強できないと これでもか、これでもか!と大人たちに咎められる。 私は、この子たちは、わざと大人にかまって貰いたいからやってるのかな〜とも思っていた。奇特だ。 きっとそうだ〜愛情に飢えていたんだねw
でも、どちらにしてもそれは大人未満ならどちらもOKな範囲です。
話はズレたけど、一見窮屈そうですが、この本のいうように、当たり前のことをちゃんとしているほうが私は楽でした。 当たり前のことを避けて、人が眉をしかめるようなあらゆることをやっている人こそ、肝が据わってる気がします。 自由で、怖いものがない。失うものは何も無い。あと自分を大切にしなくてもいい、つまり捨て鉢? そんな感じ。たんなる考え無しの場合のが多いのでしょうけど。
以前、ガングロメイクの女性が「男の視線から自由になれる」という理由から そうしているのだと本で読んだことがありますが、とても納得して、とても哀しく、共感できました。
当たり前に振るまって、それでもダメだったときの恐怖を避ける装置でもあるのかもしれません。 この本の通りにやってもダメなものはダメなんだということもあるということ。 そんなことは無い、そう思いたいです。
概ね納得できたけど、一部はどうしても無理、できたらそれは聖人の域では?と思えた それはグチを言わないこと。会社の悪口も言わない。私には無理w
どんなに親しくしている友人ても、いつ何時仲たがいをするかわからないので、 話されたらまずいことは言わないでおきましょう〜とありました。 まあそうなんだけど。
私は基本的に、なんでもあけすけにものを言います。 あまり親しくなくても言っているかもしれませんw
私が誰かの悪口を言って、それが相手に伝わった場合に困るような悪口は言って無いつもり。 悪口ではなく、本当の事を言っているだろうし、第三者に言う前に本人の前で言っている。 ま、申し訳ないけど、私の前で「あ〜しまった」という事をした場合、ネタに使われてしまうのを覚悟で。
私も最初の頃は、他人の失敗、というか困ったな〜と思った点を他人に言うのはどうかな〜と思っていたんだけど 私の場合、それを例として、同じ失敗を繰り返しすほかの人に有効なので、使います。 でも、その場合、全く知らない人の場合が多いから、問題ないのかな〜。
あと旦那の悪口も言わないほうがいい、それを言ったら、「そんなイヤな人となんで一緒にいるの?別れたらいいのに」と思う〜 とかありましたが、そんな簡単なもんじゃないのにな〜と思えました。 会社もいやなら、転職しろ、と書いてあったけど、それをできないのは自分の能力がないからだ〜って ま、本当にごもっともなんだけど。勝者の論理だな〜
それができないから、グチをきいてもらってなんとか治めるんじゃん! だし、そんなこと真に受けて、離婚したり、転職して、生活が立ち行かなくなる人が続出したら大変だ!
2007年08月07日(火) |
「たしかな目」9月号 |
http://www.kokusen.go.jp/book/data/me-200709_1.html この雑誌は常にアグレッシブで頼もしいのですが こんにゃくゼリーの危険性について詳しく書いてありました。
その前に8月号から続いているので、そちらを先に見てみたら 事故の事例では、スプーンで小さくして、高齢者や子どもに食べさせていたのに 喉につまり死亡というのが載っていたのです。 てっきり丸ごと食べることが危険だと思っていたのですが、浅慮でした。 こんにゃくゼリーは水では溶けにくいので、危険だったのです。 EUではこんにゃくをゼリー菓子に添加することを禁止したそうです。
8月号はミネラルウォーター特集が気になりました。 フランスから輸入した一部の水以外はミネラル補給にとくに有効ではないそうです。 水道水と比較した表がのっていました。
ペットボトルで売られている水は、輸送にエネルギーを使っています。 おまけにペットボトルがゴミになります。 それを考えたら、不経済な上に、環境にも優しくないということが書いてありました。 あと地盤沈下の事まで書いてあった・・
最近、輸送コスト、輸送エネルギーについて考える記事が目立つので 野菜とかなるべく近場のものを食べたほうがいいのかな〜と思ったのですが 水などはとくにそうですよね。 六甲のおいしい水くらいはいいのかな〜
2007年08月02日(木) |
本「下流志向 学ばない子どもたち 働かない若者たち」 |
内田 樹 講談社
下流〜て言葉が擦り切れるほどアチコチで使われているので、またか〜と思うかもしれないけど この内田樹さんが書いているのなら、それは別です。 雑誌やほかの本でも、常にマークしています。
そしてもう読みたい本が沢山すぎてこの本もご他聞に漏れず、斜め読みです。 でも、でも、その斜め読みですら「あ〜そうよね」と思える箇所がバンバン出てきます。
ここから私の最近思ったこと。++++++
メモなどを取ってないので、不確かな話になることをまず断っておきます。 先日、既婚者の男性が10代の女性と不倫したのだが、それは恋愛であるから罪に問われないという判決だったと思います。
恋愛だから、いいのか〜?と私は腑に落ちませんでした。 本人同士が恋愛といいはってるのだから、いいじゃないか、と思える部分もありますが 私の中では、恋愛を咎める気持ちではなく、 若い人の知識と経験の足りなさが問題で、恋愛だからいいと言い切れなくしているのでした。
既婚者と恋愛、つまり不倫をしたら、妻は不倫相手に慰謝料を請求できたと思いますが 成人もしてない女性は、その事を知っていて恋愛をしたのでしょうか。 もちろんそれだけじゃなくて、年も離れた既婚男性と不倫をすることのリスクとか、 全く無知なのではなかったのかと疑問が浮かびます。 愛があればお金なんて!とか若い時はいいますから(私は言わなかったけどw) リスクなんて全く問題無い!と思ってるんだろうな〜とも。
この私の疑問は、この事件の当人同士の気持ちとか、結果オーライだとかを問題にしてないです。
若いってすばらしい〜と思えることもあるけれど、 自分が年齢を経て思うことは、若いってすばらしいけど、その代わり危険もいっぱいだな〜ということ。
私のように用心深い人間ですら、10代から20代にかけて、無謀で危険なことが沢山でした。 よく無事に今まで生きてこれたよ、やっぱ運がいいんだな〜と思える。 親や周囲の大人の気持ちもやっとこさわかるようになってきたよ。忠告や心配を面倒だと思ってごめんとも。 (もちろん親ではないので、本当に親の気持ちはわからないとは思うけど)
だから、好きだから〜と妻も責任もあるいい大人が、ほとんど無知といっていい子どもを巻き込む。 そういう好きってなんだろう〜?その男性は、2人の女性の人生を台無しにするかもしれないのにお気楽でいいな〜と思えた。
もちろん、若くない人も無自覚で、無責任で、どうしようもない人は沢山いるので 恋愛したことを責められるのは不本意かもしれませんが・・・
でも、やはり「好き」という感情を美化して、何にも知らない子どもを巻き込むのは罪には問われなくても、罪深いな〜と思えたのでした。
くどいようですが、相手の女性が「私がいいっていってるんだから、いいのよ、ほっといてよ」と言うとしても無関係です。
+++++
「これを勉強することにどんな意味があるのですか?」と問い、自らの判断で勉強を放棄する子どもがいるという話が載っていました。 自分で価値が認められないと、その子どもは判断して、ろくに計算もできない、字も読めないまま年だけ取っていくのです。 これが子どもに課せられた自己責任だとしたら、本当に恐ろしい。
若さのみに、絶対的な価値を置き、もてはやす。 そして個性的なこと、人と違うこともすばらしいと錯覚させること。
どこからそんな道筋ができてしまったのかと思う。
狭い世間しかしらない、なんの経験もないのに、子どもに選ばせる、判断させるって怖いことですよ。 何でも親が決める弊害もあるけど、なんでも子どもに決めさせる害もあるってことですよね。 もちろんまっとうな親なら、そんなことは言われるまでもなく知ってるはずですが。
子どもを育てる、教育すること。 これは本当に辛く地道で終りのない作業だと思います。 それは工場の製品でない、1つ1つ特別なものだからです。
子どもに選ばせない、子どもにまかせっきりというのは、その辛い作業から逃げていいのかと思います。 何でも子どもに決めさせる、何も子どもに決めさせない そんなことをしている大人は、その辛さから逃げて楽をしているのだと思います。
現代は、何もかも便利でで、子育てくらいしか、地道で我慢を強いられることは無いんじゃないでしょうか。 (何かを育てることをしている人は別です) 自分でも作らなくても、既製品があふれている世の中。 子どもは既製品ではないのです。
この本を(斜め読みですが)読んで、そんなことを思いました。
|