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2004年08月14日(土)

こんばんわ。ゆみなです。

先日、ひさしぶりにるるの日記を読んだ。
あの日記を読んで分かるように、最近るるが抜けていたのはお父さんの看病があったからだ。
「しばらくはお父さんの看病に専念したい。」というるるの意向を受け、
あゆと私は「大丈夫だ。りゃ!は抜かりなく更新しとくよ。任せておけ!」と胸を叩いた。

本音を言えば、いつも読んでくれる皆様方には申し訳ないが、ここ数日の私たちの日記はるるの為に書いていたようなものだ。
看病に頑張っているるるの気持ちを少しでも和らげることが出来れば。
精神的にほんの僅かでも笑いで潤えれば。と思って書いていた。
先週のるるが書いた日も私は
「さぁ。今日はどうやってるるを笑わせるかな」と考えながらパソコンを立ち上げたのである。
すると、そのるるが書いていたではないか。
お父さんも危篤状態を脱し、るるの気持ちの中にも皆さんに報告できるほどの落ち着きを取り戻したのだと、あの日記を読み、一安心した。

私は常々「奇跡」はあるものだと信じている。
あるからこそ、「奇跡」という言葉が存在するのだ。と。

そのことが、あの日記を読んで実証できた気がする。
るるのお父さんは、身をもって「奇跡」を体現したのである。
そして、お父さんが体現できるまでに頑張れたのは、やはり家族の愛情だ。

私は今まで「奇跡」は「ある」ものだと思っていたが、そうではないのかもしれない。
「奇跡」とは自然に起こるものではなく、家族の愛情、献身的な努力、強い願いによって「創り出す」ものなのだと思えてきた。
るるたち家族は、お父さんに「奇跡」を与えた。そしてお父さんはその「奇跡」をしっかりと受け止めたのである。
素晴らしいほど強い絆で結ばれた家族である。
家族の絆をこれほどまでに強く固めたのは、他でもない大黒柱であるお父さんの力であろう。

私は一度だけ、るるのお父さんに会ったことがある。
その時はすでに病気に罹っていて、私はそのことを知らされていた。
しかし、お会いしたときのお父さんは、そんな大病を患っているようにはまったく見えず、とてもお元気そうであった。
一時退院を許された時期ということもあったが、お酒も嗜み「旨い。旨い」と何度も顔を綻ばせていた。
私が「お父さん、もう一杯飲みませんか?」と勧めると、まるで少年のように、
るるの顔色を伺いながら「飲みたいねー。」と誘いにのった。
るるは母親のように「しょうがないわね。でも美味しいんだから、まぁいいか。」と、身体を気遣いながらも笑顔で了承していた。

私は父とお酒を一緒に飲んだ思い出がないので、その時のるる親子の光景が羨ましかったものである。

そのお父さんが、また入院すると聞いたときは、胸が抉られる思いがした。
もしかしたらもうお父さんとお酒を飲むこともなくなってしまうのではないか。と不安が過ぎった。
るるが看病に専念したいと申し出た時も、
「ずっと専念しろ。専念し続けて、お父さんが助かるのならずっとそうしてろ。」と思ったものだ。

あゆと私だけの日記はやはりなんとなく寂しいものだったが、それでもるるが帰ってこないうちはお父さんが頑張っているのだ。と自分に言い聞かせた。

しかし、るるは書いた。
きっと、パソコンを立ち上げ「いれぎゅりゃ!」のことを考えられるほどに気持ちに余裕ができたのだろう。
裏を返すと、あの時の「奇跡」は皆さんに報告したくなるほど嬉しかった出来事だったに違いない。



けれども、奇跡は続かなかった。
るるがあの日記を書いた三日後の8月8日。お父さんは旅立たれた。

その日の3時頃、携帯にメールが来た。
るるからだ。

「今日のお昼過ぎ、父が亡くなりました。今まで励ましてくれてありがとう。」

信じられなかった。
何度も何度も携帯メールを読み返した。
だって、三日前に奇跡を起こしたばっかりじゃないの!
るるも日記を書けるまでに落ち着いたはずだったじゃないの!

なんと返信していいものか言葉が見つからなかった。昼過ぎというと亡くなってからまだ3時間しか経っていない。
おそらくるる本人も現実を受け止める事が出来ていないのかもしれないと思った。。
今、どんな言葉をもってしても、るるをこの悲しみから救うことはできないだろう。



正直いうと今回この日記を書くにあたってかなり迷った。
こういう内容はるる本人から書くべきことなのではないかと思い、私はなるべくいつもどおりの「いれぎゅりゃ!」を書いていこうと試みた。
しかし、無理だった。
何行か書いても、どうしてもるるのお父さんのことが頭に浮かんでしまうのだ。
お父さんが亡くなったことを知っているのに、そのことを無視して何事もなかったことのようにいつもどおりの日記を書くということは私にはできない作業だった。
それにそれは、前回のるるの日記にまったく触れずに書かねばならないということでもある。
私はるるのお父さんの存在が自分にとってもかなり大きくなっていたことに気づかされた。


私の父も一年半前にガンで亡くした。
最近になって感じることなのだが、


父は亡くなったけれども、無くなってはいないのだ。ということだ。


何かあるたびにいつも父の存在を思い出すのだ。
きっと生きていれば考えなかったであろう状況の時でも、
「もしかしたら父が助けてくれたのかもしれない」
「父がそばにいるから今の苦境も乗り越えられるに違いない」
と常に父と共に歩んでる私がいるのである。


私は思う。

お父さんはいるのだ。
いつも。
そこに。


2004年08月05日(木) 入院、そして

おひさしぶりです。るるです。
7月は一度も書けませんでした。
というのも、私の父が入院してしまったからです。

父は所謂がんを患っていて、すでに告知もされています。
「あと半年」と言われた期限をとっくに過ぎていても、なぜだかそんな気がまったくしなくて、父がこの世からいなくなるなんて考えられなくて、
親不孝者の私は、ただただのほほんと毎日を送っていたのです。
でも、父は確実に体力気力とも衰えていきました。
今回の入院は、その限界にあると感じての緊急入院でした。

その日から私は毎日、病院に通いました。
父の手を握るなんて、何十年ぶりのことでしょう。
点滴の管をつけられて、うつろな目をして、ベッドに横たわっている父は、私の知ってる大きくてバイタリティーあふれ、厳しく温かい父とは別人のように見えました。
強いお薬の影響なのか、意識もはっきりしない父。
でも、時々すごくはっきりするようで、苦しそうな顔をして父は

「おれは、一体なんの役に立っているんだ」

と言いました。
父は歯がゆかったのだと思います。
家族を大事にし、仕事に励み、常に正直に懸命に生きてきた父にとって
退職し、病気をかかえ、一人で身動きできない体になりつつある自分自身が
歯がゆく辛かったのだと思います。

私は
「お父さん、いてくれるだけでいいのよ。
家族なんだから。家族ってそういうものよね?」

そう答えるのが精一杯でした。
父は悔しそうとも泣きそうともとれる表情をして、そして、またうつろな表情に戻ってしまいました。

父の気分がよさそうな時に、私は父の伸びた髭を剃ってあげました。
頬骨の出てしまった頬に生えた、白髪のたくさん混じった髭。
いつのまに、こんなにおじいさんになってしまったの?

父の容態は少しずつ良くなっているように見えました。
ところが先月末、急変。危篤状態になってしまったのです。
その日は母、私、兄、弟が一晩中ついていました。
翌日は続々と、まさに最期のお別れを言いに親戚や知人が訪れました。
そしてその晩も私たちは一晩中、父のそばにいました。
それからも交代で必ず誰かしらが父のそばにいるようにしました。
入院の日から毎日ずっといる母のことも心配でしたが
母は父のそばから離れることはありませんでした。

そして、父は奇跡的にもその危篤状態を脱したのです。
とは言っても、「これから一週間は予断を許さない状態」と言われ、
私も母と一緒に病院に泊まって、通じてるかどうかわからないけれど、父を励まし話し掛け、体の向きを変えたり、痰をとったり、足をさすったり、思いつくかぎりのことをしました。
そして、昨日でその「予断を許さない一週間」も終わったのです。

昨日、主治医が、「とても落ち着いた状態にまで戻りました。ご家族の皆さんのお力です。」と言ってくださいました。

もちろん、末期がんには変わりはないのですが。。
父はすごくがんばってくれているのです。
私たち遺されるであろう家族に、こういう時間を作ってくれようとがんばってくれているのです。
私自身、少し落ち着いたので、近況報告をさせていただきました。
今回、ほんとに思うところ、たくさんあって、
一つ一つ、言葉にしていきたいと思ってはいるのですが、
それはまた、ゆっくりと。。






2004年08月04日(水) 屈辱

昨日のアジア杯のサッカーに感動のあまり大笑いしてしまったあゆです。こんばんは。

ゆみながベッドから落ちたそうだ。
私は残念ながらベッドから落ちた経験はない。
体重も落ちない。
そのせいで言いようのない屈辱を味わってしまった。

先日、知人のカメラマンさんから電話があった。

「あゆさん、モデルになってくれませんか?」

私は冗談のつもりで答えた。
「それって使用前のモデル?」
するとカメラマンさんはマジ声でこう言った。
「あ、やっぱりわかった?ダイエットローションの広告の写真を撮りたいねんけど、俺のまわりには腹の出ている女性がおれへんねん」

私はムッとした。
確かに会社にいたころはもちろん、今でも時々このカメラマンさんにはお世話になっている。
しかし、「おめえはデブなんだよ。美人だけど」と面と向かって言われているようなもんである。
いくら私が温厚でもこの発言には怒りを感じた。
私はカメラマン(←呼び捨て)に言い放った。
「お世話になっておいて、アレですが、ずいぶん失礼な方ですね。
言っていいことと悪いことがあると思います。
私にそんな大役がつとめられるでしょうか?」

ギャラも少し出るということで私は喜びいさんででかけていった。

説明を聞くとローションを塗る前の腹の写真とローションを塗っているところ、専用ニッパーをつけているところ、使用後の腹の写真を撮らせてくれということだった。
顔は写らないらしい。普段の4倍もファンデーションやマスカラを駆使した化粧は無駄だった。英語でいうところのin vainだ。

私は早速セパレーツ型のフィットネスウエアに着替え、撮影に臨んだ。
ダンナ以外の人に肌を露わにすることなど今までなかった。筈だ。多分。
しかし、小ガネに目がくらんだ開き直った私には怖いものはなかった。
たぷんとした腹を出し、カメラに向かってポーズをとる。
顔は写らないというのにニッコリ笑う自分がいとおしかった。
次にローションを塗るポーズもとどこおりなく撮影し終えた。
...か、に思えた。
実はここに1つ誤算があった。
前に書いたことがあると思うが、
私はダンナに
「オマエの手は荒くれ男の手だ」といわれるほどゴツい。
撮り終えた写真を見ると
まるでオッサンが妊婦の腹をなでまわしているように見えるのだ。

カメラマンさんと私の間に気まずい沈黙が流れた。

次の瞬間、私は叫んだ。

「やっぱり私、できませんっ!」

しかし、カメラマンさんはこともなげにこう言った。
「いや、修整するから大丈夫。」


「じゃあ、何もホンマもんのデブを使わんでも、モデルさんの写真を修整して小さいお腹を大きくしたり、大きいお腹を小さくみせたりも簡単なんじゃないんでしょうか? 」
私も女だ。意地ってもんがある。私の素朴な疑問をぶつけてみた。ローションだらけのお腹の中で。意地が目先の小銭に再度勝った瞬間であった。

ローションをつけたあとニッパーを腹に装着して30分後。
私は不安だった。
ローションを塗るとお腹がしぼむという話(ただし効果は一日だけ)だが、
もし効果が現れてなかったらどうしよう。
ギャラもらえるのかな....。そっちかよ。

おそるおそるニッパーを外す。
うーーーーん。微妙。
私はカメラの前で思いっきり腹に力を入れた。
ゆみなのように人前で屁をこかないように注意しながら。

「あゆさん、お腹すごくちっちゃくなってるよ!」
カメラマンさんが私のお腹を見て言った。
その大仰な言い方はまるで自らを鼓舞させるような感じにもとれた。

そんなこんなで私の屈辱の半日は無事終わった。
ギャラ、いただきましたぜ。
フィットネスウエアもいただきましたぜ。
あと、ざるそばも。

デブは身をたすく。

あ、私、明日から10日ほど帰省しますんで。
夏休み、いただきます。
ゆみなとるるにはまだ言ってない。









2004年08月02日(月)

あゆに指摘されるまで名乗るのをすっかり忘れていたゆみなです。
読み返さずにアップしたのがバレバレです。

あゆは天かすをつまみにビールを飲んでるらしい。
さすがに日本で二番目の貧乏人は違う。羨ましい。
私なんか歯に挟まった食べかすをつまみにビールを飲んでいるのだ。


さて本代だ。払ってどうする。本題である。
朝起きたら、ダンナがびっくりしたように私の顔を見て、言った。
「どうしたの?その顔。」
私はてっきり一晩のうちに顔が藤原紀香になったのかと思い、鏡を見た。
すると紀香にはなっていなかった代わりに頬に赤い痣のようなものが出来ていた。
そういえば目が覚めた時から「なんとなく顔がヒリヒリするな」とは感じていた。
もしかしたら日頃の鬱憤がたまっているダンナが夜中に殴ったのかもしれない。第一発見者が犯人だったというのはよくあることだ。
しかしダンナは
「おまえさ、昨夜うるさかったよな。」と言って来た。
もしかしたら疑われ始めてることに気づき、話題を逸らそうとしてるのかもしれない。
ますますダンナに対して疑念を抱き始め、そのことを口にしようとした瞬間、
「ほんとびっくりしたよなー。」と感想まで言い始めた。
”まさかこの年になって、そんなことがあるはずがない”と無意識に否定してきたつもりだったが、ダンナのその一言で現実を突きつけられる結果になった。
そうなのだ。
私は夜中にベッドから落ちたのだ。
40過ぎてベッドから落ちるなどということは、二十歳すぎておねしょするのと同じくらい恥ずかしいことだ。
これが、80歳過ぎていたなら、「よくあること」として処理されるだろうが、20歳から79歳までは「まだ恥ずべき事」として見なされるだろう。
一説では13歳以上という説もある。

元々寝相の悪い私は普段から夜中中(注:「よなかなか」ではない。「よなかじゅう」と読む。また「よる、なかなか」と感想を述べてるわけでもない)ゴロゴロしていて、しょっちゅうダンナを蹴ったり殴ったりしているらしい。しかし、自分自身に被害が及んでいないために大して気にも留めていなかった。それでなくても私の場合、昼間でもゴロゴロしているので「私って24時間ゴロゴロしてるんだな」程度にしか受け止めていなかったのだ。
それがとうとうダンナとは逆方向にゴロゴロしてしまったために床に落ちるという最悪の状況に陥ってしまった。
不思議なことに落ちる寸前までの記憶はまったくないのだが、落ちてる最中のことは鮮明に覚えている。
ベッドの右側から体勢を崩しながら「あっやばい!」と思ったのと壁や天井がぐるぐる回っていたのが同時だった。その瞬間は時間にして僅か数秒だったのだろうが記憶の中ではスローモーションシーンとして残っている。
ほんの少し、窪塚に近づいた気がする。

落ちてからの私の行動も素早かった。
誰も見ているはずもないのに慌ててベッドに駆け上っていた。おそらく無意識に「恥ずかしい」という感情がわいたのだろう。
高貴な人間というのは、いついかなる時も誇りを失わないものだ。

きっとその時についた傷がこの赤い痣に違いない。
芸能人は歯が命。人形は顔が命。と言われるが、私の場合芸能人でも人形でもなかったので、歯も顔も命ではなかったらしい。

鏡の中の自分の顔をみているうちに、だんだんと痛みが増してきてすべてに腹が立ってきた。
ベッドが小さいからこんな目に合うのだ。とダンナに窮状を訴えた。
するとダンナはポツリと呟いた。







「いや。お前がでかくなっただけだ。」







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