enpitu


RSS配信β版
   Written by なお。
◆日記『心地よい孤独。』◆
孤独はいいものだということを我々は認めざるを得ない。
しかし、孤独はいいものだと話し合うことの出来る相手を持つことは一つの喜びである。
byバルザック
lll ホーム lll lll 本棚.org lll lll メモ帳 lll lll 未 来 lll lll 過 去 lll lll 目 次 lll


2005年07月28日(木)
「ナチュラル・ハイジーン」の効果検証。


ここ1週間くらい「ナチュラル・ハイジーン」を実践しておりました。すでに有名な方法でありますが、軽く説明しますと、ナチュラル・ハイジーンとは、

1.午前4時から午後12時までは排泄の時間なので朝食はフルーツと水のみ
2.午後12時から午後8時までは消化の時間なのでしっかり食べる
3.ただし炭水化物と蛋白質、または炭水化物と脂質を一緒に摂らない
  (消化にかかる時間が違うため、消化の遅い方食べ物が体内で腐敗する)
4.午後8時から翌朝4時までは吸収の時間なので何も食べない


という感じで、体の目的(排泄・消化・吸収)に合わせた食事を時間ごとに摂取する方法でありますです。で、結果として、けっこう身体も軽くなった感覚がして、気分も良好だったのです。

が、、、、。実は、今日の夜、上の「3.ただし炭水化物と蛋白質、または炭水化物と脂質を一緒に摂らない」という原則を破ってしまったのである。。つい周囲のムードにつられて、ウナギとご飯を一緒に食べてしまったのである。。

そしたら、食後に、すごい胃痛が。。。で、痛みが治まってから、少し調べてみたので、ちと引く。

http://health.nikkei.co.jp/navi/drug/stomach.cfmより。

胃痛は、迷走神経という胃を支配する交感神経の刺激で放出されるアセチルコリンが、胃の運動(蠕動(ぜんどう)運動)を活発にしたり、胃酸の分泌を高めることで起こります。胃痛の原因を取り除き、鎮痛鎮痙(けい)薬や鎮痛鎮痙効果のある成分が配合された総合胃腸薬を服用すれば、数日で痛みは治まります。


要するに、わたしの胃は、「ナチュラル・ハイジーン」の実践によりリラックスしていたところに、刺激物であるウナギとご飯が投入されたことで、胃の運動が急激に活発なり、胃酸の分泌が高まってしまった。よって、私自身はその胃の活動を「痛み」として感じた、ということらしい。。

ということで、胃が痛かったのは事実だけど、どっちにしろ、「ナチュラル・ハイジーン」は、凄まじい効果がある、という点だけは確かであるよ。実践する方は、くれぐれも「原則」を守って下さいなw。守っている限りは、ホントに快適に生活できまする。。

2005年07月24日(日)
「突き抜ける♪」ために。


以下、ここ何週間かの短いほざきを、まとめて箇条書き。


★ スピードアップするために、心理をどうリキャストしていけばいいのか、について。これこそが一番のポイントなのであるが、全然なってないなぁ、ふむ。。今後の課題。


★変化させたいものについて。要らないものを捨てて、身も心もスリムになる。これに尽きるかな、と。


★「恋愛」なる個人的な領域について。山田詠美氏の言葉にあったように、「恋愛」という領域のなかでは、そのなかで何があってもどんな嗜好を展開してもどんな価値観のもとで結ばれても、他者に問われることはないワケで。

なのに、なぜにまた人は「自分の恋愛」を語りたがるのか?たぶん、「証人を必要とする心理」なのかなぁ、答えは。普通の人が、自分自身を主人公に出来る舞台が「恋愛」という領域でもあるし、もしかするとこの領域でしか感情を解放できない種類の人たちも多いからなのかなぁ、とか考えたけど、ホントのところはわからず。


★別れた理由の根底について。前永らく付き合った人と別れたのは、男女のうんぬん、ではなくて、人間としての不信感があったから。それにつきると思う。決定的な場面での「頼りなさ」に、どうも我慢が出来なくなって、どうしようもなく不毛だなぁと思ったで、別れた。それが根本的な理由なのであるよ、と何となく口から出たけど、この「なんとなく」こそが真実なんだろうなぁ、きっと。


★こっちを持ち上げることで何とかしようみたいな戦略を使われると、どうも気分が悪くなりがちかも、私。。というのも、そういう戦略って私も使ってたことあるから(接客業してた頃には私も多用してましたし。。)使う側の人の心理がわかってしまうからなのかもなぁ、ふむ。。やはり、「他者は自分の鏡」は真実ですなぁ。


★人と人の相互作用について。一緒にいて「気持ちよい人」に「なること」、そういう人を選び「付き合うこと」。そういうシンプルなことをしていけばいいだけ。


★いろいろと選択肢はあるけれど、自分の志向性に合った「選択」をしたいと思う。微妙な年齢ではあるけれども、今朝友達にメールしたように、30 歳を一区切りとすれば、あと3年あるし、32歳を区切りとすれば、あと5年もあるのだから、それなりに形になることは出来るはず。そのためにも、もっと選択肢を限定するか、もしくは、流線型にしないとだめだな、と思った今朝。。


★表出化の方法と分野、領域について。自分の能力を、自分の外へと表現する。どの仕事でもどの遊びでも行為と呼ばれるものの本質はそれがすべてで、きっと、芽が出る人と出ない人の差は、その表出化の「方法」(書く、話す、創るなど。)と、それらを表出化して価値を認められる「分野・領域」が一致しているかどうか、なんだろうな。というか、私もそこらへんで迷っている。でも、まだ諦めてはいないみたいで(潜在意識下で。)そこらへんが、悩みのもとなんだろうな、きっと。


★ライフスタイルについて。「忙しい」と言う必要性があることはしないこと。「楽しい」と思うことをすること。「刺激」を大切にすること。「出会い」を大切にすること。「快適」に過ごすこと。


★とある方の履歴書を見て励まされた件について。大学を2つでて、40歳で留学したんだなぁと。東大→医大なので、頭がすごく良い人なのは確かで、私とはかなり違った人ではある。。けれど、こういうじっくりと醸成されたキャリア、も確かに存在していて、きっとこの方も途中途中で悩んだりしたのだろうけれども、上手く切り抜けたんだろうポイントがたくさんあって、励まされた気がした。

きっと、現代は「20代や30代で成功しなくちゃ」という風潮が強過ぎるんだろうなぁ。「40歳で留学」「47歳で開業」。そういうスローなキャリアもあるんですよなぁ、事実として。


★これhttp://www.jitsugenkun.com/archives/000132.htmlを読んで気づいたけれど、「好転反応」という場合もあるよなぁと、今までの色々って。。


★小説の「領分」について。江國さんの小説を読んでから、小説の「領分」ということを良く考える。「適正さ」を目指して、小説を書くこと。「読者のリズム」に合わせて。

自分を主張しすぎるのではなく、言いたいことを優先するのでもなく、あくまで「相手」をメインに考えて、物語を構築する姿勢。みたいなものについて。これはどんな職業の人でも見習うべき部分だなぁと思った。


★うーーーーーーん。というか、最近、悶々としてしまうのは何故かというと、要するに、過去は出来ていた「突き抜ける」ための作業がどうもワクワクしなくなってしまったから、なのかなぁと思う。それを自分で認めることがなかなかできずに、なんとなくふわふわとその周辺を漂っているような、そういう感じがしていて、どうも、突き抜け感が不足中。


★というか、冷静に考えてみると、私はすごーく疲れる生活をしているんだな、と気づく。。「疲れる」というか、より正確には、「消耗する」生活といったほうがよいかも。

毎日、色々な、本当に色々な出来事があって、出来事の解釈が幾通りも発生して、大量のニュースへと化す。その情報の渦のなかで足をすくわれず上手く泳ぎ続ける。のを志向してしまう自分自身の“志向性”こそが「消耗する」の源泉なんですよなぁ。。要するに、自分のせいってこと。性格改造、じゃなくて、志向改造してみたい気がする。。

というコトで、少しでも「突き抜ける♪」ために今日も張り切っていきますですw

2005年07月22日(金)
男に浮気された女が「怒る」理由。


ジュード・ロウの浮気相手のアノ子守係がセクシーショットで挑発!を読んで。

勝手に思うに、シエナ・ミラーが「相当怒っている」のは、“浮気相手が自分よりも不細工だから”、な気がする。。

それと、相手が「家政婦」というのも、(普通の会社で言えば、上司が部下に手を出してしまったのと同じく)手近なところで済まそうとしているように見えて、“セコイ感じ”がするから、というのもあるかも。。それも、現場が「自宅」かつ「子供」が目撃者らしいので、そりゃ「怒る」だろうね、ふむ。

まぁ、要するに、何と言いますか、どういう「浮気相手」を選ぶかで、その人の本質、というか「程度」が見えてしまうものなので、相手選びは慎重に♪、だと思うのであるよ、ジュード・ロウ。

2005年07月21日(木)
本質は「人の心」。


KISS第102号「時間などもろもろ」【板倉雄一郎事務所】より。


ところが、僕と直接話したことの無い方の中には、「恋愛と経済を一緒にするな」などと、思う方もいらっしゃるようです。はっきり言っておきますが、恋愛も、経済も、政治も、その本質には何も違いがありません。

なぜなら、どちらも、「人の心」が動かしているからです。
ファイナンス理論を中途半端に理解している人ほど、恋愛と経済を別物と考える傾向があります。

しかし、本質に一度でもたどり着くことが出来れば、どちらもその現象の根底には、「人の心」があることを理解できるのです。ファイナンス理論なんて、人の心の経済的な現象面を理論時に語っているに過ぎないのです。

KISS第102号「時間などもろもろ」【板倉雄一郎事務所】より引用


今朝考えてたことと繋がるし、だよなぁ〜と思ったのでメモ。

これは個人的に勝手に思っていることなので信憑性は薄いのだけれど、お金にまつわるしくみを理解していない人って、お金の面だけじゃなく恋愛の面でも、だいぶ損をしているように見えまする。

基本は「現在価値」と「将来価値」の差、要するに(現在から将来にかけての付加価値の)「伸び率」なのに、どうしても「現在価値」もしくは「将来価値」のどちらか一方のみを重視してしまう人たちはよく見かけますし。

たとえば、恋愛で言えば「見た目」や「口説き文句」や「肩書き」など。

見た目は時間とともに劣化する可能性が非常に高いし、むしろ劣化するのが普通でありまして、劣化させないためにはそれ相当の「設備投資」が必要でありますです。口説き文句はにいたっては、その場だけの価値しかありませぬ。また、肩書きが生み出す将来キャッシュフローを“予測する”には、経済情勢の変化を踏まえた上で、それなりの予測能力が必要になるワケでありますです。

例えば、昔は安泰とされていました開業医であっても、「顧客満足」をおざなりにして自己利益の拡大ばかり目指しておりますと、潰れてしまう時代でありますし、まぁ、どんな職業であれ「経営能力」が必要ですよね、ふむ。またセクハラ・アカハラ・痴漢など、何か事件を起こした場合は「デフォルト」しますので、そこらへんの「リスクマネジメント」能力も必要となりますです。

また逆に、「将来価値」を重視するあまりに「現在価値」を見ないようにする、という方々もいますし、それはそれで「博打だよな。。」と思う。。あ、でもある意味、尊敬しますよ、見る目があれば、大勝できるかもしれないし。(例:現在あまり好きではないのに、将来大物になるかも?という妄想をベースに交際を継続する等。将来は現在の延長にあるので、それでいいのかな?、とは思う。。)

それに、「分散投資」のつもりなのかもしれませんが、ダメな男ばかりを10人も抱えていても意味ないワケでして、そういう意味では、やはり銘柄は良く選んだほうがいいですよね、ふむふむ。

というか、一番良いのは、自分自身が「伸びる株」になることなんですよなぁ。ということで、人のフリ見て我がフリ直せ、とまでは行かないのですが、念には念を入れて、本質である「人の心」を学びなおそうと決めた今日でありました。。

2005年07月18日(月)
ようやく「暗雲は去った」らしい♪


これを見て朝からすごく嬉しかった〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜♪

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

http://www.cainer.com/japan/cancer.htm

7月16日(土)〜22日(金)のあなたの運勢

やったー!バンザーイ!赤飯を炊いてください!土星が蟹座を離れました。当分のあいだ、戻ってくることはありません。

過去二、三年はきつくて、重くて、つらくて、困難で、苦しかったかもしれません。今、ヘトヘトの状態かもしれません。これから人生はお気楽でバラ色になっていくのでしょうか?
もちろん、そんなことはありません!しかし、これまでよりも、ずっとよくなっていくことは確実です。暗雲は去ったのです。

まだ建設的な変化が起こったという証拠が見られない?心配の必要はありません。数日のうちに、まぎれもない証拠を目の当たりにできるでしょうから。これまでのように、巨大な障害物があなたの行く手をさえぎることは、もはやあり得ません。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

あまり弱音を吐くタイプではないのでバレていないかも?ですが、「過去二、三年はきつくて、重くて、つらくて、困難で、苦しかったかもしれません」は大正解で驚いたよ。。

でも、ようやく「暗雲は去った」とのことで、これを真実だと思い込んで、今後は張り切っていきますです。たまには占いもやってみるものだなぁ、と思いました、はいw

2005年07月16日(土)
江國香織さんの魅力。


そういえばこの前(7月13日頃。)、『落下する夕方』江国香織著を読んだので、以下思ったことを少しほざいておきますです。

江国香織さんの作品をまともに読んだのはこれが初めてで(確か『冷静と情熱あいだ』は読んだはず。)、おそらくまともに読んだからこそなのだろうけれど、いろいろな意味で驚いた。恋愛小説というと山田詠美氏以外の作家のものは読まずに何年も過ごしてきてしまったのであるが、それがちと悔やまれました、はい。。

まず、売れる理由がすとんとわかった。おそらくこの方は親切かつ冷静な書き手なのかもしれない。言葉と言葉のあいだの音階が粗すぎないし(量を書いている方はそういう傾向があるように思う。)、かと言って、詰まり過ぎているわけでもなく。基本をきちんと押さえた上で、その枠からはみ出してしまったのがその人の個性、というオーソドックスかつ最強のパターンを律儀に守っている書き手のように思われた。

この作品は、微妙に風変わりな世界観を提示しようという意図が表向きにはまったく感じられない作品で、非常に「自然」な感じがした。相手を「愛している」が故に「現実がどんどん奇妙にねじれていく」(逆に言えば、「現実がどんどん奇妙にねじれていく」のを許してしまう程に「愛している」ともいえる)というよくあるストーリーなのに、すごく個性的な作品でありました、はい。

で、江國香織氏の小説全体の感想を一言で言えば「適正」。配分も配置も層も読後感すべてがすべて「適正」。これに尽きるかも。この意味では江國氏は紛れもなく職人であり、江國氏はよく「食べ物」を物語で描くらしいけれども、まさに(小説の)料理が上手な人という感じ。

おなか空いたー。と思ったその時に、お財布を持って外に出るでもなく、かといって何かを買い出しに行くのでもなく、今ここにある材料で、なぜか美味しい料理をつくれる人。(味噌汁とかじゃなくて、カジュアル・フレンチという感じ。)非常に便利で利用されやすくて重宝されて、だからこそ末永く愛される。この人がいたほうがいろいろと良さそう。もしかすると、途中途中で邪険にされるかもしれないけれど、ふとこの人がいなくなった時、ああ、あの人って、実はすごく存在感のあった人なんだなぁ、と思わずにいられないような、そういう感じの作家なのかもしれないなぁ、と思いました、はい。


ページを捲っていたときは、なぜこの世界が世界として成立していられるのか?というのが一番不思議で、どこに「釘」が打ってあるのかをずっと探していたけれど、結局、「釘」はなかった。でも家は建ってる。うーん。この人は建築家でも鉄筋工でもとび職でもなく、「宮大工」なんだろうなぁ、きっと。

2005年07月15日(金)
エニアグラムで見る自分。


うーん。。この前書いたAさん(および、今後出会うでありましょう、そういう傾向のある方。)にどう対応すれば、お互いに気持ちよくコミュニケーションを図れるのかねぇ、と20分くらい考えておりました、はい。

というか、不快感を感じてからは、まずは少々冷たくし「距離をとる」、というオーソドックスな方法を採ったのであるが、思い返してみれば、「距離をとる」をしてからどうもあちらの「構ってくれなきゃ寂しいキャラ」が全快になったような気が。。(もしかして、「逃げられると追いたくなる」という心理なのかな、ふむ。。)

というか、気持ちの良いコミュニケーションを取れていない、という「結果」というのは、なにもあちらだけが悪いわけではなく、こちらにも「原因」があるということである。(思うに、あちらの「構ってくれなきゃ寂しいキャラ」を充足してくれるような雰囲気を、私が醸し出していたのかもしれないし。。)

ということで、まずは自分の傾向を知り、それを少々修正するのが一番早いな、と思うので、そのためにエニアグラムを利用してみることにしますです、はい。

以下、エニアグラムの解説と結果。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
http://shining.main.jp/eniatest.html

■1番完全主義者は、7 番楽天家から学び、7番楽天家は5番研究者から学び、5番研究者は8番統率者から学び、8番統率者は2番献身家から学び、2番献身家は4番芸術家から学び、4番芸術家は1番統率者から学び、3番達成者は6番堅実家から学び、6番堅実家は9番調停者から学び、9番調停者は3番達成者から学びます。

■それぞれのタイプは、自分に持ち合わせていないものを持っています。

■心で考えるタイプ・・2・3・4(感情に敏感に反応して考えます)
頭で考えるタイプ・・5・6・7(感情に囚われず理屈で考えます)
腹で考えるタイプ・・8・9・1(経験則を優先して考えます)

■攻撃的タイプ・・・1・3・8

依存的タイプ・・・2・6・7

消極的タイプ・・・4・5・9

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

で、結果は、

554775756

ということで、タイプ4(芸術家)、タイプ5(研究者)、タイプ7(楽天家)のミックス。「7番楽天家は5番研究者から学び」とあるので、5と7の側面はどうにか自分のなかで統制が取れているらしい。

ちなみに、自分ではこの3つを混ぜればまさに当たってるな、と思う。。さらにちなみに、タイプ4(芸術家)の解説にある「自分を特別だと思っている」という説明は大はずれであります、なぜなら「自分はたいしたことない人間だと思う」にチェックしたので、あはw

ありえないのは、1(完璧主義者)、2(献身者)、3(達成者)。(たぶん、このありえないほうに、Aさんがいそうな気配がする。。)

で、心と頭を使うタイプで、「腹で考える」が1こもなし。(頭2つ、心1つ)。かつ、消極的が2つ、依存的1つなので、攻撃型ではないらしい。(もしかして、Aさん、攻撃型なのかねぇ、「逃げれば追う」だしな、ふむ。。)


ふむ。。ちと休憩しつつ、ぼーっと続きを考えてみまする。

2005年07月13日(水)
人間関係における「前提」。


要するに「人間関係とは相互作用的であって、同じ人であっても相手によって反応は変化するものである」という“前提”を共有できていない人と話すと、疲れるな、というお話でありますです。

Aさんは、「渡辺さん(仮名)はイヤな人なんです」「渡辺さんは妙な態度をとるので気分が悪いです」と、暗い・イヤそうなトーンで、私に訴えかけてくる。

で、次に、「なので、なおサンも渡辺さんには気をつけたほうが良いですよ」というような感じで、Aさんが「そう感じたこと」と同じような感情を、私が渡辺氏に対して持つことを勧めてくるのである。

まぁ、こういうのって、きっとAさんは「忠告」をしてくれているのだな、と考えて、次の作業に進むのが正解だとは思う。(そのほうが余計なことに使う時間が減るし。)

(あ、でも、「事が重大な場合」は、伝えるべきだとは思いますよ、例えばの話、特定の誰かが変質者だということを知っていたのに、それを知らずにその変質者と付き合っている人などには、警察沙汰になる前に、言ったほうがいいとは思いまする。)

のであるが、たまにどうしても通り過ぎることができないときがあって、そういうときって、直感として「あ、仲間に引き込まれようとしているんだな。。」という感じがする。。

Aさんの言うところの「渡辺さん(仮名)はイヤな人なんです」というのは、あくまで“発言者であるAさんにとって”「渡辺さんはイヤ人なんです」になるし、「渡辺さんは妙な態度をとるので気分が悪いです」というのも同じく、“発言者であるAさんにとって”「渡辺さんは妙な態度をとるので気分が悪いです」になるワケである。

うーん。なんていうか、聞いていると、もしかするとAさんは、誰に対しても同じ態度をとるのが優れた人間である、とか(これを「個人的な理想・目標」として実践するのは素晴らしいコトでありますが、それを接する相手全てに「押し付ける」のはちと違いますよね、ふむ。。)、人によって態度を変える人、というか、より正確には、自分が望ましいとは思わない態度を相手にとられるのは嫌なものです、と言っているようにも聞こえてくる。

まぁ、要するに、この場合におけるAさんの主張は、「渡辺さんのAさんに対する行動・発言」を軸として展開されているのであって、結局は、「自分のこと」を話しているのである。なので、「過剰な一般化」のように思えてきてしまって、なんだかな、と思えてくるのでありますです、はい。

さらに考えを進めてみれば、渡辺さんは“相手がAさんだからこそ”そういう態度・発言をしているかもしれないのである。

極端な例を出すと、「痴漢くん」という重病の方々が世の中にはおられるが、病気かつ低脳である「痴漢くん」であってもさえも、相手を選んで痴漢行為をはたらいているのである。そういう賢さだけはお持ちのようなのである。仮に、彼ら低脳軍団が相手を選ばずに無差別に痴漢行為を連発しているとするのならば、「痴漢くん」という種族はいとも簡単に滅びてしまうでありましょう。(この意味では、彼らのさらなる「低脳化」を望みますし、何なら私を狙ってくれても構わないぞ、と思いまする、身包み剥がしてぶち込んで差し上げますので。うふw)

ということで、だらだらと書いてしまいましたが、要するに、Aさん、私のことをあなたと同類だと思い込むのは自由であるし、渡辺さんはあなたに対してはそういう人なのかもしれないが、私に対しては違うので、感情の押し付けはご遠慮くださいな、と思った、という日記でありました。。(今日はチャンスを逃したけど、もう1回やられたら、これ言おうと思う。)

2005年07月12日(火)
自分に「正直」に生きる大切さ。


『文藝秋季号』は山田詠美氏特集で、それを目当てに買って読んだ。もちろんこの特集には大満足だったのだけれど、後半に載っていた長編小説『虹とクロエの物語』星野智幸著も非常に良かったです、はい。

小中高校時代の同級生だった、虹子とクロエという、過去は同じような生き方をしていた二人の女性を主軸とした作品。読み進めるうちに、なんとなく普通に生きてきてしまった40代の女性の描写にグッときてしまいました、はい。以下、少々引用。


私の罪悪感はいつだってそこに根ざしている。自分を裏切ったくせに、子供を作ってしまった。傲慢なだけで内容のない自分が、子供の目の前でサンプルとして生き続けなくてはならない。私は子供に自分を学び取ってほしくないのに、子供を教育しなければいけない。

(略)寿秀が私を写しつつあると気づくと、私は恐怖を来した。余生しか生きていない、絶望的にくだらない人間を、子供が手本にしていいわけがない。それで懸命に付け焼刃で取り繕うわけだが、子供は取り繕われた嘘をも写していると思うと、また恐怖に駆られる。誰が、私の代わりに理想的なモデルを務めてくれ、と悲鳴を上げたかった。

むろん、そんな人はいない。代われるものでもない。私のまわりも私のような親であふれかえっていた。買い物の行き帰りや公園などの遊び場や幼稚園で顔をあわせる同世代の母親たちは、私と似たり寄ったりだった。


星野智幸著「虹とクロエの物語」『文藝2005秋季号』


これを読んで最初に思ったのは、「誰でもこういう親になる可能性はあるよなぁ」ということ。「どういう親になるか」って、結婚願望や出産願望などの「願望の有無」とはあんまり関係ないところで決まってしまうものなのだなぁと、親という役割を伏せ持つ方々の行動や言動を垣間見るたびに思いますし。

こういうのって、あれがこうだからこうなった、とかいう因果関係や、これはこうだからここでもこうなる、というような確率論とはまったく異なる次元で決まって行くもので、もしかすると、無婚主義の私であっても、何かの拍子にうっかりと「親」になってしまう可能性はあるワケなのである、ふむ。。(あ、その時は友人知人の皆様方、「おまえは、止めとけよw」って一言電話ください、あはw)

とか考えていくと、言葉にすると陳腐すぎてどうしようもないのであるが、結局は、自分を裏切ることなしに、「自分に正直に生きる」ことを最優先事項にする、というのが、子供の前で「サンプルとして生き続ける」には一番有効な心構えなのかもしれない、と思えてきました、もちろん、自分自身に納得して日々を送っていくためにも。というか、私はまだまだ誰の「サンプル」にもなれそうもないので、日々精進あるのみだな、ふむふむ(汗)。

2005年07月09日(土)
気まぐれな週末。


気まぐれさの程度、が似ている人と一緒だと、すんなりと安心できる。気まぐれって“身軽さ”の構成要素でもあって、私一人でも十分気まぐれではあるけれど、その程度が似ている人と一緒だと、ちょうど良い具合の身軽さが発揮できる。それに、移動距離も少し伸びるものなんだなぁ〜、とか思いつつどうでもイイ話をしながら運転していたら、最初からここへ来ると計画してここまで来た、と思い込んでも良さそうな目的地らしき場所に到着したので泊まることに。細かいことを省いてまとめると、昨夜から今日にかけてはそんな感じだったな、と思う。

2005年07月08日(金)
自分のなかにある「ニート」な部分。


メルマガJMM[Japan Mail Media] No.330 Extra-Edition2で「ニートと希望のパラドクス」(玄田有史 :東大学社会科学研究所助教授)を読んで、なるほどと思った。こう考えてみると、なぜ「ニート」がこれほどまでに問題視されたのかが腑に落ちるかも。(どこかで使わせて頂こうと思いますです。)

それと、これを読んで気づいたのだが、私が「ニート」と呼ばれている人たちに嫌悪感を抱かないのは(「働いて汗水流してナンボでしょw」とは全然思ってないんだよね、正直。)、たぶん、「自分のなかにあるニートな部分」を嫌っていないし、特別悲観していないからかもしれない。

こうして考えてみると、「自分のなかにある○○な部分」を自分自身がどう思っているかというコトと、自分以外の○○な人たちをどう思うかって、一致してるのかもしれないですね、要するに、自己肯定って他者肯定とイコールってコトなんだろうな、ふむ。


というか、文藝2005年秋季号は「山田詠美特集」だとのこと。夕方本屋へ寄らないとだなぁ、読むの楽しみ♪

2005年07月07日(木)
すべては危ういロープの上で。


結局、すべてのものは「危うい」のである。自分の経験や、いろりろな人たちのいろいろな意見を総合するとそれしか真実はないように思える。何をしていても、過去や今や未来がどんな状態だろうと、「危うい」というのが唯一の共通点であり、解そのものなのかもしれず。

以上、作家の鷺沢萠氏が亡くなってからもう1年以上経つというコトにふと気づいて、真夜中にしんみりと思ったコトを日記化。以下、好きな一節を引用。これは勝手な思い込みなのでどうでもイイといえばどうでもイイのであるが、鷺沢萠サンと私ってすごく似てる部分があるんですよなぁ、だから思い出すんだろうなぁ、忘れかけた頃に時々。でもどこが似てるかっていうと、これもまた、「話すのが難しい話だ」なんだけどね。。

話すのが難しい話だ。なぜなら私が告げるべき真実は綱渡りのロープほどの細さの上にあって、そのロープの両側はもう真実ではなくなるのだから。細いロープの両側では、真実ではないものが大きく口を開けて手招きしながら待ち構えているのだから。
(『愛しのろくでなし』 p40)

2005年07月06日(水)
【proximity talks】「やりがい」の周辺で。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

そういえば昨日○○勤務の友達と話してて気づいた事なんだけど。昔の僕は「やりがい」というと彼がしているようなことを「やりがい」だと思っていたふしがある。けれどどうしてだろうな。今はああいうのってダメらしい...。

というのも「やりがい」を感じる仕事、という定義が僕のなかで年々少しずつ変化していて、妙に聞こえるかもしれないけれど今では、昔は得意だったはずの、将来大きな何かを掴むために今はこれをする、という事がどうも素直に出来ないみたいなんですよ。

自分では「恐れ」(#不確実な未来を少しでも確実なものにするために保険を今かけなくちゃ、というような心理、とでも言えばわかるか?)がなくなったからかもしれないとは思う。単に楽しいからやって、やりたいからやりたいと言って、好きだから好きと言う。そういう生活をしている現在から過去を眺めてしまうと、まさに「どうでもいい」ことをしていたような気がするんですよ、昔の僕は。

だから彼からすれば今の僕は、悪く言えば「やる気がない」ように見えるんだろうな。でも僕本人としては、少なくとも事故に遭って意識不明になったり死んだりしたとしても、「遣り残した」という感情は湧かないように思う。
うーん。微妙に複雑...(苦笑)  

By Y

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

最近、過去の自分のあの前向きさは、「知らなかった」から故なのかも。。と、たまーに、思うんですわ。でも、同時に、本当の意味でほぼ100%「知っている」なんてことはあり得なくて、(今までの経験から自動的に導かれる“未来”についての「想像」や「予想」も含めて。)「頭」ではなく、もちろん知識ではなく、こうしてキーボードを叩くのと同じように「身体」で「知った」としたら、「やりがい」という言葉が入り込む隙間はないのかもしれないよ、と思ったりするし。

なので、勝手に思うに、「やりがい」の有無を“確認”したり、「やりがい」を感じると人に“宣言”したりする必要がないと貴方が感じていて、また、過去の貴方と比較して、「やりがい」という言葉ですべて(たとえば、苦痛や喜び、貨幣や愛、そして他者や自分の存在意義などなど。)を「肯定」する必要性が無いのだとしたら、それなら別に「やりがい」という言葉なんてどうでもイイし、意味はないのかもよ、と、私は思った。(意味不明な文で、失礼します、はい。。)

というか、結局のところ、貴方もわたしも、「やりがい」とやらの周辺でうろうろしてるんだろうね、こうして「どうでもイイw」とか言いつつ「やりがい」について考えてるワケだし(笑)。でも、少なくとも、“周辺に”であって、“中に”じゃない。「やりがい」という言葉へと、労働にまつわる正負すべての感情を収束させて自己正当化して安心できる種類の人でもないんだろうなぁ、ふむ。。

というか、たぶん私は昔から「やりがい」という言葉ってワナだと思っているところがあるのかも。少なくとも「やりがいを持ちましょう」と誰かから言われて「やりがい」を持つ、という場合の「やりがい」って、ワナ以外の何でもないと今でも感じるし。(単に、仕事を円滑に進めたほうが企業のため、ってだけだと思ってしまいますなぁ、こういう場合で使用される「やりがい」って。)

だからなのか、ふわふわ、さらさら、あっさりと。そんな風に日々を過ごしていけばいいなぁと思っておりますです。でも、この「ふわふわ」「さらさら」「あっさり」の“具合”が難しいんですよなぁ、だから私も、微妙に複雑、といえば複雑(苦笑)。

By なお。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

以上、前やってた【proximity talks】というブログの延長で生じた会話を日記化。他のスペースへと小分けするのも手間がかかるし、今後もネタのないときなど不定期に【proximity talks】でいきますです、はい。。

2005年07月05日(火)
今日仕入れた本。

以下、今日、仕入れた本。久しぶりに小説(経済小説以外の普通の小説)が読みたくなってしまった。


★『吉本ばなな自選選集1オカルト』
→全部読んだことない作品だったので、まとめて読みたいな、と思って。

★『若い小説家に宛てた手紙』バルガスーリョサ著
→昨日の夜、アマゾンをブラウズしている時に見かけて、こういうのもたまには読んでみたいなと思ったので。

★『ビューティフル・ネーム』鷺沢めぐむ
→鷺沢さんの最後の作品なのであるが、まだ読んでなかったので。

★"Writing Stories" by Bill Roorbach
→文章の書き方みたいな本が読みたくていろいろ見ていたら、なんとなくこれが良さそうに見えたので。

で、お昼に"Writing Stories"を読みつつモスでごはん。この本、いわゆる回想記やノンフィクションを書くための本なのであるが、普通に読んでもすごく面白い。特に、記憶の想起の仕方とか。この本自体、自己啓発書っぽい感じがするにはするのだが、日本のこういう本よりも、シンプルで実践的な感じがして(課題も付いてます、はい。)、読んでて気持ちよいです、はい。ということで、ぼちぼち続きを読みまする。

2005年07月04日(月)
異性婚、同性婚、いろいろな結婚。


カナダとスペインで同性婚が認められたらしいですなぁ。ついでに、なんとなく結婚制度について最近思ったことを、中途半端ながら、まとめておきまする。

というか、結局のところ、ロマンティック・ラブ・イデオロギーを軸とするんじゃなくて、ありのままの現実と生活に密着した思想を軸とし考えてみれば明らかである通り、異性間のみに結婚制度を認める、という過去・現時点での日本の民法は、やはり、同性婚も合法化する方向へと変化するしかないのでありましょう。

といっても、同性婚が合法な国は、今のところ、オランダ、ベルギー、カナダとスペインだけなので、日本がそうなるにはあと10年くらい必要なのかもしれないけれど。。

というか、倫理的・宗教的・法的な考察ではなくて、経済学的に考えるとすごく事は簡単なんだけどなぁと、いつも思ってしまうんですよなぁ、結婚制度って。

たとえば、「不倫」という行為は法的に言えば不法行為なのであるが、経済学的に言えば(恋愛感情・性行為の)「アウトソーシング」または「外部化」に当たるといえる。

で、結局は、「外部化できるものは外部化して、重要な部分だけは内部でやるのが一番」という考えになるワケで(でも、最近の労働市場では、ようやく内部でやらなくちゃできない仕事って実はすごく多いのね、ということに気づいた会社が多いらしく、正社員採用が徐々に増加しているみたいです、はい。)、同じことが「家庭」にも当てはまるよなぁと。

で、細かいことをすっ飛ばしてこのまま考えていきますと、結局のところ、結婚制度の1つの機能である「生殖機能」という要素を取り除いてしまえば、言い換えれば、子供を産み設ける機能を「外部化」(養子縁組など。)する、と考えれば、別に、「同性婚なんてヘンだ」とか「倫理的におかしい」だとかいう反論は出ないし意味を成さないはず。

それと、例えば、「平和」「安心」というものを重大視するとすれば、異性婚じゃなくて同性婚のほうが、それらは達成しやすいように思ったりもするし。マジメな話、2,3ヶ月くらいの浅い付き合いの異性とよりも、10年来の同性の友達と暮らしたほうが「平和」で「安心」かもですよね、ふむ。。

ということで、ダラダラと書いてしまいましたが、まぁ、結婚と一口に言っても、何を重視するかでいろいろな結婚があるんだよな、というコトでありました、もちろん「無婚」も含めて(笑)。

2005年07月03日(日)
お互いの領分への了解。


彼が珍しく真剣にテレビを見ているな、と思ったら「情熱大陸」菊地成孔氏が出ていた。

彼と私は音楽の趣味はかなり違うので、私はジャズのことは全然わからない。。大御所と呼ばれている人は知っているし名盤は聞いたことあるし、良いなとは思うけれど、そういうのじゃなくて、ジャスという音楽の“構造”が体感的に好みではないというか何と言うか、そういう意味で「わからない」と思ってしまう。要するに、短く言えば、わたしの“リズム”ではない、のかもなぁと、体感的な意味で。

というか、私は、菊地成孔氏の音楽、ではなくて、文章、のほうが好きである。番組の中でも「あけっぴろげ」と評されていた菊地成孔氏のウェブ日記なんて、“構造”を練りすぎて結局は“構造”に踊らされて平坦な物語をつくってしまいがちなよくいるダメ小説家とは正反対の、五感に響く立体的な美(要するに、これが音楽ってことなんだろうなぁ。そういう意味では、文筆家こそ音楽的な要素が必要なんだろうな、ふむ。。)を感じてしまうし。

というか、菊地成孔氏が格好の良い人であることに関しては間違いはなく、私も真面目に番組を見てしまった。氏は、いわゆる「不安神経症」だったらしいけど、正直、そうじゃないとああいう文章も音楽も声も解釈も出てこないよなと思ってしまった凡人な私であった。。

で、すごく納得したー、と言ったら、彼もそう思ったらしく、「うん、ニブいフリするのって疲れるもんなあー」とのこと。他の人には突飛な発言にも聞こえるかもしれないけれど、よくわかりますよ、それ。

というコトで、不安神経症とまではいかないし、音楽の趣味は異なるけれど、「外では自己防衛のためにニブいフリをしつつも実は非常に神経質」という、どうしようもなく根本的なところが共通点だねぇ、「お互いの領分への了解」への前提として「異のための根本的な同」は必要だしねぇ、という話をして、今日も平和に終了。。

2005年07月02日(土)
地に足をつける、というか。


「地に足をつける」をキーワードに調べていたら

「見えないものを扱う人間こそ、地に足をつけた状態でなければいけない」

という言葉を見つけた。なるほどなぁと思ったのでメモ。

実際のところ、私という人は、見えないものを扱いつつも、地に足がついてないよなと思う(汗)。というか、ただ単に、足を水に浸して遊んでいるだけなような気がする。本音としては、地に足をつけたいのも山々ではあるけど、地に足をつけた瞬間に何かが終わってしまいそうで恐ろしくもありますなぁ、ふむ。。

というか、余計なことを考える(→地に足をつけるとかつけないとか。)と、ろくなことがないのは経験的真実なので、まぁ、おそらく、フラフラ楽しくしているのが一番良さそうだなと思った。。

そういえば、アメリカのテレビドラマ「アリー・マイ・ラブ」のセリフに、「地に足のついた人なんているの?」というのがあった記憶が。うーーーん、しばし考えてみたけど、いないのかもしれませんね、地に足のついた人なんて、ホントのところは。。以上、真夜中のひとりごとでありました〜。。
←未来  目次  過去→

「たらこ」スキン:エンピツスキンニュース++

My追加
エンピツ