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Written by なお。
◆日記『心地よい孤独。』◆
孤独はいいものだということを我々は認めざるを得ない。
しかし、孤独はいいものだと話し合うことの出来る相手を持つことは一つの喜びである。
byバルザック
2005年05月31日(火)
不安定であるための安定。
以下、寝起きなのでワケがわからない箇所があるでしょうが、ふつうの日記のつもり。
というか、ここ4日くらいの間、私は不安定だったのである。。基本的に、私という人は不安定であることを許せるくらいには土台が安定しているし、むしろ、不安定さ、要するに変動するコトやモノを快とする側の人なのだが、その不安定であるために必要不可欠な根本的安定部分を成すモノが、不安定になった、という感じ。。
でも、その不安定さの原因が、話しているうちによく解ったので、今は、もとどおりなのであるよ。というか、元の位置よりも数ミリだけ上がったような感じがする。。
「転機後の前向きさは,より安定した前向きさなのである」(→『人生という物語(life story)の創造のプロセスとしての転機』という論文内の言葉。)ということですなぁ、きっと。
というか、不安定であるための安定、って実はここ何年か私の中では重要テーマだったのであるが、そのコツみたいなモノが掴めたような感触がする。大雑把に言えば、昨日も少しほざいたけど、短く言えば、バランスという概念そのものを捨てることなのかもしれないなぁと。
まさに、
「私はまるで目から鱗が落ちたような感じで,はじめて世界が見えました」(by ブリッジズ)という感じかも、バンザイw
2005年05月30日(月)
垂直の瞬間。
本能と呼ばれているモノよりも。もっと心の芯にあるもの。もっともっと、真ん中。そこから溢れるエネルギーをそのまま信頼すること。可能な限り伸び伸びとするというコト、または「才能の発現」。その意味って、もしかしてそれを「信頼する」コトなのかもしれないなぁ、と思うのであるよ、最近。。
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周期的な振動を「安定」と認識してしまうのに慣れてしまうと、その状態が壊れるのはもちろん気分を害することであって。というか、そもそも固定された軸のまわりで起こる周期的な揺らぎが大幅に崩れるのはエネルギー保存の法則を成立させないような外部の何かが触れたからなのだ。と説明されるとなるほどそうだよな、と思い納得したのであった。。
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あぁ、そういえば。この世界は物理法則が成立する世界でもあったんだっけ。と当然のコトを思い出す。そして、視点の軸を多様化させることに成功したのであった。この心の動きそのものを人は「冷静になる」というのかもしれませぬ。と同時に、物理法則を無視すると、すべての磁場が狂い出すというコトをしかと学んだのでありました、ふむ。。
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私は資本主義的なモノを嫌いつつも、また、資本主義的な何かを求めている人達よりも、資本主義とは何かを知っているばかりに、大分資本主義的思考をしてる。。知れば知るほど怖くなる。
というか。そもそも、知ったからこそ嫌いになって、知ったからこそ思いを馳せる。矛盾しているけど、ホントにそうだ。アーメン。。
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振り子の糸がちょうど垂直な状態にある瞬間、に居合わせたような気分が続いている。プラスとマイナス、作用と反作用という相反する効果によって、エネルギーは保存されるワケだけど。振り子が垂直になった時。どの要素がどの方向へどのように動いて欲しいと「望む」かを「選ぶ」のって、まさに、その人の心の芯そのもの、なんだろうなと思う。意味不明かもしれないけれど、これってきっと「悟りの境地」に似ている。それでいて、似ていて非なるもの。
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配分、バランス、コントロール。なぜ現代はそれらを人間に志向させるのか。むしろ、それらの人為的な内側への作用を善とする価値観こそが、消費主義を加速させ、時として破滅的な反作用として表面に現われているのではないか。
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「意思」ではなくて「想像力」のほうが大事。そして「想像力」よりも、宇宙と呼ばれている広大な空間の中に自分は居るだけだと「実感」することのほうが大事。
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確かに「すべてはバランス」ともいえる。けれど、バランスを保つコトそのものへ意識を向ける余りに絶対的なある地点で「静止すること」へと目的が摩り替わっているケースを多々目にするたびに、それって本来の目的に反しているよなぁと思うのであるが、違うのかな、ふむ。。
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というか。バランスという概念の遥か遠くにある1点へと注力するコトで生まれるものを人々はイノベーションと呼ぶのでありまする。換言すれば、イノベーションとは「アンバランスからしか生まれない」。
だから、アンバランスである自分を許し愛しませう。
2005年05月29日(日)
平凡に生きることを選ぶことで引き受けなくてはならない怖さ。
この週末は、とある本の記述をきっかけに色々と考えてしまい、何と言えば良いのでしょう、まぁ、要するに、過去の様々な出来事を思い出したりしていた。で、今まで時々薄らとは感じていたし気づいてはいたものの、自分自身が持っている根本的な問題(というか、問題化する前の予兆めいたもの。)が明らかになったし、また、よくよく考えてみると、やはりここ何年かの間、私は実はすごーーくストレスの多い生活を送っていたのだなぁと今更ながら認識したのであった。。
特に、去年から今年にかけて、周囲で自殺した方々が3人おり、それをきっかけに、平凡に生きることを選ぶことで引き受けなくてはならない怖さ、みたいなものをまざまざを感じていたのかもしれないですわ、私。
何て言うのかなぁ。。勝手に思うに、平凡だとされている人生を生きることで、安心めいた感情を持つ人々がいる一方で、まるで重力に足を引っ張られるような苦しさみたいな感情を持ってしまう人たちがいて、その重力の並々ならぬ重みを感じたりする。
ということで、何だか良くわからないことをほざいてしまったけれど。
今月亡くなった先輩を思いつつ、昨年亡くなった二人の方を思いつつ、過去の自分を思いつつ、今更ではあるけれど、明かりを落として涙した。で、思うに、やはり、想定外の出来事による悲しさみたいなものって、後から来るんだなぁ、なんて思いつつ、朝を迎えたのでありました、今日は。
2005年05月27日(金)
「家族 」を考えてみる。
以下、普通のほざき。
『木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか』を注文したついでに、
『家族依存症』(斎藤学 著)も買ってみた。(あ、でもまだ届いていませぬ。読んだらまたほざくと思います、はい。。)
最近どこかで、日本の家族も8割が「機能不全家族」(例えば、
このページとかに説明あり。)だというのを読んで、こっち系のことが気になっていたのである。私自身はアダルト・チルドレンの定義には当てはまらないものの、多かれ少なかれ日本で普通の家庭に育てば、何かしらは「機能不全的な」要素があるにはあるのでありましょう。
それに、もしかすると、何かの拍子に自分が親になってしまう可能性が高い年齢になったこともあり(この年になり、かつ子供を育てるだけの金銭的余裕があれば、結婚云々ではなくて、選択肢としては「産む」になるでありましょう。)、自分自身の問題を処理しないことには、先に進めないな、とも思ったりもする、最近。
ついでに書いておくと、できちゃった結婚を否定するつもりは更々ないのであるが、自分自身が機能不全家族で育ち、かつそれを認識しておらず、そのまま自分の子供に同じことをしてしまう親が多いというのは事実であり、どっちにしろ、自分自身が受け継いでいる文脈を処理しないことには、結果は思わしくないことは既に明らかにされている。
ということで、明らかにされているわけなので、ここは素直にそれを所与とした上で、自分の成り立ちを考察してみようかと思った次第であります、はい。
というか、うちの場合は、両親の両親が博打的人生を歩んだためか、それに反比例して私の両親は硬めの人生を歩んでいる。正確に言えば、硬めの職業を選ぶことで、自分たちが潜在的に持っている博打的な性質を上手く守っているような感じがする。
なので、私自身に硬めのそれを求めているわけではないし、いわゆる親の期待というものを押し付けられたこともそんなにないのだが(反抗して中学受験止めたりしたのがよかったのかもしれず。)、なんていうか、自分だけの思い込みなんだろうけど、「硬めじゃないと悪いかな?」とは時々思ったりもする。。というか、このまま書くと長くなりそうなので、まとめると、自分の成り立ちを認識し、不備があれば修正することでマトモな大人になろう、と思うわけであります、最近特にw
2005年05月26日(木)
結婚制度と生存欲求。
この前、某集会でいろいろな人とちょっとずつ話しをした。で、私が無婚主義である根本的な理由みたいなもの、に気づいたので日記化。
基本的過ぎることではあるが、メスという生物は「生存欲求」が強い。で、これも自明のことではありますが、人間のメスもその欲求が強いメスが多々おりまして、そういうメスは自分が生存するための手段として「結婚制度」を利用しようと“試みている”様子である。ちなみに、人間のメスを対象としたアンケート調査では「結婚した“本当”の理由」は「疲れたから休もうと思って」が第一位である。
ちなみに、“試みている”を強調したのは、生存することを目的に「結婚制度」を利用したとしても、その目的が果たせない場合が近年の社会情勢からして多くなってきているからである。
(家庭内暴力や家庭内殺人、家庭内レイプなど、数えたらキリがありません。。こういう場合は、とりあえず法律家に相談しましょう。隣の奥さんや旧友に相談しても何の解決にならないのであるが、ジャパンの風土からなのか、どうも内輪だけで解決しようとして余計コジれて取り返しがつかなくなってしまう場合が多い。)
のだが、どうやら多くのメスたちは、結婚によって「生存」が保障されたら次はもっと高次の欲求を満たしたいと思うものらしい。要するに、マズローの欲求5段階説を出すまでもなく、「欲求」は高次化していくということでしょうなぁ、ふむふむ。
まぁ、思うに、自分みたいなヘボ女と「結婚」してくれただけでも相手に感謝しとけば良いんでないの?、と突っ込みたくなる勘違いしたメスもたまにいるので一概には言えないし、そういうヘボ女ほど旦那のおかげで「生存」できていることを忘れてしまっているものなのであるが、要するに、自分の職業能力や親から受け継いだ遺産等によって「生存欲求」を満たせず、なお、それでも「生存したい」と望むメスは遅かれ早かれ「結婚」していく、というが大まかな流れかと思われる。
というか、ダラダラと書いてしまったけれど、「生存欲求」を持つことは生物として自然なことであり、また「生存したいから結婚したい」という心理メカニズムに対して「良い・悪い」というような価値判断を行うのは各自の選択なワケだし、どう行動するかも各自の選択であり、各自が好みの生存戦略を選択すれば良いだけである。
と前置きした上で自分のことに焦点を移すと、どうやら私というメスは「生存欲求」が弱いらしいのである。こう言うとアブナイ人だと思われてしまう危険性があるのは承知の上で書くと、別にそこまで生きたいとも思わないし、逆にそこまで死にたいとも思わないんですよね、ふむ。。何と言えばよいのでありましょう、まぁ、いつかまた思いついたときにでも書くことにしましょう、ふむ。。
子孫繁栄にもあまり興味がないし、こう考えてみると自分で言うのもなんだけど、あんまり人間らしくない人間だな、と思った。というようなことを彼に言ったら、「俺も人間らしくないから、その気持ちよくわかる。生存欲求が弱いもの同士頑張ろうw」と言われ、労わられた。以上。
2005年05月25日(水)
プラトニックは恋と呼ばない。
以下、山田詠美氏と阿川佐和子の対談。
「好き好き好きって、楽しい」【文-体・読本】より引用。
阿川 それ以外の遊びは?
山田 そんなにないですね。
阿川 恋愛は?
山田 してます。それが遊びかも。
阿川 そこは隠居してないのね。
山田 いや、私の理想は、隠居じいさんが老いてますます盛んとか、隠居のばあさんが「まだやってるよ」って言われながらっていうのがいいの。
阿川 「風味絶佳」に出てくる七十歳で真っ赤なカマロに若いボーイフレンド乗せて走ってくるグランマみたいに、「色ボケだよ」とか言われながら。
山田 そうそう(笑)。晩年の(マルグリット・)デュラスみたいに、砂浜でザルかぶって四十幾つ下の男の子と遊んでるような人になりたい。
阿川 じゃ、若い男の子見て「この子は私の対象外だわ」なんて思うことはないんですね。
山田 ないです(キッパリ)。だって、私、三、四年前、二十幾つだか下の子と付き合っていたことあるし。
阿川 ということは、相手は幾つだ?
山田 大学生。
阿川 イヤ〜ッ!? そのときも全身全霊ラブ?
山田 そうでもなかった(笑)。
阿川 これだよ(笑)。プラトニックで付き合った人はいないんですね。
山田 私、プラトニックは恋と呼ばないから。寝ないと付き合うとか付き合わないって話が成り立たないんで。
# 山田詠美(作家)×阿川佐和子「阿川佐和子のこの人に会いたい」『週刊文春2005.5.26』
「好き好き好きって、楽しい」【文-体・読本】より引用。
「プラトニックは恋と呼ばない」って、山田さんらしくて良いですわ〜♪
プラトニックって言葉の響きが良いだけで、実際は「幻想」を「投影」し合ってるだけなのであるよね。
というか、私は20歳下の少年とお付き合いする勇気はまだないし、今それをやってしまうと単なるロリコン姉さん呼ばわりされて捕まってしまうので(だって20歳下となると6歳だよ。。)、40代になってからの楽しみとさせていただきます♪
しかし、山田さんの小説やエッセイって、「年齢を重ねる楽しみ」を思い出させてくれるものが多いですなぁ。というか、あと14年、「二十幾つだか下の子と付き合う」のを楽しみに生きていきますです、はい。。
2005年05月24日(火)
ダメな男。
友人Aはダメ男が好きである。今日、久しぶりに、Aとメッセで少し話したのだが、2、3ヶ月前に聞いた例のダメ男とまだ関わっているらしく、正直、呆れるしかない。。
何と言えば良いのでありましょう、“明らかに”ダメ男だし、嘘バレバレの言い訳などをほざいているのである。言い訳がショボイのである。
例えば、今日見せてもらった彼のブログには、「彼女がいる」とかなりの割合で読み取れる記述があった。なのに、ダメ男曰く「彼女がいる、とは明記してはいない」「彼女=母親である」と仰ったそうで、アホ丸出しの言い訳なのであるよ、要するに。。
今回のダメ男くんは、法科大学院に通院なされているそうであるが、その程度の「自己弁護」では、新司法試験に通ったとしても案件を依頼するに値する能力があるのか不安である。はっきり言って、裁判、負けそう。。
ということで、私は「ダメ男好きなのはもう前向きに諦めるとして、どうせならば、もっとマトモなダメ男にしたら良いのではないでしょうか?」と言ってみたのであるが、やはり、マトモな人じゃダメだから「ダメ男好き」なんですなぁ、ふむふむ。。
なんていうか、個人の「嗜好」が人生を決定付けているような気がしてきた最近でありますです、はい。
2005年05月23日(月)
柔軟に正しい方向へ進んでいくために。
以下、朝、海から出た後に浜辺で休憩していた時、なんとなく思ったことを、日記化。
いつも通り、長い割には意味がないので注意。。
どうやら私は、「やりたいこと」が何であれ、それを「思いっきりやれる」環境を自分で工夫しながら作り続けることが一番大事なのだ、というような価値観の持ち主らしい。当然のことではあるけれど、、環境要因を環境要因として切り離して考えてもいないし、また、環境を固定的だとも捉えていないので、その環境に不満を抱いたならば改善していこうとするタイプの人ではある。
んだけど、時として、その環境において力を持っている人がネガティブな視点に陥っている場合もあり、そんな時はけっこう大変だったなぁと、とあることをきっかけに思い出したので日記化。
なんというか、権力ある人がネガティブな要因に誘発されている時って、環境全体のパワーバランスが崩れてしまい、そんな環境の中で前向きでいることさえも苦痛というか何と言うか。ポジティブであること、さらにはニュートラルであろうと中性的な心理を形成することさえも、アホらしくなってしまうというか何というか。
で、そういうときは、自分が属していると“思い込んでいる”環境、ではなくて、もう少し広い意味での自分が属している環境(例えば、職場ではなくて地域社会とか異業種交流会だとか海外だとかそういう世界。)へと視点を広げてみることが重要なのであるが、もしもこの先そういうことが必要になったとしたら、もう1回大学院に通いたいものだなぁと思ったのであった。
というのも多分、そう思った1つの理由は、ファイナンスをやってた頃の私は、「やりたいこと」をやってはいたけれど、今ひとつ「思いっきりやれる」までには至らなかったと思うからである。
これは未だに反省しているし、後悔という言葉で表現しても良いのであるが、もっともっと「思いっきりやれる」という要素を重大視しても良かったよなぁと思うのである。(この意味で、私は「やりたいこと」をやってれば良いのである、とは全く思わない側の人であるし、何も「やりたいこと」を積極的に探す必要もないとも思っているのであるが、イチイチ理由を系統立てて説明しているわけではないので、受け手によっては勘違いして解釈しているんだろうなということは気づいている、自分でも。。)
それと、もっと違うことをマトモに学んでみたいとも思うわけである。例えば思いついたまま挙げてみれば、今まで学んだことの周辺領域で何かを選ぶとすれば、法律(独学だったのでイマイチ深まっていないし興味ある分野。)か、今まで学んだ分野をより実地レベルかつ違った視点で見れるという意味では国際税務とか。
前までは、もっと抽象的で基礎的な部分に位置する分野に興味があったのだけれど、なんとなく最近は、それを道具としてなんらかの問題を解決できる可能性が高い分野、要するに、より実務的な分野に興味が移ってきているのかなぁと、今気づいた次第である。
ということで、ダラダラと書いてしまったけれど、柔軟に正しい方向へ進んでいくためには、やはり、何かの拍子に「正しい方向」を見失ったときのために、「どういう柔軟さを用意しておくか?選ぶか?」ということも大事だなぁと思ったりしたらしい、今朝。。
で、その「柔軟さ」を選択できる余地が少ないばかりに、もっとも大切な「正しい方向へと進んでいく」ことを疎かにはしたくないし、「正しい方向へと進んでいく」に関する“その進むスピード”の優劣を他者と競い合うことはばかげているように思う。(あくまで個人レベルでは。企業レベルではスピードはすごく大切。)
というか、こんなに長くほざいたくせに何なんだけど、海辺で感じた「一瞬の感情」を文字化すると、こんなに長くなるってことなんだな、と思った、ふむふむ。。
2005年05月22日(日)
一歩家を出たらそこは「動物園」と思うべし。
要するに、社会というのは「動物園」のような場所なのである、と思っておいたほうが良い、というコトなのでありましょう。色々な種類の動物たちがいるように、人間にも色々な種類がある。人種ではなくてその人の持つ個性やまたは個性を超えたものを分類基準とした種類、という意味で、でありまする。
この社会には、良い方も多いには多いのだが、また一方では、「トンデモさん」や「勘違いさん」もおられるし、また、「短小くん」や「短小くん」が発達し過ぎてしまった「犯罪者さん」方もおられるのも事実なのである。
で、オンでもオフでも、嫌だなぁと感じてしまう人はいるけれど、その人もまた私と同じく「動物園」の一員なのだなぁ、と思っておけば、上手くいくのかなぁと。。無難な表現になってしまいますが、「距離感が大事」というコトなのでありましょう。
それと、どっち道、人間の特徴というのは、ある特定の性質が「あるorない」というようなモノではなくて、スペクトル上にあるものなのである。要するに、「程度」の問題なのである。その意味で、相手を観察することで、自分には少ない性質や多い性質を知ることができるし、ある人を観察することで、自分の置かれている状況を客観的に知ることにも繋がるように思う。
ということで、一歩家を出たら、そこは「動物園」だと思うべし。そして、万が一、妙な人に出会ってしまったら、動物園へ遊びに行ったときのように、「お、あれはトンデモさんだな、今時めずらしい種類だな、へぇ〜」とか、「ああ、短小くんか、ずいぶんと繁殖してるな、へぇ〜」というような、目の前にフェンスがある時と同じような感じで「眺める」。というのが、楽しく平和に暮らしていくコツなのかもな、と思うに至った夜でありました。。
2005年05月21日(土)
父から学んだ「勘違い」のしくみ。
以下、昨日書こうと思いつつ、ドサクサにまぎれて忘れそうになっていたことを日記化。
早朝は、父とふたりで話すのが日課になりつつある。私はたいがい朝の4時半から5時のあいだに起きる。で、コーヒーを淹れるためキッチンへ行き、そのまま朝食を用意してリビングでコーヒーを飲みながらみんなが起きてくるまで新聞を読んでいる。その時間帯にちょうど父が起きてくるので、なんとなくふたりで話すことが多くなるのである。
というか、もともと父とは仲が良いのだけど、会話が増えた分、以前と比べると何かが変わった気がする。
たとえば、父が仕事の愚痴を話すことが多くなった。愚痴といっても、詳細に何かを語るわけではなく、その多くは抽象的なレベルだし、その8割は笑えるネタなのであるが、私が高校生の頃には聞いたことのない種類のネタであることは確かである。
そして、収穫が大きかったのは、父から「勘違い」の生成に関してヒントらしきものを学べたことかもしれない。
というか、そもそも、私の父は、「勘違い」を招く可能性のある文章を書くのが得意な人である。で、どうやら、論理性では私のほうがマトモだということにようやく気づいたらしく、最近は、原稿や書類のチェックを頼まれることが多くなった。(→ちなみに、私は小学生くらいから、父には論理的構成力が無いことに気づいていたので、「私はもう少しマトモになれるように努めることにしようw」と心に決めていた。ある意味、父のおかげであるよ。)
昨日の朝に見せてもらった文は、文章を並列して書きすぎていて、一体何がメッセージの“核”なのが不明な文であった。それに、フェミニストの方々が見たら「はぁ?何てコト言ってるんだよ、セクハラ親父めw」と突っ込む余地盛りだくさんの記述が3行あった。
ので、そういう意味で書いたのではないことを本人サマに確認した上で、もちろん削除しておいた。(勘違いを招く表現は直すのではなく削除してしまったほうが良いのである。)
で、読んでいて気づいたのだが、どうやら父は、論理的構成力がないだけではなく、単語の“軸の意味”と、その軸の周囲に広がっている“意味空間”が掴めていないようなのである。
例えば、100人の人が同時に、「りんご」という単語を目にしたとする。赤いリンゴを思い浮かべる人もいれば、青や黄緑色のリンゴを思い浮かべる人もいるし、もしかすると、「リンゴ」と「なし」を勘違いして思い浮かべているかもしれないのである。それなのに、父の頭の中では、リンゴ=赤い、というように勝手に分類されているようなのである。
そういう意味で、自分の意見を書く、という行為は、言い換えれば、『自分の言いたいことに添うように、相手の脳内イメージを上手い具合に“限定”する』という行為と言っても良いのであるが、どうも父はそこらへんの「気遣い」というか「想像力」が不足気味である。
ということで、父を通して、「勘違い」が生まれるプロセスを学んだ、という日記であった。。
2005年05月20日(金)
「恋愛回路」を弱くする事こそ、恋愛をうまく生かせる極意♪
■恋愛回路の話【ぐっどうぃる博士の恋愛相談室】より以下引用。
(略)男でも女でも一定期間以上、1人の異性の事を考え続けると「恋愛回路」ができあがると僕は考えている。それが執着を生み、愛情を生み、憎しみや苦しみを生む。
恋愛回路とは、好きな人が思い通りにならず、思い通りにしたいとずっと考えているうちに、脳の一定の領域にその人の事を考える回路が出来るという僕の考えから作った概念である。言い換えると、その人の事ばかり考えていると、その人の事を考える習慣が自然に付き、それが強い執着心となるという事。
(略)原始の脳が必死になると、理性は翻弄される。どんな場合でも、このような脳のバランスが出来ると良くない状況が起こりやすくなる。
理性は、原始の脳の衝動や感情を言語化しているに過ぎなくなり、堂々巡りの袋小路的な考えが頭を巡る。この時の考えは、殆ど無意味か害にしかならない場合が多い。
(略)あなたが恋愛で苦しむなら、恋愛回路を小さくするか、消してしまうのが一番良い。
恋愛回路を小さくした方が、恋愛はうまく行く。
好きな人は手に入りやすくなり、
恋人同士の関係も良くなる
そして第一、苦しみが減る。
もし失恋したり、不倫していたり、彼に酷い事をされ別れたいと考えていても恋愛回路があなたを苦しめるならあなたは知る事だ。
彼がどんなに格好良くても、優しくても、金持ちでも、頭が良くても彼より素晴らしい人があなたの前に現れる。あなたはそれを信じられないだろうが‥。 恋愛回路を弱くする事こそ、恋愛をうまく生かせる極意だと言えよう。
「原始の脳が必死になると、理性は翻弄される。」とはまさにそうですよなぁ。。対象が何であれ、脳の状態を良好に保つことが非常に重要だし、認知能力が適切な状態でなければ、適切な判断という出力は生まれないし。
というか、思い出してみれば、過去には「恋愛回路」が強い時期と弱い時期があったように思うし、今は弱い時期なんだろうなぁと思った。(→あ、念のため書いておくと、恋愛回路が強い=相手に愛情を注いでいる、にはなりませんし、恋愛回路が弱い=相手を粗末に扱っている、にもなりませんので注意してくださいなw)
というか、あくまで友人や私自身の経験からすると、「恋愛回路」が強い時期って、多くは20代前半までが多い気がする。(女性の場合。)で、そこらへんで「学び」を得て、後半からは恋愛上手になる人が多いように思う。(あくまで私の周囲では、ですw)
というのも、「恋愛回路」以外の「回路」をその時期に得る人たちが多いからなのかもなぁと思う。で、私の場合は、それがファイナンスだったのだなぁと。未だに覚えているけれど、あの時の衝撃は「恋愛」なんかでは及びもつかないような衝撃でありました。このことを書くと長くなりそうなので、またいつかほざくかもしれず。。
というか、単に、私の場合は、刺激を得られるという意味では恋愛よりもその他のことに眼が行きやすく、その反動からか恋愛や人間関係には安らぎを求めてしまうタイプなので、単に、「回路」の強い部分が違うだけなのかなぁと思う。
あ、ちなみに、私個人は「酷いこと」をされたことはあまりないですし、「酷いこと」をされたらすぐに別れますなぁ。。それに、世間一般の方々よりも「酷いこと」と感じる感度が高いらしいので、少しでも「あ、こいつ、調子に乗ってるなw」と思ったときはすぐに説教しますし、1度言ったことが次に出来なかった場合は、蹴りますです、はいw
2005年05月19日(木)
優先順位とスケジューリング。
優先順位を決めよう!【counselingstyle】より。
ある人はこういっていました。
「まず、自分のスケジュールを作るときは、プライベートな予定から先に入れる!」
家族や友人たち、趣味の時間など人生の楽しみや喜びを先に入れているわけです。(※こんなスケジュールを組んでいても、この方は年収3000万円以上の仕事をするようなバリバリのビジネスマンです。)
(略)優先順位を自分で決められなかったら、あなたの時間配分は誰かが決めることになります。基本的に人間関係は自立と依存で成り立っていますから、あなたが優先順位の決定を誰かに依存していると、自立側の人間があなたの優先順位を決めるのです。
たとえば、あなたが会社員であれば、上司や社長、会社があなたのすべき仕事の優先順位を決めます。恋愛でパートナーに依存していると、あなたの時間配分はパートナー次第になります。そして、自分が望んでいる・いないにかかわらず、その優先順位どおりに時間を使わなければいけません。
これは、スケジュール表が真っ白の状態を恐れている。でも、自分で決められない。だから誰かに決めてもらうことで、安心するという心理パターンなんです。
独立して成功した方が、あるインタビューでこういっていました。
「なぜ、そんなに多趣味で、仕事の幅も広いんですか?」
「それは、僕にはやりたいことがいっぱいあったから、時間を作り出す必要があったんですよ。そのために、独立するのが一番効果的な手段だっただけです」
あなたはあなたの優先順位を明確に持っているでしょうか?
その優先順位を守っているでしょうか?
はい、これよくわかりまする。「まず、自分のスケジュールを作るときは、プライベートな予定から先に入れる!」という方法のほうが、結局は集中して作業が進むようにも思うし、気分的にも楽しいと感じる割合が高くなるような気がするし。
ちなみに、思ったので書いておくと、昔から私は「スケジュール表が真っ白の状態を恐れる」という気持ちがわからない人かもしれず。
基本的に、のんびりしているし(あくまで主観的に、他の人から見ると急いでいるように見えることもあるやもしれず。。)、とりあえず作業は早めに終わらせて、早くのんびりしたいと思っているからかもなぁと、今さっき気づいた。
スケジュール帳はもちろん使用しているにはいる。1ヶ月見開きの小型手帳(クオヴァティスを愛用w)には「予定」を書いておくけど、1日単位のやつ(これもクオバティスを愛用中w)は「予定」ではなくて「その時間帯にやったこと」(要するに過去の記録)をすることにしているし、とりあえず、一日の始まりは「真っ白」な状態から始めることになっている。(まぁ、でも時間帯が決まっている予定はもちろん書いておきます、はい。。)
ということで、ほざいたら、予定通り気分転換になったので、今日もこのまま優先順位どおりにいきますです。
2005年05月18日(水)
吉本ばなな著『虹』について思ったこと色々。
以下、
この前読んだ、
吉本ばなな著『虹』について思ったことを文章化。
まず、全体的な視点からこの作品を眺めてみると、よく出来た作品だなぁとマジメに思う。全編を流れるアッサリとした空気感、「名言」(小説には付き物の、人生の真実を言い当てたセンテンス。)の装入箇所を選択するセンス、物語の中にゆったりと横たわる“暗に秘められた真の構図”を、軽やかに読者に「想像」させる熟練した技術も素晴らしい。
というか、“暗に秘められた真の構図”とは、言ってみれば、「自然」を愛する「ご主人さま」と「お手伝いさん」という“主従関係”での“純愛”であり、「資本主義」的で野心のある「美しい奥様」と彼女の恋人との“不倫”の対比。それと、「妄想恋愛」(純愛とも言う。)と「現実恋愛」(セックスを伴う。)の対比”がメインなのかなぁと。
で、「資本主義」的な要素と「自然」を好むという要素が共存している「ご主人さま」の気持ちの変化を通して、最終的にはやはり「自然」だよね、ということを暗に示すような感じの流れ。
で、ポイントは、「妄想恋愛」から「現実恋愛」への“急激な変化”かなぁと思う。これがあるがために、ある種の読者はガッカリするだろうし、またある種の読者は、「これってもしかして、笑うツボなのかな?」という感じかもしれず。。
でも、この「妄想」から「現実」への“急激な変化”を、読者に急激と感じさせずに「ま、それもアリかな」と思わせることができるアッサリ感、を描くことが出来るのって、吉本氏の強みだ思うし、この「突飛さ」を描く技術にかけては、彼女以上の作家はいないようにも感じる。
で、以下は、私個人の主観的嗜好に基づいた感想。
この作品が「好きかどうか」といえば、「好き」ではないなと思ったし、誰かに読むように積極的に薦めることはしない作品だろうなぁと思う。要するに、読む人を選ぶ作品だと思うのであるよ。
で、好きではないな、と思った理由というのは、この作品の根底を流れる古めかしい価値観そのもの、が理由かな、と思う。
例えば、「ご主人さま」が「1回でいいんだ、やらせてくれ」と言い、「お手伝いさん」である主人公が「「わかった、いいよ、寝よう」と応じる場面とか。
で、問題は何かといいますと、「やらせてくれ」と「ご主人さま」に言われてから、主人公は「抵抗」するくせに「やらせてしまう」、、、っていうのが、ちと違うかなと思った。。
というか、設定上、「ご主人さま」と「お手伝いさん」である主人公ふたりは「両思い」なワケですし、「抵抗」せずに「やらせてくれ、じゃないでしょ、やりましょう、でしょうw」と主人公が答えたほうが、「現実的」かつ「現代的」かな、と思ったりもしたなぁ。。
で、比べるのも何なんだけど、例えば、山田詠美氏の小説の場合だと、「やらせてくれ」という言葉で「やらせてしまう」女性の主人公って有り得ないし、そもそも「やらせてくれ」という言葉ってオカシイのであーるよ、「やりましょう」が正確な表現ですよなw、という暗黙の前提があるのである。よって、そういうニュートラルな価値観を土台として作品が成立しているという意味でも、安心して読めるのである。
「やらせてくれ」ってセリフは、確かに「現実的」ではあるし、「妄想恋愛」から「現実恋愛」への“急激な変化”を描くにはもってこいのセリフだとも思う。しかし、短く言えば、「現実的」ではあるが、「現代的」ではないように私には思われましたわ、ふむふむ。。
それに、「タヒチ」という舞台装置と「ご主人様」と「お手伝いさん」という関係から、ある種の読者はポストコロニアム的な匂いを感じ取りすぎてしまう可能性があるようにも思いますし、ちと、行き過ぎちゃったかもなぁと思う、「やらせてくれ」は、ちとね。。
でも、まぁ、「やらせてくれ」というセリフによって、忘れられない作品になったことは確かですな、ふむふむw
2005年05月17日(火)
胸に響くメール。
1年以上前に、1回だけデートした人から今日突然メールがきていて、さっきそれに気づいた。。で、驚くと同時に懐かしい気分がしたし、何と言うか、「胸に響く」メールだったのであった。
というか、私もメールしようかなとは思ってはいたのだが、「もしかしたら、もう結婚してるかもだしなぁ〜」と思い、遠慮していたのである。のだが、どうやらまだらしい。。結婚相談所にでも入ればすぐに売れそうな人なのに(人柄もそうだし職業なども。)、なんでまだしてないのか不思議だな、と思った。
というか、その理由はなんとなくわかるのだけれど、その理由(→要するに、女性を美化しすぎている。)を彼に伝えたほうが良いのかどうかはよくわからず。。
というか、ダラダラと書いてしまったけど、彼のことを基本的に好きではあったのだよ、わたしは。。でも、いきなり結婚はちと荷が重過ぎて(それもあちらに嫁入りすることになるわけだし。。)逃げてしまったけど、あれってやはり、失礼だったかもしれないなあ、と、胸に響くメールを頂き、反省したのであった。。では、謝罪も含めて、返信しまする。。
それと、まだ決定事項ではないのだが、もしかすると、来年からすご〜〜〜く硬い団体へいくことになるやもしれず。。長い眼で見れば、そういう経験も大事だし、マトモに独立しようと思えば、そっちへ行けば早いといえば早いのですよね、ふむふむ。。経験上、どこでもそれなりに適応はできるにはできるのだけど、あの硬いノリについてけるかどうか、それだけが気がかりであるよ。。
と、はっきりしない時点でほざいても意味無いのであるが、こういうのは、神様とやらに任せるのが一番なのでありましょう。と、ほざいてみたら、少し考えがまとまってきた、良かった。。
2005年05月16日(月)
お葬式。
午前中、1週間前に亡くなった1つ上の先輩のお葬式へ行ってきた。
久しぶりに見る写真の中の彼女はやはり美しくて、それでいて私の思い出の中にある彼女よりも、ずっとずっと当時の“あの”繊細さを感じさせない彼女だったように思う。もしかしたら、“あの”繊細さが邪魔だったのかもしれないなぁ、と写真を見てすぐに思った。
“あの繊細さ”を努めて削ぎ落とそうとしなくてはならない何かの事情があったのかもしれない。というか、この国でそれなりに競争を問われる場を選んだとすれば、そうしていかなくちゃ、、日々を続けていけない文脈があるわけで。でも、彼女の場合は、もともとの“あの”繊細さが普通の人のそれよりも大き過ぎたのかもしれない、どんなに削ぎ落としても、薄らとほのかに残ってしまうくらい。と思い、勝手に納得することにした。
集まってきた人たちは、「女優さんみたいに綺麗な人だねぇ」なんて言い合っていて、まるでここは葬儀の場ではなくて、もうすぐお見合いとか結婚式とかその種の何かが始まりそうな感じがして、「いや、綺麗だからこそ死んでしまったのですよ」という率直な感想を述べられないまま、私は頷くしかない、というような雰囲気だった。
彼女を知りすぎていないが故に現実的な、そして無邪気でいることが可能な人たちが予想以上に沢山居てくれたおかげて、私はといえば、自分がこの場に来た理由がどんどんとぼんやりとしたものへと変化して、「悲しい」という感情を味わえたのはほんの数秒だったような気がする。
こんなにも集中的に「悲しい」という感情を味わったのは久々で、彼女の写真を何度も振り返って観ていたのは、今思えば、“事実”が感情の影に隠れてしまわないための、私なりのバランスのとり方だったのかもしれないなぁと思う。
最後に、改めて1つ思ったこと。瞬時に涙を流せるほどの“事実”って、そんなに多くない。“事実”に感情が追いつくのはずごく時間がかかるものなのだ、きっと。
2005年05月15日(日)
小説を読む日々。
日曜の夜、
『風味絶佳』(山田詠美著)をまったりと読み、そのままのまったりとした、それでいて晴れやかな気分のままで、あっさりと眠った。で、いつもよりも早く2時前に起きてしまい、あせった。(いつもは4時半から5時のあいだです、はい。。)
で、早く起きた次いでに、
『虹』(吉本ばなな著)を読み始めた。最近になってから彼女の作品をちゃんと読んでみたいと思っていたのである。今までちゃんと読んだのは、『キッチン』と『うたかた』、それと『サンクチュアリ』くらいなので、良い機会かな、と思い、昨日購入してみた。
で、今、半分まで読んだだけなんだけれど、以下、半分までの、感想をメモ化。
まず、読んでみて気づいたのは、どうも私は、「吉本ばなな」という名詞から連想する色々なニュアンスを、少しずつ勘違いしていたらしい、ということであった。この『虹』という作品をマトモに読んでみて、「吉本ばなな」というのは単なる商標なのではなく、今まで築いてきたブランドで以って作品を誤魔化そうとするのでもなく、私が予想していたよりもずっとずっと、正当であることが良くわかったのある。
それと同時に、逆説的ではあるけれども、この作品を「吉本ばなな」ではない他の作家が書いたのならば、今よりもずっとずっと評価されただろうなぁ、とも思う。試しに「吉本ばなな」とは異なる名前で、何か書いて欲しいなぁ、などど思ったり。
そして、ちと話は飛ぶけど、改めて気づいたので書いておきまする。私はここ数年のあいだ特に、「小説」というジャンルを読むのを躊躇っていたんだけれど、その理由がなんとなくわかったような気がする。たぶん、それは、その小説世界に時間と感情を投入しても良いと思えるような作品、というものがあんまり無いと思っていたかもしれない。逆に言えば、小説という他者が創り上げる世界に頼らなくても、自分の世界が楽しかったからなのだろうなぁとも思う。
でも、今は少し変わってきたようで、小説という道具によって、身近に溢れているにも関わらず“生き方”という言葉で見過ごすことを自分に許している沢山のことに触れる切欠を得られるかもなぁ、などど思ったりもする。ということで、しばらくのあいだ、小説を読む日々が続きそうな予感であーるよ。
2005年05月14日(土)
「死」へと引き寄せられる感情の力学。
つい30分ほど前。「あのね、あそこの娘さん、亡くなったんだって」と母がおもむろに教えてくれた。。それを聞いて、私はうっすらと驚いて、彼女のことを思い浮かべた。“あそこの娘さん”というのは、同じ小中学校に通っていた、1つ年上の美しい人だった。
去年は、1つ年下の、同じく美しい人が亡くなった。「死」について考える習慣を持たないお気楽な私は、こうしたことがある度に、「死」へと引き寄せられる感情の力学について、ぼんやりと考えたりすることが多い。
「自殺したいと思う気持ち」はわからなくもない。けれど、「自殺したいと思う気持ち」と実際に「自殺する」というコトの距離って、こんなにも「遠い」んだと思える。
同時に、「遠い」と思える自分自身の脳って、「近い」と思えたであろう彼女の脳とは全く違う現実を見ていたのだろうなぁとも思う。その意味で、「主観」を何処に置くかこそが、すべてと言っていいのかもしれない。
というように、冷静ぶりながら書くと、あんまり悲しんでいないように見えるかもしれない。けれど、「悲しんでいるように見える」ことと、実際に「悲しんでいる」ことは大分違う。(そうでなければ俳優という職業は成立しないし。)
それに、“美しく見える”ことと、“美しい”ことも違うのかもしれない。もしかしたら、“美しく見える”からこそ、周囲の誰もがなんとなく安心して、気づけなかったのかもしれない。なんてことまで考えを巡らし始めると、終わりが見えないし、そもそも終わりなんてなんだなぁという考えに行き着くのが常であって。
というか。
「演じる」のはね、俳優さんだけで良いんだよ、って、言ってあげられる誰かがたくさんいれば良いのかもしれないし、そう言える誰かであれることが、小さいながらも自分なりの貢献と呼べるものなのかもしれないと思う、そう言える人でありたいと思う。
2005年05月13日(金)
軽やかさ。
たくさんの人たちの今を垣間見る度に、最近どうしようもなく思ってしまうことがあって。年齢という要素にそこまでの意味はないと知りつつも、私よりも少しずつ年上の、数人の方々のそれぞれの今、という事実が事実として横たわるに至った過程を思うとき。その“差”を産み出したモノって、一体何だったのだろうなぁ、とぼんやりと思うんだけど、それって何だと思う?
それが将来のある時点において“差”と呼べるほどの決定的な“差”となることなど無自覚に、これがわたしの生き方なのよ、と、“生き方”ということばで自己の思いのすべてを収束されていくしか道は無いのかもしれないなぁ、とか思うと、無性に淋しくなるんだけど何なんだろうね、これって。
というか。理想は、“すべての道具を知恵へと置き換えること”なのかもだね。細かいことを飛ばして凝縮して表現すれば、物理的な荷物も、精神的な荷物である自意識も可能な限り少なくして、軽やかに進めば良いのだと思う、そうそう多分、“軽やかさ”ってのがポイントだと思うんだ。
だから、まずは足を引っ張る人たちからは“上手く”逃げることだね、“上手く”逃げるためには、“違う”という“差”を“上手く”感じさせるのが一番で、少なくとも僕はそういう方法でやりたいようにやることの自由さを手に入れたような気がする、資本主義という“制約”の中で、だけどね。
ほとんどの人は「お金」というボトルネックがあるが故に記号へと夢を託す。自分が有利な立場であることを示すために権威的な記号を付加し続ける傾向があるように思う。けれど、そういうメンドクサイ作業をしなくてもこうすればいいんだよ〜、というような感じで、ひょうひょうとしていて、それでいてそうできる状態へとすべてを持っていける凄みがあって。
なんか好きだな、と思う、こういう自由な気分を味あわせてくれる人って。
2005年05月12日(木)
贅沢な孤独の時間を。
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『壊れた窓理論』を読んで。
「 そりゃあ、女ももっと男に優しくするとかね」というような「男」の問題を話しているのに「女」へとその責任を転嫁する手法とか。
「でも、俺、そんなに女を支配していないけどなあ……」というような「男」の問題を「自分」の問題だと勘違いしているような発言とか。
そういうのって、世の中にはすごく多いし、その場では曖昧に「ですね」と言うことが日本では「普通」だと思われているし「お上品」だとされている節があるけれど。そういうのが積もり積もって、「私的制裁」を許すような土壌が出来てきたのかもしれないし、いわゆる「論理的思考」が欠落してきた原因なのかもしれないな、と思ったりする。
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最近のニュースを見ていて思うに。「安全」を得るコストがすごく高くなっている現代日本であるが、一体どこまでをパブリックなサービスとして提供するのかをはっきりと宣言しないと、曖昧なグレーの領域で儲けようとする企業が増えてくるんだろうなぁ。
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ということで、とりあえず、平和な世界を望みまする、アーメン。
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日経平均がどうとかあそこの株価がどうとか増配だとかどうとか。そういうニュースを集めつつでは実際どうしようかなあと考えつつ、気分転換に日記を書くとか。で、次いでに友達とメッセンジャーで話すとか。で、「明日3こ下の子とデートなんだよねぇ♪」という話を友達に聞いて「いいねぇ、若返りだねぇ♪」とかおばさん臭い会話をするとか。。
あまりにも日常的であるが故に希望という言葉へは収束することを躊躇する、そんな、ささやかな希望の欠片に支えられて何とかやっている。そんな気がする、ここ最近特に。。
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ああ、儲けたいなぁと思う、爆発的に儲けてぇーーと思う。あ、たぶん、こういうこと普通に言うから「変人」とか「激しい」とか言われてしまうんだろうな、ふむふむ。。
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目に映る風景が変わっていくのを眺めつつ、こういうフレキシブルで無責任な生活を送れるのって良いものだなぁと思った。
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何がどうとか、あれをこうすればこうなる、とかじゃなくて。
人として、魅力的な人になりたいと切実に思った。と同時に、
なんだ、「夢」ってこういうことだったのか、と腑に落ちた。
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あ、今、私ね、贅沢な時間を過ごしているのだよ。贅沢な孤独の時間を。
2005年05月11日(水)
無秩序への耐性。
以下、最近思ったことを色々と日記化。
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「男が女を選び、女が男を選ぶことの中には、
選んだその人の全人格が現れている。」
(愛子の女大学、佐藤愛子)
という言葉について思いを巡らしてみた。とすると、相手を観察することで自分の選好が解るのかも。と思いつつ、ソファで寛ぎつつテレビ見て「ひゃひゃw」と言ってる彼を眺めてみた。なるほどな。。。と思えた。
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“特に男性にとっては、同棲は「便利なライフスタイル」”、という記述を読んで。うーーん、何故今あなたがそういう考え方を“選んでいるのか”、そこへと至るまでの過程を考えてみると色々とわかるかもしれないし、そっちのほうが興味あるかも。
これ偏見かもしれないけど勝手に思うに、そう思っていることを対外的に表示することが、「お上品だと思われるコツ」だと思ってるような雰囲気を感じたのであるが、気のせいなのかな、ふむ。。
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久しぶりにラブレターをもらった。
「stillじゃなくてagainなのがポイントなのだw」そうだ。
変化していくことを前提とした“again and again”って、“I still love you"って言われるよりも嬉しいものかも、しれない。
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というか、今、急に思いついたのだけれど、「無知のフリをするという知」って、すごく大事ですよなぁ。それを極めたいと思う。少なくとも経済的に自由になれるまでは、「無知のフリをするという知」こそが、「知的欲求」を守ってくれるんだと思う。
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というか、人の性質に対して「断定」できることなんて何もなくて、人の性質って単に「相互作用」によってどうにでも変化するもの。なんだけれど、なんでそれを知りつつも、「断定」できることorすること=優れたこと、という解釈へと捻じ曲げなくちゃならないのだろうなぁと思う、資本主義の現場って。。
人をヒューマンリソースと看做すことまでは、どうにか同意できる。けれど、人=資源、が転じて、人=管理可能なモノ、になっているような感触を受ける。たぶん、「わかりやすいもの」=良いもの、っていう風な、短絡思考の人たちが資本主義的世界の中では有利な立場にいる、ってことなのかもしれず。そんな最近であるよ。。
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もしかすると、すごーーく遠くから眺めてみれば、「親は素晴らしい人なのに、子供の方は……」と思う人もいるかもしれないし、また違った視点から見てみると「あんな親から、よくこんなに出来た子供が生まれたもんだ」と思う人もいるんだろうな、うちの家族のこと。。
でも、まぁ、我が家の場合は、「子も子なら、親も親」のパターンだな、と思う。。というか、基本的にうちの家族は“外形上は”まともに見えてるようだし、自分自身も「まともといえばまともだな」と思う。んだけれども、マトモはマトモなりに問題があるんですよなぁ、そのマトモさ故に。。
で、一番の問題はたぶん、「マトモを保持しようとする志向性」かな、と思う。そのマトモな健全さこそが、ちと毒なんだよねぇ、こういう子供が生まれちゃうとさ、マトモな子供が生まれた場合と比較すると、「マトモを保持しようとする志向性」こそが、障害物になるものなんだよな、ふむふむ。
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というか、いきなりまとめますと、個人的には過去の経験上、子供の特徴を早期に発見し、その特徴を伸ばすことを重視する、で、勉強というモノは、その特徴が花開かなくなったことが判明した場合の第2の選択肢、という感じの子育てが良いのかな、と私は思うのであるよ。そのほうが、いろんな意味で幸福だな、と思う。
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うなされて朝早〜〜く起きた。
何と言いますか、どうも過去に出会ってしまった“勘違いな人たち”(心の短小くんを数名含む。もちろん例の短小センセイも含む。)の言動などが、時としてフラッシュバックされるのである。
別にそういうトンデモナイ方々というのは、この広い世の中には予想以上にいらっしゃるのであろうし、いちいちトラウマになどしていられないのであるが、どうしてもたま〜〜に、思い出してしまうんである。
なんというか。。私が出会った“勘違いな人たち”は、とりあえず犯罪者でもないし“勘違いな人たち”という表現のレベルに収まってはいる。んだけど、それでもこれだけうなされるなんて、犯罪に巻き込まれた方々の苦悩を想像すると、それってすごいことだよな、としみじみ思う。トンデモナイ方々に、どうにかしてマトモな世界から出て行ってもらうことは出来ないのだろうか、とマジメに思ってしまうよ、最近の事件とか見てると。
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ポイントは「秩序への欲求」をどの程度削減できるかなのかもしれず。心理学的に言っても、人間は一貫性があるものへ惹かれる。で、どっち道、思考というものは、時間とともに、一貫性という秩序へと収束してしまうのだが、思考が秩序付く前にどのくらい無秩序の中にいられるのか、が、多分、市場で勝つポイントの1つなのだろうなぁと思った。で、もっと言えば、「無秩序への耐性」があれば、狂わずに済むんだと思う、たぶん。
2005年05月09日(月)
「彼女の恋」に「恋」をする。
どうやら私は、昨夜から何かにつけて何度も「恋って良いなぁ〜」とほざいていたらしい。。ほとんど無自覚に、である。で、それをずっーーと聞いていただろう彼はあきれたのでありましょう、「いい加減恋に恋してる発言はやめなさいよ〜」「
『脳と仮想』もう1回読んでみなさいよ〜w」と言われた。。
で、「というか、それ解っててほざいてるんだからイイでしょうに〜」と返したところで思うことあったので日記化。以下、今回わたしが「恋って良いなぁ〜」とほざくきっかけとなった「彼女の恋」を、第3者である私が思い浮かべる時の脳の動きを科学的に。。
まず、「恋って良いなぁ〜」とほざくときに思い浮かべる「恋」。って、自分の経験や知人友人の経験や読んだり観たりした何か、要するに、“過去” の「記憶」の総体を軸として形成された“恋らしきもの”が、何かをきっかけとして自己の脳内に鮮明に広がる場、つまり、脳内での意味空間そのもの、なのでしょうなぁ。
要するに、クオリアや脳科学研究の結論そのままに、「恋」は脳内現象であって、煎じ詰めれば、私が「恋って良いなぁ〜」とほざくときの「恋」というのは、“私”という脳の主観的な好みを反映した脳内映画館もしくは脳内文学みたいなもの、であって、自己完結的なのである。
だからといって、「恋に恋する」のがダメとかじゃなくて、「恋らしきモノを脳内で映像化してそれを恋だとみなすと、脳内で化学反応が起きて気持ちよいんだなぁ〜♪」という科学的現実を見据えた上で、「恋に恋する」メカニズムに身をゆだねるのは楽しいものだなぁ、と思うのであった。。
というか、今ふと思ったけど、「恋に恋する」の「恋」って、あまりにも演劇的でゲーム的な感覚を受けるけれど、それでいて決定的にインタラクティブ性を欠くものなんでしょうなぁ、だって「恋に恋する」のって自己完結的だから。。要するに、「相手」の動きが予測可能である(と思い込むことが許されている)というのが、「恋に恋する」の恋であって、「恋」ではないのかもしれないですね。。だからきっと、「恋に恋する」的な発言って我がままに聞こえて、「やめなさいよ」って言われるんだろうな、ふむふむ。。
2005年05月07日(土)
恋って。
ある方の日記を読んで、「恋って良いものですなぁ♪」としみじみ久しぶりに思った♪私も、ちと見習って、精進しようと思うw(写真はイメージ画像。私ではありませんので注意w)
で、「恋って良いものですなぁ♪」と思った次いでに、自分の恋愛について考えてみた。ので、以下、思いつくままに書いてみまする。(要するに、過去をまとめて、傾向をつかもうかな、と。。)
まず、相手を好きになるときの評価基準を冷静に分析してみまする。第一段階として、「目を心地よい状態にしてくれる相手かどうか」を重視している気がする。要するに、好みの外見かどうかであり、好みの風景を形成してくれる人かどうか、である。第二段階は「音」(要するに声とか食べ方とかそういうの。)。声は大きめ&はきはきしている人を好ましく思い、無駄口が多い人は嫌いらしい。(寡黙の一歩手前くらいでちょうど良いように思う。)
で、次が「肌感」。これは上手く説明できないけど、要するに、フィットする感覚があるかどうかであるように思う。そして、第4段階が「論理的思考力」。知識の保有量はどうでもイイとして、考え方の枠組みがちゃんとしているかどうかは、すごく気にするポイントなような気がする。
で、この4段階を超えて恋愛へとつながっていく人って、私の場合、すごーく凝縮すると、要するに「近づき難い男」なのだなぁ、というコトについ30分前に気づいた次第である。
というか、逆に言えば、「近づき難い男」に好かれる傾向が多々あるようにも思う。ので、このあたりは相互作用的な要素が大きいので何ともいえないのだが、そういう男が好きなのは確かなような気がする。(こういう男というのは、私のようなわけのわからない女に痛めつけられたり手玉にとられたりするのが好きらしいのである。皆様の周りにおられますクールで何事にも動じなそうな「近づき難い男」も、家では可愛らしくしていますのでご安心をw)
と、さっき「近づき難い男」とご飯を食べながら色々と考えていたら以上のことに気づき、なるほどなぁ〜と一人で納得した。と、どうでもイイことばかり書いてしまったけど、自分にとっては新発見だったので日記化w
2005年05月03日(火)
連休の日々。
以下、ダラダラとふつうの日記。
ホテルから帰宅してからは、いつもどおり朝早く起きて昼間くらいまで例の勉強を進める、という日々である。(あ、でも午前中少しだけ海行った。)まだ完璧といえる水準まで記憶できたわけではないけれど、ほぼ7割くらいの範囲は終了。明後日くらいから復習期間へ入れるように、後の3割を今日&明日で急ぎ足でやってしまうと思う。
というか、ここ最近、久々にマトモに記憶力を問われる勉強に取り組んでみて改めて気づいたけれど、勉強というのもまた無常になれる一種の対象なのかもなぁ。とか思いつつブログ巡回していたら、以下の記事を発見。
■「集中」の恵み
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2005/05/post_b9ba.html
つまり、上の記事内にあった「内発的な気散じをしつつ、ぐっと集中する」という感覚がして、学習というのも宗教みたいなもので、安らぎの源泉になりえるんだなぁとか思った。(というか、ここで述べた、学習も一種の宗教、というのは一般論として自明のことなんだけど、個人的にそう感じたという意味で、日記化。)
というか、私もGWって昔から嬉しいとは思わないかも。。と、
こちらのブログ読んで思った。では少し休んでリサーチ仕上げることにしよう、ふむふむ。。(ちなみに、会社やってる知人もやはりいつも通りの過ごし方してるらしい。。)
2005年05月01日(日)
入れ替えの原則。
以下、この前書いたGWの課題である
「将来を長期的に考える」の続き。今朝思ったことを日記化。
何を「普通」だと思っているか、こそが、その人がその人である理由そのもの、なのかもしれない。例えば、私はこうして日々を自分のために使うことが普通だと思っているけれど(念のため書いておくと、自分のために使う=他の人のために使わない、というワケではないのでそこらへん勘違いしないでくださいなw)、そうじゃない人にとってはそうじゃないことが普通なワケで。
思うに、より良い「普通」を選んで、今ある「普通」と入れ替えていくことこそが、自分自身を気持ちの良い人にしていく一番良い道なのかも。耐えるとか、我慢するとか、啓発するとか、ではなくて、そういった心理的力学を何も加えずに、ただ入れ替えていくこと。入れ替え続けたその先に、そうなりたいなぁと思っている将来の自分がいるような気がする。
ということは、後は、単純だけど、理想像と現状のギャップを明らかにして、ギャップの主原因となっている習慣や考え方を、よりよいものへと入れ替えていくだけ。
と、ここまで考えたときに、数年前に読んだ本に似たようなことが書いてあった気がして本棚を漁ってみたら、出てきました、はい。
書籍『あなたに奇跡を起こす小さな100の知恵』より以下引用。(→文庫で内容も軽めと言えば軽めだけど、寝る前とかに読むと良い本です、はい。)
「今していることをただやめることはできない。白紙の状態を続けることは、いかに強い意志や決意をもってしても不可能だ。1つの習慣や姿勢をやめるには、何か別のものと入れ替えなくてはならない。(中略)すべてのものは、ただ消えることはできない。何か代わりのものと入れ替わるか、変化するしかないのだ」
(書籍『あなたに奇跡を起こす小さな100の知恵』、p81より引用。)
ということで、入れ替えたい習慣と思考を今日は搾り出してみることにしまする。
ちなみに、「日誌をつける」という項目もあったので、次いでに引用。やはり、日記を書くのは大事なことなのですよなぁ、ふむふむ。
「おそらくあなたはすでにもう、たくさんの閃きを得ては、取り逃すことを繰り返しているはずだ。だからこそ、自分の思考を捕捉するために、日誌をつけることが重要なのだ。閃きは、一度去ってしまうと、なかなか戻ってこない。確保しなくてはならないのだ。」
(書籍『あなたに奇跡を起こす小さな100の知恵』、p170より引用。)
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