時間堂の「三人姉妹」を見た。 http://blog.livedoor.jp/jtc2007/ このお芝居を見て思ったのは、チェーホフって面白いな、ってことと、 お芝居ってやっぱりすごいな、ってこと。
稽古場を見学させてもらっていたので、最初に通しを見たのも、そのときだった。 通しを見終わった時に、すごくびっくりした。 時代も国も違うチェーホフの物語を、とても身近に感じたから。 自分の日常の物語のように、感じたから。 訳の言い回しも古いし、わからない単語もいっぱい出てくる。 理解できない時代背景もある。 それでも、ああいつの時代も人って変わらないのだなって思えたし、 そういう人間を描いた面白い物語に、古いも新しいもないんだって感じた。 何より、チェーホフって、笑えるんだっていうのがびっくりで。 人が賢明に生きてて、当事者にとっては悲劇かもしれないのに、傍から見てると滑稽で、それはつまり、いとしいってこと。 そのいとしさは翻って、自分のうえにしずかに降りてくる。 生きていこうと思える。力強くて。 でもこれって、ただ一度脚本を読んだだけじゃ絶対味わえないもので、役者さんの体を通った台詞と動き、感情と、さらに言えば人の間の距離、関係、 そういったもので立体化されて初めてわかることでもある、だから、お芝居って本当にすごいって思った。 いままで私がお芝居に感じていたすごさっていうのは、たとえば、一枚の布が海や空に見えたり、人の体が人じゃないものになったり、そこにないはずのものが見えたり、時空を越えたり、実物を映す映像の世界では起こらない奇跡が、目の前で起こる事、だった。 でも、この三人姉妹を見て、人が人を演じるってことの奇跡を思った、それは、その場でどれだけまっさらになって、自分をひらいて、そう、例えば、実生活なら本当に心を開いている相手にしか見せないような状態を、お客さんに対してみせるってこと、お芝居自分でもやっておいて今さらバカみたいだけど、でもその奇跡を初めて思った。 それで、泣きそうになった。
チェーホフの話に戻ると、「三人姉妹」は本当に面白い。 時間堂のお芝居も何度か見たけれど、見るたびに新しい発見がある。 人がみんな生きている。 それを感じたのは、登場人物がみんな、ただ尊敬できるだけ、という人もいなければ、ただ悪役って人もいなくて、みんな切実に生きていて、だから、でこぼこなんだけど、そのくぼみすらいとしい。 そして、たくさんの登場人物がいるのに、そのくぼみのかたちがみんな違っていて、誰一人同じじゃない。 でも皆どこかで理解できる気がする。絵空事の人がいない。 これってすごいことだ。話を動かすためだけの人がいないの。 もっといってしまえば、その登場人物の語りの中にだけ出てくる人がいる。 自殺未遂ばっかりしている奥さんだとか、議会の議長である不倫相手だとか、でも、その言葉の中だけの人も、ちゃんと存在を信じられる。 これは、脚本のすごさもあるけど、きっと、役者さんのすごさでもあるんだろうな。 それがつまり、役を生きるということなんだろうな。説得力がある。裏側にもちゃんと生活がある。
ここから物語に触れるので、知りたくない方は読まないでくださいね。 でも、支離滅裂なので、読んでも、わけわからないかもだけど。あと、芝居の感想と言うより、芝居を通した、物語の感想になってしまうけど。
最初に通しを見たとき、長女のオーリガをとてもいとしく思った。 長女という立場が自分と重なったかもしれないけれど、彼女の飲み込んでいく姿勢に、涙が出た。 四幕で、校長先生になってしまったから、それはつまりモスクワにいけないってことだ、っていうオーリガ。そこにあからさまな悲しみはもう見えなくて、でも、ああ飲み込んだんだなっていうことがわかる。 それは我慢とかじゃなくて、あきらめに近いのかもしれないけど、でも、そこまでネガティブなものではないような。 一番、地面に足がついている感じがして、それは羽と引き換えにした安定かもしれないけど、でもだからこそ生命力を感じて。 オーリガは、「頭が痛い」っていう。苦痛が体に出る。それは、感情の時点で発散せずに、飲み込んでしまうからだ。 それもすごく、肌に感じるところがあって。 そういう意味では、マーシャは言葉に出る。詩の一節を口ずさむ。口笛ももしかしたら同じなのかも。感情を飲み込んでいるところまではオーリガと一緒だけど、流し方が違う。こういうところも、役の個性だなって思って、チェーホフの人物の描き方が興味深かった。そして体現する役者さんの表現も、やっぱり全く違っていて、それもまた面白かった。 私が三人姉妹で最初の最初に好きだっておもったのは、三人姉妹がはじめてヴェルシーニンに会うところ。三人でくっついて、キャッキャッてはしゃいで。ああいうとき、姉妹って本当にああいうふうなるなって、私も妹がいるので、思った。一人一人は全く別の性格なのに、姉妹って時々、「姉妹」っていうひとつの人格になるんだよね。私も妹と似てるとは全く思わないけど、例えば久しぶりの親戚に会うときとか、妙にくっついたりしてしまう。 そういう自分を見ている気がしておかしかった。それで、三人がいとしくなった。ずっと昔の物語なのに、人間て変わらないんだなってここでも思った。
そうやってオーリガを中心にしてしばらく見ていたんだけど、徐々に、トゥーゼンバフとソリョーヌイに関心を持ち始めた。 なんだろう、決闘ってすごく(現代人にとっては)時代錯誤だし、理解もできないけど、でも人が死ぬんだって思ったら、トゥーゼンバフとイリーナの別れのシーンが胸に刺さった。人が死ぬって、たとえ軍隊がいるような世界でもやっぱり、ものすごい一大事だもの。 トゥーゼンバフは、やさしいひとだと思った。だからソリョーヌイもどこかで受け入れてしまう。でもそのせいで命を落としまう。 いとしい人が自分と結婚すると言ってくれているのに、その人が自分を愛していないことが分かってしまったら、どんなに苦しいだろう。きっと、イリーナが自分を愛していると少しでも感じられていたら、決闘はしなかったんじゃないのだろうか、と思った。全力で逃げて幸せになったはずだと。 別れのシーンの最後で、「コーヒーを入れておくように言って」というようなことをいうのだけど、それは本当にいいたいことじゃないのがわかる。言葉が心に抗っている、あるいは、何も言えない喉がかろうじて絞り出そうとして、それが最後の言葉になってしまうかも知れないのに本当のことは伝えられず、でも何か言おうとして、その、喉が言葉に抗う感じ。日常ではよくあるけれど、そもそも人が書いた言葉を言う演劇と言う場で、ここまで体が言葉に抗う感じを身体レベルで感じたことはなかったきがするから、なんか、台詞から自由になるってある意味こういうことなのかなって、思った。自由だからこそ、体が本当に台詞に抗う場面でそれがありありと違和感として伝わってくるんだろう。感情の塊のようなものとして、意味じゃなくて、伝わるんだろうと思った。 一方でソリョーヌイも、恋敵とは言え、一番心を開いていた(ように見えた)人を殺してしまう。愛は押し付けないけれど、恋敵は許さない、っていう、心、それはでも現代の人間にも通じるところがあるような気もするし、ある意味では現代の人よりもより気位が高いと言うか、いまならばすぐ相手の命をあやめてしまいそうだもの、そこにも、ソリョーヌイというひとの、どこかで気高くあろうとしてでも道をはずしてしまう感じを思って。誰かが彼を心から受け入れてあげたらよかったのにと思わずにいられなかった。そこに一番近かったのが、トゥーゼンバフだったんだろう。 この二人の組み合わせと言うのも、とても絶妙だなって思った。
三人姉妹を見てほんと、だれも憎めないよっておもう。でも皆バカだよって思う。 私はオーリガをとてもいとしく思ったけど、自分に一番似てるのはナターシャだと思うから、なかなか複雑。でも、だからこそナターシャの変化は私にとってはとても切実。自分を外から見てるようで、いろいろ感じるところがあった。 そしてナターシャの鏡となるようなアンドレイもとっても切実。アンドレイもどこか自分に似ている気がするし、そうすると、アンドレイとナターシャってやっぱりどこかで似たものどうしなのかもね、って思った。
時間堂の話に戻ると、稽古のときに見たとき、チェーホフって笑えるんだなって思った、それは役者さんたちのリラックスの度合によるものでもあるのかもしれない。 やっぱり本番には緊張感があってそれは当たり前なのだけど、でも、あの、笑ってもいい感じが舞台でも出たら、もっともっと面白くなるんだろうと思った。 それは「笑わせる」っていうことじゃなくて、柔らかさ、に近い気がする。 でも本番では役者さんたちはみんな、役以外のときには、無機的な物体を演じているわけで、そう言う意味ではやわらかさからは一番遠くて、そのへんですごく難しいんだと思うんだけど、でもきっと本番直前まで流れているものはやわらかさと思うから、それがなんとかにじんだらいいなとか、思う。 あと、私はやっぱり、稽古から見せてもらっていたから、役者さんたちの見分けがつくし、あと、ロシアの人の名前が実際の名前と愛称でずいぶん変わることも知っていたから、誰と誰が同一人物かを瞬時に把握することができたのだけど、もしかしたら予備知識がないとずいぶん混乱してしまうものだったのかもしれない。 その辺りがもうすこしお客さんとの間で共有できるといいのかもしれないなと思った。サモワールが何かとか時代背景とかは充分想像で補えるし、わからなくたっていいのかもと思うけど、登場人物が把握できないのは、結構しんどいなと思う。 あと、以前シェイクスピアを見たときも思ったのだけど、複雑な話って前半は役と役との関係性の説明ばかりで、退屈だったり、ともすると睡魔に襲われたりもする、それは脚本レベルでそういうふうにできてるんだと思う。でも前半を乗り越えて関係性を理解すると、後半は一気に話が動いて、あっという間に時間が過ぎるし、おもしろい。一番いいのは全編楽しめる事だけど、たとえ、脚本世界にたいする事前情報の無さとかで、前半が退屈に思えても、それを踏まえての後半は引き込まれるんだと思う。だから休憩ありの古典作品で前半のみで帰っちゃうっていうのは、本当にもったいないんだ。 前半だけで帰ってしまったら、前半の時間は無駄になってしまうけど、実は最後まで見たら無駄じゃなかったってことも、あると思う。 だから、もう残り少ないけど、これから時間堂の三人姉妹を見る方には、どうか、前半が万が一肌に合わないと思っても、最後まで見て欲しいです。最後まで見て判断しても全然遅くないんだと思います。
何度見ても、というか、見れば見るほどに新しい発見があるから、何度でも身にいきたくなってしまう。 脚本の強度と、作り手の姿勢。 きっと、この先チェーホフをみることがあっても、こういう作り方にはなかなか遭遇しないだろうから、みられるだけみておきたくなる。 しかも、毎日芝居が変化しているから、見れば見るほど、面白いです。 自分もがんばろうと思える。 いろんなものにもっともっと触れていきたいと思える。 もっともっとひらいて、吸収していきたいと思える。 お芝居って、やっぱり、すごいや。
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