人生事件  −日々是ストレス:とりとめのない話  【文体が定まっていないのはご愛嬌ということで】

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2003年05月31日(土) 本当の気持ちだけは、告げずにいたい

本当の気持ちは胸の奥底にしまいこんだまま、私は彼に好きだと告げ続ける。

酒に弱い私は、生中(でも、昔に比べてジョッキの大きさが縮小傾向にあるようだが、それでも)なら1杯、カクテル系なら2杯(グラスがよほど小さくなければ)で顔が真っ赤になる。そして、それ以上に頑張って飲むと、おやすみなさいの世界に行ける。だけど、おやすみなさいの直前は身体が急激に冷え、手足の先がしびれてしまうので、弱さがうかがい知れる。
私は酔うと、自分自身の話に口が軽くなってしまう。自分からぺらぺらあんなこんな、と話すタイプではないのだが、聞かれれば答えるタイプ。素でも結構赤裸々に答える私が、酔っているときにはもう、品がない。というか、行為とかそういうんではなくて、内面の、本音にとても近い部分が曝け出される。
だから、彼と飲むときには、気を抜かないように気をつけている。

2年半付き合っている彼との結婚については、「年齢も場所も離れているから、多分結婚はしないよ」と友人や職場の同期には表向き言っているけれども、その裏にある、彼の親と私の親の介護の不安や、経済的な不安(彼は数年前に転職している)、今の仕事を辞めたくない(場所は問わないが、就職難)、両親の反対など、そういった具体的な現実的なことは、ほとんどもらしたことはない。
でも、時々すごく強い気持ちで、彼と一緒になりたいと思うことがある。私は、自分で言うのもなんだが、とても愛されて育っているので誰かに無償の愛を注ぐことに抵抗はない。愛することが当たり前で、愛されることが当たり前で、甘えることも甘えられることも厭わない。だから、私と一緒になったら、相手はしあわせになれると思う。彼を好きだし、一緒になりたいと言う気持ちは、ないわけではない。
でも、すべてを量りにかけたら、揺れすぎて、未来はないときっぱり別れる道も、新しい人が見つかるまでのつなぎとする道も、どうにかなるさと目をつむって結婚する道も、見極められず。

酔ってタガが外れかけても、好きだ愛してるとキスして抱きしめて、と公道でねだるくらいで、実際問題、私たちの関係をどうしたいかだなんてことは絶対に言えない。彼も、私がその話題を避けているのをうすうす感じたのか、最近では結婚のことは言わなくなった。

結局、そんな気持ちを抱えながら、私はダラダラと交際を続けているわけで。

やっぱり好きなだけじゃダメなんだ、と考えすぎる大人になった自分が少し、バカだと思った。


2003年05月29日(木) ふるさとは永遠なんかじゃない

置いていかれたのか、置いてきてしまったのか。

好きだった場所が土地開発によりビル街になってしまったり、お気に入りだったカフェが閉店してしまったり、そういうことが年々増えている。これも、私が年を重ねているひとつの証拠なのかもしれない。

幼い頃は、近所の商店街は永遠のものであって、近隣の人もみな、そこにい続けるものだと思い込んでいた。けれど、人の生活は移り変わるもので。
私も、今実家のある土地を2度離れた。妹も、昨年の春に実家を出た。実家の隣家の娘さんも、初めて会ったときには小学生だったのに、今はもう高校3年生。

短大時代、東京下町に下宿していた。風呂なし和式トイレ6畳プラス1畳半の台所の、管理費込みで3万3千円と言う、当時の女子大学生にしては安普請で小汚い部屋を借りていた。風呂がなくても、歩いて1分以内に銭湯があり、自転車を使えば5分以内に3〜4軒銭湯があるような、そんな場所だった。月のものが来たときには、食事を作りに友人宅に行ってついでにシャワーを借りたりと、そういう生活をしていた。私の実家周辺には銭湯はなかったため、例え胸がなくとも人前で裸になることを厭わなかった私には、銭湯生活はひどく楽しいものだった。

だから、私が足繁く通っていた銭湯は、1番近い銭湯だった。フルーツ湯(柑橘系)も打たせ湯も寝風呂もサウナもマッサージ機も、何にもない銭湯だったけれど、私は古ぼけた壁の絵と、その銭湯では乳幼児の次に若かったお得さんである私が行くと、最初はおじさんが番台にいたはずのに服を脱ごうとするとおばさんにチェンジしているという、不思議なところもまた、好きだった。だけど、私がそこに通っていた2年の間に、開店時間が縮小され、開店日も縮小され、そろそろやばいか?と思いながらも引っ越す最後までお世話になった。
そんな我が思い出の銭湯は、2001年12月23日に廃業したらしい。そのことを、今日知った。

私の第2の故郷は、もう昔の面影を失いかけているのかもしれない。


2003年05月27日(火) 役所内をたらい回しされた末、辿り着いた先は

『引っ込み思案』と『へっこみ自慢』は似ている。

平成12年度から開始された、介護保険制度。私も申請受付事務をしたり、訪問調査したりと、関わっております。
介護保険制度はその名の通り、お年寄りとその家族のための制度です。ネットで調べてみれば、たくさん出てきます。市町村や在宅介護支援センターなどの業者のサイト、個人のサイトでも詳しい内容説明がなされているので、今更私からは詳細はお伝えしません。
ただ、私がどうしてもこれだけは、と思っていることを以下に挙げておきます。

※65歳になって介護保険被保険者証が届いたからといって、介護保険サービスが必ず受けられるというものではないこと。
 (役所にて申請→訪問調査実施・主治医の意見書を主治医に依頼→市町村に訪問調査結果・主治医の意見書提出→審査判定して要介護度の決定→要介護度がつけばサービス利用可能)

※病院関係者には介護保険対象者や申請方法を知らない者が多いので、申請すれば即サービス導入OKなどということを鵜呑みにしたまま市役所に来ないこと。
 (退院の見込みがしばらくない方、容態がすぐに変化しそうな方、その疾病が治ってしまえば生活に不自由のない方、等)

※日常生活動作(食事・排泄・移動・掃除・清潔行為、等)がご自分で行える方には、要介護度(サービス利用可能状態)がつきにくいこと。
 (『要支援』・『要介護1〜5』の他、『非該当』という判定もある)

※介護度がついたからといって、施設に空きができ次第入所ができるとは限らないこと。
 (待機者の介護度の高い方から入所させることになっているので)

※介護保険申請よりも先に受診したほうがいい方もいること。
 (調子が悪くて食事もままならぬ下血のある寝たきりの本人が受診を嫌がっていて病院に行っていないが、ヘルパーや入浴サービスを利用したいので介護保険を申請したいと言われても申請受理できません。栄養失調や症状原因究明のための検査、治療開始にて入院、という図式が目に見えています)

そんなこんなでね、本日の終業時間1時間前に、ちょっと市民様との間にトラブルが生じて、私、へっこんでしまいましたの。私が家庭訪問に行って、介護申請より先に受診をしたほうがよいと伝え、介護保険については一応説明した、高齢者を家族に抱える市民様と。

私の説明がおかしかった病院では違うこと言われた、対応がダメだったと激怒して、電話してきた。電話を取った先輩保健師に「佐々ちゃんが対応した方みたいよ」と電話を手渡され、私が責任を持って対応したのだけれど、「もういい!」と切られた。そして市民様は電話を切ってから5分後、直接事務所に来た。「もういい!」っていうのは、「電話はもういい!」っていうことだったのかもしれない。
私はそのとき、所長にその市民様宅訪問時のことを説明しながら、一生懸命説明したのに説明不足だったのかもしれないとシクシク泣き出していたので、窓口には出られなかった。

結局、先輩保健師が対応してよくよく話を聞いたら、私の説明が悪かったのではなく、私の助言どおり受診した先の、介護保険について明るくなかった市民病院関係者(今回のは看護師。もちろん役所の人間)の間違った説明と、役所の職員(介護保険担当の課)が電話を課内で回しに回して代わる代わるした説明から、市民様は訳がわからなくなって、結果、関係者の中で1番若そうだった私が間違っていたのではないかという結論に達した、ということが分かった。
帰り際、市民様は私がシクシクしながら衝立の向こうにいることも知らずに、「佐々木(仮)さんに申し訳なかったとお伝えください」とションボリした声で言った。

1回100%へっこんだ気持ちは、すべてのナゾが解明しても50%くらいにしか膨らまず。

だから本日は、とってももやもやとした胸の内。


2003年05月26日(月) まさか健診でまで、こんなことになるなんて

もはや、死活問題。

地方自治体にお勤めしていますので、労働安全法に則って年に1回健康診断を受けなければいけません。今日がその日でした。

私の指定された時間は午後2時半から3時半の受付。朝ごはんは軽く食べたら、その後は午前10時まで飲水だけで過ごせといわれていた。午前10時以降は飲水すら禁止。
いつも、朝食はしっかり取る。パンが主で、あとはバナナ食べたりヨーグルト食べたり、時々目玉焼き作ったりプレーンオムレツ作ったり。食事が人生の基本である私は1日3食、1食たりとも、手を抜くことはできない。
なのに、そんな私に酒を飲みすぎた次の日でもないのに『軽く』だとか、病気で食べられないわけでもないのに『抜け』だとか、まさに拷問だ。

午前10時半頃から、なんとなく小腹が好いてきた。午前11時頃から、少し頭の回転の鈍さを自覚し始めた。午前11時半頃には、電話が鳴っても反応が鈍くて他の人に応答されてしまい、自分の机の受話器を上げることが少なくなった。午後12時、昼休み開始。だけど、お昼休みも仕事をして、空腹を紛らわせていた。

同僚たちとは業務の都合上、日にちが異なっていました。私が職場では1番バッター。みんなが食べている臭いをかいでいたら、涙が出そうになりました。

午後1時頃、目つきが険しくなっているのを感じた。机に広げた資料は一向に片付かず、時計と睨めっこ。

ようやく、健診を受けに職場を出た頃には、何だか足元がふらついていました。薄日のはずの太陽が、やけにまぶしすぎました。

健診受付場所に行き、4時間近くも飲水していないのにお小水を無理に出して提出し、身体測定し、視力検査をし、内科の先生の診察を受けた後、事件は起きた。

採血していたらですね、ちょっとだけ、顔が青くなってみたりして。

スピッツ5本分、事務職よりも医療従事者は本数が多かったわけで。採血されている腕を、スピッツに入っていく血液を、私はじっと見ていた。だって、身体をねじったら血管が沈んで採血しにくくなるの分かってたし、見えないといつ終わるのか分からない不安がわきおこるので、ひたすらじっくり見守っていたわけで。

採血終了後、決して貧血持ちでも血液に気持ち悪くなったわけでもないのに勝手に血の気が失せた私は、おばちゃん看護師さんに誘導されてベッドへ。

空腹のせいで、とは言えませんでした。

しばらく休んでいたら、血液が随所でどくどくと勢いよく流れるのが感じられた。身体が血液循環を頑張りすぎて、顔も真っ赤になってた。
その後は、心電図とレントゲン。心電図では、脇に近い胸元にシートを貼られたときには「う、もうだめ…くすぐったいっあははっ」と笑ってしまって、技術者さんに笑われてしまった。

でもね、血の気が失せたことよりも、心電図で大笑いしたことよりも、もっと恥ずかしくていたたまれないことがあったの。



ぶかぶかのブラ、してるの内科の先生(殿方)に見られちゃった…新品のAカップブラだったんだけどね。
まあ、ぶかぶかのブラっていうより、単に私のが足りないだけみたい。



来年までに、胸が育ったらいいと思いました。


2003年05月25日(日) あの頃、何も知らない女子高生だった私は未だ

高校時代に使っていた沿線に乗るたびに、色々と考える。

もし、元彼に会ったら。もし、高校の同級生に会ったら。
今の私なら、見つかる前に逃げるだろうか? それとも、自ら声をかけるのだろうか?

私は高校は、偏差値で言うのならとても低く、素行で言うのならとても悪く、学区内で学力は下から数えたほうが早いような、そんな学校に行っていた。中学卒業時の私の学力がそれくらいなものだったのだから仕方がない。
だけど、高校卒業時にはそれなりの成績を維持していて、同学年で唯一公立短大に推薦が決まっていて、同学年で唯一公務員試験に合格しておきながらそれを蹴るような、そんな生徒だった。両試験ともに、たまたま小論文と判断推理が得意だったため、合格できたといえよう。
おかげで、やっかまれることやっかまれること。私の性格がますますゆがめられたのは、この時期であったように思う。もともと、少しは他人をねたむけれど「いいなあ」と本人にしみじみした口調で言うくらいのものだった私に、「すごいよねえ、両方受かってるんだもんねえ」といやみな口調が一気に複数向けられたあの時期。
親友だと思っていたOにさえ、関係修復不可能なくらいのことばを言わせてしまった、人生の岐路。

学校の成績が私よりよかったのに、同じ看護師になるにしても専門学校の推薦枠で看護学科という路を選んだのは本人なのに、短大の推薦枠で看護学科に入った私をひどくねたんだ同級生。誰かに醜いことばを吐かせたくて、短大推薦入試受験だなんて冒険したわけではなかったのに。

大学に合格しなかったのはお前との時間を優先させたからだと、そう言った一学年上の彼のことばも、今でも覚えている。私は決して、一緒にいてと、勉強よりも私を優先させてと、そう要求したことは一度たりともなかったのに。

人生の、大きな岐路に立ったときに湧き上がる、あの感情は何なんだろう。
不安と、猜疑心と、嫉妬心と、すべてがごちゃまぜになったような、あのささくれ立った落ち着きのなさ。
懐かしき電車に揺られるたび、私は7年前を思い、切ない気持ちに胸が締め付けられる。

人との関係の難しさを知って涙したあの頃の私は、きっと今もこの電車に閉じ込められているのだ。


2003年05月22日(木) 本当に君がいてくれてよかったと、心から思う

あのね、と彼におねだりする私。

親子の関係がうまくいっていたせいなのかもともとの性格なのか、うちの家族は、自分が寂しいときには寂しいと、口に出して言える。
家族内でたった一人の男性である父も、父の母が亡くなったとき、私の前で泣いた。プライドあるゆえに、彼は妻には涙を見せなかったけれど、今よりもっと幼なかった私の前で、泣いていた。

人のぬくもりが、無性に恋しくなることがある。安心できる相手とのふれあいを求め、時折、私は誰かに抱きついてしまう。
実家にいた頃は、主に妹にくっついていた。妹の、肉厚な手の平をもんでみたり、両足を抱えてみたりと、スキンシップしていた。哺乳類はアタッチメントを求める生き物、と理解していた彼女は、私が全身で抱きついたりしなければ私の気持ちを受け止めてくれた。
そのほか、母のふくらはぎを揺らしてみたり、肥満の父の胸をもんでみたりと、家族内でセクハラし放題だった。

悲しいことがあったり、急に寂しくなると、「ぎゅーってして」「さみしいからなぐさめて」と、私は彼に口で要求する。彼も彼で求められることと応えることがうれしいようで、大抵は聞き入れてくれる。



この半年、ひと月おかず、足しげく訪問していた老婆がついこの間亡くなってしまったと、今日、知った。
ごみ屋敷にひとりで住んでいて、被害妄想があって、親類との付き合いは悪くて、だけど、内臓疾患があって、だからいろんな関係機関がネット組んで見ていた人だった。
私には未だその気持ちは分からないけれど、自分の半分も生きていない子どもに名前で呼ばれるのは、とてもうれしくて優越感のあるものらしい。私にだけ「○○さんて呼んで」と名前で呼ばせ、他の人には先生と呼ばせていた彼女。
彼女が生きていた頃には、困った人だな、と思うこともあったのに、どうして、もう彼女がいないと知っただけで、こんなに悲しい気持ちになるんだろう?

すぐに、彼に「悲しいことがあったから、なぐさめて」とメールした。
明日になったら、私は彼に抱きしめられ、なぐさめてもらえる。

だから、それまで、少しだけ泣くのを我慢しようと思う。


2003年05月20日(火) 時代など関係ない、大学出の人々

大学で学ぶ意味って何でしょね?

定職に就いたことのない、世の中に嫌気がさしたと最近在宅出家を望むヒモ歴30年以上の男。
いくつもの飲食店を潰した挙句、今はフィリピン人の若い彼女を作ってカレー屋を営む男。
ネットで名前検索するといっぱい出てくる、過去は地方公務員だった陶芸家な男。
大学出なことを隠して高校卒業程度の試験受けて、地方公務員やっているもうすぐ定年男。

以上、父(50代後半)の大学時代の友人たち及び本人。全員、出身大学出身学部取得資格を無視した仕事に就いているようです。

まあ、私も私で短大と大学出て、看護師免許と養護教諭免許と保健科教諭免と保健師免許持ってて、今までに2個しか使えていないんですが。

宝の持ち腐れ人間、バンザイ。


2003年05月18日(日) それは今までに、何人目の行為なのかと

意外に純情な自分を見つけてびっくり。

彼に、俺とのちゅうはお前にとって何人目のちゅうなんだろう?と、疑問を投げかけられた。

私が彼氏として認識している人としては2人目。性行為をしたのは1人目。抱きしめあったのは2人目。抱きしめられたのは…手をつないだのは…うーん、忘れた。告白した回数も、告白された回数も、デートに誘われた回数も、ちょっと定かではない。
だけど、よくよく思い返してみれば、ちゅうは、唇でのちゅうは身内を除けば2人目だった。ほっぺにちゅうとか、手の内側や手のひらにちゅうされたことはよくあったけれど、互いの唇と唇を重ねる行為はあまり経験がなかった。

私に好意を抱いてくださる殿方は、何だか肉体的要求は強くないタイプばかりだったように思う。精神的に愛があればいいのさ、今は満たされているのさ、みたいな。手をつないで、抱きしめるまでが精一杯、みたいな。
私も私で、特に己の身体に性欲を訴えられることもなかったので、性的なことをされないことに疑問もじれったさもなかったし。

だけど、彼に素直にちゅうなら2人目だと、他のことも交えて伝えたならば、「おまえの20数年て一体…」と言われた。やりまくりやすべてがはじめてというよりは全然いいと思うのだが。
彼は今年で41歳。16歳が筆卸と言うので、それから考えれば25年余、いろんな経験がないと言うほうがおかしい。嫁もいたし、私の前にも彼女がいた。
私は彼にとって、ちゅうも、抱きしめあったのも、寝たのも、一体何人目なんだろう? だけど、そんなこと、今の私には関係ないからいいのだけれど。

だって、『今』と『未来』が大事なんだもの。


2003年05月16日(金) 名づけてはならない名前

超私的見解。

人権問題があるのでまんま出せないんですが、『●』と『×』と『△』が付く名前は、虐待されたり発達の遅れがある傾向の児が多いね、と私とKさんの意見がこのたび一致。
私たちふたりが抱えているケースに、『●』と『×』と『△』の入った児がやたらいるせいなんですが。

「だけど、やっぱりよくよく見返しても多いよ、『●』と『×』と『△』」と、膨大な要フォローケースのカルテを抱えて溜め息をつく私たち。
悪魔ちゃんなんていうのは言語道断だけれども、やっぱりつけない方がいい名前ってあるよう。その名前って、最近の名付け辞典に、「可愛い名前」「個性的な名前」「夢広がる名前」「響きのよい名前」に載っているのだけれども。

それにしても、ふりがながなければ読めない名前は多い。健診とかで間違えて読んで不興を買ったり。しかし、名前って一生が決まっちゃうから大変だね。あんまり凝った可愛い名前や強そうでかっこいい名前をつけすぎると、将来の容貌とミスマッチ☆なことになったりしてなんだか不幸。

私の本名は、丈夫に育つように、という願いがこめられてつけられたものだ。妹の場合は、妹の生まれた年から使えるようになった漢字から選ばれたものらしい。だから、あんまり珍しい名前ではない私たち姉妹。平凡だけれど、それが嫌だったこともない。

そうそう昔、ある元宝塚の女役の人と同じ名前を持った女の子に出会ったことがあるのだけれど、彼女自身はものすごい不細工で、私と母はものすごく驚いて気の毒がったことがある。だって、だって、だって…あまりにも。

だからね、これから子どもに名前をつける方は、名付け辞典なんぞ見ずに、ぞうぞ感性で無難に名づけてくだすったほうがよいかと思いまして。小難しい字だと、小学校低学年で書けなかったり(小学校低学年では、自分の名前の中で習った漢字は漢字で書く、という指導が多い)、習字のときに塗りつぶれちゃって困るし。

まあ、どちらにしろ、大きなお世話なんですが。


2003年05月15日(木) 感情なき冷たい指先、妊娠を望まないセックス

愛のない手で内部を探られるなんて。

一生のうちで、排出できる卵子の数は決まっている。思春期から閉経までの毎月、卵原細胞から卵子が1個できる。
私の卵子は、生涯いくつ産生していくんだろう? すでに、ピルを飲む前から排卵のチャンスを何度も逃している。

長い不妊治療の末に子どもに恵まれたはいいけれど、育児に四苦八苦している高齢初産婦の家庭訪問をしてきた。彼女は、すごくすごく、疲れていた。両実家の支援は遠方で求められず、夫はそれなりの年齢で会社でも要的な存在になってしまっていて子育てと家事への参加は限界のある家族構成だった。

子どもは早めに生んだほうが楽だとは思うけれど、私は未だ婚姻していなくて。だけど、セックスだけは一人前にしていて。妊娠・出産できるかわからない身体を抱えながら、滑稽なことに妊娠を恐れて避妊をしていて。
何のためのセックスなんだろう? 愛を確かめ合うっていったって、愛がなくたってできる行為なのに。妊娠を望む彼と、まだ彼と人生を歩むことを決意できないでいる私の行く先には、何が待ち受けているんだろう?

受診のたび、産婦人科医が、業務用の冷たいジェルをつけて私の中に進入してきてゆっくりと内部を探る。痛いのと気持ち悪いのとで、私は吐き気と逃げ出したい気持ちを押し殺し、いつも身を硬くする。口呼吸しても思うように膣は緩まず、気持ちのない冷静な挿入行為にいつも涙が出そうになる。
超音波で内部を見たって、私の中にはどこにもしあわせの袋は転がっていなくて。ただ、ぐねぐねと動くモノクロの波を目で追うだけ。
産婦人科の外来で1時間も2時間も、妊婦や産婦に囲まれるのは、正直もう、苦行に近い。人生の苦行、か。



ずっと読んでいる日記書きさんの妊娠経過は順調らしい。旦那さんもできる限りの力でサポートしているようだ。

順調でよかったね、と素直に思う反面、なんだかうらやましくて、涙が出た。


2003年05月13日(火) 友情と愛情とセックスと

1周年だそうだ。

彼女と彼との付き合いが、とうとう1周年だと、メールが来た。

どないしたもんかと、私としてはものすごく複雑。ふたりの付き合いの内容を知っていて、またそれにちゃんと自分の意見も交えて返事していたからまだいいのだけれど。

彼女と彼は、恋人関係ではないという。彼女には彼はいない。彼にも彼女はいない。
彼は県内2時間かけて車で彼女の元にまでやってくる、映画も見に行く、飲みにも行く。だけど、恋人関係ではないと。だけど、セックスはしている。セックスがお互い、1番の目的のようだ。

彼女が彼と最初に寝たときは、彼女には愛があったのだと、私は思っている。彼女にとって、はじめての行為だったから。だけど、互いに愛情はないが友情で付き合っているという。恋人同士だったことは一瞬たりともないという。

愛がなくても嫌いでなければ肌を合わせることができることを知っている。愛がないセックスをしている人たちが世の中には少なくないことを知っている。だけど。

愛のないセックスは嫌だと、私がそう告げても、彼女の中には響かず。

ふたりして筋肉痛になるほどがんばっちゃった、だなんて軽く言われても。

避妊だけはしっかりして、と私はただ、彼女たちの関係を受け止めきれずに立ち尽くすだけ。


2003年05月11日(日) 色気のない裸たち

健全な露出。

昨日、『MUSCLE MUSICAL LOVE OF MUSCLE 2nd 2003』に行ってまいりました。短大時代からの友人、筋肉フェチのTとふたりで。
7,000円払ったものなのに、私たちは誰が出演するのかなんて知らずに行ったのだけれど、以外にも出演者は豪華でした。五輪出場経験者もいました。武○士のCMダンサーもいました。ニューハーフもいました。特撮ヒーローもいました。どの人も筋肉ムキムキで、その筋肉を思う存分使っておりました。
私たちは、異性のも同性のも、筋肉という筋肉を、その働きっぷりを、まったりと堪能して帰宅。

まったくもって、腹の割れ具合といい、「マッスル!」という掛け声とともに見せ付けられる力こぶの素敵さといい、もう、原色ビキニ(女性着用)だろうと妖しげな柄タイツ(男着用)だろうと、色気度0。
隆々とした筋肉に汗が流れる様は、男女ともに色っぽい。だけど、その全身の筋肉質な肉体美を見せられたところで欲情するかと問われると、それはそう、全然ないというわけで。
どちらかというと脂肪フェチな私は、帰りの電車の中でショーを思い返しながら、彼氏さまのおっぱいを揉みたい気持ちになってしまい、ひとりで悶々。胸以外では嫌われることの多い脂肪だけど、実は色気の演出には欠かせないものだと実感してみたりして。

だからって、なさ過ぎも付き過ぎはよくないんですよな、筋肉も脂肪も。


2003年05月09日(金) ばれてなるものか

すでに、日記才人にて2名発見。

私、恥ずかしがり屋ですし、妙齢の独身女ですし、行政職員ですので、なるべく自分、および住処が特定されぬよう気を使いながら日記を書いてきたつもりです。あくまで自称ですが。
なにより、いくら「私にとって性は日常」だからといっても、あんなエロエロ日記を頭沸いたように1年以上も書いていることは、知り合いには知られたくないです。私のアイデンティティに、沽券に、人生に関わる大問題に発展しかねないです。
しかしまあ、私の表向きである現実世界でしか知らない人には、お仕事日記だろうとエロ日記だろうと、どちらにしろ読まれたくありません。面と向かってはあえて言わなかったり言えなかった素直な真情を吐露しているわけで、それが相手にばれたときには半殺し沙汰になるかもしれませんし。
だからって、私の内面の一部である日記しか見ていない人になら現実の私を見てもらってもいい、ってことではありません。だから、探さないでください。

まあ、時々無料日記レンタルenpitu以外で突発的に企画モノ的サイトを作って遊んだりもしていますので、そのURLからある程度、どこどこだろうな、という見当がついている方もいらっしゃるかもしれません。だけど、だからってそれ以上、私を特定しようとしないでください。あなたの夢を壊したくありません。
あんなに母や子のことを考えてくれているなんてやさしくて頼りがいのありそうなすてきな保健師さんなんだろう、だとか、あんなエロティックでかわいいことを言ってるんだからさぞかし美少女or美女なんだろう、なんて迷惑なほどにとても逞しく想像されている可能性が高すぎるのです。
その想像と現実とのギャップに衝撃を受けて人間不信になられても困りますし、騙されたと逆上されて刃物振り回されても困ります。なので、現実の私は日記での私よりも数段かわいげのない、不親切きわまりない、内気で、無口で、陰気で、ドブスだと、正しく理解しておいてくださいませ。

というのは前置きで、日記才人にて、私と同市内にお住まいの方を2名発見済み。既婚女性と既婚男性。夫婦ではなさそうだった。けれど、おふたりとも遊びに行くところとかがすごい近い。もしかしたら、お隣さんかもしれない可能性もあるわけだ(でも、家族構成がうちの隣家のものとは一致しない)。妹のアパートの前のアパートの住人だって、Webサイト運営しているわけだし。そういえば、この日記をつけ始めた頃に挙げた当時は日記を書いていた人だって、実家の母が足しげく通っていたスーパー近くの某赤ちゃんグッズ店に行っていたし。
でも、実は今の私の住処ではないけれど、実家がどこかを知っている人は日記書きさんの中にひとりだけいらっしゃる。実家近くに遊びに行ったということを日記で読んで、ひっそりメールでお教えしてみたんですが、そうだなあ、よく考えたら私から日記書きさんにメールを出すのはすごい珍しいことだわ。今まで自分から出したって言うのは、片手に収まるくらいかもしれない。シャイな感じと、筆まめじゃない様がよくうかがえますな。ふう。
だけど、いつか、今つづけている日記を2つ共に辞めることになったら、以前も書いた私が日記を書くきっかけになった方にメールを出そうと思っている。好意と敬意と感謝と、すべてをない交ぜにした内容で。でも、その前にその方が日記を辞めることを決意されたらどうしよう・・・お願いですから、続けていてください。

そんなこんなで、最近の私の注目は、日記才人の職業申告欄。『医師』と『看護婦』と『医学生』が代表されているその欄に、私も申告している。自分の職業に一番近い欄だから。だけど、『医療・保健・福祉従事者』じゃいかんのだろうか・・・そうすれば、病院関係者も施設関係者もみんなが申告しやすくなると思う。種々訓練士も検査技師もケアマネもヘルパーもみんなが迷いなく。そもそも、『学生』欄があるのにわざわざ『医学生』としているのには理由があるのだろうか・・・過去に医療系の話の多い学生がいたからなのだろうか?看護学生もこの欄で見かけるなあ。もうその辺は、適宜自分で考えて登録していってくださいってことなのかな。私の言っていることはきっと細かすぎるのよね、うん、そうなのかもしれない。

で、結論としては、これからは今まで以上に気を引き締めていくぞってことで。

徒然なるままに書き散らしましたが、本日はここでお暇申し上げます。では。


2003年05月08日(木) まるで、『親の心子知らず』状態な

私たちが、あなたをひとりにしないと誓ったとしても。

夫婦間暴力だとか児童虐待だとかを見つけたら、そのたった一家族のために、私たち関係諸機関は集まる。
保健センターの地区担当だとか母子担当だとか、虐待防止班だとかDV(ドメスティックバイオレンス)対策班だとか、児童相談所だとか、保育園だとか幼稚園だとか学校だとか、病院だとか警察だとか、民生委員だとか主任児童員だとか、シェルターだとか母子寮だとか、とにかく、必要あらばありとあらゆる機関の職員が大集合。
諸機関で電話連絡や直接訪問で情報提供を密にしたり処遇会議の日程調整したり、とにかくその家族のためだけに動く。

夫から逃げたいと、子どもを守りたいと、そう言う母と子を、私たちはどうしたらしあわせになれるのかを考えた末どこかの施設に匿い、そこで最低限の生活を営みながら自立への路を進んでもらうことがある。
たとえ旦那だの内縁の夫だのが「あいつらを出せー」と包丁やらカナヅチやらを持って来所しても、「知りません」「警察呼びます」の一点張りで逃げる。そんな、生命までかけて守っている。なのに。

わざわざ遠い遠い県外のシェルターに空きを探したのに、1週間で暴力夫の元へ出戻ってくるとは何事ですかい?
母子寮入寮後2日で子どもだけを施設において失踪しちゃうって、どういうことですかい?

だけど、そんなあなたはとっても贅沢でしあわせ者だと思う。
あなたが望む望まないに関わらず、あなたが動くその先でも、私たちはあなたたちのことを考えているのだから。

もう大脱走だけは、勘弁して欲しいけれど。


2003年05月07日(水) 誰からも特別に好かれたことのない人なんて

あなたがすき。

好き、という淡い光線を送られているうちは、誰かに好かれるって、心地よい。
その人がいるだけで強くなれる。その人の気持ちに応えられなくても、やさしい気持ちになる。

誰かを好きになると、人生は楽しい。恋は楽しいことばかりじゃないけれど、やっぱり楽しい。
人を好きになるってことは、その人を受け入れるだけの余裕があるっていうこと。他人を受け入れるのって、とっても大変だけど、イロイロ発見があって楽しい。

好かれることも、好くことも、大事。

時々、この人をのことを本気で好きになる人はいるのかしら、と思う人と出会うことがある。失礼かもしれないが、いる。
ある20代後半の男性の好みのタイプを聞いたら、美少女ゲームの中のひとりの名を挙げられたときには、どうしたもんだか悩んでしまった。
女男関わらずコミュニケーション下手で、だけど、想像というか妄想というかだけは逞しい、そういう人。自分のWEBページ内のBBSでは、すごい明るく軽快に返事を書いていて、現実とのギャップに私、腰抜けそうになったり。
話下手で、うまくことばをつむげないタイプの人もいるけれど、そういうのではなく、コミュニケーション自体をわずらわしく思っているような、そんな感じで。人はひとりでは生きていけないのに。
私は他人事ながら、少し彼のこの先に憂いの感を持ってしまった。

声の聞ける範囲で、離しかけられる距離で、視線を送れば気づかれそうな位置で。そういう相手に、恋されたり恋したり。

身近な人に好かれたことも好いたこともない人生なんて、私、要らない。


2003年05月06日(火) 会いたいと思う気持ちより厄介な

いつも突然、だから発作。

不意に、昨日までそばにいた彼の不在に気づいて、喉元に何かが絡まった。重く、熱く、泣く前の前兆のように、胸騒ぎのような嘔吐感と、肩が強張る苦しさを伴いながら。

数時間とか、1日半だとか、そんな短い逢瀬では味わうことのなかった、深い深い喪失感。可愛い大事な妹が遠くにいようと平気なのに、どうして、彼がいないと思うだけでこんなにも気持ちは落ち着かなくなるのか。

会いたいと思う気持ちとも少し異なる、そばにいないことを理解したくないような、だけど理解しているような、複雑怪奇な心境。
なんで、あの人は今、ここにいないんだろう?

なんで、いないんだろう?

なんで、涙が出てくるんだろう?

なんで、私は何もかも捨てて彼の元に走れないんだろう?



私は結婚に未来なんかないなんて、言わない。だけど、しあわせだけじゃないこと、知っているから。

自分だけはしあわせになれるだなんて自信、揺らいでいるから。


2003年05月05日(月) 遠距離恋愛だろうと、近距離恋愛だろうと、別れ際には

日記更新していない間、めいいっぱいデートしていた。

家の近所の緑道を散歩したり、ディズニーシーに行ってみたり、渋谷のラブホテル街を練り歩いてみたり、六本木ヒルズに出没してみたり、神奈川の海辺をぶらぶらしたり、少しエロエロしてみたり、そういうのを1週間でする凝縮デート。彼が私の家に滞在していた8日間のうち、1日だけ私は仕事に出たけれど、あとは24時間みっちりがっちりばっちり一緒にいた。そして、1日1回は喧嘩してみた。

私たちは遠距離恋愛カップルだから、普通の土日でできることとか、連休だからできることとか、そんなこと関係なしに動く。一応、今回は有休使って平日のディズニーシーに行ってみた。すべての乗り物が30分以下待ちで、以前のディズニーランドデートに比べて、とっても快適だった。キャラバンカルーセル(いわゆるメリーゴーランド)なんて待ち時間がなかったので、乗り渋る彼氏さまを口説き落として2回乗ってきた。

そんな空き空きなディズニーシーに行った次の日の予定としては、テレビや雑誌で話題の六本木森ビル散策だったので、神奈川県の我が家には帰らずにラブホテルにお泊りすることにした。前回のデートでラブホテル難民になってしまったので、今回は横浜よりもホテル数の多い渋谷にしてみた。
実は、泊まったホテルは現地で選んで入ったのだけれど、後日『TOKYO1週間』の2003年No.226『セレブなラブホ』特集に載っていて、雑誌掲載の部屋がまんま、泊まった部屋だったことが判明。めちゃくちゃ驚いてしまった。
設備もたったひとつ除いてよかったし、部屋も綺麗だったので、雑誌に載るのもうなずける感じだった。
しかし、いくらG.W中日とはいえ、次の日も平日の金曜である木曜に部屋が少なくなる渋谷って、すごいですな。ラブホテルに行き慣れていない私なので、その事実に驚愕してしまいましたわ。

六本木ヒルズは、実はこの中のある設備が彼氏さまの会社の作ったもので、彼氏さま自身も参加していたということから、行ってみようということになったデート先。
しかし、広すぎて、案内嬢からフロアーガイドをもらったはいいけれど、地図を片手に半迷子。正直、見難い地図に彼氏さまとふたりで四苦八苦。
結局、食事をして映画を見て、ショッピングはせずに帰ってきた。本屋や洋服屋やアクセサリー屋も数軒は見てみたけれど、「こんなんで大丈夫なんでしょうか?」と不安にさせられる感じだった。この不況下で生活する庶民には、全体的に高すぎで。
飲食店も、とりあえずは庶民的なのから高級なものまでそろえられているのだけれど、高級なものにどれだけ人が入るのか、先行きの見通しは全然に思えたりして。



遠距離恋愛であろうと、中距離恋愛であろうと、近距離恋愛であろうと、デートっていいものだと思う。デートすること自体が億劫になってしまったら、もう、その恋は疲れ始めているのかもしれない。少し、休息が必要な状態。
私たちの遠距離恋愛は、いい具合に息をつきつつ進んでいるからこそ、どうにか均衡を保っているのかもしれない。
会うたび、価値観の違いと年の差を感じ、怒ったり泣いたり、口説いたり諦めたり、「別れたほうがいいのかな?」と互いに投げかけてしまうけれど、でも最後には抱きしめあって、「また会おうね」と別れる。

デートの別れ際のキスは当たり前の行為で。たとえ、今日のように『タッキー&翼』のような某ジャニーズのコンサート帰りの婦女子で駅構内がごった返していようと、関係なく。

私たちは、また会う約束の、キスをした。


佐々木奎佐 |手紙はこちら ||日常茶話 2023/1/2




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