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2010年03月29日(月) ガラスの「王者」

WBC世界フライ級王者亀田興毅(23=亀田)が、同級暫定王者ポンサクレック・ウォンジョンカム(32=タイ)に0−2の判定で敗れた。亀田興は、序盤からポンサクレックにペースを握られ、5回にはバッティングで右まぶたを切るアクシデントにも見舞われ、最後まで劣勢をはね返せずに09年11月に内藤大助(宮田)から奪取した王座の初防衛に失敗した。

亀田興の劣勢は明らかだったが、意外にも、ジャッジの一人がドローと採点、さらに、試合後は父史郎氏(44)が判定に椅子を蹴倒し、コミッショナー事務局長を恫喝するなど大声で猛抗議を繰り返したという。改めて、亀田ファミリーのダーティーぶりが表面化したわけで、なんとも後味の悪いタイトルマッチだった。

亀田興がタイトルを奪取した前王者の内藤大助は、当時36歳。失礼ながら、峠を過ぎた選手だ。このたびの対戦相手のポンサクレックも32歳。ポンサクレックは王者時代、17回の防衛に成功している実力者だが、23歳の上り坂の亀田興に比べれば、やはり、下り坂であることは間違いない。

しかし、ベテランというカテゴリーでは同一のポンサクレックと内藤だが、両者を比較すると、2人のボクシングスタイルには、大きな差異が認められる。内藤は変則型で、相手の内側に飛び込んでいく戦法を得意とする。得意は左右のフックで、どちらかというと相手との距離で勝負するタイプではない。亀田興にとっては、内藤のようなタイプはそれほど苦にならないのではないか。内藤の動きが見定められれば、得意のカウンター気味の左ストレートを当てやすい。しかも、内藤に加齢による反射神経の衰えが認められ、亀田興のパンチを避けることが難しかった。亀田興にとって、内藤は戦いやすい相手だった。

一方、ポンサクレックは相手との距離を重視し、互いに見合った状態では的確にストレートパンチを出していく、オーソドックスな構えである。もちろん、それだけでは世界王者になれないから、接近戦もできるし、踏み込んでパンチを当てに行くこともあるだろう。ポンサクレックが内藤に負けたのは、内藤の変則戦法にペースを乱され、最後まで自分の距離をつかめなかったからだろう。

その一方、亀田興とのこの試合の序盤は、どちらが自分の距離をつかむかという主導権争いだった。亀田興が序盤のバッティングで出血し、主導権争いにハンディキャップを受けたことは不運だった。その意味で、亀田興に同情する余地はある。

だがしかし、ボクシングでは偶然のバッティング等による出血は常に起こり得る。そのような状況での戦い方等は、選手がステップ・アップする過程で身につけなければならい。顔面に裂傷を負い出血すれば痛くて相手が見にくく、辛いだろうが、ボクサーはもちろん、それに耐えなければならない。格闘技では当たり前のことだ。その程度でひるんではいられない。亀田興が出血と痛みに耐えかねて闘志を失い、相手からペースを奪えなかったのだとしたら、それこそ精神の未熟であって、技術以前の問題である。

亀田興は(以下の記述は筆者の想像にすぎないが――)これまで、出血を伴う修羅場を経験してこなかったのではないか。彼は、某テレビ局とタイアップしたマッチメーカーが選び出した対戦相手を楽々とKOで倒してきた。彼のキャリアには、新人王戦へのエントリーもなければ、日本王者、アジア太平洋王者をかけた戦いに係る公式記録はない。亀田興は、視聴率目当ての巨大メディアと、一攫千金を狙ったイベント屋たちによって純粋培養された、ガラスの「王者」にすぎなかったのではないか。

しかし、亀田興の敗因を彼の経験不足に求めることだけでは不十分である。報道によると、昨年の因縁の試合――内藤戦勝利後、彼はボクシング以外の仕事に忙殺されていたという。もちろん、練習もしたのであろうが、格闘技はそれほど甘くはない。テレビ画面に登場した亀田興の肉体、とりわけ、筋肉に張りが見られず、身体が萎んで一回り小さくなったように見えた。減量に悩む亀田興であるが、09年11月からこの試合までの間、食事制限、基礎的トレーニング、実戦形式の練習による、基本的減量に失敗したのではないか。亀田興は、調整に失敗したのではないか。そうであれば、このたびの敗因は、亀田興の実質的なトレーナーである父史郎氏にある。

筆者を含めた格闘技素人の大衆が、立ち技格闘技の中で最も美しいスポーツの1つといわれるボクシングにスペクタクルを求めるのは、当然のことである。しかし、人間と人間の闘いの中においては、映画、CG、テレビゲームのようなKOシーンが毎試合毎試合実現できるわけではない。だから、先進国では、ボクシングは必ずしも人気の高いスポーツではない。日本においても、日本王者、アジア・太平洋王者を賭けた試合でも、凡戦がでてくることもある。

そればかりではない。世界レベルで見ると、ボクシングに一攫千金を求める若者の数は、――とりわけ、発展途上国との比較では――日本は数段劣るのである。世界のボクシングレベルは高い。その中で日本選手が世界チャンピオンになるためには、一歩一歩の前進こそが最良の道であって、近道はない。亀田興がどれほどの潜在力を秘めたボクサーであるかは、いまのところ、筆者は見定めていない。日本人選手の中では稀に見るハングリー精神を持っている選手のようにも見えるし、世界タイトル奪取後は、それが急激に衰えたかも知れない。

このたびの敗戦で彼のプライドに火がつき、精進を重ねて、まともなボクサーとして再起するか、「異色芸能人」で終わるかは、次の試合で決まる。次の試合とは、ポンサクレックとのリターンマッチではなく、ノンタイトルで、世界ランキング上位の選手とアウエーで試合をしてもらいたい。その試合の結果が亀田興の将来を決定するであろう。



2010年03月21日(日) Jリーグ、危機一髪

2010W杯開催年シーズンのJリーグが第3節まで進んでいる。今シーズンは、恒例としていた順位予想を取りやめた。理由は、開幕前、ケガ人、故障者が多すぎて、チーム戦力の把握が困難であったからだ。偶然だが、シーズン開催とほぼ同時的に開始されたACL予選リーグ参加チームの主力に故障者が続出した。筆者が頭の中で描いた順位表を発表したとしても、序盤の展開で齟齬が生じていただろう。

予想困難とした諸々の要素を踏まえたうえでの話しだが、Jリーグの地盤低下は深刻だ。たとえば、海外(欧州)からJ1に戻った3選手が即レギュラーだ。スペインリーグで通用しなかった中村俊は、古巣横浜を再生させ、チームは2連勝。相手の湘南・川崎はやられ放題、横浜はやり放題だった。中村俊の加入により、チーム全体に活力が生まれ、やることなすこと、すべてうまくいった。中村をつぶせないJリーガーには意地がないのか。情けない。

フランスから復帰した稲本も、川崎でボランチのレギュラーの座を確保している。川崎はACLでは連敗したが、Jでは2勝1敗。稲本の復帰はまずまず成功と判断できる。ドイツから復帰した小野も、清水でレギュラー。日本サッカーを「楽しんでいる」。

ことほどさように、欧州(スペイン、フランス、ドイツ)のリーグで試合に出られなかった3選手が、日本では不動のレギュラー。この現象をもってすれば、Jリーグのレベルの程度がわかるというもの。

そればかりではない。Jリーグ勢は、ACL予選リーグでも苦戦している。苦戦の原因は、Jの選手のフィジカルの弱さにある。アジアのトップチームと比べて、競り合い時の闘争力、ショルダーチャージ、タックル、走力において、Jリーガーは劣っている。さらに、今年からJリーグの審判団が守備側の手を使った反則=ホールディング、プッシュイングを厳しくとるようになったため、競り合いですぐ笛となり、フリーキックとなる。Jリーグの守備力のレベルの低さが傍証されてしまった。新外国人選手にも、衝撃的な選手がいない。生存競争が厳しくないうえ、勝負に淡白で、競り合いで温い、「お嬢様サッカー」を展開しているのが、Jリーグのここまでの実態だ。

筆者が昨年予想したG大阪の凋落が、1年遅れて到来したようだ。関西のビッグクラブ・G大阪が地盤沈下を開始し、首都東京唯一のFC東京も優勝戦線には絡めなさそう。「世界的」とまで賞賛された浦和は、チームづくりに失敗している。鹿島だけが、まともなクラブ経営を基盤として、リーグ制覇を目指す状況では、リーグが盛り上がるはずもない。

Jリーグがレベル低下を続ける理由は、当該コラムで何度も力説するように、トップリーグのチーム数が多すぎることにある。しかも各クラブがリストラ志向を強め、力のある海外選手を呼べなくなったため、ますます質が低下している。昨年J2から昇格した湘南が第3節ですでに、脱落しそうな兆候を見せているのが、そのことの実証だろう。昨シーズンから、自動昇格(降格)制度を採用したため、実力で上位にある柏が降格し、湘南が昇格してしまったわけだ。

筆者が何度も提案するように、J1、J2と下部組織を再編し、トップリーグのチーム数を少なくすることだ。ついでに、現行の地域拠点を見直し、集客力のある大都市に強力なチームをおくことも必要。とりわけ首都東京の東西にそれぞれ1チームを誘致しなおす(ヴェルディは整理)ことだ。FC東京を西東京とするならば、東東京にもう1チームを置くこと。大都市内の複数のチームが切磋琢磨することにより、動員数のみならず、サッカーの媒体露出量もこれまで以上に上がることが期待できる。

さらに、バルセロナとマドリード、ロンドンとリバプール、ローマとミラノ、北京と上海・・・と、国家の中にライバルといわれる大都市の組み合わせが必ずあり、東京と大阪もそのようなイメージをもっている。首都東京が「サッカー不毛の地」であり続ける限り、Jリーグがいま以上に活況を呈することはない。



2010年03月04日(木) 楽な試合、楽な相手、だが・・・

2011年アジア杯予選のグループ最終戦は、日本vsバーレーン。日本ホームの公式戦とはいえ、両国共に予選突破を決めている消化試合。結果を問われないという意味では、緊張感のない、いわば、親善試合(テストマッチ)に近い。しかし、日本代表の場合は、特別の意味をもった一戦となった。というのも、W杯開催年=2010年のホーム開幕試合の親善試合(1試合)、公式戦(東アジア選手権)3試合で日本が勝てたのは超格下の香港のみ。ベネズエラ、中国と引き分け、韓国には負けている。

結果以上に日本のサッカーファンを心配させたのが、この4試合のお粗末な内容だった。岡田監督更迭を求める横断幕まで出て、日本代表(監督)を取り巻く状況は、一気に緊張を帯びたものとなった。本来は消化試合のはずのこの試合が、なんと、代表監督の進退を賭ける一戦に変質してしまったのだ。

今年はW杯開催年、代表試合は1試合とて無駄にできないものの、W杯までに組まれた全試合に全勝する必要はない。換言すれば、本番に向けたテスト、トライアルが否定されるものではない。たとえば、代表候補選手の潜在能力を見極める、あるいは、新戦力を試す試合があっていいし、戦略・戦術の試行があっていい。そのために、試合を失うことで非難を受ける筋合いはない。

バーレーン戦は、日本代表の相反する課題を抱える、たいへん複雑な試合となった。試合内容にもそのことが反映し、序盤、全選手の動きはぎこちなく、重苦しさを感じた。出だしの悪さは、海外組が急遽合流したことにより、2010年の開幕4試合とは異なったメンバーとなったこともあったであろう。海外組が来日したのは、本番2−3日前、複雑な約束事は徹底しない短さである。さらに、現在の日本代表を支える中盤の要=遠藤が過労気味だったことも“ぎこちなさ”の要因の1つだったかもしれない。

日本代表を救ったのは、バーレーン選手の元気のなさだった。バーレーンは当たりが弱いし、プレスも緩い、球際もガツガツこない。ベネズエラ、東アジア選手権の相手(中国・韓国)とは雲泥の差があった。バーレーンは、日本代表にとって、御しやすい相手。それでも、日本DFの信じられないような隙(油断?)をついて、バーレーンが日本ゴール前に鋭く迫ったシーンが2度ばかりあった。日本がW杯で当たる3カ国であれば、日本はゴールを割られたであろう。

日本がこの試合の主導権をとれたのは、左右のサイドでボールがもてたことだ。その理由は、バーレーンがサイドに流れた日本選手に対して、厳しいプレスをかけてこなかったことだ。来日したバーレーン選手には、そこまでのモチベーションが働かなかったのか、日本のサイドに流れた選手をマークする戦術眼がなかったからであろう。W杯では、こんな緩い状況、場面は、一切期待できない。

さて、筆者が当コラムで展開してきた岡田ジャパンへの提言からすれば、なんとも生煮えの試合であった。筆者の感触では、この試合に選出されたメンバーが、岡田代表監督がイメージするW杯メンバーに最も近いものだと思っている。しかし、前出のとおり、守備的中盤の要=遠藤は東アジア選手権、ゼロックス杯、ACL出場と続いた過密スケジュールにより、明らかに過労気味。そんなときだからこそ、遠藤を外し、稲本、小笠原を試してほしかった。ところが、小笠原は代表選考から外れたし、稲本の出場もなかった。

過去の当コラムの記述の繰り返しになるが、W杯で日本が予選リーグを突破するためには、カメルーン戦に全力を集中し、喧嘩ファイトでカメルーンを粉砕するしかない。カメルーン相手に、きれいに、スマートに勝とうなんて思ってはいけない。日本代表は、カメルーン代表と比べて、サッカーを構成する概ねすべての要素において劣っている。そんな相手に勝利するには、「削れ」とはいわないが、玉砕、粉砕しかない。カメルーン選手に対して接触プレーで「勝利する」しかない。重心の高いカメルーン選手に対し、相手を正当なチャージで文字通り、「倒す」ことしかない。カメルーン戦に勝利し、勝ち点3をもぎ取るしかない。東アジア選手権でふがいない試合をした日本代表を解体し、対カメルーン仕様の日本代表を再構築(リストラクション)することしかない。解体後の初戦に当たるバーレーン戦では、過去の日本代表を清算し、肉弾戦を展開できる選手を選び、W杯までの1試合、1試合を、文字通り、厳しく激しく取り組むしかない。

このような目標(課題)を掲げて選手を評価するならば、岡崎、本田、中村俊、松井、長谷部はそれなりの結果を出した。筆者のテーマにそぐわなかったのが、遠藤、内田、長友であった。とりわけ遠藤は過労のため、元気がなかった。遠藤の過労は予想できたことなので、小笠原を彼の本来のポジションである守備的中盤で使いたかった。稲本も同様である。2人の出場時間割合は、前半〜後半でもよかった。なお、森本は出場時間が短すぎたので、評価しにくいが、イタリアの試合ではフィジカル面で強さが出てきたと思われるので、本番で期待できる。

バーレーン戦の勝利はほろ苦く、虚しい。その一方、岡田監督の安堵の表情が、彼のクビがつながったことを最もよく象徴していた。岡田は喜び、その一方、日本代表の南アフリカでの予選突破どころか勝ち点3が遠ざかっていく。



2010年03月03日(水) 4年後、メダルが少なくてもかまわない。

冬季五輪女子フィギュアスケートをめぐって、日韓のウエブ掲示板サイト上において、トラブルが発生したらしい。詳細は、筆者の知るところではないが、悲しい出来事である。

韓国からすれば、3月1日は、日本の植民統治下の朝鮮半島で始まった独立運動(「3.1独立運動」)の記念日。今年は、日本による韓国併合から100年にあたる区切りの年。反日感情が盛り上がって当然である。

フィギュアスケートは採点競技で、しかも採点基準がわかりにくい。審査員の主観性を排除できない等の難点があり、五輪競技としては不適正であること、五輪が国家主義(排外主義)を醸成することがあってはならないことは、前日、前々日に書いたとおり。

しかし、日本のマスコミ、一部のスポーツコメンテーターらが、国民の関心の高い女子フィギュアスケートに焦点を当てて、「日韓対決」を煽動したのである。日本の一部ファンは、金メダルを取った韓国女子選手を誹謗中傷したのだろうか。

そんな「五輪国家主義」が一部で台頭している中、バンクーバーから帰国した五輪選手団長が記者会見を開き、「メダルが少ないのは、国の支援(予算)が足りないから・・・」というような大会総括(発言)をしていた。今回の選手団長が、団長として資質を欠くことについては、これも何度も当該コラムにて指摘したとおり。

五輪でメダルを獲得するためだけの強化費に血税を使うなど、もってのほか。国家はスポーツ、文化に干渉しないでほしいものだ。五輪でメダルをとることがいかに大変なことかはよくわかる。しかし、職がなくて何度も企業に足を運ぶ生活者の苦労は、それと比較にならない。人々の生活が安定し、国民一人ひとりが余暇にスポーツを楽しめるような生活環境をまずもって整えるのが政治家・官僚の第一義の仕事である。生活者の暮らしや、高い失業率には目もくれず、「自分たちに税金をください、そうすればメダルをとります」とは、最悪の心構えである。

五輪メダル獲得のためのスポーツ選手を国家が育成するというのは、かつて、旧社会主義国家が行った、「ステートアマ制度」を思い出して気色悪い。「ステートアマ」という非人間的訓練過程において、才能ある選手の多くが精神を病み、薬害に犯された。今日、ドーピングの対象となる薬剤は、旧社会主義国家で開発されたものをルーツとするものも多いという。

スポーツ選手に限らず、専門的文化の担い手を国家権力の管理の下に置くことは、絶対に避けなければいけない。フィギュアスケートを鑑賞することを趣味とする人がいてもいいし、自分でやりたいと思う人がいてもいい。それは国民一人ひとりの趣味嗜好の領域である。そのことは、ボブスレー、スキー、スノボ・・・すべての競技に当てはまるし、スポーツだけでなく、映画、演劇、文学、舞踏、伝統芸能・・・すべての文化活動に当てはまる。

日本の冬季五輪において、金メダル獲得数が、中国、韓国より少なくてどうしていけないのか。それらの国が税金で選手強化を図っているのは、権力者が、国家の政策として、五輪メダルによって、国家権力の誇示、危険な愛国心の醸成、国民の不適正な統合を意図しているからだろう。そういう国家もあるだろうが、日本がそういう国家である必要はまったくない。

4年後、ロシアのリゾート都市で開催される冬季五輪――筆者は税金を使ってまで、そこで多くのメダルを獲得することを望まない。五輪に参加する選手を減らし、五輪に寄生するスポーツ官僚を減ずれば、いくばくかの強化費が捻出できるのではないか。その範囲で強化すればいいのでは・・・と素朴に思うのだが。



2010年03月01日(月) 五輪強化に税金を使うな

冬季五輪が終わった。日本のメダル獲得数は銀、銅が数個。メダルをとったのはスケート部門で、スキー部門は、メダルゼロで終わった。アジア勢の韓国・中国と差を広げられたようだ。この結果をもって、日本が国を挙げて、ウインタースポーツ強化に取り組んだほうがいい、という意見を述べるスポーツジャーナリストもいる。国家予算を、ウインタースポーツの強化のために使えと。

筆者は少し前の当該コラムに書いたとおり、国家がスポーツ等の文化に関与・干渉することを肯定しない。五輪をはじめとする競技スポーツはせいぜい、個人及び団体が取り組むべきものであって、国家のカネを投入することなど、もってのほかであると考える。たとえば、フィギュア・スケートの選手を世界レベルに到達させるためには、練習場の確保、用具の調達、遠征費、世界的名声のコーチに支払う指導料・・・を含め、莫大な費用を要する。筆者は、国家がスケートの上手な選手のパトロンとなることを肯定しない。

金メダル、銀メダル等を獲得した選手が、プロフェッショナルスポーツに転向して、CM出演料等を含め、巨額の富を稼ぎ出し、それを国家が所得税として回収する、という乱暴な考え方もあるかもしれない。だが、育成した選手が金銀メダルに届かなかったならば、プロへの転身もままならないだろう。国家の投資分はゼロと消える。納税者にいかなる説明をするというのか。そもそも、そのような投資行為が国家に許されるはずもない。

筆者の知っているA君は、高校時代、将来を嘱望されたラグビー選手で全国大会にも出場した。彼は推薦で某大学に入学を許され、体育会ラグビー部に入部したが、2年生のとき膝に大怪我をし、ラグビーを断念せざるを得なくなった。そして彼は、ラブビー部を退部すると同時に、大学からも放逐された。

このことは、日本の専門的スポーツの重要な基盤の1つである大学スポーツの冷酷な一面を物語っている一方、スポーツ(文化)の「公平性」も教えてくれている。大学スポーツはアマチュアではない。同様に、五輪代表に選ばれるようなハイレベルな選手もアマチュアではない。もろもろの団体が援助をしているのであって、それでいい。国家が選手育成に税金を投入するリスクを国民はどう考えるか。育成過程で脱落する選手の存在は、税の公平性に係る1つのヒントになるかもしれない。

国家がスポーツに関与するとしたら、それぞれのスポーツの基礎的な指導を行うまでであろう。そこにフィギュア・スケートが含まれるかどかといえば、筆者の主観では、含まれない。フィギュア・スケートは、特殊なエリートのためのスポーツだと考える。

ことほどさように、冬季五輪に採用されているスポーツは、日本の風土において、特殊なものが多い。日本人がウインタースポーツで立派な成績を上げられないのは、それが生活に密着した文化として根付いていないからである。首都東京、大阪、名古屋の三大メガロポリス、さらに、三大都市圏に拡大しても、その年間降雪量はせいぜい数ミリ程度であろうか。かつては、若者の冬の娯楽としてスキーが受け入れられたことがあったが、冬場に絶対にスキーをするというライフスタイルは確立しなかった。日本が冬季五輪採用競技と接点をもてるのは、日本の北部・山岳地帯の積雪地方の若者が生活文化として、ウインタースポーツを選び、幾世代かを経るなかで、技術向上するという自然的過程によるしかないのである。

たとえば東京在住の若者が、冬場の娯楽として、スキーを選び取ることが将来、起こりえないとは言わないが、しかし、国家が税金でスキー奨励を行うことはできないし、すべきでない。文化とはそういうものだ。

ゴルフというスポーツを取り巻く状況も、冬季五輪採用競技と似ている。ゴルフはもちろん立派なスポーツであるが、国家がゴルフの普及と強化のために税金を投入することを是とする人は少数であろう。ゴルフは大衆化したが、万人が余暇にゴルフをするという生活文化は、日本に根付かなかった。いま活躍中の日本のゴルファーは、エリート教育で育成された若者たちである。彼らの育成基盤は、親の経済力である。庶民は彼らを応援するが、かりに自分たちの税金で育成された選手たちが、多額の賞金を手にするとしたら、どう考えるだろうか。

ゴルフ、サッカー、陸上、水泳、ウインタースポーツ・・・現在のスポーツを取り巻く状況は、似たり寄ったりである。国家が、五輪採用競技に投資をし、それ以外のスポーツに投資をしないという説明も困難である。五輪の勝者にメダルが与えられるからか、国旗の掲揚・国歌の演奏があるからか。日本のスポーツジャーナリスト、マスコミは、五輪のもつセレモニー性に幻惑され、五輪至上主義に惑溺し、それを国民に強制しようとしている。それが、五輪強化のために税金を投入しろ、という愚論が正論としてまかりとおろうとしている所以である。

五輪はナショナリズムを高揚させるから、五輪にカネを使えというのならば、それは国家主義である。国家主義を代弁するスポーツジャーナリストを筆者は胡散臭い者として警戒する。


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