2007年12月22日(土) |
がっかり、岡田監督の「はったり」 |
日本フットボールリーグ(JFL)・FC琉球の総監督に就任した元日本代表監督のフィリップ・トルシエが20日、某スポーツ新聞社のインタビューに答え、前日19日、日本代表候補合宿のミーティングで、「韓国は4位という結果を残したが、それ以上を目指す。自信はある」と選手へ“世界3強入り”を宣言した岡田監督について、次のようにコメントした。
(岡田監督が)韓国より上を目指すと宣言されたそうですが、日韓関係を考えると当然かと思います。長い間、競い合ってきたことは私もよく知っています。ただ、サッカーはすぐに強くなるものではない。韓国の上にいくというのを、はっきり断言できるのかな…というのが自分の気持ちです。 (中略) ただ、(岡田監督は)経験豊かで敬意を持って拝見しています。(3強宣言は)選手を鼓舞するという意味で必要だったのではないか。 (中略) 私は若い選手を育成して、いい選手にしながらW杯にのぞんだ。(06年ドイツW杯で1次リーグ敗退に終わったジーコ監督)は、いい状態の選手をメンテナンスしながら、W杯に向けて指揮していた。それが彼の役割だった(ジーコは、トルシエの残した“遺産”で戦っていた)。
筆者はトルシエのコメントに全面的に賛成だ。かねがね、日本のFIFAランキングが高すぎること、その実力は世界で概ね50位前後、アジアで10位以内であること――を強調してきた。岡田が日本はW杯で3位以内と「宣言」した根拠は、先のクラブ世界一決定戦でエトワールサヘル(アフリカ王者)をPK戦で破ってクラブ「世界3位」を得たことに符合している。
いやはや、浦和が世界3位のクラブだなんて思っている日本人はだれもいない。1位ACミラン、2位ボカ、3位浦和なら、スペインのバルセロナやレアルマドリードはどうなんだ、英国のリバプールやアーセナル、チェルシーは?ドイツのバイエルン、アルゼンチンのリーベル・・・、ブラジルのサンパウロ・・・?
日本は、アジアにおいて、韓国、オーストラリア、イラン、イラク、サウジアラビアに対して、勝率6割以上の成績が上げられる力をつけることだ。その前段階として、北朝鮮、中国、バーレーン、オマーン、カタール、クウエート、UAE、ウズベキスタンに対して、アウエーでも常勝できるくらいの安定した力をつけることだ。
サッカーだから、格下に負けることもあるが、複数回の対戦で勝数が負数を圧倒的に上回る戦績を残せるようにすることだ。
筆者は、岡田がいきなり、W杯3位「宣言」をしたことを聞いて、心底がっかりした。筆者はこの手の「はったり」にうんざりする。その理由は、日本と実力が拮抗しているアジア諸国はもとより、日本よりはるかに実力がある欧州・中南米諸国に対し、リスペクトを欠いているからだ。いまの日本代表の実力からすれば、その目標は、せいぜい、失ったアジア杯の奪還くらいがちょうどいい。岡田の宣言は、アジア杯で日本より上位に入った、イラク、サウジ、韓国に対して失礼ではないか。
さて、トルシエのコメントには、もう1つ重要な事柄が含まれている。それは、ジーコがドイツ大会に臨んだ日本代表が、(トルシエに発掘され、育てられたかどうかは別として)、地力、経験において、その前のW杯メンバーに比べて、はるかに優れた選手たちで構成されていたことだ。ヒデ、柳沢、高原、三都主・・・らは、その力のピークでドイツ大会を迎えた。にもかかわらず、W杯グループリーグで1勝もあげられず、16強に入れなかったのだ。サッカー評論家のUは、ポストジーコの日本代表の状況を「焦土」に喩えた。
岡田の仕事は、焦土を緑に変えながら、南アフリカに向けて戦うという、極めて困難なもののはずだ。その困難さを自覚する者ならば、「世界3位」という花火をあげることの滑稽さがわからなければ嘘というものだ。
日本サッカー協会は、日本代表を本当に強くしたいのだろうか、強くしたいのならば、「岡田」を選択した理由がわからない。岡田ジャパンは、戦う前から、まず指揮官の資質に疑問を持たれている。(文中敬称略)
2007年12月20日(木) |
代表監督はサッカーを語れ |
――チーム作りの具体的なコンセプトは?
岡田 コンセプトは変わりません。人もボールも動くサッカー。日本人がこれから世界と戦う上である意味、ラグビーでもよく言いましたが、接近、展開、継続というようなコンセプトは変わらないと思っています。ボールと人が動いてできるだけコンタクトを避けた状態で、しかしボールに向かっていく。ディフェンスも待っているんじゃなくて、こちらからプレッシャーをかけていく。これは変わりません。 ただ、僕がオシムさんのサッカーはできないと言ったのは、サッカーの内容がオシムさん以外、どんな人がやっても、変えようと思わなくても、変わらざるを得ないということです。
(略)
――オシムさんのサッカーが過渡期だと感じられたとおっしゃいましたが、岡田さんなら何を新たに付けていきたいですか?
岡田 今、あんまり言わない方がいいと思います。オシムさんが元気になってから、どこかの雑誌で対談でも企画してください。そのときに僕も聞いてみたいと思っています。
岡田は日本代表監督就任の記者会見でこう述べた。筆者の岡田への失望はこのときから始まった。岡田はことさら、オシムサッカーに係る論評を避けている。同業者同士、互いに批判を避けることが流儀なのだと思う。まして、病に臥している前任者を批判することは一般常識上あり得ない。もちろん、筆者はそのような事情を承知している。筆者が期待したのは、前任者に対する直接的批判ではない。
岡田はオシムサッカーを後継することは不可能だと言いながら、なぜ、自分のサッカーのオリジナルイメージを言語化しないのか。おそらく、そのイメージがないからに違いない。だから、岡田は、オシムが語り、オシムがやろうとしたスタイルの一部を「切り取って」言語化したのだ。この程度のコメントなら、素人にだってできる。サッカーに関心のある者であれば、「人とボールが動く」という表現が、オシムのそれであることを知っている。オシムは自分のサッカーのイメージを持っているから、それを自分の言葉で表現できる。岡田にはそれがない。
就任会見で岡田は、自分のサッカーはオシムのサッカーでないことを暗示した。さらに、岡田は、オシムのサッカーに付加する内容については、いまは言えない、と言った。つまり、岡田はオシムのではなく、自分のサッカーをやると意思表示しながら、いまこの場では、具体的に言えないと。
岡田は、オシムが病に臥している限り(オシムに遠慮して)、自分のサッカーに対するイメージを言わないというのだろうか。言わないが、代表のサッカーを見てくれればわかると。だが、もしそうだとすると、岡田の姿勢は間違っている。
なぜならば、日本代表監督は日本サッカー文化の牽引者だからだ。代表監督は、日本代表のあり方を豊富な言語表現をもって日本国民に伝え、国民の関心を喚起し、日本のスポーツ(サッカー)文化を活性化しなければならない。曖昧で断言を避け、リスクを負わない――どこかの政治家のような――コメントは、日本代表監督から聞きたくない。日本のプロサッカーはまだ始まったばかりなのだ。
わくわくするようなサッカーイメージを語れなければ、わくわくするようなサッカーは永遠に実践されない。表現において、意図しない作品は、結果優れていたとしても、芸術とは呼ばない。はじめから「偶然」の勝利を志向しているような監督は、監督ではない。勝つイメージを抱き、それを明確に言語化し、その言葉に責任を負うような監督を戴かない限り、日本サッカーは向上しない。
いきなり、大きな目標を掲げ、その方法もなく、実際は強豪相手に「偶然」の勝利を望み、僅差の負け(=惜敗)に満足するような日本代表であってはならない。国民の前で、自分のサッカーを語れない代表監督はいらない。(文中・敬称略)
2007年12月18日(火) |
日本代表への期待が萎んでいく |
サッカー日本代表監督に岡田武史が就任してからどれだけの時間が経過したのだろうか。日に日に筆者の心の中で、日本代表への期待が萎んでいくのがわかる。
岡田が日本人だからか、甲府をJ2に落とした張本人である大木武が代表コーチに就任したからか。J2に落ちた広島から、W大学の後輩であまり調子の良くない徳永悠平を代表に選んだからか・・・
いずれにしても、筆者は「岡田ジャパン」になんの期待も抱けない。急速に代表への関心が薄れていく自分がわかる。
クラブ世界一決定戦で確認するまでもなく、欧州、中南米のサッカークラブの歴史は古い。アフリカでも20世紀初頭にはクラブが設立されている。日本のJリーグの歴史はわずか10年余にすぎない。日本サッカー界は、プロリーグ発足後、欧州で活躍するサッカー選手を輩出したが、指導者はいない。日本のプロサッカーはいまだ黎明期。筆者が、海外に指導者を求めたほうがいいと主張する根拠は、舶来信仰や外国人崇拝からではない。指導者の質と量において、日本は欧州・中南米に劣っているからだ。
日本代表監督経験者の中で、トルシエ、オシムは日本人及び日本サッカー協会としばしば軋轢を起こしたことが確認されている。この二人に反して、ジーコはそれがなかったとも。だが、軋轢を起こしたトルシエ、オシムの方が起こさなかったジーコより、サッカーの向上に係る効果は高かったような気がする。もちろん、オシムは具体的成果を上げる前に病に倒れてしまったのだが。
筆者は、W杯南アフリカ大会アジア予選が始まらない2007年末において、日本代表への関心及び期待を失いつつある。その理由を繰り返せば、「岡田ジャパン」に何の魅力も感じないからだ。岡田がどのようなサッカー理論を持っているのか聞いたことはないし、理論に基づき監督業を実践してきたとも思っていない。岡田のフランスW杯予選と本戦、その後のJリーグクラブの監督時代を振り返ってみても、「岡田サッカー」のイメージはわいてこない。そればかりではない。評論家時代を含めて、岡田が自身のサッカー理論や指導理念を語った記憶がない。岡田独自のサッカーの言葉を読んだり聞いたりしたことはない。
岡田の手腕は「代表マネジメント」「代表ビジネス」「サッカー協会との関係維持」に限定されるのではないか。その分野の手腕がいくら高くても、日本サッカーは強くもうまくもならない。もちろん、日本代表においても同じことだ。(文中敬称略)
2007年12月16日(日) |
アフリカの壁(その2) |
浦和がエトワールサヘル(チュニジア)にPK戦で勝利した結果、南米、北中米、オセアニア、アフリカ、欧州、アジアの6地域の代表クラブ大会で3位に入った。この結果を受けて浦和が世界第3位と浮かれるYグループ系中継のコメントは論外として、日本サッカーの課題があぶりだされた試合内容だったように思う。サヘルを応援した筆者としては、誠に残念な結果に終わったけれど・・・
浦和の2失点はDF坪井、GK都築のミス。世界レベルでは、ゴール付近でDF、GKがミスをすれば必ず失点につながる。日本サッカーに欠ける厳しさが浦和苦戦の主因であった。一方、浦和の2得点はいずれもワシントンの頭で上げたもの。1点目は、左サイドの相馬が相手DFのミスでフリーとなって絶好のクロスを上げ、ワシントンが合わせた。サヘル側にすれば、ミスが失点につながったことになる。2得点目はFKから。ワシントンはブラジル代表の実力者。今年の浦和の躍進は、攻撃ではワシントン、ポンテのブラジル人に負うところが大きかった。ワシントンはブラジルに帰国(フルミネンセ入り)することが決まっている。
さて、前のコラムで指摘したアフリカ勢の実力だが、浦和とサヘルの実力差はあまりないように思えたが、攻撃する時間帯の集中力、組織力で、サヘルの方が浦和を上回っていた。浦和の攻撃は、サイド、中盤からワシントンに任せる形しかない。よくも悪くも「ワシントン頼み」。鈴木の運動量、阿部を中心とした守備がサヘルの攻撃に耐え、PK戦までもつれた。PK戦になれば、開催国の優位性がモノをいう。
今大会では北中米が負けたが、結局のところ、欧州及び南米と、それ以外の地域との実力差は開いたままだ。この先、身体能力の高いアフリカ勢がアジアとの差を広げる可能性は高いが、日本を中心としたアジアが組織力、俊敏性、スピード等でアフリカ勢を上回れば、W杯グループリーグでアフリカ勢を相手に勝点3を上げる可能性はないとはいえない。
日本サッカーがアジアそしてアフリカで勝ちきる戦略・戦術は見つかっていないし、方法論に従った強化策が継続しているとも思えない。来シーズン以降、ワシントン(外国人)頼みの攻撃から浦和が脱却できるのだろうか。
「クラブ世界一決定戦」準決勝は、浦和がミランに「順当負け」して、チュニジアのエトワールサヘルと3位決定戦に臨むこととなった。
筆者はサヘルを応援しているので浦和が負けることを望んでいるが、それはそれとして、この試合に特別の興味を抱いている。というのは、筆者はかねがね、日本のFIFAランキングが高い――現在の33位はバブルであって、50位程度が妥当――と指摘してきた。浦和とサヘルの一戦は、筆者の認識を傍証することになると思っている。
現在、FIFAランキング50位以内にアフリカ勢は10ヵ国入っているのだが、日本より上位には、ギニア(33位)、カメルーン(24位)、ナイジェリア(20位)の3カ国が、日本より下には、37位・コートジボワール、38位・セネガル、39位・モロッコ、41位・エジプト、43位・ガーナ、46位・マリ、47位・チュニジアの7ヵ国がランクされている。
今回アフリカ王者として参戦したサヘルはチュニジアのクラブで、チュニジアはFIFA50位以内のアフリカ勢としては47位と一番下。チュニジアは代表ランキングでは下位ながら、クラブレベルでは上位強豪国を抑えてアフリカ王者に君臨していることがわかる。
代表が戦うW杯においては、アフリカ勢の実力は計りかねる。アフリカ諸国は概ね協会の経済基盤が脆弱なため、コンディションづくりが難しい。大会前、長期合宿が不可能で、万全の調整ができないのだ。そのため、実力どおりの結果が出しにくい。代表の実力は、サッカーの技術に限らない。
このたびのクラブ戦の場合、サヘルの調整に問題はない。アウエーの長期滞在だから疲労が蓄積しているという見方もあろうが、これはスポーツ大会の宿命だからどうしようもない。ここで、内容を含めて浦和がサヘルに苦戦をするようであれば、日本のレベルはチュニジアとあまり差がないとも言える。
もちろん、クラブ同士の1試合でその国のサッカーの実力を比較はできないのだが、クラブチームを構成する個々の選手の力やチームコンセプト、組織力・規律等々の「実力」という意味の分節を比較することによって、日本とアフリカの実力比較は可能だと思う。幸い、サヘルにはチュニジア以外の代表選手もいる。比較対象としては、代表よりもクラブの方が適している。大雑把に言えば、クラブの実力=リーグの実力=その国の実力という等式も成り立つ。
日本の真の実力が37位〜47位に位置するアフリカ勢の7カ国を下回れば、日本のランキングは概ね50位と考えていい。アフリカの北と南とではサッカーを取り巻く環境に違いがあるとはいえ、FIFAランキング50位以内のアフリカ勢は、日本に立ち塞がる新しい厚い高い壁となっている。
筆者がアフリカ勢の実力の分析に関心を示す理由ば、日本がW杯で予選リーグを突破するためには、アフリカの壁を突破することが必要となるからだ。予選リーグで対戦する3カ国としては、欧州・南北アメリカそしてアフリカである。欧州・南米の強豪国から勝点3は上げにくいため、アフリカ勢から勝点3という計算が働く。W杯において、日本がアフリカの壁を破れなければ、日本が決勝トーナメントに進む確率は低い。しかも、身体能力において、アフリカ勢を上回ることは至難の技だ。となると・・・
サッカークラブ王者世界一決定戦では浦和がセパハンに勝利してACミランとの対戦を決めた。この結果こそ、日本中のサッカーファンが待ち望んだもの。例年、活気のない本大会が今年は大盛り上がり。まずはめでたしか。
筆者は別のコラムで書いたとおり、エトワールサヘル(チュニジア)を応援しているので、サヘルが中南米王者パチュ−カに勝利したことに満足している。
サヘルはチュニジアのクラブだけれど、アフリカ各国の代表選手が主力を構成している。強いクラブをつくるためには豊富な資金が必要なのはアフリカとて同じであって、チュニジアの経済成長がサヘル勝利の背景にある。
戦前の予想はパチューカ優位だった。正直言って筆者もサヘルが勝つとは思っていなかった。パチュ−カはFIFAランキング15位前後のメキシコのクラブだし、中南米の代表クラスを抱えた多国籍軍で、しかも、経験豊かな選手が多い。メキシコ・リーグは資金が潤沢とのことで、周辺の実力者が同リーグに集まるらしい。
筆者はメキシコサッカーに興味を持っている。メキシコ人は身長・体重において日本人と変わらない。にもかかわらず、世界の強豪国の一角を占め続けている。古い話だけれど、1968年のメキシコ五輪で日本代表が開催国メキシコを破り、銅メダルを獲得したことは奇跡とさえいえる快挙だった。体格で日本と変わらないメキシコが強い理由はどこにあるのか、日本はメキシコサッカーから学ぶところが多いのではないか・・・
さて、ここで試合経過を振り返るまでもなく、パチューカは試合を終始コントロールし、しかも、決定機の数で上回りながら、得点が上げられなかった。一方のサヘルは、やけっぱちで放ったミドルシュートがパチュ−カディフェンダーの体に当たりコースが変わって、相手GKが反応できず得点した。結局、この1点がサヘルに勝利をもたらせた。強豪国同士の対戦では守備が大切なことは言うまでもない。さはさりながら、決定的チャンスがバーやポストに当たって得点にならない場合や、微妙なオフサイドの判定などが試合中に何度か起きた場合は、ゲームをコントロールしていても、その試合を失う場合が多い。神が見放すのか悪魔が邪魔をするのかわからないが、サッカーにはそのような試合が多い。
先に行われたJリーグ入れ替え戦・広島vs京都の第二試合もそうだった。第一試合、2−1でアウエーゲームを失った広島だが、ホームにて1−0で勝てばJ1残留が可能だった。広島は試合をコントロールしたものの、決定機のシュートがバーを叩き得点にならなかった。広島にとって不運、京都にとって幸運だった。結果、京都は狂喜し広島は涙に沈んだ。
サッカーの試合には悪魔が潜みどちらかの足を引っ張るのか、あるいは、女神が気まぐれにどちらかに微笑む。サッカーというよりもスポーツに「同じ試合」が存在することがない。そのときどきの条件で内容も結果も異なる。サヘルが本大会で勝ったからといって、アフリカの方が中南米より実力が上だとはいえない。パチューカの敗戦は本大会に限定されたものであって、次はどうなるかわからない。浦和がミランを破る可能性もある。
話は飛ぶけれど、サッカークラブ王者世界一決定戦は過渡期のイベントだと思う。大陸レベルのクラブ選手権が定着したいま、クラブ世界一もW杯と同じくらいの規模とはいかないまでも、予選リーグと決勝トーナメントを抱えるくらいの規模を維持してもらいたい。
開催時期は12月なのかどうか。常に日本開催ではなく、各国もちまわりで、2年に1回くらいということも考えられる。確率は低いけれど、ボカがホームでACミランを迎え撃つというのもいい。開催国(クラブ)枠もそうなれば意味がある。たとえば、韓国開催ならばKリーグ優勝クラブ、英国開催ならば英国プレミアリーグ優勝クラブが無条件で出場できる。マンチェスターでマンチェスターUNとサンパウロの決勝戦が見られる可能性もある。日本開催はあくまでも暫定的なものだ。「クラブ世界一決定戦」は、可能性が残されたサッカーイベントであることだけは確か。
2007年12月04日(火) |
星野ジャパンは高校野球 |
野球日本代表チームが台湾をくだして3連勝。北京五輪出場を決めた。台湾戦では、1−0の僅差で迎えた6回、台湾の主砲・陳金鋒の逆転2ランで試合をひっくり返されたものの、7回には無死満塁のチャンスで大村が同点スクイズ。続く西岡がタイムリーを放ち、勝ち越しに成功した。結局、この回打者12人の猛攻で大量6点を奪い逆転。9回にも新井の2ランなどで3点を挙げ、試合を決定付けた。
テレビ中継の解説陣は、7回無死満塁の場面での大村のスクイズを絶賛していた。結果からすると、このスクイズ成功が発火点となり大量点をもたらしたことになる。星野代表監督の名采配だというわけだ。
野球・日本代表はアジア予選を勝ち上がって、五輪出場を果たした。結果においては、立派な成績だ。MLBに所属する日本人一流選手を欠くとはいえ、アジアの頂点である公式戦で三連勝で優勝したのだから、サッカーでいえばアジア杯で全勝優勝したようなものだ。賞賛に値する。選手も監督もスタッフも頑張った。でも敢えて苦言を呈したい。
というのは、筆者のスポーツ観に、無死満塁でスクイズのサインはあり得ない。結果論でいえば、大村がスクイズを決めたボールは絶好球。大村がフルスイングしたならば、ボールは限りなく遠くに飛んだことだろう。いみじくもプロの野球において、絶好球を前にして、バットを横に構えて投手の前に転がすようなプレーに筆者はカネを払えない。代表チームがやる野球なのだろうか。このようなプレーは「高校野球」――日本の「高校野球」にのみ許されるプレーではないのか。もちろん、スクイズをした大村は責められない。彼は仕事をしただけなのだから。このプレーを見て、日本の野球の強さの基盤は高校野球にあるのだなーと、しみじみ感じた。規律を重視し、己を殺し、チーム一丸となって、指揮官の指示を守り抜く。
当コラムのサッカー日本代表監督後任問題で触れたように、代表チームのスタイルがその種目の日本でのあり方を決定する。かつて、オシムが日本代表監督に就任したことと時を同じくして、Jリーグの多くのチームがオシムが率いたジェフユナイテッド千葉のスタイルを取り入れたように。
星野監督が選手に強いる規律重視は、産業労働者における“フォーディズム”に似ている。星野野球では、選手が個を殺して機械のように自動的に動く。その動きは、プロ野球でありながら、「甲子園球児」そのままだ。20世紀、ベルトコンベアに従って労働を提供する工場労働者の姿そのものだ。
“フォーディズム”に反する労働の概念が“情動的労働”だ。“情動的労働”においては、個と個が制約を超えて、多様なネットワークを形成しながら自由に動き回り利潤を上げていく。“フォーディズム”とスポーツに関しては、サッカー日本代表監督のトルシエとオシムの比較のところで以前にも書いたことではあるが。
星野ジャパンで唯一光ったのは、問題のスクイズの直前、7回、無死一、ニ塁の場面で荒々しい走塁を見せた宮本のプレーだ。宮本は、星野(高校)野球が得意とするバンド作戦の一環としてニ塁代走に起用された。ところが、打者箱崎の下手なバンドが投手の前に転がり、危うく三塁封殺されようとする瞬間、台湾の三塁手の足を狙ったスライディングを敢行した。ビデオで見ると、宮本の後足が台湾の三塁手の足を跳ね上げた。きわどいプレーではあるが仕方がない。乱闘覚悟のプレーだと思うが、相手三塁手が警戒を怠っていたために、投手のフィルダースチョイス、三塁手のミスで乱闘には至らなかった。もちろん、相手三塁手の足を負傷させる確率は低くない。
このプレーこそプロのもの。高校生にはもちろん、危険すぎるのですすめられない。汚いプレーと紙一重だけれど、満塁で打席に入った打者が、絶好球を投手の前にバットに当てるだけで転がすようなプレーとはその本質を異にする。三塁封殺、一塁投球ダブルプレーを防ぐためのチームプレーではあるけれど、相手三塁手の足を狙うスライディングを敢行すべきか否かの判断は、個に委ねられている――代表選手には、こうしたプレーをみせてほしい。
さて、五輪に出場した日本チームは金メダルを狙えるのだろうか――筆者は勉強不足でわからない。でも、世界の野球の主流は、パワーとスピード重視の方向だろう。中北南米、豪州、日本に負けた韓国・台湾等の東アジアが目指す方向は、無死満塁でスクイズをやる野球ではないはずだ。野球がプロとして今後も日本で人気を得ようとするならば、打者は遠くへ速い打球を飛ばすべきだし、投手は速いボールを投げるか、あるいは、特別の制球や変化球を投げるべきだし、走者は素早いベースランニングをすべきだし、守備は・・・であろう。勝てばいいのだけれど、人を魅了するスペクタル性がなければ、プロ(野球)とはいえない。
無死満塁、打者がバットを横に構えて投手のボールを地面にポロリポロリと転がすプレーが日本人を永遠に魅了し続けるのだろうか。そこで三振しようが併殺を食らおうが、はたまた、満塁本塁打を打つのかどうかわからないけれど、結果を恐れず潔く勝負する場面を望んでいるのではないのだろうか。少なくとも、筆者が望むプレーは後者である。少なくとも、代表選手ならば、投手と打者は常に、真っ向勝負ではないのか。
最終節、鹿島がホームで3−0で清水に圧勝し、浦和がアウエーで横浜FCに0−1で負けたため、鹿島の逆転優勝となった。鹿島は終盤9連勝という驚異の追い上げで、浦和をとらえた。
浦和はACLを制覇したあと調子を崩し、リーグ戦で鹿島に負け、天皇杯予選で愛媛に負け、最終節でとうとう命運尽きてしまった。浦和の変調は、愛媛戦で顕著だった。サイドからの攻めに守備が耐えられない。切り込まれる前にファウルでもいいから止めなり、ラインの外に出せばいいと思うのだが、ズルズルと下がってしまう。この日の横浜FC戦でもスピードのあるカタタウにスペースを自由に使われ、ゴール前まで攻め込まれるシーンが何度かあった。浦和の3バックの空きスペースを横浜FCのカズ、カタタウ、三浦淳らが上手く使った。
浦和は相変わらず、前線のワシントン、ポンテ、永井の個人プレー頼み。ワシントンの調子がいまひとつだったため、点に結びつかなかった。横浜FCは引いて守るというよりも、サイド攻撃で浦和を崩し、浦和の前線の個人プレーに対して、守備的中盤の山口を中心とした守備陣が粘って凌いだのが勝因。Jの各チームのDFが、粘り強い守備を持続すれば、強力な浦和であっても簡単には勝てない。
さて、優勝した鹿島はA代表ゼロというチーム。序盤でつまずいたオリベイラ監督だったが、時間をかけて若手を育て戦力を高め、小笠原の復帰を契機に花が開いた。
鹿島は優勝チームなのだから、オシム監督退任を期に、鹿島の中心選手が代表に召集されることになるだろう。守備的なチームづくりを目指す岡田新監督のことだから、岩政(CB)、小笠原(MF)、曽我端(GK)を呼ぶに違いない。そうなると、羽生(千葉)、阿部(浦和)、山岸(千葉)、楢崎(名古屋)らが押し出される可能性は高い。
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