Sports Enthusiast_1

2007年03月30日(金) 阿部の左SB起用に反対する

故障者続出で先発が固まらない浦和。報道によると、日本代表の浦和MF阿部勇樹(25)が、4月1日の大分戦で左サイドバック(SB)で先発することが濃厚となったという。

浦和の左サイドといえば、筆者が潜在能力を考慮して、有力な日本代表候補だと確信する相馬に定着してほしいのだが、左太もも肉離れで現在離脱中。相馬の復帰には、時間がかかりそうだという。残念。

さて、浦和がACLのシドニーFC戦から採用しだした4バックならば、平川が相馬の穴を埋めることになるのだが、平川も左足首ねんざで戦線離脱。ならば、昨年までの3バックに戻すとすると、CB(左)にネネが入り、ボランチ(左)に阿部、小野が左サイドハーフに入れば、これまでの布陣でおさまるのだが、小野も風邪でダウン。左SB、左サイドハーフが務まる選手がいなくなったのだ。「日本のチェルシー」と言われる浦和だが、左サイド候補が次々と故障リタイアだというから、サッカーというのは難しい。選手層というのは、厚ければ厚いほどいいというのがよくわかる。

浦和のウイークポイント・トップ下は長谷部の復帰で埋まったかと思ったら、こんどは左サイドが決壊。一難さって、また、一難。そこで急遽、万能の阿部が左SBに入り、さらに小野の復帰後も、阿部の左SB起用が固定される見通しだという。

ちょっと待ってもらいたい。確かに阿部はユーティリティーだが、サイドバックというのは違うだろう。阿部がライン沿いに駆け上がり、クロスを上げるというイメージがわかない。SBの攻撃メニューがクロスだけとは言わないけれど、阿部の資質とは明らかに異なる。阿部の得意とするミドルシュートの場面は減るだろう。阿部の左足で正確なクロスが上がるのか。左から切り替えして右足シュートという場面はなくはないだろうが、相手DFが右足をケアすれば、そうそうシュートは打てない。阿部の良さはまず、発揮されまい。浦和には、若手で左SBができる選手はいないのか。



2007年03月26日(月) 大相撲は芸能です

週刊誌の八百長報道の中始まった大相撲春場所だったが、結婚を控えた白鳳が優勝。仲間からの祝福でなくて、なんであろう。

でも、優勝よりもあからさまなのが、かど番の大関栃東が勝ち越しを決めた途端の休場であることは既に書いた。その後の報道によると、栃東は12日目から休場し入院した大阪の病院からこのほど退院。報道陣の取材に応じ、「引退は半々。5月場所までには時間があるので、元の体調に戻してから考えたいが、(現役を)やらなきゃいけないという気持ちはある」と、冷静な口調で話したという。病院での検査の結果は心臓には異常がなく、頭部に過去の脳梗塞(こうそく)の影が認められ、現在は鎮痛剤と降圧剤を服用している状態で、帰京後主治医による再検査を受けるという。

病人を追い詰めるのはどうかと思うが、栃東はプロの格闘家だ。勝ち負けは透明でなければいけない。筆者の素朴な疑問は、高血圧で検査が必要な人間が相撲という過酷な格闘技で勝てるのかどうか。筆者には、勝てるなんて、あり得ない・・・高血圧で入院を必要とする患者が相撲を本気で取れば、命にかかわるし、しかも、本気で向かってくる相手に勝とうとしても、力が出ない、と思える。

栃東の勝ち越しは、前に書いたとおり、相撲業界が共同で病人を援助したと考えたほうが自然だ。かど番を脱出させておいて、ゆっくり療養させたわけだ。相撲界特有の互助の精神が発揮されたと。

さて、千秋楽、朝青龍が立会いに飛んで2敗を守り、白鳳は決定戦で立会いにはたいて朝青龍に勝った。白鳳が朝青龍に勝ったのは、朝青龍からの結婚プレゼントだと考えたほうが、これも自然だ。モンゴル出身者同士、相手は結婚を控えた後輩、がちんこで勝つ(か負ける)よりは、意表をついた負け方で決着したほうが角が立たない――相撲業界の暗黙の了解、阿吽の呼吸・・・八百長と表現するのは適正ではないかもしれないが、相撲業界特有の互助の精神が発揮されたと考えたほうが、これも自然ではないか。

大相撲が本気の勝負であるかどうかの判定は、非常に難しい。その理由は、勝負があまりにもあっけなくつくようなルールだからだ。一番一番の本気、無気力、八百長を客観的に表面的に判定するのは困難だ。八百長の有無は、内部告発しかない。

だが、筆者には、そんなことはどうでもいいことなのだ。筆者の想像する相撲のメカニズムは以下のとおりだ。力士は厳しい稽古をする。力士は部屋の稽古⇒同門の稽古⇒出稽古を通じて、力士同士、何番も何番も勝負する。勝ったり負けたりを繰り返す。その過程において、力士間の実力が判定されていく。実力者が次第に決定されていくわけだ。さらに、その力士の実力に加えて、人気、タレント性、話題性等の要素が加わり、次期横綱以下の序列が決定されていく。

本場所では、次期横綱以下に指名された力士は、互助の精神に育まれ、順調に出世していく。横綱に昇進すれば、白星を重ね優勝するときもあるし、優勝を逃すときもある。できるだけ流れが不自然でないような15日間の物語が紡ぎだされるというわけだ。だれがこの筋書きをつくり出すのかは不明だが、重要なのは、相撲人気を維持することであって、人気のある力士、強いと思われている力士を頂点とする形式を維持することなのだ。本場所が常に戦国場所になり、横綱の権威が崩壊し、だれが優勝するかわからないような状況になれば、大相撲という秩序を価値とする芸能は存立し得ない。

だれが優勝するかわからないのがスポーツであり、横綱が優勝することが前提となっているのは、芸能だ。もちろん、大相撲は後者だ。たまには横綱が優勝しない場所もある。そのとき優勝する力士は将来の横綱候補か、あるいは、優勝する理由をもった力士だ。将来部屋を経営する境遇にある力士に優勝経験が必要であるため、優勝をさせることがあるかもしれない。ほかにもいろいろ、「優勝」する理由があるのかもしれない。

必要なのは、相撲が芸能であることの相撲界内部からの声だ。内部告発があっても、芸能であるからといって、力士が弱いという証明にはならない。力士が強いことを証明したければ、引退力士が総合格闘技で勝てばいいし、逆に引退した力士がプロレスラーと相撲をとって勝って見せればいい。それで十分、力士の強さは証明できる。



2007年03月25日(日) キリンチャレンジ杯は、詐欺である。

24日のキリンチャレンジ杯は、日本代表がペルー代表に2−0で勝った。スコア上は快勝とはいえ、相手は14人しか集まらない即席チーム。しかもペルー国内組ばかりだ。ペルー代表チームとはいえない。高いチケットを購入したサポーターを気の毒に思う。筆者は、このような「国際親善試合」のマッチメークを、広告の不当表示に該当すると考える。日本代表対ペルー代表というからには、それぞれのチームが現状でベストの選手を集めたものでなければいけない。なんらかの事情で、ベストでないチームが来日するのならば、チケットを販売する前に十分な説明が必要だ。

マスコミがいけない。マスコミは、来日する外国チームがどのような選手で構成されているのか、いつごろチームを結成し、どのような練習をし、いつ来日し、どのような調整をするのか。そうした情報をチケット販売前に購入者に伝え、このキリン杯がどのような試合でいくらの価値があるのかをサポーターに周知すべきである。

公取は、サッカー協会が定番とする詐欺的国際親善試合にメスを入れるべきである。この試合の日本代表の相手方は、「ペルー代表」ではなく、「ペルー選抜」もしくは「ペルー人で構成された任意チーム」という表示が適切ではないか。ペルーを代表するという名称は、不当表示に当たる。

日本代表が海外のチームと試合をするのは自由だ。スタイルの違うサッカーを体験することは、悪くはない。だから、キリン(チャレンジ)杯を中止しろとは、いはない。だが、代表でないものを代表であるかのように表示し、それをマスコミ(とりわけ中継するテレビ局)を使って、チケットを売るような構造は良くない。キリン(チャレンジ)杯は、冠スポンサーのキリンと中継局のテレビ朝日等が仕組んだ、大規模詐欺の疑いがある。



2007年03月22日(木) 八百長疑惑の中、堂々と・・・

ミエミエとは、このこと。報道によると、大相撲の西大関栃東(30=玉ノ井)が春場所12日目の22日から休場した。この日、大阪市内の病院で「高血圧で5日間の安静、治療が必要」と診断されたという。栃東は8度目のかど番で迎えた今場所に進退をかけて臨み、10日目に勝ち越し決め引退の危機を乗り越えたばかり。栃東の休場は昨年夏場所以来で16度目。大関昇進後からは在位31場所目で11度目になるという。

高血圧で治療を必要とする格闘家(栃東)が11日間戦って、8勝を上げていたことが筆者には信じられない。しかも、勝ち越しを決めてから休場するというのはいかにも不自然だ。かど番だから死に物狂いで頑張り、かど番を脱出した途端、緊張感がなくなって病状が悪化したという「論理」「説明」が成り立たないではないけれど、格闘技で体調が悪い選手が、体調のいい選手と戦って8割弱の勝率をおさめることはおよそ、考えられない。対戦した力士が手心を加えたか、八百長(金で星を買ったか)のどちらかだと疑われておかしくない。八百長騒動のあった今場所に、かど番脱出から休場だなんて、相撲協会も、もうちょっとうまくやればと思うのだが、よほど栃東の病状が悪化していたのだろう。

でも、筆者は大相撲をスポーツとして考えていないので、この程度の非常識は想定の範囲。とはいえ、ちょっとミエミエすぎないか。いい加減にしたらと言いたい。しかも、栃東の場合、大関在位・31場所中11度目の休場だというから、休場率が4割弱だ。これもすごい。サラリーマンならば、月20日の出勤日のうち8日も休んでいることになる。月8日欠勤したら、クビでしょうね。大相撲は国技だというけど、大関という幹部社員がこんなんでは、国民の勤労意欲に影響しませんかね。ま、日本のサラリーマンは休まないという悪癖があるので、国技を演じる力士が率先して休んでみせるということに、国民的意義はあるかもしれないけれど・・・この際だから、相撲関係者(たとえば、引退した元横綱とか協会幹部とか)が、「大相撲は芸能です」とはっきり告白してしまえば、ラクになると思うのだけれども。



2007年03月21日(水) 華麗に変身、大久保嘉人に期待する

神戸に移籍した大久保が変身した。第3節の横浜M戦、大久保は左MFで先発し、先制点をはじめ2得点を上げた。2得点はもちろん立派なことだけれど、大久保の変身は、チームへの貢献にあった。それは得点以上の価値があった。

先制点のきっかけは、大久保がマリノスGK榎本と神戸FWパクの間に出した、絶妙のパスだった。パスに素早く反応したパクに慌てたマリノスGKは、ペナルティーエリアの外に出て、パクを手で引っ掛けて倒した(榎本はレッドで退場)。大久保の先制点は、このフリーキックから生まれた。

大久保といえば、筆者は当コラムで何度もマナーの悪さを指摘してきた。審判へのクレーム、相手DFへの悪質なファウル、規律を無視した傲慢な個人プレー・・・が多く、実力は高いが、品格を欠いていた。ところが、この試合では、大久保が主審に文句をつけるシーンは、TV画面上からは認められなかった。しかも、彼は守備では自陣ゴール近くまで下がり、攻撃では敵陣ゴール前まで上がっている。下がった位置のマイボールは、大久保が基点となって、前線に絶妙なパスとなる。前に出れば、大久保は積極的に得点に絡み、シュートまでもっていく。

運動量と戦術眼が見事に総合化し大久保は、司令塔としての役割をほぼ完全にこなした。横浜Mが一人少なかったということはあまり、重要ではない。大久保は相手が一人少なくなる前から、自分の役割を忠実に実行し、相手が少なくなっても、そのプレーぶりに変化はなかった。特に非凡なのは、彼のパスセンスである。パスの速さ、出す場所、タイミング・・・は、見事というほかない。大久保は、味方選手を理解し信頼しているから、あのようなパスが出せるのだと思う。神戸監督・松田浩の指導の成果であろう。

中継アナ氏及び解説者氏は、大久保の「新しい発見」と表現して絶賛していたが、まったくそのとおり。彼のプレーから、これまでの粗雑さ、傲慢さが消え、“エレガントさ”さえ感じられた。筆者は、大久保という選手は、サッカーが上手なのだなーと感じた。大久保は、攻撃的MFとして、日本代表に必要な選手の一人になりそうだ。



2007年03月19日(月) 簡単に負けてはいけない

横浜FCが川崎に0−6と大敗した。高木監督は、浦和に1−2と惜敗したものの、横浜Mに1−0と競り勝った。その直後の川崎戦は、横浜FCの実力を正確に測る意味で、重要な試合だった。

結果は惨敗だった。個の力において劣るうえ、ゲームプランがはっきりしなかった。高木監督が完全に自分のチームの実力を測り損ねた試合だった。2試合の手ごたえが奢りとなったのか。惨敗の第一の責任は高木監督にある。

高木監督は、浦和戦について、守るだけの消極的戦法だ、と批判されたのかも知れない。だから横浜M戦は一転して攻撃に打って出て先取点を上げ、幸いにして先取点を守り抜いた。けれど、あくまでも「幸い」であって、横浜ダービーは、マリノスがいつ追いついてもおかしくなかった。

高木監督は、川崎の戦力の分析を誤った。いま現在の川崎の攻撃力は、ワシントン頼りの浦和よりも、ましてや、久保、奥が抜けた横浜Mよりも、はるかに高い。にもかかわらず、高木監督は、アウエーでまともに川崎と打ち合った。浦和戦で機能した守備のブロックは影を潜め、ジュニーニョ、マギヌン、黒津らの前が大きく空いたままだった。ジュニーニョの先取点の場面では、横浜FCの厳しいはずの守備が機能せず、ゴール前ががら空き状態だった。その後の試合展開は、まるで川崎の練習のよう。守護神GK・菅野もお手上げだ。いまの横浜FCが、強豪相手に引いて守って何が悪い――高木監督に必要なのは「居直り」だった。

さて、同節、浦和と戦った甲府は、相手によってスタイルを変えないチームといわれ、マスコミ、Jリーグ周辺で概ね高い評価を得ている。だが、今シーズンの成績は3戦全敗で、しかも、いまだ無得点だ。相手は横浜M、名古屋、浦和で、大敗とはいえないが、苦しい負け方ばかりだ。「スタイルを変えない」といえば聞こえはいいが、玉砕ではないのか。相手が強ければ、それなりの戦術を練らなければいけないのではないか。フライ級のボクサーがヘビー級とまともに打ち合って勝てるわけがない。攻撃だけのサッカースタイルでいいのか。甲府の「スタイルを変えない」サッカーが評価されるJリーグだけれど、筆者は玉砕戦法をいかがわしいと思っている。玉砕サッカーが、「将来につながる」とは思えない。

筆者は、リーグ戦という長期戦においては、各チームいろいろな戦い方があっていいと思っている。スペクタクル性=エンターテインメント性は、プロサッカーに必要な要素の1つだけれど、明るく陽気に攻めあう試合もあれば、陰気で息の詰まるような試合があってもいい。後者が「つまらない」とは限らないではないか。どのような試合を好むかは、サッカーファンの趣味の領域に属し、派手な点の取り合いを好む人が多いとしても、それで満足のファンは、一過性の客だと筆者は思っている。

相手によって戦法を変え、強豪に一泡吹かせるようでなければ、Jリーグのレベルは上がらない。浦和が長期間「ホーム不敗」であることを評価する一方、ホームで下位相手の引分は負けに等しい。弱小チームが厳しい試合で引分にもちこめば、強豪チームに焦りが生じる。精神的に追い詰めなければ、戦力に勝る浦和が楽に優勝するシーズンで終わるだろう。

弱小チームといえども、たとえば、浦和ホームの試合で玉砕してほしくない。「つまらない」といわれようが、「消極的」とけなされようが、しぶとく戦った結果の引分ならば、それこそ、次につながる。

勝点0より勝点1のほうが評価が高くなければプロではない。潔い、自分のスタイルを捨てない、スペクタクル、エレガント・・・どのように表現をされようが、勝点が上げられなければ、順位は下がる。勝点が低いチームが優勝することはあり得ない。それがサッカーであり、勝負の世界である。



2007年03月16日(金) 「アマ」で儲ける高校と新聞社

日本にはNPBに属さない、巨大な野球機構が存在することは既に書いた。その存在とは、高校野球を統括する高野連のことだ。高野連は日本体育協会にも属さない独自の組織で、通称・甲子園大会(春の選抜/毎日後援、夏の大会/朝日後援)を主催している。この大会を目指して、日本全国津々浦々の高校が、野球部員を集め、優秀な指導者を求め、練習設備を整備し、過酷な予選を勝ち抜くため、野球部強化に努めている。全国に張り巡らされたスカウト網を通じ、高校入学というよりも野球部に入部した高校生は授業免除(集中補講により通常の授業は受けない)、学費免除等の特別待遇を受け、寮費を免除され、ひたすら野球技術向上に励むのである。このシステムは大学、社会人でほぼ踏襲されている。大学の場合はスポーツ特待制度が整備されていて、通常の入試とは異なる方法でスポーツ選手が選抜される。平たく言えば、スポーツで優秀な者は、スポーツ枠で大学の入学が許され、彼らは4年間講義に出席することもなく、学費を免除され、実態上、卒業試験も免除され、卒業していくのである。

アマチュアスポーツの辞典上の定義は、「専門ではないこと」「報酬を受けないこと」などであろうが、日本のアマチュア野球を構成する高校生、大学生、社会人は、月々の報酬こそ所属する団体(高校・大学・企業)から受け取っていないが、それ以外の待遇において、プロと選ぶところはない。海外のクラブが育成する未成年のスポーツ選手の場合(もちろん彼らはプロ契約である)、クラブが学費を負担し学校に通わせ、共同住宅に住まわせ、練習と試合を通じて、育成を図る。ここまでは、日本のアマである高校野球と似ているが、最も異なる点は、クラブが試合に出場した選手(未成年者)にきちんと報酬を支払う点である。日本の「アマ野球」を支配する高校側は、高校野球で得た知名度で学生を集めるにも関わらず、学校経営に利益を齎す野球部員(しばしば「球児」と呼ばれるのだが)に対し、一切、報酬を支払わない。野球部員はあくまでも純粋アマチュアであり、サークル活動として好きな野球をやり、甲子園に出ることを夢見る理想的高校生なのである。そんな純粋な高校生に高校経営者が報酬を支払うなどはもってのほか、彼らの青春を汚してはならないというわけだ。

ここまでくれば、日本の「アマ野球」を代表する高校野球の主催側(高野連、高校、新聞社等)は、アマのブランドを不当に表示し、野球部員を学校経営の一助とし、併せて新聞の拡販に利する輩であることは明々白々であろう。もしも、日本において、欧米、南米等のサッカークラブのように、プロ球団が学校スポーツをスルーして直接、若者をスカウトし育成するようになれば、高野連がいまほどの社会的勢力を維持することは不可能であり、その社会的存在意義は薄れていく。と同時に、新聞社の拡販も停滞するというわけだ。つまり、いまのところの高野連側の目論見としては、プロ野球(球団)による、一極的野球支配をいかに排除するかということになる。

日本の野球界は、「アマ」は主に学校を基盤とし、プロが読売新聞社を基盤として発展してきた。その間、プロが「アマ側」にしばしば、ちょっかいを出して、優秀な「アマ」選手の獲得のため、「アマ」の領域を侵してきた。「アマ」側は、そのたびごとにプロ側に対して「アマチュア精神」を踏みにじる行為として、新聞を使って、ヒステリックな批判を繰り返してきた。

「アマ」側がいうアマ精神など不当表示にすぎないのだが、「アマ」の利権を守るため、高野連等は「アマチュア精神」遵守を金科玉条のごとく持ち出すのである。そして、「アマ」が純粋であるかのごとく信じられている日本社会では、「アマ」の主張を拡大再生産する巨大新聞社の大声によって、その主張を極めて正当なものとみなしてきたのである。

馬鹿馬鹿しいとはこのことだ。虚しさが漂う。「アマ」は正当な報酬を支払わずに高校生に野球をやらせ、新聞社は高校生の野球大会を大々的に報道して新聞拡販に利用する。そんな「アマ」精神が純であろうはずがない。むしろ、高校生が行った試合に対して、それ相応の報酬を支払った方がいい。甲子園大会を楽しんだ観客、テレビ視聴者は、そのエンターテインメント料金を主催者を通じて、高校生(選手)に支払うことが正当ではないか。

今回発覚した西武球団の裏金事件は、本来はプロである見かけ上の「アマ」の高校生に、プロ球団が正当な報酬を支払っただけにすぎない。ただし「裏」でだが。本来は、プロに報酬を支払ったにすぎない自然な行為が、日本の「アマ野球」では、犯罪であるかのように扱われるのである。西武球団に非があるとすれば、球団が本来行うべき選手育成のための努力を怠り、高校側に育成費の支払をネグレクトした点だろう。かりに西武側が高校側及び指導者にそれ相応の金銭等を支払っていたのなら、西武に非はない。

経済合理性に従えば、プロ球団が選手育成を高校に委託するのならば、高校側に委託費を支払うべきである。それをしないで、球団自らが選手育成を行うのならば、育成システムを構築しなければならない。育成システムは急にはできない。システム構築費用は馬鹿にならないだろう。

プロ球団は、全国的に配置された高校に選手育成をアウトソーシングし、その費用を高校側に支払うことなく、プロに入る高校生に対し、契約金として支払っている。おそらく、プロ球団側は高校生への報酬のみならず、指導者・関係者に対して、それ相応の謝礼を渡していると思われるのだが、その金銭は表面には現れることなく裏にまわっている。

こうして建前の「アマ」は実態上、プロと交渉をもっていて、裏で経済活動を行っている。裏にまわった費用は価格が不透明であり、会計上、税務上の処理は不透明なままだ。日本の野球界は、グローバルなスポーツ体系とは隔たっていて、建前により独自に権威と秩序と経済活動を維持してきた。そして、両者の境界上に発生するものに対して、とりわけ、経済行為については、裏で処理してきた。それが、今回の自由枠に係る裏金問題の本質だ。筆者は、「プロ」と「アマ」の建前の壁を取り払った方がフェアだと思う。優秀なプロ入り前の人材を巡って利権が発生しないよう、選手の入団に関する制度はシンプルな方がいいと思う。優秀な選手がとりあえず、しがらみを排して公平にプロ球団に入団することで、裏の経済を封ずることができるだろう。

日本では、建前の「アマ」を熱心にサポートする甲子園フリークがいることも事実なので、その人たちの趣味を奪うこともできない。ただ、盲目的な甲子園フリークがアマ幻想から目覚め、新聞社が仕組んだアマ野球劇場に興味を失うようになれば、学校スポーツが常識的なサークル活動に落ち着くようになる。

プロの「巨人軍幻想」が消滅するまで70年を要したように、甲子園幻想が消滅する年限は、気が遠くなるほど長いかもしれない。しかしながら、インターネット等のメディアの多様化は、新聞社が築き上げた一見強固に見えるアマ幻想を一挙に消滅させる威力がある。そうなれば、プロの最強リーグを頂点に、スポーツの水準を審級とした、スポーツ体系が構築されるようになる。高校生だからアマで高い報酬がもらえないという矛盾は排される。世界のサッカー選手の中には、17〜18歳でその国の最高リーグにデビューし、成人選手より高いギャラを得ている者がいくらでもいる。



2007年03月13日(火) 裏金とは情けない。

オープン戦最中の日本プロ野球が揺れている。西武が希望枠予定の社会人選手に裏金を渡していたというのだ。希望枠というのは、球団と選手に同意が成立していれば、ドラフトに係らず自由競争で球団がアマ選手を獲得できる制度。日本プロ野球機構(NPB)の新人入団制度は、2005年から2年間の暫定措置として、社会人・大学生で希望枠を採用し、高校生と社会人・大学ドラフトの分離開催を実施してきた。この制度はドラフト制度の実質的な形骸化であり、完全ウエーバーを支持する筆者からみれば、読売主導の新人獲得手段にすぎない。

今秋のドラフトに関しては、NPBがすでに現状維持の方向を決めているのだが、急遽、西武球団の金銭供与が明らかになり、希望枠の存在が不正なスカウト活動の大きな要因ということで社会問題化した。

素朴な疑問がある。なぜ、これまで不正が明らかにされなかったのか。不正を行っていたのは、西武だけなのか、西武の不正発覚で、自由枠は廃止されるのか。

結論からいえば、日本の野球風土の不透明性を前提とするならば、自由枠は撤廃が望ましい。ドラフト制度もやめて、完全ウエーバーがいい。完全ウエーバーというのは、下位球団からアマチュア選手を指名できる制度。高校生、大学生、社会人の区別はない。高校生は未成年だけれど、スポーツ選手の場合、成人、未成年者の区別は意味がない。実力があれば相応の待遇と報酬が得られるのがプロというものであって、未成年を特別扱いする現行制度はおかしい。

日本がWBCで優勝した主因は、野球人口の多さ、選手層の厚さ、社会に浸透した野球文化の存在に求められる。とりわけ高校生という伸び盛りの者を、3年間という期間、きっちりと野球に集中させることができる高校野球の存在が大きい。極論すれば、日本には、プロ野球球団はわずか(NPBに属する12球団の一軍二軍計24球団及び四国リーグ・・・)しかないが、プロのルーキーリーグに対応する高校野球が日本の野球レベルを上げているといえる。さらに高校野球とプロ野球の間を埋める大学、社会人野球が存在する。日本の広義のプロ野球機構は、球団数、選手人口において、米国に勝るとも劣らない。

ところが、高校、大学、社会人の野球選手は「アマ」と規定され、「プロ野球」とは峻厳に一線が画される。その合理的説明はないのだが、この区分は、実態的には、「アマ」を支援する朝日、毎日の2つの新聞社と、「プロ」の人気チーム「巨人」を擁する読売新聞社の対立に起因するとみていい。新聞社の拡販手段の対立構造がプロ〜アマの対立構造に反映しているにすぎない。ということは、このたびの不正事件は、裏金で誘引して望みの「アマ選手」を自由枠で入団させたい勢力と、そんな外部経済をみとめたくない勢力の対立を根底としている。もちろん、今回の事件は、後者による、情報リークの結果である。

なお、誤解してもらっては困るが、朝日・毎日側がいう「アマ」とはもちろんプロであって、アマチュアのブランドを不当表示しているにすぎない。今回の事件では、希望枠の対象とならない高校生が、プロ側の西武球団から金銭を受け取っている。このことから、高校球界に「アマ」である高校生を「プロ」、社会人、大学に斡旋する、「指導者」という仲介者が存在することを窺い知ることができる。

ことの本質は、日本が構築してきた広義のプロ野球機構、すなわち、(プロ野球12球団等)+(「アマ野球」と呼ばれる高校・大学・社会人野球)の合理的で透明な運営方法の構築である。限られた球団が「アマ」と特定の関係を結ぶことは、経済的合理性及び法的透明性を欠く。「裏金」は不正である。できるだけ公正かつ透明に、日本の広義のプロ野球機構を作動させるには、「アマ」が育てた選手を公平に「プロ」に配分する仕組みをつくることだ。その方法は、完全ウエーバー制度しかないだろう。現状、3つの新聞社がそれぞれ勝手につくりあげた日本のプロ野球機構は、結果的に世界レベルにまで日本の野球水準を高めた。もちろん、この日本独特のプロ野球機構は、筆者の気に入るところではない。だが、すぐに壊すこともできないものでもある。ならば、自壊するまで、公正にかつ透明性を保持しつつ運営するしかないだろう。

今回の事件は、長年「プロ」に君臨してきた「読売巨人軍神話」消滅の終章の始まりを予告している。さらに、「アマ」を語る「プロ」の高校野球の仮面が剥がされ、プロ=ルーキーリーグに変身をはかれば、日本の野球界はすっきりする。裏金は氷山の一角、歪んだ日本の野球の崩壊の象徴にすぎない。



2007年03月09日(金) バラバラ浦和

ゼロックス杯における大敗(0−4、2月25日G大阪戦)、ACLにおける大勝(3−0、3月7日ペルシク・ケディリ戦)と、結果は対照的だが、浦和のチーム状況は変わっていない。いまのところ、攻撃における組織性は発揮されないままだし、攻撃の基点、というよりも、試合の流れを制御する核となる選手が不在という点が気がかりだ。

キャプテンマークの腕章は右サイドの山田が巻いているが、彼はときおり、思い出したかのように、右サイドから攻撃に参加する程度。“機を見て”といえば聞こえはいいのだが、“たまたま”の攻撃参加で終わっている。

左サイドの相馬は山田よりは積極的だけれど、孤立してパスをもらい、仕方なく個人技でタッチライン沿いに攻撃を仕掛けざるを得ないかのよう。その姿は愚直に見える。

ポンセ、永井も相馬とポジションこそ違え、攻撃にからむ様子は、サイドの相馬と大差ない。二人ともこぼれ球、後方またはサイドからのパスを受けて孤立して相手を外すか、たまたま近くにいる選手とのワンツーで前進を試み、シュートを打てたとしても、相手DFにぶつけることの方が多い。ポンセ、永井には、トップ下の資質はない。

小野はこの2試合、左サイドとボランチでプレーをしたが、オランダ時代定位置だったボランチの方が向いているように見えた。いまの浦和では、もっとも期待できる選手の一人なのだが、チームを引っ張っているわけではないし、攻撃を組み立てているわけでもない。小野の“良さ”が発揮されていないし、筆者は小野をトップ下で起用してもいいと思っている。

不動のボランチ・鈴木はこの2試合なぜか、攻撃参加が少なく守備的だった。トゥーリオの欠場を考慮して、攻撃を手控えているのか。それとも、新加入の阿部との呼吸が合わないのか。理由はわからないのだが、この2試合に限れば、精彩を欠いていた。

心配なのは阿部だ。このままなら、彼の浦和移籍は失敗に終わる。ユーティリティーは便利屋ではない。状況に応じてチーム力をアップするためにポジションを変えるのであって、応急処置ばかりでグルグルとポジションを回っていたのでは、阿部の能力もチームの力も減退する。

さて問題は、ワシントンだ。彼の役割は、前線に張ること。彼はポストプレ―あるいはセンターリングに反応するが、相手DFがマークを強めれば、ワシントンの得点シーンが昨シーズンより増えるとは思えない。日本を含めたアジアでは、彼の馬力は図抜けているので決定機を個人的に切り開くことは大いにあり得るし、もちろん、セットプレーで威力を発揮することも多い。事実、昨シーズンはJの得点王に輝いた。だが、2年連続となると黄色信号がともる。実際、ちょっとレベルの高いDFにマークされると、威力半減どころの話ではない。Jの各チームが厳しく彼をマークすれば、今年の得点は昨年の半分程度に落ちる可能性も高い。つまり、浦和はワシントン個人頼みの得点獲得以外の得点源を構築することが急務なのだ。

そのワシントンがペルシク・ケディリ戦、途中交代を命じられてキレた。ユニフォームを投げ捨てて露骨な監督批判のパフォーマンスを演じた。あいにくテレビ画面に映像は入らなかったが、その様子を実況アナ氏が伝えてくれた。交代だけでワシントンが怒るはずがない。浦和内部で何が起きているのか・・・発足したばかりのオジェック体制だが、意外と短命に終わるかもしれない。



2007年03月04日(日) 外国人FW依存は、今年も変わらず

優勝候補の呼び声が高い浦和は、二部から昇格した横浜FCに2−1で辛勝。1点目は横浜FCのディフェンダーのオウンゴールだし、2点目も横浜FCディフェンダーのクリアミス。横浜FCには残念な結果に終わってしまった。筆者は横浜に勝点1をとって帰ってもらいたかった。そうなれば、浦和に危機感が生まれ、リーグ活性化につながっただろう。

浦和はトゥーリオが発熱で出場できず、阿部がリベロで3バックの真中で出場し、小野が鈴木とダブルボランチ、ワシントンの1トップにポンセ、永井の2シャドー、サイドハーフは右に山田、左に相馬。
一方の横浜は、久保を前線に一人残して、センターラインより後まで引き、9人で強力なブロックを形成して、浦和の攻撃を阻む作戦をとった。組織的な守りで時間を使い、前線の久保の一発に賭けるという完全アウエーシフトだ。ワシントンのマークはベテランの小村が担当。前半、OGで1点を献上したものの、試合を通じて、この作戦は失敗ではなかった。横浜FCにミスがなければ、浦和は勝点1で終わっていただろう。

この前のコラムで書いたとおり、浦和の弱点は司令塔不在。1トップ、2シャドー、左右のサイドハーフは攻撃力満点に見えるのだが、ボールを散らすいわゆるトップ下が不在だから、有機的な攻撃ができない。それが証拠に、ボランチ2人がバイタルエリアで仕事をするシーンが皆無だった。サイドの山田、相馬が個人技でクロスを上げても横浜FCのブロックに阻まれた後の第二波の攻撃が起きない。長谷部がケガで戦列を離れているとはいえ、浦和の組織的攻撃の発芽は見られなかった。頼みのワシントンがベテラン小村に抑えこまれるくらいだから、相手チームが浦和ホームのときにディフェンシブなゲームプランを選択すれば、浦和がホームで勝点を量産してきた昨年までの優勝の構造は崩壊する。ホームで引分が続けば、サポーターが焦って「愛するレッズ」にブーイングを浴びせる光景も出現すかもしれない。そうなれば、チームとサポーターの関係も悪化し、昨年の浦和の「ホーム不敗神話」も崩壊する。

ようは、浦和という超ビッグクラブに対して、そのほかのクラブが厳しい戦いをするかどうかが問われている。資金がなく、優秀な選手が集められなくとも、監督が知恵を絞れば、浦和だってそう簡単に勝てない。浦和相手にノーガードで打ち合えば、個々の力でねじ伏せられる。浦和と対戦するJリーグの監督諸氏は、横浜FCの高木監督のように、相手を苦しめる作戦をとってもらいたいものだ。また、浦和はそうした相手から勝点3をもぎ取るようなサッカーをしなければならないわけで、両者の「戦い」がリーグのレベルを上げていく。

さて、浦和と並ぶ優勝候補のG大阪も大宮相手にホームで1−0の辛勝。決勝点は、途中出場した甲府から移籍のバレーが、やはり交代で出てきた家永との連携で上げたもの。こちらも浦和のワシントン同様、エースのマグノアウベスが不発で苦戦したものの、選手層の厚さで勝点3をものにした。

この2試合から、Jリーグの「強豪」に共通の課題が存在することが露見している。浦和、G大阪ともに外国人ストライカーが点を取らないと苦戦するという法則だ。それでも、G大阪にはバレーという外国人の控えの切り札がいたから勝てたようなもので、外国人ストライカー依存の体質は変わらない。日本人選手が点を取らない「2強」というリーグの現実が、日本代表の決定力不足の主因になっている。

外国人ストライカー依存体質を打破しなければ、日本代表が世界レベルに到達することはあり得ない。Jリーグの課題が日本代表の課題であり、監督がオシムになって猛練習しても、課題が解決されるわけではない。点取り屋の日本人選手といえば、FC東京から2点を奪った、広島の佐藤寿くらいしか思い浮かばないが、彼はストライカーというイメージではない。

Jリーグの各クラブがリーグで厳しい戦いを繰り広げなければ、代表のレベルアップは不可能。始まったばかりの今シーズン、各クラブの監督は、とことん勝点(勝負)にこだわった戦いをしてほしい。負けて当然のような、淡白な試合だけは一試合たりとも見たくない。


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