2004年08月30日(月) |
福西の許しがたいプレー |
29日のJリーグ、浦和vs磐田は熱戦だった。激しい雨のなか、集中したプレーを続けた両チームに拍手を送りたい。ところが、そんな好試合に雨以上に水を差したのが磐田の福西(日本代表)の肘打ちだった。福西のラフプレーについてはかなり前のことだが、当コラムに書いた記憶がある。福西は、Jリーグにおいて、相手選手に対して、たびたび肘打ちの反則行為を行っている。審判がカードを出さなかったこともあるし、出したこともある。Jリーグだけではない。先のアジア杯でも同様のプレーで退場になっている。このような選手が日本代表に選ばれていることを遺憾に思う。おそらく、福西は反省をしていない。見つかったのは運が悪かったとでも思っているに違いない。あるいは、こういうプレーが癖になっているのかもしれない。断固とした処分を行わないと、大事な試合で彼は退場処分を再び食らうだろう。 浦和戦の結果を見ればよくわかる。せっかく同点に追いついた磐田が、福西の退場後に浦和の長谷部に決勝点を奪われ負けた。勝利の女神はやはり、福西のラフプレーを許さなかった。当然のことだ。福西のラフプレーによる退場が、磐田の他の選手の全力プレーを無に帰したとも言える。 これと同じようなラフプレーの常習選手が大久保だった。彼はサッカーの名門・K高校の出身。K高校のK監督は、スポーツマスコミでは「名監督」という評価があるが、私に言わせれば、大久保の教育もできなかった、ヘボ監督だ。大久保は高校時代、K監督に甘やかされた結果、Jリーグ・セレッソ大阪入団後においても、プレーぶりが改まなかった。そんな大久保にお灸をすえたのが、Kキャプテンだった。Kキャプテンの断固たる処置により、大久保のプレーは明らかに変わった。データはないが、大久保がカードをもらう場面が最近減ったと思う。福西に対しても、磐田の監督、Jリーグ関係者、日本サッカー協会関係者による断固たる処分が必要だ。でないと、福西は代表試合の大事なところで反則を犯し、日本代表を窮地に追い込むだろう。
五輪サッカーの決勝戦を見た。ひどい試合だった。五輪サッカーは年齢制限のあるものだから、期待はしていなかったけれど、決勝にふさわしいとは言えない。 テベスを擁したアルゼンチンの実力は際立っていた。その対抗馬として決勝に残ったパラグアイはいただけない。肘打ちで一発レッド、イエロー2枚の退場と、パラグアイのサッカーは常軌を逸している。激しさと汚さを混同している。こんなチームが決勝に残ること自体が間違っている。日本はそのパラグアイに攻め負けた。日本の得点がPKだったことが端的に示していたように、グループ予選の初戦からパラグアイはおかしかった。パワーがありながら、そのパワーをもてあましていた。そんなチームに日本代表が負けてしまったことが残念でならない。 だが、汚いパラグアイだが、日本もこのチームに見習うところがある。日本チームに求められるのは激しさだ。アジアではあまり問題にならないけれど、世界を相手にするときにはパワーが必要だ。このたびの五輪日本代表に不足していたものこそ、パワーだった。それは身体の大小ではない。バランス、スピードを含めた、当たりの強さだ。五輪代表に選ばれた選手の課題はパワー不足だ。思いっきり、鍛えてほしい。
「ナガシマジャパン」が帰国した。「ナガシマジャパン」とは、プロ野球選手選抜で構成された、アテネ五輪の野球日本代表チームのことだ。金メダル獲得を期待されて代表監督に就任した長嶋氏は出場前に病に臥し、本番の五輪では、コーチの中畑氏が監督を務めた。五輪の戦績は、「国民」の期待を裏切る銅メダルに終わった。 さて、ここまでの記述に疑義をはさむ人はいない。けれど、冷静に考えると、日本のスポーツマスコミでは常識とされる「ナガシマジャパン」なる存在が、矛盾に満ち満ちていることに気づく。 まず、長嶋氏が監督を務めるからナガシマジャパンなのであって、長嶋氏が監督でなくなった時点から、このチームは「ナガシマジャパン」ではない。そのことは、サッカーを例にとれば、明白だ。かつて、フランスW杯アジア予選の途中、それまでチームを率いていた加茂監督は成績不振を理由にクビになり、コーチだった岡田氏が監督に就任した。監督交代の理由はこのたびの野球とは異なるが、監督交代とともに、サッカー日本代表はカモジャパンから、オカダジャパンと呼ばれた。その次がトルシエジャパン、そしていまがジーコジャパン。ジーコ氏が途中で監督を辞せば、そのときから○○ジャパンに変わる。ジーコ氏は神様だが、監督の座が永遠に保証されているわけではない。 ところが、野球においては、長嶋氏が監督として五輪に出場できなくなったことが決まっても、野球日本代表チームの監督は長嶋氏だった。長嶋氏は国民的英雄であって、長嶋氏以外の五輪代表監督はいないという認識だ。さらに、長嶋氏の場合は、加茂氏とちがって、病気で監督を辞した。解任ではないのだから、アテネ五輪の監督は長嶋氏でよい、だから、アテネは「ナガシマジャパン」なのだ、という論理構成か。 プロスポーツの監督に、センチメンタリズムは似合わない――というのが私の認識だ。成績が悪ければそれまで。監督の座を去る理由はいろいろあるだろうが、監督が交代することは当たり前なのであって、それ以上でも以下でもない。もちろん、このたびの長嶋氏の場合のように、健康を害してその職を去ったことには心から同情する。長嶋氏の一日も早い回復を祈念している。けれど、監督業を続けられなくなったことはどうしようもないのであって、新しい監督を就任させなければいけない。コーチの中畑氏が適任ならば、中畑氏を監督にすればよい。 私は、野球日本代表が実力がありながら金メダルを逸した要因の1つとして、長嶋氏が監督としてアテネに行けないにもかかわらず、「ナガシマジャパン」であり続けたことを挙げてもよいような気がする。TV映像で、選手たちがベンチに吊り下げられた長嶋氏のユニフォームにタッチしてグラウンドに散るシーンを見て、驚愕を禁じえなかった。これを異常と思わない神経の方がが異常だ。 長嶋氏が偉大なプロ野球の選手であり、引退後もプロ野球の監督のみならず、日本のスポーツ界に貢献した人であることに異論がない。異論がないどころか、われわれの世代にとって、「3番・サード長嶋」の存在は計り知れないほど大きい。だれもが、「長嶋」になりたかったと言って過言でない。だから、この偉大なヒーローが代表監督に就任したとき、多くの人が金メダルを期待したことは当然だ。だが、長嶋氏が病に臥したとき、アテネに行けない長嶋氏を監督として仰ぐことは間違っている。病に臥した監督を監督に仰ぎ、事実上、監督不在でアテネに行った野球五輪代表は、チーム自らが指揮官の存在を否定してしまった。戦いの場において、指揮官不在で臨むことはあり得ない。 オーストラリアに二敗した要因はわからないが、中畑氏が精神論だけで大会を乗り切ろうとしたような気がしてならない。けれど、それは中畑氏の責任ではない。コーチ・中畑氏の役割は、代表チームの精神面を鼓舞することだったと私は解釈しているからだ。その解釈に従えば、中畑氏は監督ではない。指揮官不在で勝負をしようとした野球五輪チームとは、いったい、いかなる存在なのか。「長嶋氏」にすがれば、勝利が転がりこむとでも考えたのだろうか。長嶋氏が倒れた後、呆然として対処を怠った野球界には、代表チームをマネジメントできる組織も人材もいないのだ。 さらに、指揮官不在状態に批判を怠り、「ナガシマジャパン」を放置したスポーツマスコミの責任も大きい。長年スポーツを取材した記者ならば、指揮官のいない――監督能力不在の――チームをアテネに行かせることの異常さを訴えなければいけなかった。チームに絶対必要な指揮官が不在のままの野球日本代表の異様さを一行でもいいから、人々に伝えるべきだった。 日本のプロ野球界はドメスティックで、国際大会の経験がない。交流といえば、米国のメジャーだけだ。そういう面を含めて、日本の「野球」の実力は銅メダルなのだ。精神論だけの「体育会野球」には、この色のメダルこそがふさわしい。 がんばった選手たちは、本当に気の毒だ。優秀な指導者の下で、彼らの実力を発揮させたかった。監督とは何度も繰り返すが、サッカーに限らず専門職なのだ。優秀な監督が指揮をとれば、このたび日本代表に選ばれた選手たちならば、金メダルは楽々だったろう。いろいろな面で、日本のプロ野球界は危うい局面にある。
書くまいと思っていたが、我慢できない。「プライドGP(グランプリ)」の地上波放送(15日の録画)をたまたま見て、怒りが再燃した。もちろん、小川直也のことだ。小川はこのイベントの準決勝でヒョードルに1分弱で負けた。しかも、負け方が「柔道王」にあるまじき、腕十字だった。「柔道王」が柔道技で秒殺されたのだ。 小川については、総合サイドから「一度、あちら側に行ったやつ」と揶揄されていた。「あちら側」とは言うまでもなく、プロレスリング(ショー)のことだ。小川はテレビタレント。「ハッスル」というアクションで、国民的人気者になった。知名度、露出度は申し分ない。だが、しょせん、「あちら側」で有名になったまで。総合格闘技の実力については、疑問視されていた。さもありなん、6月21日付の当コラムで書いたとおり、怪しげなマッチメークでここまで生き延びてきたが、15日の大会では実力どおり、1分もたなかった。 ここまでは仕方がない、プロなのだから。「プライド」が興行を成功させるために小川の人気を利用したことを非難できない。敗戦も仕方がない。一歩間違えば生死にかかわる大会に出たのだから、小川の負けを非難するつもりもない。 だが、負けた小川にマイクを持たせ、観客に「ハッスル」を強要する演出はひどい。見ていて悲しくなった。スポーツにおいて、敗者が勝者を差し置いて観客と一緒になって騒ぐなど、聞いたことがない。やっている小川の顔も歪んでいた。敗者は静かに去るべきだ。 プライドの主催者が、観客にとって「ハッスル」は「お約束」だと思うのならば、それこそ勘違いというものだ。「プライド」がそこまで大衆迎合路線をとるならば、裏切りだ。プライドは、プロレスを否定して「本物」を志向したのではなかったのか。だから、「プライド」は、本気の勝負を見たい人に対して、常に本物のコンテンツを提供する義務がある。 小川が注文どおり勝つのを見て喜びたい人、そして、「ハッスル」をやりたい人はプロレスに行けばいいのであって、本気を標榜する「プライド」の志向とそれを望むファンとは異質だ。 それはそれとして、将来小川は「プライド」に再び参戦することがあるのだろうか、それとも、「人気タレント」で終わるのだろうか――私の興味はそこにあるのだが。
無意味な「勝利」とはこのことだ。日本五輪代表が予選リーグ敗退が決まった後の最終戦、決勝T進出を賭けたガーナに勝った。プレッシャーから解放された日本が、プレッシャーに押しつぶされたガーナから上げた「勝利」にすぎない。この「勝利」について、日本のスポーツマスコミは、次に(W杯のことか)つながる勝利だとか、プライドの証だとかいって評価している。はっきり言って、この「勝利」は私には無意味としか写らない。潜在能力がいくら高くても、それを試合に出せなければ、能力とは言わない。プレッシャーから解放されて「実力」が出たとしても、それを実力とは言わない。だから、ガーナ戦の勝利は報道に値しない。せいぜい、結果を一行報道すればいい。 日本(五輪)代表を甘やかす報道は、もうやめにしよう。ガーナ戦の直前、日本ではフル代表がアルゼンチンに完敗していた。この親善試合にいかなる意味があるかは別にして、アジア杯で精魂尽き果てた代表選手には酷な試合である。いくら、主力を欠いたとはいえ、アルゼンチン・日本両代表にとって、モチベーションの働かない試合である。結果は日本の完敗、まったくいいところがなかった。地力の違いがそっくり出てしまった。 アジア杯から、いやそれよりも前の日韓W杯の決勝T・トルコ戦以来から、日本代表の課題については明白だった。五輪代表も同じことだ。きのう見た、日本とアルゼンチンの実力の違いを前提にして、スポーツマスコミはもうこれ以上、日本(五輪)代表を甘やかさないことだ。
2004年08月17日(火) |
予選で消えた五輪代表 |
五輪代表がパラグアイ、イタリアに連敗し、予選リーグで早々と消えた。残念だが仕方がない。結果を真摯に受け止めるよりほかはない。 日本が入ったアテネ五輪予選リーググループは「死のグループ」と呼ばれた。日本より力の上の国が本来の力を発揮し、日本は敗れるべくして敗れた。日本の特徴であるチームワーク、コンビネーション、結束力を基盤にしたサッカーでは、歯が立たなかった。それを世界の壁と言ってもいい。 一言で言えば「力負け」なのだけれど、私は春のアジア予選のとき当コラムで、もちろん悪意ではないけれど、いまの日本U23代表チームは五輪に行かないほうがいいと書いた。アジア予選はグループに恵まれ、UAE〜日本の2カ国セントラル方式という幸運に恵まれ、更にアラブ諸国の自滅に救われ、予選を突破した。結果は出したものの、日本の五輪代表のサッカーの質は高くないように見えた。 そればかりではない。私は当時のコラムで、Y氏の監督能力を問題にした。その要旨を繰り返せば、日本のスポーツジャーナリズムはY氏を名監督と持ち上げていたが、その評価に疑問をもっていた。Y氏はトルシエ前監督の補佐役だったが、Jリーグの監督経験すらない。名コーチだったが、実戦経験に乏しい。監督として、勝負の経験がないに等しい。 さて、五輪第一戦前の日本のスポーツジャーナリズムは、対戦相手のパラグアイを守備的でカウンター攻撃を得意とするチームだ、と分析していた。パラグアイのフル代表の戦い方は、確かにそのとおり。南米の地図を眺めると、パラグアイはブラジルとアルゼンチンという2つの大国にはさまれている。国土の広さのみならず、サッカーの実力でも同じことだ。パラグアイが南米の超攻撃的な2大強国としのぎを削って戦うには、守備的なサッカーでなければならなかった。W杯南米予選、コパアメリカ、W杯本番等の試合を見る限り、パラグアイ代表のサッカーは守備的と言える。しかし、パラグアイがU23で日本と五輪で戦うとき、必ずしもフル代表のように守備的である必要はない。FIFAランキングではパラグアイより日本のほうが上だが、それを信じているパラグアイ人は一人もいない(だろう)。相手(日本)は3バックでしかも、自分達(パラグアイ)を守備的だと考えている。ならば、その裏をついて3トップで攻め勝ってやろう――そんな選択をパラグアイの監督がすることもあり得るし、現にそうだった。それを結果論と片付けることもできるが、現実はそのように展開して、日本は負けたのだ。勝手な推測で言えば、Y監督はパラグアイを日本のスポーツジャーナリズムが報道するとおりのチームだというイメージをもって試合に臨んだ可能性を否定できない。 第2戦目のイタリア戦は、相手は強豪だから守備を固めようと試合に臨み、その守備が簡単に破綻して負けた。私はY監督がパラグアイ→イタリア→ガーナについて、どのようなゲームプランをもっていたのかがわからない。この3国相手だったら玉砕だ、という戦略もある。ただ、対戦3カ国中、最も勝つチャンスが高かったパラグアイ戦の作戦の誤りが、予選敗退のすべてだった。 日本のU23代表は周到な準備をして五輪に臨んだ。おそらく、五輪出場国中、日本の強化費用は群を抜いて高かったに違いない。国民的関心・支持も高かった。資金面、国民のサポート面、最も高いコストをかけながら、結果は伴わなかった。さらには、高原にこだわったOA枠も不可解だった。FWに固執せずスピードがあって守備の強いサイドハーフを選択することも出来た。 Y監督の今後については、繰り返すが、Jリーグ(J1、J2を問わず)の監督になって、監督業を勉強してほしい。できれば、弱小チームの監督に就任し、そのチームを再建する仕事から始めてほしい。監督業として、泥をかぶってほしい。なぜならば、Y氏は日本の指導者の中で、「監督」として世界に通用する人材の第一号になる可能性があるからだ。Y氏は将来、アジア等の代表チームの監督に就任を要請される可能性が最も高い人材の一人だと思うからだ。そうなれば、Y氏が辿る代表監督への道は逆回転だったが、世界のサッカー界では、敗者に出直すチャンが与えらるのが普通だ。 このたびの敗北の責任の所在は、Y氏にだけあるわけではない。日本サッカー協会は、監督経験のない人材をいきなり代表監督に就任させることだけは避けてほしい。代表選手の条件が「Jリーグで実績を上げること」ならば、代表監督の条件も、選手と同じであるべきだ。
2004年08月14日(土) |
裏金?それとも表金? |
日ごろ政治家や企業のスキャンダルではヒステリックな批判を展開する日本のマスコミだが、Y新聞のトップW氏がオーナーを務める巨○軍が、大学野球選手に裏金を渡していたことが発覚して、W氏がオーナー職を辞任した。巨○軍は日本のプロ野球で最も人気があり、W氏はプロ野球界のドンとまで言われた人物だ。巨○軍がアマ選手に裏金を渡した目的は、入団保証のようなものをとりたかったためだと言われている。 ドラフト自由枠だか逆指名だかよくわからぬが、プロ野球界に身を投じようとするアマ選手が、ドラフト会議にかけられず、自分で球団を決められる制度があるらしい。つまり、逆に言えば、アマ選手が自由に自分の行きたい球団に行ける枠がプロ球団に設けられているということだ。だったら、裏金とは言えない。契約金のいわば、手付けのようなものだろう。カネをわたそうが証文をとろうが、私はかまわないと思うけど、とにかくW氏はオーナー職を辞任してしまった。 プロ野球の目的は娯楽提供だが、選手の目的はカネでいい。それ以外の理屈はいらない。舞台裏がカネまみれだろうが、なんだろうが、見る側には関係ない。名選手が「カネに汚い」からといって、尊敬に値しないとは思わない。いいプレーをすれば、それでいい。 ただ、プロ野球とアマ野球との間には、選手の契約をめぐる建前上の取り決めがある。アマ球界がプロ側の選手漁りに歯止めをかけるためにつくったと思われる取り決めだが、このたび事件を起こした巨○軍はそれを破った。日ごろ社会の木鐸と自負しているマスコミがオーナーだけに、建前とは言え、取り決めを破ったことは犯罪に近い。巨○軍・オーナーのW氏には、辞任しか選択肢がなかったようだ。建前を売り物にするマスコミが、まさに建前に足をすくわれた格好だ。ま、辞任もしかたがないか。 日本のマスコミなどこの程度。言うこととやることは180度違う。だれもY新聞を社会の木鐸とは思っていないから、W氏も「裏ガネをつかってなぜ悪い」くらい居直ってほしかった。チームを強くするためには手段を選ばずだと。このくらいのことができないから、近鉄もダイエーも球団経営がおぼつかないのだと。 Y新聞=巨○軍の手口は、「別所事件」「長嶋事件」「江川事件」を持ち出すまでもなくダーティーで有名だった。優秀な選手を集めるためには手段を選ばず。カネ、コネ、ユスリなんでもありだと言われていた。もちろん証拠がないので、というか、だれも証言しないので、真実は闇の中。噂が先行していた。今回の事件でY新聞=巨○軍の命運も尽きたようだ。W氏が辞任して、巨○軍が普通の球団になれば、そして、一極集中が是正され健全なプロ野球に近づく契機になるならば、今回の事件は災い転じて福来る、これ以上の幸いはない。
大魔神佐々木が引退するという。スポーツマスコミは大騒ぎだが、私は驚かない。私は、このコラム(4月20日)で、日本球界に戻ったばかりの佐々木のフォームの異常を指摘した。そのときの登板は読売相手だったが、読売の打者が打てない理由がわからなかった。素人の私にも佐々木のフォームの悪さがわかったくらいだから、大リーグを離れた時点で、佐々木の身体に異常があったと思ったほうが自然だ。身体のことは本人しかわからないと言うとおり、そのとき、佐々木に身体的異常があったとは私は思わなかった。しかし、あれから4ヶ月過ぎた今、自分の身体がもはや制御不能であることを佐々木本人が自覚したのだろう。 フォークを決め球にする投手の寿命は、短いような気がする。野茂も限界のように伝えられている。フォークボールは大きな武器だが、投手の肩や肘などに負担をかけるのならば、自覚的に封印してもいい。短命を覚悟でフォークに活路を見出すのか、それとも、フォークを封印して投手生命を長く保つか――どちらもスポーツマンの生き方なのだから、選手が選択すればいいのだけれど、私はフォークを投げる投手があまり好きではない。佐々木は、もし彼がフォークを投げなければ、並みの投手で終わったのか。
去年も同じことを書いたけれど、加熱する高校野球報道にはうんざりだ。なんで、ハイスクールボーイ・ベースボールに、日本中が一喜一憂するのか。クラブ活動の一環など、天下の公器を使って報道する必要などない。高校野球の過剰報道は私にとって、苦痛以外のなにものでもない。 さらに今年の夏は、五輪報道が重なる。日本人は五輪が好きだという。海外の人々がどれくらい五輪に関心があるのかは知らないけれど、「オリンピック」が「神聖」なアマチュアリズムや「平和」の祭典だと思っている人は少ない。なのに、日本では過剰なまでに建前の五輪精神が強調され、五輪派遣選手に期待が寄せられる。私の尊敬する多木浩ニ氏が、A新聞紙上に「五輪的」価値観を相対化する論文を載せたとしても、無視されるに等しい。 五輪は金になる。スポーツ関連企業、飲料・健康等の世界規模の企業は、五輪を市場拡大の好機ととらえる。五輪は彼らのマーケティング戦略に明確に位置づけられ、それに従い、多くのスポンサーがつく。五輪は年々拡大する。五輪の経済効果、経済的意義については多くの著作があるから、このコラムでその趣旨を重複して示すまでもない。 では、五輪に抱く人々の関心の中心は、自国選手の活躍なのだろうか―― 日本人の生活は豊かになった。経済規模から言えば、世界でトップクラスだ。日本円を海外にもっていけば、どこでも喜んで交換してくれるし、現地通貨に両替すれば、実にたくさんのものが買える。でも、日本は、そして日本人は、世界でホントに通用するのか――そんな素朴な疑問が日本人の心の奥底にある。一方、五輪は、正真正銘、世界中の生身の人間が一堂に会するイベントだ。そこで日本人が活躍すれば、日本人は心の奥底に潜む不安を払拭できる。そして、その心情をマスコミ(ジャーナリズム)が煽る。 戦前、某国で開催された五輪で「前畑、ガンバレ」を絶叫した国営放送局アナウンサー氏がいた。それは伝説的名放送として、語り継がれている。戦後60年たったいまなお、日本の報道機関が五輪を偏重するのは、彼らが「前畑、ガンバレ」の心情を引きずっているからだ。日本の報道機関だけが、いまなお、戦前であり続けている。日本人は、五輪から持ち帰られた数個のメダルを確認して、日本人が世界に「通用した」という実感を抱いて安心するのだろうか。そんなことはない。金メダルの数など、どうでもいいのが普通の生活者の健全な感覚だろう。金メダリストを特別扱いするのは、日本の報道機関だけだ。 このような報道のあり方は、スポーツ(という文化)を越えた、ナショナリズムの領域だ。日本の報道機関が、世界と日本の関係をとらえきれずに、不安とその裏返しとしての傲慢を抱く限りにおいて、五輪は日本と世界の関係を明確かつ実態的に把握する尺度として、日本の報道機関に携わる人に君臨し続けることになる。日本人選手が持ち帰るメダルの数は多くない。多くない限りにおいて、金メダリストは報道上のヒーローになる。日本の報道機関において、五輪とメダルが、ナショナリズムの尺度であるかぎり、私はそれをスポーツ報道だとは思わない。 五輪とサッカーW杯は、似て非なるものだ。私たちは、サッカーW杯における日本代表の動向を、結果はもちろんだが、代表チームが目指すサッカーの方向性と風土の相関や代表チームのコンセプトという観点から、楽しむことができる。長期間のW杯予選を経て、代表がどのような変貌を遂げるかを確認しつつ、代表監督に文句を言い、代表から脱落した選手を惜しむ。さらに相手国の代表チームの分析にまで及ぶ。これらは間違いなく、文化(遊び)であって、ナショナリズムではない。 サッカーW杯は、たまたま私が日本人だから、日本代表を使ってアジアの、そして世界のサッカーを楽しむに至る。ところが、五輪報道には戦略、戦術を想定した遊び心などない。金メダルなら、マラソンだろうが柔道だろうが野球だろうがおかまいなし。私にはそのようなスポーツの「楽しみ方」はない。だから、五輪情報とその結果についての報道は苦痛だ。
2004年08月07日(土) |
アジアはいま(その2) |
きょう、アジア杯のファイナル。日本と中国が残った。このたびのアジア杯の私の予想は大きく外れたけれど、日本に幸運、ツキがあったことは事実。でも、それがサッカーなのだから仕方がない。 さて、中国の反日感情がアジア杯を契機に浮かび上がった。このことを残念に思うか、それとも、日本がアジアの中でどう思われているかを知る機会を得たという意味で良かったと思うべきかは、判断が分かれるだろう。私の判断は後者だが。 多くの日本人は中国に親しみを覚えている。が、実際、少なくとも中国側からは、そうではない。中国の「反日」は政策の結果であって、草の根からではない。このたび、日本と中国が国家レベルで友好関係にないことを日本人が知ったことは、逆に日本人が中国をどう考えるか重要なヒントを与えた。 国家政策の具として、サッカーを利用するのならば、FIFAは中国において、サッカー国際大会の開催を許可すべきではない。スポーツを体制維持、政治的キャンペーン等に利用する国家は、サッカー大会の開催国として、最もふさわしくない。日韓がW杯の共同開催で友好を深めたことを思えば、中国がアジア杯で日中に亀裂を生んだことは、その国の未熟さ、文化レベルの低さを証明している。 このコラムは政治がテーマではないのでこれ以上は書かない。けれど、スポーツ大会に強権的ナショナリズムを介在させるような国家体制の隣国の存在には、相当注意を要する、とだけ言っておこう。 試合の方は日本が中国を破って優勝。内容は見てのとおり、レベルの高い試合ではなかった。それでも、アウエー、暑さ、反日感情、ミスジャッジといった厳しい環境で日本が勝ったことについては十分、評価できる。 決定戦に限れば、フリーキックでいいボールを供給した中村、いいタイミングで飛び込んだ福西、中田(浩)、好セーブを連発した川口が殊勲賞だろうが、守備面では甘いシーンが目立った。中国はこの試合に限れば、動きが悪く技術も低いしバランスも悪い。持ち前のパワーが空回りしていた印象を受けた。中国ホームとはいえ、こういう未熟なチームに日本は負けてはいけないし、また、負けなくてよかった。 アジアにおいて日本が当面マークすべきは、オマーン、バーレーン、ヨルダンといった新興中東勢に底力があるイラン、そして、宿敵韓国だろう。なんといっても、秋にアウエーでW杯一次予選を戦うオマーンの運動量あふれるサッカーには注意を要する。けが人が多くて予選敗退したサウジアラビアもこのままでは終わらないし、旧ソ連の中央アジア勢も不気味だ。 日本はアジア相手にアップアップの優勝。日本の実力は、この大会に限ればアジアNO1という結果で終わったが、実力はせいぜいアジアのベスト10以内という自覚でいてほしい。世界レベルなどとけして慢心することのないよう、地道な努力を続けてほしい。 ジーコ監督の続投が決まったが、それについては、反論の余地がないので書かない。結果がすべてだがら。でも…
しばらく日本を離れているうちに、アジア杯ベスト4が決まった。準々決勝の結果は、ウズベキスタン 2 - 2 バーレーン(成都)、PKでバーレーン。中国 ○3 - 0● イラク(北京)。日本 1 - 1 ヨルダン (重慶)、PKで日本。韓国 ●3 - 4○ イラン(済南)となり、▼バーレーン、▼中国、▼日本、▼イラン――の4ヵ国が勝ち残った。PK決着とは、大会を進めるための単なる手続きにすぎない、と言われる。準々決勝2試合が延長PK戦決着となったということは、この8チームの力の差はほとんどないことを示している。 準々決勝を全然チェックしていないので論評する資格はないが、報道によると、日本はヨルダンに相当苦しんだようだ。ヨルダンに辛勝とは、日本のアジアにおける地位を端的に表している。私は今回のアジア杯、日本は予選で敗退すると予想していたので、伏兵ヨルダンに敗けても驚かないし、日本がPK戦で上に進めたのは幸運だったと考えている。予選リーグのオマーン戦も内容的には似たようなもので、いま現在、日本とオマーンの力の差はほとんどない。 大会途中での総括とはおかしいが、アジア杯のここまでのところを振り返るならば、日本のアジアにおける実力は、ベスト10以内と結論づけられる。もちろん、勝負は時の運、サッカーの勝負はどう展開するかはわからないから、優勝もあるし、それ以下もある。結果はともかく、以前からくどいほど言ってきたように、日本サッカーの実力は、世界規模で見れば、60〜40位程度。30位以上に上がることはない。もっともサッカー市場という経済的指標を用いるならば、現在の20位前後というのは妥当だが。 さて、本来の「スポーツ」に戻って、いまの日本代表が抱える問題を挙げるならば、以下のとおりとなる。 まず、三都主について――私は以前から日本代表の核は三都主だと言ってきた。彼はこれまでの代表戦のほとんどでフル出場を果たしており、まさに、中心中の中心選手。しかも、一時期、左SBへのコンバートという不運に会いながら、このたびのシステム変更でサイドハーフへ復帰。その途端に日本代表の戦いぶりに勢いが戻ったものだから、私の三都主=チームの核という見方は当たっていたようにも見えた。が、実はそうではなかった。私の誤りとは、真剣勝負における〈チームの核〉と、試合における〈攻撃の核〉とを混同していたことだ。三都主は、〈攻撃の核〉ではあるが、〈チーム全体の核〉ではない。その理由は、外部の素人の私にはわからない。言葉(コミュニケーション)、人格、統率力…いろいろな表現があると思われるが、私には三都主がチームをまとめているようには見えていない。 では、チームの核は誰なのかと言えば、私見では、中村俊輔だ。俊輔中心の日本代表は、残念ながら、本来の戦い方をしていない。本大会における日本代表の特徴は、俊輔のサッカースタイルといかにも、共通していて、安定性に欠け偶発性に依存し、迫力に欠け技巧的であり、バランスを欠き個的である。だから、日本より組織や規律に優れるオマーン、レバノンに苦戦を強いられた一方、個人のスピードや技術に依存するタイには楽勝した。 つまり、小野、中田を欠いた日本代表にはチーム戦術を具現化する核が不在なのだ。この不在を「規律」という共通概念で克服できれば、もっとましな戦い方もできる。この不在感は、主に攻撃面に顕著だ。守備は、中沢、鈴木、宮本というベテランが彼らなりの共通意識をもって、なんとか安定性を保っているが、攻撃陣にはまるで、それが見られない。 日本が勝ち進んできた「結果」に満足するか、苦戦を強いられてきた「内容」を重視するかは、サッカー評論家のスタンスの問題ではない。日本がW杯に出場するためには、日本代表の中身を解析しなければいけない。ジーコ監督が最近口癖のように言っている「楽な相手などない」というのは、自己弁護のように私には聞こえる。 通過点にすぎないアジア相手に辛勝を重ねているということは、日本代表が抱える本質的な問題をいまだ解決していないことの結果だ。「ジーコ・ジャパン」は本大会、ベスト4でノルマ達成という結果を得たので、代表監督の更迭には至らなかった。が、しかし、ジーコ監督が秋のW杯1次予選、対オマーン戦までに、日本代表の本質的問題を解決できるとは思えない。中田、小野が代表に合流すれば、オマーンに勝てるという考え――個々の選手の力量に依存する足し算型発想のままだと、組織的なオマーンにやられる。オマーンは、Jリーグで言えば、市原によく似たチームだ。 「秋のマスカット」が「第二のドーハ」となる確率は、ますます高まってしまった。
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