Sports Enthusiast_1

2004年07月24日(土) 予想当たらず

アジア杯の予想が早くも外れてしまった。B組2位と予想したUAEが早くも脱落。ヨルダンの健闘が光っている。また、C組ではベスト4まで残ると思われたサウジアラビアが脱落に近い。サウジの不調が不安定な国情の反映だとしたら、残念なことだ。一方、国情といえば最悪のイラクが健闘している。ウズベキスタンと並んで、予選突破する可能性が高い。
D組では引分と予想した日本vsオマーンは日本の勝ち。この試合は残念ながら見ていないのでなんとも言えないが、報道では日本の出来は悪かったようだ。というよりも、オマーンの方がいいサッカーをしたようだ。スタミナ、スピード、パワーで日本が苦戦したということは、オマーンは日本に対して相当自信を持ったに違いない。「秋のマスカット」が「第二のドーハ」とならないことを祈っている。さらに、日本がタイを下し、予選リーグ突破を早々と決めてしまった。注目のオマーンはイランと惜しくも引分。九分九厘勝っていた試合だった。オマーンも強いし、イランもしぶとい。
ここまでのところでなんとなく感じるのは、アジアサッカー界の地殻変動の兆しだ。小国・オマーン、ヨルダンの好調、かつての強豪イラクの復活、旧ソ連圏中央アジア諸国の台頭といったところ。一方、それなりの実力を誇っていたクウエート、UAEの後退も目立つ。
アジアサッカーの勢力版図の様変わりは、風雲急を告げているようにも思える。にもかかわらず、日本のメディアが取り上げないのはおかしい。ユーロをありがたがるよりも、身近な戦いに目を向けなければだめだ。日本のスポーツマスコミのサッカー報道のあり方は、歪んでいる。



2004年07月22日(木) ボール

先日、プロ野球、中日vs読売のTV中継を見ていたら、中日ホームのナゴヤドームで使用されるボールは「飛ばないボール」で、読売ホームの東京ドームでは「飛ぶボール」だという報道があった。本当なのだろうか。
もちろん、試合中同じ性能のボールを使用するから、公平性は保たれている。勝敗に関係ない。けれど、ホームラン打者の少ない中日が飛ばないボールを使用すれば、ホームラン打者の多い読売に対して、長打力で劣るという自軍の弱点の1つを克服したことになる。
ホームラン打者はおおむね走力に劣る。飛ばないボールを使用すれば、飛ぶボールならばホームランの打球が外野の間を抜けたり、外野の頭を越えたりするケースが増える。そうなると、長距離砲を集めたチームよりも、スピードのある選手を集めたチームの方がホームベースに帰る機会は増える。そういうわけでもあるまいが、この3連戦、走力に劣る読売は、走力に勝る中日に負け越した。
さて、プロ野球に使用する公式ボールの性能については、もちろん、コミッショナーが設けた基準がある。その範囲であれば、ホームチームがいかなる公式球を使用することも許される。問題は、設定された公式ボールの性能の幅だろう。その幅が大きすぎれば、相手チームの特性に合わせて、ボールを戦略的に選択する策が出てくる。これはスポーツのあり方として、あまり、気持ちのいいものではない。
サッカーでは、芝の刈り込みの長短が問題にされ、全試合が同一条件で行われることはない。勝つためには手段を選ばず、か。それを克服するのが真の実力というもの、か。



2004年07月18日(日) 黄昏のK1

K1デビューから3戦目の曙が負けた。負けたというよりも、限界を露呈させた。サップと同様、曙にも打撃系の格闘技は無理だ。「横綱」の名前で何試合か客寄せはできるだろうが、頂点を極めるなど夢のまた夢、できっこない。
曙は、体力を生かした総合格闘技かプロレスリングに転向したほうがいい。総合ならば、勝つチャンスはある。体力で押し込めてのどわ、しょうていなどの付き技やボディプレスで相手を粉砕するチャンスが出てくる。ロープ際に押し込んで、カンヌキを決めるチャンスがあるかもしれない。
サップ→曙と続いた客寄せキャラクターも、すでに賞味期限切れ。ヘビー級には、新人が出てこない。K1の黄昏が近づいた。



2004年07月17日(土) アジアカップ

アジアカップの行方を予想してみよう。今回は中国で開催される。日本の主戦場は重慶だ。
予選グループはAからDまでの4組。A組で勝ち残るのは中国(1位)、バーレーン(2位)、B組は韓国(1位)、UAE(2位)、C組はサウジ(1位)、ウズベキスタン(2位)、D組はイラン(1位)、オマーン(2位)となり、D組に入った日本は予選敗退というのが私の予想だ。これまで日本は予選リーグのグループ分けで、比較的恵まれた組合せが続いたが、ついに幸運もここまで。厳しい「死のグループ(日本、イラン、オマーン、タイ)に入ってしまった。
予選リーグD組で日本は、初戦オマーンと対戦する。オマーンは秋に敵地(マスカット)でW杯1次予選で戦う相手。マスカットでの試合が事実上1次予選突破を決定する試合になる。それだけに両方とも負けられない。互いにディフェンシィブになり、引分となる可能性が高い。
次のタイ戦で日本は勝つには勝つが、タイのスピードに苦戦して得点が上がらない。最終日のイラン戦で日本は力負けをして、結局勝点4。
オマーンもイランに負けてタイに勝ち、勝点4で終わるが、得失点差で日本はオマーンに及ばず、予選落ち――というのが予選リーグD組の展開とみた。イランは勝点9、タイ勝点0、日本、オマーン勝点4だ。
決勝トーナメントのレギュレーションは、A組1位(2位)×C組2位(1位)、B組(同)×D組(同)。
中国×ウズベキは中国が勝ち、バーレーン×サウジはサウジが勝ち、韓国×オマーンは韓国の勝ち、UAE×イランはイランの勝ち。ウズベキ×サウジはサウジの勝ち。オマーン×イランはイランの勝ち。
準決勝は中国×サウジは中国、韓国×イランはイラン、決勝で中国はイランに負けて、イランが優勝する。
この大会は言うまでもなく、公式試合。親善試合に限りなく近かった「キリンカップ」とは、わけが違う。出場国は国の威信をかけて真剣勝負を挑んでくる。ここで勝たなければ、これまでの日本代表の「快進撃」が「親善試合」の賜物であったことがばれてしまう。日本がイランの壁を破れば、ベスト4もあり得るが、跳ね返されると、予選リーグ敗退という屈辱が待っている。
ここでジーコ代表監督の去就が話題になる。予選敗退なら議論の余地はない。日本代表は親善試合では強豪国に善戦したが、何度も繰り返すとおり、親善試合の結果は、参考にすぎない。キリンカップを親善試合とみなす、私の立場では、コンフェデ、東アジア、アジアと3つの公式戦で優勝を逃したならば、監督の結果責任が問われて当たり前。ジーコ監督は更迭されなければいけない。



2004年07月15日(木) 迷走1リーグ制

混迷するプロ野球界――1リーグ制への移行の流れはだれも止められない、と書いたところが、思わぬストップがかかった。私の大きらいな元阪神監督のH氏が、読売が主導する1リーグ制に「ノー」の声を発したのだ。その言を受けて、セリーグでは、阪神球団ほか5球団、つまり読売以外のオーナーがH氏に同調した。しかも、Y新聞と敵対関係にあるA新聞がH氏を後押しし始めたので、2リーグ制支持派と1リーグ制支持派の対立は、A新聞とY新聞の代理戦争に進展した。
さて、世論は2リーグ制支持に回っている。1リーグ制を主導する読売のW氏は、いかにも「抵抗勢力」風の頑固爺さん。ヒールにぴったりだ。H氏は本質的には旧来型体育会系「指導者」でありながら、昨年阪神を優勝させてから、ベビーフェイスに変身した。若手サラリーマンが望む「理想の上司」に持ち上げられてしまった。ところが、にわかベビーフェイスのH氏が提唱する2リーグ制復活は、掛け声ばかりで、中身が何もない。
▼今現在、プロ野球を「所有」する企業(オーナー)のなかには、経営がおぼつかないところが数社ある。
▼過去、プロ野球から撤退した企業は経営上、球団を「所有」する意義を失い、かつ、「所有」の余裕がなくなったところだった。その典型が、電鉄会社で、彼らがまちづくり事業から撤退するとともに、プロ野球球団の「所有」から手を引いた。その経緯については、すでに詳しく書いた。
▼今後、電鉄系に限らず、流通、メーカーからも撤退があり得る。UFJ銀行が東京三菱に吸収合併された時点で、UFJの大口債務者であるD社(流通系企業)は、球団「所有」ができなくなる。
▼ならば、H氏が声高に叫ぶ2リーグ制が成り立つ根拠は何なのか。
繰り返すが、1企業が1球団を「所有」する限り、プロ野球界から脱落する企業は今後もあり得る。球団の「所有」のあり方を変えない限り、球団数の減少は避けられない。
ではなぜ、読売のW氏は早急に1リーグ制に移行したがるのか。その理由は、今年を逃せば、時を失うとN氏が考えているからだろう。リストラは、電光石火、やり遂げなければいけない。W氏はヒールだが、経営者としては、企業経営素人のH氏よりもはるかに長けている。W氏は、拙速といわれようと、リストラの機会が今年であることを直感的に知っている。長引けば、プロ野球を「所有」する企業の経営状況はさらに悪化することを知っている。つまり、日本経済が現状維持ならば、プロ野球界に参集した企業が球団の「所有」にこだわる限り、チーム数は減少する。
1リーグ制は応急処置であって、抜本改革ではない。W氏もそれを知っているだろう。W氏はリストラは電光石火、時を失ってはいけないことを知っていると同時に、応急処置で時をかせぐ算段だ。
だが、先に書いたとおり、「所有」と「経営」を分離しなければ、プロ野球の没落を止められない。
一方のH氏とそれを支持するA新聞、さらに一部狂信的「ファン」はというと、大企業ならば球団経営を永遠に続けられる、と思い込んでいる。球団が売りに出されれば、いくらでも「ライブドアー」が現れると思っている。この楽天主義がどこからくるのかといえば、日本経済・大企業への盲信からであり、大企業は大もうけした利益を大衆のために吐き出せと脅迫する、「日本型社会主義」からだ。
Y新聞=W氏の1リーグ制は、応急処置だ。一方のA新聞=H氏の2リーグ制復活論も空っぽだ。双方には、球団の所有と経営の分離を展望しようとする発想を欠いている点で共通しており、感情的・情緒的発想という点で一致している。このまま双方が「論争」を繰り広げても、何も出てこない。



2004年07月11日(日) 所有と経営の分離

プロ野球があくまでも親会社の下に隷属するのか、それともプロ野球機構として自立し、機構の下に球団、選手がそれぞれ対等な関係を結ぶのか。いまプロ野球界を揺るがす合併問題の本質は、そこにある。オーナーという、わけのわからない、まるで○○組のボスのような人物が寄り合いを開いて、シマの取り合いを演じているような光景は不気味だ。選手は子分ではなく独立した事業主なのだから、球団という事業主との契約は対等だ。選手協約を読んでいないでこのようなことを書くのはいかがなものかと思うが、経済主体が交わす協約書にもとより、憲法上の不平等や法制度からの逸脱が条文化されているのならば、そんな協約ははじめから有効でない。プロ野球が文化であるなどと言う前に、経済主体として、まず透明性が求められる。そのことは、日本の野球界全体に、たとえば、高校野球界にも言える。
球団数が減少しても、1リーグ制度がスタートすれば、数年はものめずらしさも手伝って、観客数は増えるだろう。「巨人軍」というベビーフェイス(ハンサム)と、その他・ヒールが戦って、ベビーフェイス巨人が常に勝つという図式がファンを安心させるかもしれない。前にも書いたことだけれど、そんな、「プロレス野球」が続くのだ。ファンが望むのならば、それでいいという意見もある。
だが、戦後まもなく、力道山、シャープ兄弟のプロレスが大ブレークし、お茶の間の視聴者を釘付けにした時代が何年続いただろうか。力道山、G馬場、A猪木…と続いたベビーフェイス(ハンサム)の系譜も途絶え、いまやプロレス団体は四散し、格闘技のトップの座をK1や「総合」に譲っている。スポーツを娯楽として位置づけるならば、栄枯盛衰もやむを得ないという意見もある。
ところが、プロ野球をスポーツの1つとして位置づけるならば、機構も球団経営も選手も、透明な制度の下、永遠に続いていかなければいけない。「プロレス野球」でない、普通のプロスポーツの中の1つとして。
そのためには、きのう書いたとおり、球団経営には、だれもが参入できなければいけないし、無能な経営者は交代しなければいけない。集客できない球団トップは交代する必要がある。球団名は変わらないけれど、球団経営者は何度も変わる。当たり前のことだ。
そればかりではない。球団に限らず、経済主体の所有と経営は分離されることがあたりまえだ。いまのプロ野球のオーナーというのは、球団経営者なのか所有者なのか。オーナーに徹するならば、有能な経営者をつれてくる義務がある。経営者ならば、すでに失格だ。経営は素人だが所有にこだわる現状を、私は理解できない。昨日書いたとおり、球団所有者は単数でも複数でかまわないし、高く買いたいという投資家が現れれば、売ればいい。そのためには、球団名として企業の名前をかぶせる従来のやり方も再考されるだろう。スポンサーが複数ならば、都市の名前を冠したほうがいい。あくまでも、1企業が所有権を主張したいのならば、企業名をつけた球団でもいい。球団という資産を組合員が持分として所有してもいいし、証券(債券)で保有してもいい。球団が生み出す利潤を万人に配当すればいいのだ。球団の所有(権)は流動化、分散化すべきであり、経営は独立して、経営の専門家が当たることが望ましい。
さて、日本の戦後の経済成長を支えたシステムを「1940年体制」と呼ぶ。日本は開戦と同時に戦時に備え、すべての権力を官僚機構に集中させた。政治・社会・経済・文化を問わず、すべての領域で権力集中が進んだ。大政翼賛会、価格統制、終身雇用制、護送船団方式…太平洋戦争時(1940年代)に確立されたシステムが戦後温存され、とりわけ、経済成長の原動力となった。いま、一極集中が極度に進む日本プロ野球はそれに似ている。日本プロ野球はかつて形だけは米国のプロ野球制度を範とし、2リーグ制度でスタートしたが、実際には、パリーグ球団は大赤字。かろうじて本社の広告宣伝費で賄ってきた。ところが、それに耐えられなくなったいま、露骨に「巨人軍」に一極集中化しようとしている。それが1リーグ制度だ。プロ野球界は、60年遅れて戦時体制を構築しようとしている。いまプロ野球界が実施しようとしている1リーグ制度は、「1940年体制」に似ている。
さて、1リーグ制度に展望がないわけではない。このことはかつて書いたことだけれど、繰り返す。
トップリーグは1リーグ10球団でもかまわないが、その下部に、マイナーリーグをつくり、プロ野球球団のない地域に、独立した球団経営主体を形成する。そうすれば、チーム数は増えるし、選手・球団職員の雇用機会も増える。たとえば、近鉄買収に名乗りを上げたライブドアー等がマイナーリーグを経営することがあってもいいし、社会人チームが参入してもいい。いまの二軍ではなく、トップリーグを狙う球団という位置づけだ。だから、もちろん入れ替え戦が必要だ。さらに、新人選手の採用制度は完全ドラフト(ウェイバー)制度+フリーエージェント制度が絶対条件だ。新人争奪に係る契約金高騰を回避して球団経営を安定させる。それ以外で勝つための投資をした球団が、勝者に近くなる。たとえば、いいコーチは選手以上の高額で迎えられるだろう。
選手は高額の報酬を望んでプロ野球界に身を投ずる。ところがすべての選手が一軍レギュラーになれるわけではない。ケガや運もある。プロ野球選手とは、もとよりハイリスクな仕事なのだ。けれど、彼らが望むのは野球を仕事とすることだろう。天職だと確信して厳しい世界に飛び込んだのだ。そのような選手にトップであれマイナーであれ、出場機会を与えることは必要だ。トップのスターでなくとも、マイナーであれ、地域の人々の篤い支援に支えられて優勝を味合うことがあれば、それはそれですばらしいことだと思う。巨人相手でなくとも、地域のファンの前でたとえマイナーであれ、完投シャットアウトが演じられれば、夢の1つが実現したことになるのではないか。広島の嶋が10年にして才能が花開いたように、出場機会が増えれば、いい選手が飛び出す可能性も高まる。戦力の均等化によって、拮抗した試合が増えるだろう。プロ野球が流動性を高めれば、きっと、新しいスターが出てくる。日本の野球人口は計り知れないほど多いのだから。



2004年07月09日(金) 独禁法違反→球団の証券化へ

1リーグ制に向けて、着々とプロ野球の再編が進んでいる。近鉄・オリックスの合併に続いて、おそらくロッテ、ダイエー、西武のうちの2つが合併してセリーグに合流する。この流れはだれも、止められない。
そもそも、日本のプロ野球は親会社の宣伝塔として設立され、マスコミに企業名が報道されることでよしとされた部分がある。電鉄系の場合、球団経営の目的は、すでに球団を手放した東急、西鉄、南海、阪急などを含め、まちづくり事業の一環だった。電鉄系ディベロッパーは、大都市近郊開発に伴い、住宅とともに文化施設を配置した。阪急は野球場、遊園地のほか、有名な宝塚劇場をつくった。東急、近鉄、南海、阪神、西武が同じ手法をとった。近代以降の日本人の都市居住者の多くは、電鉄系ディベロッパーがつくった住宅に住み、その鉄道を利用して職場に通い、休みの日はその電車を使って遊びにいった。
しかし、そうした郊外型まちづくり事業も、近年の少子化・人口減や都心居住の流れのなかで採算が合わなくなり、1980年代に役割を終えた。たとえば、大都市東京周辺においてでさえ、新たな近郊型まちづくり事業は行われていない。不動産業は、都心超高層マンション開発や都市再開発事業によって、利潤を得ている。近鉄は、三井不動産が成功させたテーマパーク事業(東京ディズニーランド)に倣って、志摩スペイン村を立ち上げ、テーマパークをきっかけとして、まちづくり事業の復活を図ったが失敗した。本業のまちづくり事業、テーマパーク事業の両方の失敗が、本体の経営を圧迫し、球団経営を窮地に陥れた。電鉄会社が悠長に球団経営ができる時代は遠い過去のこととなった。まちづくり事業が役割を終えるとともに、球団経営の意味もなくなってしまった。
関西一の人気球団・阪神の親会社である阪神鉄道は、鉄道会社・ディベロッパーとしては阪急、近鉄よりも小規模だ。しかし、阪神球団は人気があるから、親会社の経営と切り離して球団経営ができる。パリーグの西武はどうなのか。西武鉄道の経営状態はまったくわからないものの、近鉄よりはましだろうが、鉄道部門以外のまちづくり事業(ディベロッパー)の採算をみれば、いいはずがない。
だから、東急、西鉄、南海、阪急、近鉄、さらに三菱系の大映も含めて、広い意味でのディベロッパー系企業の撤退の流れを見るならば、西武、阪神がプロ野球経営から早晩撤退する可能性がないとは言えない。1企業が1球団を所有する形態が続くならば、球団数は今後も減り続けるだろう。日本の場合、球団経営が日本経済の変化、企業(業態)の盛衰とシンクロしているからだ。
さて、球団経営を経営主体のカテゴリーの視点からみれば、だれが参入してもかなわない。それをいまのプロ野球の統合機関が拒絶するのならば、独禁法に抵触する。球団経営を経営手法というカテゴリーでみれば、必ずしも1企業で経営しなければならない理由がない。オフィシャルサプライヤー、スポンサーシップ、市民参加(ソシオ)、命名権販売、冠イベント、テレビ等の放映権…等々といった、諸々の資金集めの手法がある。さらに、球団単体だけでなく、プロ野球機構全体で同じだけの集金手法がある。つまり、球団の収入の道は、入場料収入を基本としつつも、多様なのだ。親会社の宣伝費換算だけに限定する必要はない。たとえば、世界規模の企業が欧州に進出する場合、最もオーソドックスなマーケティング戦略は、プロサッカーチームのスポンサーの1つとなることだ。逆に言えば、プロサッカーチームには、企業がカネを出す価値がある。強ければ、収入の道は保障されている面もある。スポーツビジネスはグローバルだ。日本市場を狙う海外企業が日本のプロ野球球団のスポンサーとなる可能性もある。
さらに、球団という資産(財産)を証券化する手法も考えられる。不動産の証券化、売掛金、ローンの証券化などと同様に、現在の球団所有者は球団をSPC(特定目的会社)に一度売却し、SPCは球団という資産を担保に、債券を発行する。投資家はSPCが球団運営から利潤を還元されることを見越して、すなわち、高利の利回りを期待して債券を購入する。球団を真に愛するファンや、球団を必要とする自治体、スポンサー等が債券を購入する。証券は小口で換金できる(流動性の高い)ものでなければならない。球団経営が順調に推移すれば、証券の値も上がるし、配当も高くなる。真の野球ファンならば、球団自立の道筋を探るのが筋だろう。
いまのプロ野球界は、鉢巻や幟を立てて大騒ぎするだけの「ファン」と、スポーツを「民主主義」や「人道」に見立てた見当違いのマスコミの餌食になっている。その影には、Y新聞とA新聞の販売代理戦争があり、扇情的な報道に無知なファンは、乗せられてしまっているのだ。本当に「近鉄」が好きならば、なくなってから騒ぐのではなく、地域に根ざした大阪バッファローズとして、ファン一人ひとりが株主となって支えるべきなのだ。
プロ野球が収入の道を広げなければ、その衰退は深まるばかりだろう。



2004年07月04日(日) 情熱と結束力

ユーロ決勝は開催国のポルトガルと、大穴のギリシアで争われることになった。ポルトガルの監督はフェリぺ氏(ブラジル)、ギリシアはレーハーゲン氏(ドイツ)。二人とも監督としてはプロ中のプロだ。フェリペ氏は日韓W杯の優勝国・ブラジル代表の監督であったし、Jリーグの磐田の監督を務めたことがあるので、日本では知る人が多い。一方のレーハーゲン氏はドイツブンデスリーガのブレーメンを強豪チームに育てたことで知られている。
さて、報道によると、この両氏が好んで使う言葉は、「情熱」と「結束力」だという。「結束力」については、ネドベドが、チェコチームの強さの源泉を「結束力」と言ったことをこのコラムで紹介した。「結束力」とは換言すれば、私がよく使う組織力であり、規律のことだ。どんなに個人の能力が高くても、チームとして組織されなければ、勝てない。チームゲームでは当たり前のことだ。規律はというと、不変の決め事があって、それに拘束されるようなイメージがあるかもしれない、あるいは、軍隊のように個人が抑圧されるように受け止められるかもしれない。
サッカーにおいては、そのような心配はいらない。サッカーの基本は一対一だ。そこで負ければ終わりだ。しかし、明らかに一対一で差があっても、ニ対一ならば勝てる可能性が生ずる。そこで必要なのが運動量ということになる。相手のキープレイヤーにマンマークをつけ動きを封じる、そうすると、その結果生じたスペースを相手に使われやすい。そこを使われないためには、全員が運動量を増やして、スペースを埋める努力をする。大雑把に言えば、そのような対応が組織力であり規律だ。一対一で勝つことは基本だが、つまり、個人の能力を高めることは基本だが、それだけが勝利の方程式ではない。さらに言えば、個人の能力を高めるのは代表チームの仕事ではなく、クラブの仕事なのだ。代表チームでは、個人の能力をいかに使うかが問われている。
さて、もう一つの「情熱」については、きのうも書いたとおり、モチベーションという言葉に換言できる。一度目標を達成した選手に、同じ目標を与えても力が出ないことがある。一方、目標達成者には経験があるので、経験が役に立つこともある。ベテランの経験がチームを救う確率と、ベテランの情熱低下がチームを危機に陥らせる確率は、私見では、ほぼ半々といったところだろう。だから、ベテランの存在は、両刃の剣だ。
このように見ていくと、フェリペ氏とレーハーゲン氏の2つの言葉は、代表監督のあり方を如実に示すものだと言える。
さて、ギリシアのFIFAランキングは驚くなかれ35位で、日本の23位より低い。ギリシア代表は、欧州では、かなり弱いチームと評価されている。そこで、ギリシアのサッカー協会が求めた道は、レーハーゲン氏という組織力を重視する指導者を監督に就任させ、組織重視のチームに変えたことだ。そう言うと、“もともと個人能力の高いチームが組織力を高めたから、決勝に残れた”と「反論」されそうだが、そういう「反論」には、反論のしようがない。鶏と卵の論争に陥るだけだから。
私たちは、代表監督のあり方を、成功事例から学ぶ必要がある。代表監督にいかなる能力を求めるかなのだ。ギリシアと日本のどちらの選手が個人レベルで比較して高いか低いかはわからない。だが、両国とも、フランスやドイツやイタリア、スペインより低いことに異論はあるまい。ならば、日本もギリシアがとった選択を参考とすべきなのだ。
フェリペはブラジルだからW杯で優勝できたと言われ、今度は開催国だから、と言われるかもしれない。レーハーゲンのサッカーは、守備重視でつまらない、といわれるかもしれない。
監督の実績を監督の能力以外に見つけることは、いくらでもできる。監督とはそういうものだ、とも言われる。スポーツマスコミはそれでいい。シニカルさがジャーナリズムのあり方の1つだから。でも、サッカー関係者はそれではすまない。代表監督選びには、哲学と客観的基準が必要なのだ。名声や気分や人気で、トップダウンで選んではだめだ。



2004年07月03日(土) 小野、高原は不要

五輪サッカーおよびOA枠について再び、書く。
五輪代表監督が小野(MF)、高原(FW)、曽我端(GK)をOA枠で要望したことはご存知のとおり。私はいまの五輪代表チームの最大の弱点は、トップ下、DF(CB)、GKだとかつて指摘した。GKについては、最大の弱点であり、OAの選手を起用することにだれも異論はない。DFではトゥーリオが予想以上に成長したので、彼を起用したらいいのだろうが、故障から完全に回復したのだろうか。ディフェンダーとしては、リスクの高い選手だが…
さて、問題のトップ下だが、このポジションはU23で最も人材が薄く、山瀬、松井が停滞気味で、しかも、二人に代わる人材がU23にいない。というわけで、OA枠で補充する必要が出てきた。小野が最も適任者であることは、五輪監督の認識と一致する。けれど、どうしても小野でなければならない理由はない。たとえば、市原の羽生でいい。羽生はJリーグで活躍しているMF(トップ下)だが、残念ながら代表経験がない。トップ下には中田がいるし、ベテランの森島、代表準レギュラーの小笠原、奥が控えているので、羽生が代表に呼ばれることはなかった。こういう境遇の選手に、五輪という国際舞台を経験させることは、長い目で見てプラスになる。もちろん、五輪は、サッカー大会としてのステイタスという意味では高くない。サッカーでは、五輪で金メダルをとったからといって、特別評価されることはない。けれど、五輪全体は世界的ビッグイベントだし、出場国は勝利を目指して本気で試合に臨む。そういう意味では、準代表クラスにとって、貴重な経験となるはずだ。
小野はケガでシドニー五輪に出場できなかった。それはそうだが、彼は五輪に出なくても、欧州のオランダリーグのレギュラーだ。彼はフェイエノールトで更なる実績を残し、ステップアップすればいいのであって、五輪ごときに、逆戻りする必要などない。五輪でがんばるより、オランダリーグで頑張って、もっとビッグなクラブに呼ばれる機会を選ぶべきだ。フェイエノールトも小野の五輪召集には戸惑っている。なんで五輪なんかに、オランダリーグの強豪チームから選手を出さなければいけないのだ、といのがクラブとしての思いだろう。欧州ではそれだけ、五輪に重心を置かない。クラブと取引してまで、小野を五輪に呼ぶ必要など絶対にない。
一方、高原については、彼がなぜ、五輪に召集されるのか、その理由がわからない。高原がFWとして、実力のある選手であることは確かだ。だが、田中(達)、大久保、高松、前田のU23クラスに、病気あがりの高原を加える必然性が見出せない。ポストプレーの上手な選手なら、鹿島の鈴木でいい。高原に無理をさせる理由がない。
サッカーに限れば、五輪は若手の祭典なのであって、問題を抱える代表選手を無理して参加させる必要はない。若手・中堅の埋もれた人材を発掘し思い切って登用したらいい。
ユーロではフランス、スペイン、イングランドといった強豪国が敗退した。とりわけ、フランスは98年のW杯、00年のユーロ優勝以来、日韓W杯で予選敗退、いまのユーロでもベスト8どまりだった。フランスの凋落は、代表選手の入れ替えの失敗だ。ジダンという特別の才能に頼りきったチームが、ジダンの力の衰退とともに、弱体化した。ジダンの力が落ちた、というよりも、ジダンのモチベーションが落ちたと言ったほうがいいのかもしれない。こうした傾向は、日本代表にもスケールこそ違え、十分起こり得る。02年日韓W杯のレギュラー達――その後、欧州に行った選手――ばかりを頼りにしていると、彼らの体力・気力が衰退したとき、代表チームもだめになる。特にサッカーでは、モチベーションが下がれば、チーム力が下がる。ユーロでは、ギリシアの活躍が話題だが、ギリシアチームの原動力はモチベーションだと言って言い過ぎではない。
目標とした山の頂上を極めた者に、また同じ山を登れと命ずることは愚かなことだ。山が同じなら、新しい登り手を差し向けたほうがいい。



2004年07月02日(金) 代表至上主義の克服

日本サッカーを良くも悪くも支えているのは、「日本代表」というブランドだ。日本代表(試合)には、ビール会社の冠がついている。キ○ンだ。この企業のCMのキャラクターに俊輔が起用されている。俊輔は代表の顔だ。だから、俊輔は代表に選ばれる…のか。
さて、今月、キ○ンカップが開催される。その代表メンバーに久保が選ばれたのだが、久保はケガのため代表辞退を申し入れた。ジーコ監督はクラブ(横浜)を無視して、久保を呼ぶという。クラブ側は日本サッカー協会に対し、久保は出さないと、反発している。
キ○ンカップはFIFA-Aマッチの認定があるから、権威がないわけではない。けれど、親善試合に限りなく近い。無理をして(選手生命を賭けて)出るほどのことはない。若手やこれまで出場機会に恵まれない選手に、出場の機会を与えてもいい。
そもそも、日本のサッカー風土は異常だ。このことは前にも書いたことだけれど、敢えて書く。クラブよりも「代表サポーター」が多く、親善試合でも異常に盛り上がる。代表サポーター諸氏には、サッカーと言えば「代表試合」だ、という思い込みがあるように思う。W杯の「熱い思い」が忘れられないのだろうか。国家演奏があり、ストロボがたかれ、日本代表の相手は外国の代表チームでなければいけない…
こういうサッカー観は、できるだけ早く捨てたほうがいい。代表試合が愛国主義や国粋主義を培うから危険だ、というつもりはない。代表同士のサッカーが占める位置は、サッカーの全体像のうちのほんの一部なのだ。
代表チームに技術の粋が常に結集するわけではない。代表チームに国のサッカーのすべてが結集する機会は、象徴的に言えば、欧州では2年に1度。それぞれ、2年ずれて4年に一度開催される。南米では4年に1度しかない。欧州では言うまでもなく、いま行われているユーロと、W杯だ。それぞれに予選があるわけだから、代表チームは、真剣勝負の代表戦を数多く行っている。そこでエネルギーを使ってしまうわけだから、親善試合は経験・調整・試行という位置づけが強くなる。そうしなければ、代表選手は燃え尽きてしまう。
日本を取り巻く国際的サッカー環境も欧州と同じで、アジア杯とW杯の2つの公式大会がある。しかしながら、前者には緊張感がないし、国民も関心を示さない。アジア杯で優勝するよりも、親善試合でイングランドと引分けたほうが賞賛されるのが日本のサッカー風土だ。私は、日本のサッカー界に巣食う、異常な「代表」中心主義をできるだけ早く克服する必要があると考える。代表に偏重したサッカー像を一掃してほしい。それには、クラブが地域にできるだけ深い根をはることだ。鹿島、浦和だけでなく、ようやく、仙台、新潟、大分といった、地域で観客を呼べるクラブが増えてきた。こういう流れを大事にしたい。
代表チームが常にすごい試合をするとは限らない。いまのJリーグを見れば、それがわかる。Jリーグの真剣試合のほうが、親善試合の代表戦よりおもしろいし、レベルが高い。
時差ぼけした外国の代表チームとの試合など、気の抜けたビールみたいだとは思いませんか、キ○ンさん。


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