2003年02月25日(火) |
ファンタジスタ不要論 |
ヤフースポーツによると、セリエAではファンタジスタ不要論が主流になりつつあるという。遠い昔、10番に集めてその10番が必殺のスルーパスを放ち、走り込んだFWがゴールするというサッカーのスタイルがあった。サッカーの醍醐味であることはまちがいないけれど、このパターンが得意の強豪チームは世界に存在しない。ファンタジスタなど「化石」だという声もある。 セリエAではバッチョが最後のファンタジスタと呼ばれているという。プレミアではベッカム、レアルマドリードのジタンはどうなのか。彼も中盤の重要な選手だが、ファンタジスタというイメージではない。Jリーグにはいないが、日本代表になると、ヒデ、小野、中村俊輔、なかでも、俊輔への期待が高い。各国リーグでは、ヒデは右サイド、小野はボランチ、俊輔もボランチだ。ではパルマ、フェイエノールト、レッジーナにファンタジスタと呼ばれる選手がいるのかというと、それもいない。 私は現代のプレッシングサッカーでファンタジスタが活躍することは難しいと考えている。真ん中でゲームメークする選手は必要だが、攻撃の基点をそこに限定することはできない。得点機会はむしろサイドプレーヤーを基点としたケースの方が多いのではないか(データがないけれど)。 さて、日本代表に話を移してみよう。もし日本代表にファンタジスタの出現を待望しているのならば、危険である。ファンタジスタ不在は課題ではない。ジーコ監督は、日本代表チームのイメージを明確にしていないので推測するが、ジーコはヒデ、小野、俊輔というタレントを遺産として、成り行きにまかせてチームを運営していこうとしている(ように見える)。その方法はブラジル流であって、日本や韓国のようなサッカー後進国に向いていない。日本人選手の大半は、W杯を契機として世界に出ていこうとする発展途上型選手が大半なのだ。私はヒデが元気なかぎりは日本代表はアジア予選を突破すると思うが、それも2006年が最後。だから、ジーコが監督となることに反対だった。前監督のトルシエは「フラットスリー」という言葉を掲げた。これが実戦においてどれほど機能したシステムなのかどうかは疑わしい面もあるが、この言葉によって、日本DF陣は成長したように思う。新監督のジーコは「黄金の中盤」というが、それは世界のサッカーの潮流から外れている。ファンタジスタが集まったチームほど軟弱なものはない。 2003年、代表チームの公式試合数は多いようで少ない(日本ホームのフレンドリーマッチに期待していないので)。このままの状況で2年過ぎれば、ヒデが健在でも日本がアジア予選で敗退する可能性も出てくる。各ポジション、バランスの取れたタレントを発掘すること、新しい戦力に活躍する機会を与えること−−が急務だ。このままでは、2006年の顔が見えてこない。 顔が見えてこないのは、何度も書くことだが、北半球がリーグ戦で燃えている時、Jリーグがお休みのことも要因の1つだ。Jリーグの日程は日本のサッカーの発展を阻害している。Jリーグが世界のリーグと同調していないことは、サッカーファンとしてさみしい限りだ。欧州の各国選手が活躍し、その様子をテレビが流しているのに、日本ではサッカーをやっていない。グローバルにサッカーを体感できないのだ。この季節、日本のサッカーファンは「生殺し」である。
2003年02月23日(日) |
厳しいぞ、スーペルリーガは |
初めてサッカーのポルトガルリーグ(スーペルリーガ)を見た。私は伸び悩みの鹿島の柳沢が海外移籍するとしたらポルトガルがいいと常々言ってきたが、この予感はテレビで見る限り間違っていなかった。激しい当たり、ゴールへ一直線の動き、組織よりは個人。ゴール前は感性の世界、予測不可能なトリッキーなシュートが飛んでくる。プレーとしては泥臭い、イエローも多い、汚い反則も多い。世界のサッカーの主流ではない。スペインのレアルマドリードで活躍するフィーゴはポルトガルを代表する名選手だけれど、ポルトガルの典型的な選手ではないというよりも、例外といったほうがいい。けれども、サッカーの原点というか、サッカーは理性でやるものではなくって、足と頭部でやるものであることを再認識させられる。 鹿島の柳沢は才能がありながら、FWとして一流選手になれない。その理由が、ポルトガルのサッカーを見ていると、わかるような気がする。柳沢に不足しているのはまず激しさ、そして、本能で点を取りに行く感覚である。ゴールの位置・角度、相手GP・DF、そして味方選手と自分――の関係性。これを一瞬にして自己の運動能力に還元するもの、その力が柳沢に欠けているものすべててである。もちろん、ポルトガルの選手だってそれが完璧に出来ているわけではないが、彼らは、その方向性でプレーしていることは間違いない。 Gaoraが中継したのは、FC・ポルト(1位)とスポルティング・リスボン(3位)の一戦(リスボン/ホーム)。ポルトガルを代表する名門チームの対戦である。お隣のスペインリーグのような華やかさはないけれど、激しさ、厳しさ、速さでは引けを取らない。さらに驚くべきことは、激しいプレーでとばされたり転ばされても、まったく彼らは意に介さない。当たり前なのである。Jリーグのお嬢さんサッカーの対極にある。柳沢だけでなく、Jリーグ全体がスーペルリーガを見習って欲しい。
伊良部投手が心配である。彼は、大リーグから日本プル野球、阪神球団に出戻った。その阪神は星野監督、私が日本球界のなかで最も嫌いな監督の1人、わがままというか、マイペースの伊良部投手とは、相性が合わないように思えた。天才・伊良部投手は練習嫌い、コーチの言うことは聞かない、健康管理・自己管理などはまったく意に介さないと言われている。彼は無頼の徒というイメージの天才投手、一方の星野監督は純粋体育会系、えらそうな態度がいかにも「くさい」、政治屋監督である。うまくいくはずがない、いや、うまくいってはいけないのだ。なぜかといえば、私は日本のプロ野球が星野路線を歩むのであれば、どっぷり浸った時代錯誤感覚から永遠に抜け出せないと思うからだ。 日本のプロ野球のイメージを変えたのは、天才イチローだ。彼のプレーぶり、マスコミに登場する振る舞いなどは、新しいアスリートのイメージを見るものに与えたように思う。彼のイメージは、たとえば、川上、金田、張本、ON、森(元横浜監督)、山本(現広島監督)、衣笠・・・ら、一時代を築いた日本プロ野球の名選手と異なっている。これらの名選手が努力、上下関係、猛練習、根性といった、旧来型日本スポーツ選手特有の「くささ」をもっているのに対して、イチローにあっては、自己の人生観や生き方は封印されているように思える。イチローがどんなに努力や練習をしようとも、それはプロとして当たり前のこと、プレーを見せることがプロなのであって、練習はあくまでも舞台裏なのだと位置づけそれが表面化することを避けているように思える。 旧来型日本スポーツ選手の代表選手、一本足打法でホームランを量産した「世界」の王(現ダイエー監督)の場合はどうかというと、彼は現役時代から、荒川コーチとの一風変わった練習方法を公開していた。その練習方法というのは、真剣を素振りするというものだった。舞台裏がマスコミに公開され、努力、精神力というものが強調されたのだ。そもそも、王に代表されるプロ野球選手像がどこからきたのかといえば、「巨人軍」=読売グループが創り出した幻想の結果だといえる。地獄の○○キャンプ、血反吐の千本ノック、200球の投げ込み・・・などが報道され、プロ野球選手の舞台裏が必要以上に強調されてしまったのだ。 イチロー、ナカタ、野茂、そして高原ら海外を目指したアスリートに共通するものは、体育会系特有の努力や精神力、根性といった、日本型スポーツ風土の否定である。彼らはもちろん、人並み以上の練習を重ね努力をしていると思うが、それを封印してこそプロだ、という美学があるように思える。マスコミが私的領域に踏み込むことを嫌うように思える。この傾向はプロスポーツ選手として、当然のことだと私には思える。 抽象的に言えば、日本のプロサッカーは、「ドーハの悲劇」を境として、始まったのだ。スポーツが努力や精神力では及ばない世界であること、勝負は、とてつもなく大きな力(神の力といってもいい)によって左右されるものであることを知ってはじめて、体育会系根性路線が否定されたのだ。日本プロ野球界は、サッカー界のような時代を画す出来事をもたないことが不幸である。
昨日、ひさびさに全日本プロレスのテレビ中継を見ていたら、ジミー・ヤンという若手のレスラーが登場していた。私は知らなかったけれど、全日ではスターらしい。ライトヘビー級で、空中戦、蹴りが武器である。なかなかの才能で、テレビゲームのキャラクターのような人間離れした感じが新しい。サイボーグのようだが、キン肉マンとは違う。 ただ全日のライトヘビーは人材豊富という言い方もあるがドングリの背比べ、ライガーや田中稔らの新日に比べると見劣りする。 ヤンにもパンクラス等の真剣勝負への参加が期待される。ただのバネのある軽量プロレスラーで終わるか、実力者にのし上がるか、この先が楽しみである。
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