JIROの独断的日記 DiaryINDEX|past|will
◆私事で恐縮です。 「JIROの独断的日記」では、原則として私事は書かない、と宣言しつつも、過去ログを読むと結構書いていますね。 ◆病室中に貼っていた、ロンドンからの絵葉書。 私はロンドンで仕事を始めた。英語は先日書いたとおり大して苦労しなかったが、私のチーム11人の中で日本人は私だけだった。 ◆「先ほど、死亡退院されました」 ロンドンに戻って年が明け、1996年になった。1月末、突如兄から電話があり、父の状態が悪い、帰国しろという。 「・・・さんは、先ほど死亡退院なさいました」 というものだった。 至急帰国して、葬儀に間に合った。大勢の方にご参列いただいた。 父は、銀行員だった。最後は取締役支店長だったが、ずっと支店ばかりに務めていた。 かなり、おっかない上司だったらしい。怒鳴られた部下の方は数え切れないと思われる。 が父は、世間がイメージする姑息な、揉み手をして慇懃無礼に顧客に接する「銀行員」とは全く違っていた。 相手がお客さんであろうが、無理な要求をされると、平気でケンカをした。それでも父のファンがいて下さった。 父はまた、支店長として支店に関する全てのことは自分に責任がある、という当たり前のことを、骨の髄から分かっていた。 部下に責任を押しつけることは絶対にせず、部下の失敗の責任を全て自分の所為だ、と言った。 「何かあったら、俺が(お客さんに)謝ってやるから、思い切りやってみろ」 と、外回り(営業で融資案件や預金を取ってくる人々)を励ました。そうしたら、本当に謝りに行くハメに何度も陥ったらしい。 そういうときも、未練がましいことや言い訳はしなかった。 父の遺品を整理していたら、山の様な書類が見つかった。部下の失敗などの責任を取るために、本部宛に書いた始末書の控えだった。 父は、本来は自然を愛する人間だった。若い頃はしばしば山に行って、野鳥を観察していたらしい。 何しろ、「日本野鳥の会」の会員で、創立者・中西悟堂氏と直接会ったことがある古参のメンバーだった。 銀行員になってしまい、なかなか山になど行けなくなってしまったが、鳥のことを語らせると実に良く色々なことを知っていた。 私は英国の田園風景を眺めたとき、もう少し父が頑健で、倒れなかったら、イギリスに呼んで、この風景を見せてやりたい、と いつも思ったものだった。が、その願いは空しかった。 本当に残念だった。さぞや喜んだだろう、と、今でも思う。 十三回忌の法要で坊さんのお経を聞きながら、また、そのことを考えた。 涙が出そうになった。もう少しで本当に涙ぐむところであった。 【読者の皆様にお願い】 是非、エンピツの投票ボタンをクリックして下さい。皆さまの投票の多さが、次の執筆の原動力になります。画面の右下にボタンがあります。よろしく御願いいたします。
2007年01月26日(金) 「金総書記身辺に異変説−北朝鮮」マスコミが静かなところが怪しい。/新大久保留学生死亡事故から6年。/明日はモーツァルトの誕生日
JIRO
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