DiaryINDEX|past|will
2006年02月28日(火) |
34年前(1972年)の今日、「あさま山荘」に機動隊が突入した。警察庁長官は後藤田正晴氏だった。 |
◆あさま山荘事件は、札幌オリンピックの直後に起きたのだ。
記憶は曖昧なものだ。
札幌オリンピックが1972年に開催されたのは覚えていた。開催期間はさすがに覚えていなかったので、調べたところ、2月3日から13日。
その同じ年に、私と同年代以上の日本人ならほぼ、絶対に忘れない、「あさま山荘事件」が起きたのだ。
連合赤軍の5人が、長野県軽井沢にある河合楽器の保養所、「浅間山荘」管理人の妻を人質に立て籠もった.のは2月19日。
それから人質を救出し、犯人5人全員を生きたまま捕らえるのに10日間もかかった。
長野県警だけでは、対処しきれないので、後藤田警察庁長官は、今は危機管理の専門家・評論家として知られる、佐々淳行氏を現場の指揮官とし、警視庁の第二機動隊が派遣された。
この事件は2002年、事件発生からちょうど30年目に映画化され、佐々氏を役所広司が演じたのを見た人が有るかも知れない。
人質を取られていること。犯人が、身代金や逃走手段などの要求を何もしてこないこと。警察からの発砲は禁じられていたこと。しかし、犯人は頻繁に発砲してきたこと。
などの理由で解決までに10日もかかり、最後はクレーンでつり下げた巨大な鉄球で山荘の壁を破壊すると同時に、人質救出の為に、警察が突入した。
人質は無事救出された。犯人は全員生け捕りにした。
しかし、警察官2名が犯人の銃撃を頭部に受け、殉職した。
それが、34年前の今日起きた出来事である。
私は小学生だったが、よく覚えている。とにかく、NHKが24時間、浅間山荘からの実況を続けていたのだ。
機動隊突入の際、視聴率は90%を超えていた。
◆後藤田さんは、ずっと殉職した部下、後遺症を負った部下のことで苦しんでいた。
後藤田正晴氏は、警察官僚から国会議員になり、国会議員を辞めた(選挙に立候補しなかった)のは、平成8(1996)年だ。
中曽根内閣の官房長官を辞めて暫くしてから、「後藤田長官ごくろうさん会」が開催された。
最初は特に関係が深かった秘書官などだけを呼ぶ予定だったが、自分も行きたいという官僚や政治家が続出して、秘書は応対に困ったという。
辞めた人におべっかを使っても仕方がない。
そういう計算ばかりしている政治家までが、是非出席したい、というのは、後藤田さんの人徳だろう。
後藤田さんのスピーチはしかし、意外なものだった。スピーチを要約すると、
「私の五〇年の公職人生を振り返ると大きな心残りがある。それは、安保闘争や浅間山荘事件の鎮圧のために、延べ600万人の警察官を動員し、殉職者十数名を含む、約1万2千名(全国で)の負傷者を出した。
中には、今でも一生完治しない後遺症に苦しんでいる人がいる。私は、警察庁長官として、警察官達に『忍耐』を求め、必要以上の実力行使を慎むように命じ、安保闘争や浅間山荘事件を鎮圧することが出来たが、
その蔭にこうした犠牲を警察側に課したということについて、私は心が痛み、これからも、一生、私にとっての心の重荷となるであろう」
ということになる。
普通、官房長官を務めた政治家が、「ごくろうさん会」を開いたら、自慢話が先行する。
しかし、後藤田さんは、そんなことより、部下のことを思っていたのである。今、こういう政治家がいるのだろうか?
◆佐々淳行氏の「我が上司、後藤田正晴」が出典なのですが・・。
これらの逸話は、わが上司 後藤田正晴―決断するペシミスト 文春文庫 佐々 淳行 (著) に全て書いてある。
私が愕然としたのは、佐々氏は浅間山荘(だけではないが)の現場の指揮官で、人質救出に成功したわけだが、警察官に殉職者を出した、といって批判された、ということだ。
いつの時代にも、自分はリスクを取らないくせに、人が「手柄」を立てると嫉む輩がいる(こういう女々しい嫉妬心は、男の方が強いかも知れぬ)。
佐々さんは、無責任な「誰か辞表を出す奴はおらんのか!」という世論に完全に頭に来て、辞表をたたきつけ、その足で部下の弔問に向った。
◆内田尚孝警視の母君のくだりは涙無くしては読めない。
佐々氏は殉職した第二機動隊長の弔問に向った。
【引用開始】
白布を顔にかけ、座敷に北枕で仰臥する故内田尚孝二機(引用者注:第二機動隊)隊長のご遺体の前で、くら未亡人とセーラー服姿の二人の可愛いお嬢さんが、三人抱き合って泣き崩れている。
正視に耐えない。
すると、枕頭に喪服を着て端然と正座したご母堂が、声をはげましていったのだ。
「泣いてはいけません。尚孝はお国のために死んだのです。泣いてはいけませんよ」
耐えに耐えていた涙があふれ出てきた。「息子を返せ」と泣かれるならまだ耐えられる。なんということだ。
高見邸(引用者注:もう一人の殉職者)ではなんとか耐えた自責の涙が、この毅然たる刀自(引用者注:「とじ」主に年輩の女性を敬意を添えて呼ぶ語。名前の下に付けても用いる。)の言葉でとまらなくなった。
多分武家の出の御母堂なのだろう。杖とも柱とも頼む息子に先に死なれた逆縁の辛さは察するにあまりある。私たち弔問者は、畳に額をすりつけ「申し訳ありません」と謝るばかりだった。
【引用終わり】
このエピソードは、本の初めの方に書かれている。私は、この箇所に目が釘付けとなり、なかなか先を読めなくなった。
「お国のため」という言葉は戦争中よく用いられた言葉であることは知っている。この言葉に違和感を覚える人もいるかもしれない。
しかし、ここで、内田警視の母君はそういう意味ではない。ものすごい精神力で、
「息子は警察官として、国民の生命を守る、という職務を全うしたのだ。」
と自らに言い聞かせていたのである。悲しくない訳がないではないか。
私にも明治生まれの武家の出の祖母がいたから分かるが、当時はこういう日本人が沢山いたのである。
勿論、内田警視が亡くなるような事件は、起きなかった方がいいに決まっている。
私が、云いたいのは、自分の利益、権力の保持ばかり考え、また、何でも他人の所為にしたがる日本人が増えつつある今、
後藤田正晴氏や、内田警視の御母堂のような日本人がいたことを知っていてもいいだろう。それを書きたかった。
特に内田警視のくだりは、どうしても書き留めておきたかった。それだけである。
他の人に同じように感じろ、と云うつもりは、無い。
ただ、これを読んで何も感じない人ばかりだとしたら、かなり寂しい。
2005年02月28日(月) Top of the world(カーペンターズ)を聴くと、泣けるのです。
2004年02月28日(土) 「<訃報>網野善彦さん76歳=元神奈川大教授、歴史研究に影響」私にとっては、「網野さんのおじさん」なんですよ。
2003年02月28日(金) ブッシュ、フセイン、金正日、ビンラディン、シャロンがいなければ、世界はかなり平和になるだろう。