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2005年11月23日(水) |
日本人は、ネット上のみならず、現実世界で、もう少し声をかけた方がよいのではないか。 |
◆バーチャル・ワールドと現実世界との大きな違い。
私の「感覚」では、2年ぐらい前からちらほらと「ブログ」という言葉が日本語に定着して、その頃から、もの凄い数の日本人がブログを開設している。
ブログにおいては、わざわざ開設するぐらいだから当たり前といってしまえばその通りだが、
皆さん内容は千差万別だが、誠に雄弁だ。
私は、日本人は実はこんなに世間の目に触れることを承知で、何かを主張したかったのか、ということに驚いた。
それは、原則的には悪いことではないと思うのであるが、人間、仮名で(匿名と仮名は違う)、文字だけなら、目の前には誰もいないので、何でも言える。
しかし、ネットの世界だけではなく、現実世界でも、もう少し日本人は、「お互いに声をかける習慣」を身につけても良いように思う。
◆実例1:電車で隣の人が落とし物をして、下車しているのを知りながら、何もしない若者。
若者だけではないが、日本人は公徳心が足りないように思われる。
以下、私が電車の中で実際に目撃した事実である。
私の目の前に大学生と見られる若い男性と女性(互いに知り合いではない)が隣合わせで座っていた。
男性は、ある駅で下車したのだが、その直前バッグから何かを取り出し、その拍子にハンカチか何かを床に落としたのである。
それは、目立つ色で、周囲の人は皆、彼が物を落としたことに気がついている。
隣の女の子も気がついている。
私はこう言うときには、ごく普通のこととして、「何か落ちましたよ」と電車の中でも知らせる。
特別に偉いことでも何でもなく、ごく自然なことだと思うのである。
その時は、私が言うまでもなく、すぐ横の女の子が教えてやるだろうと思った。
ところが、である。なんと。女の子は何も言わないのだ。
落としたハンカチは女の子の真っ正面に落ちている。書き忘れたが、男性は特に気持ちの悪い人物、怪しげな人物ではなかった。
女の子は気がつかないフリをして視線を水平に向けているが、気がついていることは、誰がみても明らかなのだ。
どうして「落ちましたよ」とか、「これ、落としましたよ」ぐらいの一言が出ないのか?
そうしている間に電車は駅に停車し、ドアが開き、男子学生は落とし物をしたことを気がつかずに降りてゆく。
私は、あわてて、落とし物を拾って彼に渡した。
周囲の日本人は、その一部始終を見ているのに、気まずいのだろうか?
その一部始終すら気がつかなかったようなフリをして、雑誌など読んでいた。
◆実例2:電車が終点についたのに眠っている人は、起こしてやっても良いだろう。
これに関しては、やらない言い訳を色々と考えることは出来るかも知れぬ。
「眠っている男が実は凶暴で、起こしてやったのに、いきなり怒り出して、殴られるかも知れない」とかね。
しかし、少なくとも、私はそういう経験をしたことが無い。
この季節、東京はかなり寒く、電車内の暖房が使われ始めた。
どなたもご存じのとおり、電車のあの、ほどよい揺れは、人間に眠気を催させる。
その上、本人が仕事や学校帰りで疲れていて、電車の中が暖かいと、かなりの人が「熟睡」してしまう。
終点に到着して車内放送があったぐらいでは、目が覚めない。 放っておけば、電車は数分以内に、逆に発進する。
実は、私がこれを何度もやっているのだ。
私は、帰宅するときには、会社のそばのXという駅から乗って、終点のY駅で降りるのだが、ときどき殆ど「昏倒」していて目が覚めない。
その結果、逆に発進しても目が覚めず、なんと、XとYの中間ぐらいのところまで、逆戻りして、漸く目が覚める、というケースである。
帰途であるから、別に帰宅時間が少々遅くなったところで、問題はない。
無いけれども、私は、終点で目が覚めないでいる人というのは、大抵見れば明らかなのだから、
誰か起こしてくれても良かったのではないか、不親切だな、と思った。
それ以来、私は、終点で明らかに目が覚めず、放っておけばどこまで逆戻りするか分からないと思われる人を見かけるた場合、
軽く揺すって、「着きましたよ」と声をかけることにした。
大抵、というか、ほぼ100%、感謝される。
誤解されると困るのだが、私は、感謝されるためにやるわけではない。それぐらいしてもいいじゃないか、と言いたいのだ。
そもそも、感謝する前に大部分の人は数秒間寝ぼけているので、こちらはその間にまた眠りそうにないことを見届けて、消える。
本人が確実に起きるまで、相手の目の前に立って待っているのは、何だか変だ。
◆こういうところは、イギリス人の方がスマートだ。
以上述べたようなことを強く意識するようになったのは、英国に駐在してからである。
あちらに住んでおられる方、住んだことがある方はよくご存じだと思うが、
欧米人は見知らぬ者同士でも、気軽に"Thank you." と例を言い、言われた方も"No prob(lem)" "OK"と返事をする。
例えばビルの入り口。向こうは自動ドアが意外にすくない。開けて、手を離したら元に戻る、旧式のドアが多い。
この場合、ドアを押し開けて、手を離す前に、ちょっと後ろを見る。
後ろから人が来ている場合は、どうせ数秒だから、ドアを開けたまま待っているのが、マナーだ。
日本人は後ろなんか見ないで手をはなすから、すぐ後ろに人がいると、目の前でバタっとドアが閉まる。
そういうことに敏感な人にとっては、ちょっと不愉快なものである。
ロンドンでは、ほんの数秒ドアを開けて後続の人を待っていてあげる。後から来た人は必ず、謝意を表する。
待っていてあげた方も、"All right"とか、"No prob"(probはproblemの略だ)と返事をする。これが完全に「社会的慣習」として定着している。
たったこれだけのことで、世の中全体が少しばかりホンワリと柔らかいムードになるのである。
丸の内あたりのサラリーマンが歩いているのを見ていると、すごい無愛想な顔で、今のような話をしても、多分、
「ドアを開けて待っているなんて、そんな暇があるか、こちとら忙しいんだ。」と言いそうだ。
しかしねえ。こう言っては失礼だが、貴方が数秒、数十秒、数分遅れたところで、世の中、何にも影響を受けないんだよ。
ほんの少しだけ、勇気(大げさだが)を出して声をかけたり、ドアを支えて待ってみませんか?
これによって、不愉快な気分になるということは、まずあり得ない。試して見ると分かります。
2004年11月23日(火) 「社説:大義なき戦争の歴史的評価を恐れよ」(毎日新聞) 言い出すのが遅いが、趣旨は概ね正しい
2003年11月23日(日) 小泉君が平然としている理由=100人の専門家から成る「警視庁総理大臣官邸警備隊」の存在など。