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JIROの独断的日記
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2003年10月01日(水) プロ野球選手・監督を称えても、審判員の労をねぎらう人は、いない。

 私は、プロ野球なんか、どうでもよいのである。興味が無い。子どもの頃、男の子の多くはプロ野球選手になりたい、と、(少なくとも私の子供時分は)云ったものであるが、私はあんな者になりたいと思ったことはただの一度も無い。

 しかし、プロ野球の審判員になりたいと思った時期があった。私の目には選手よりも審判員の方が、毅然として、カッコよく映ったのである。

 実際は、野球の審判員ほどそんな役回りは無い。

 草野球でもめったな事で審判を引き受けるものではない。どんなに真剣にやっていても文句を言われるからである。球審ならば、たとえワンバウンドの球をストライクと宣言しても、文句を言わない、という言質を両方のチーム全員からとっておいて、ちょうど良いぐらいのものである。

 まして、プロ野球の審判員ともなれば、その心労は察するにあまりある。現実には正確なジャッジを下すことは、訓練と、永年の経験を必要とする、高度な職人技である。

 しかし、審判員がどんなに難しいジャッジをこなしても、それを称える人は何万人もの観衆の中に、ひとりもいない。それなのに、一旦、きわどいジャッジになると、不利な判定を下されたチームの監督、コーチが物凄い形相で駆け寄ってきて、怒鳴り散らす。観客も監督の味方をして、審判員に向かって聞くに耐えない罵詈雑言をとばす。

 そんなときでも、審判の味方は一人も居ない。何万人もの人間を敵に回しても、自分のジャッジを信じてテコでも動かない(判定を変えない)という、鉄のような意思が要求される。そしてまた、何事も無かったように、仕事を続けるのである。

 選手は攻めのイニングで自分に打順が廻ってきそうにないときは、ベンチにすわっていられるが、審判は、何時間にも及ぶ試合の間、ただの一度も座る事ができない。

 このような、大変な精神的圧力と、肉体的試練に耐えて、無事に試合を終わらせるのが、彼らの仕事である。審判員がいなければ、どこのチームもただの一試合すらはじめることができない。

 にも、関わらず、誰も審判員の労をねぎらう事など、考えもしない。審判員も期待していないが、野球が好きで、黙々と仕事をこなしている。

 少年の頃の私は、そのような審判の姿に男らしさを感じたのである。

 私は、いまでも、野球選手よりも、審判員を、尊敬している。


2002年10月01日(火) 「はしたない」

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