2003年07月24日(木)
六本木ヒルズの展望台に登って来た。美術館ができる予定の場所で都市展覧会が展示されていて、押井守監修の映像がいくつか並んでいた。
ものすごく混雑していたわけではないけれど、それなりに人が多いなかでふたつを見て来た。ひとつは東京の水、といってもお茶の水あたりまでの堀跡を巡るもの。もうひとつは東京上空を空撮したものだった。
空撮の映像を見ながら、江戸図屏風を作らせた人は現代ならばこれを欲しがるのだろうなと思った。いや、江戸図屏風より先に洛中洛外図のことを連想した。
中世京都の市中を描いた洛中洛外図はどれも巨大な、個人が家に所蔵したにしては巨大な屏風絵の一群である。だれがどのような目的で、これらの屏風を描かせたのか。正確なところはともかくとして、権力なり財力を手にした人が都市の眺めを所有しようとした結果ではないかと想像する。
眺望を所有する。とはいっても、実際に眺めを手にすることはできない。洛中洛外図も江戸図屏風も描かれた当時にこれらの眺めを得られる高さで都市上空を観察したわけではない。いわば想像図である。想像図を並べて得られる眺望はバーチャルな体験であるが、眺望の所有はリアルであった。
現代では眺望がリアルな体験にはなったが、眺望の所有はバーチャルなのではないだろうか。想像図のかわりにリアルであったこともあった(撮影者にとっては)映像を映写している。しかし、映像は映写されたときのみ存在するし映像はバーチャルである。
六本木ヒルズで公開されていた映像は地球外の視点が東京を調査しどこかへ報告するというストーリーになっていた。撮影時のリアルを映写時のリアルに引き延ばす処理だと思った。「報告された」事実を再生している限り、これはリアルだ。だからこの映像を見る時、人はリアルを所有している。
しかし、見ている間だけである。それは撮影時のリアル以上ではない。記録媒体は存在しているが、映像は形を成していない。一方、屏風絵は見られていない間も存在している。
バーチャルであったからこそ限られた人の所有欲を満たした過去のバーチャルな眺望と、リアルであるがためにリアルには所有されない現代の眺望。現代の東京図は歴史の中でどのような存在となるのだろうか。
で、東京図はまあいいとして。 いまいちデジタルカメラの画像が信用できないのはデータの状態では「見れない」からじゃないかと、ぼんやり考えてみる。写真のネガだとプリントしてなくても慣れればまあどんな具合かわかる(ような気がする)けどデータは表示してみるまで分からない。それとも慣れれば文字列の状態でだいたいわかったりするのか?
それに、リアルって?バーチャルって? 対義語じゃないような気もする。この文章はそのうち手を入れるかも。
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