2002年02月03日(日)
『35 STONES』というアルバムを薦められていたのだった。 斉藤和義という人の。 ……だ、誰?
実をいうと、ぼくは昨今の日本人ミュージシャンにたいへん疎い。 ラヴ・サイケデリコとかGO!GO!7188とかエレファント・カシマシとか言っているが、 それがほとんど知っているすべてだったりする。
そういうのもいささか悔しいので、レンタル店に寄った際に探してみたのだ。 その斉藤和義という人の作品を。 あいにく『35 STONES』は見つからなかったが、 新譜がレンタル可能になるまでには何日だか何週間だか必要らしいので、 たぶんそういうことなのだろう。 で、『ゴールデン・デリシャス』というベスト・アルバムを試しに聴いてみることにしたのだった。
聴き始めてものの1分としないうちから思った。ああ、これは「うた」だなと。 うた。それはぼくのなかで、おそらく多くの同世代人のなかで70年代に培われてきたもの。 ロックを聴き、フュージョンを聴き、アジアのポップスを聴くようになってもなお、 ぼくのなかの奥深いところでずっと息づき、育まれてきたもの。
斉藤和義。この人は友部正人の、朝野由彦の、いとうたかおの、 それらの意思を受け継いだ人なのだと、そう思った。
そして14曲め。「幸福な朝食 退屈な夕食」。 繰り出される脈絡のない言葉。描かれるとりとめのない光景。 それはまるでフラッシュバックする数百枚もの、いくぶんブレたモノクロ写真。
そのなかで目に止まるのは、意味をなすのは、ほんの4、5枚かもしれない。 しかし、それでいいのだ。詞とは、言葉とは、そういうものだ。 まるごと受け止める必要なんてない。論理整然としている必要なんてない。 与えられた断片を、受け手は都合よく並べるまでだ。
そして今、都合よく並べてみたそれらに、ぼくは圧倒されている。 頬を引っぱたかれたような衝撃を、ずいぶん久しぶりに感じている。
これでリズムがもっとタイトだったら。ベースがもっと弾んでいたら。 そしてなにより、ヴォーカルがもっと抜けて録られていたら。 不満がないわけでは全然ない。 が、聴かずにはいられなくなったではないか、『35 STONES』を。
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