2013年04月14日(日) |
玄侑宗久『禅的生活』★★★☆☆ |
玄侑宗久『禅的生活』
心に残ったところ。
うすらぼんやりについて。 うすらぼんやりと指と周囲を眺めつつ、腹を立てたり不安を感じたりしてみると。
「あなたがもしちゃんと『うすらぼんやり』しているなら、それが無理であることに気づくだろう。感情に伴った身体状況が得られないから、感情は定着できないのである。 しかもその『うすらぼんやり』状況で、あなたの体がリラックするしていることにも気づくはずである。いわば生命力が最大になっている。なんと人間は、『うすらぼんやり』で生命力が最大になるという厄介な生き物だったのである。」(p49)
「ただ、初心者の入り口として『うすらぼんやり』が有効だというだけで、立派な禅の老師が物事を『うすらぼんやり』見ていると思うのはやはり不穏当だろう。もっと『はっきりすっきり、しかも大局的に』とでも言い直しておかなければいけないと思う。」(p52)
やきそばを思い浮かべる。 やきそばそのものをイメージする人、やきそばのある状況をイメージする人。 前者は「考えた」。後者はイメージした、または「瞑想した」。
好き嫌いという価値判断を離れることによって、全体が見える。
「妄想を作り上げる二大原因は先に挙げた好き嫌いを含めた価値判断のほかに、この捏造された時間ということができるだろう。」(p58)
「禅はそうした『物語』に仕立てられた時間と自己を、瞑想のなかで解体しようとする。」(p59)
「心に一物もない状態になって初めて万物がありありとその姿を見せるということだ。これまで見えなかったのも、べつに相手が隠そうと思ってのことではない。心が曇っていただけなのだ。」(p85)
日々是好日。(p130)
「将来に果報を期待するのではなく、今という時間から果報もすべて得てしまえ、というのである。それはつまり、『今』を最大限に楽しむということでもある。」(p133)
不落因果。
「因でもあり、同時に果でもある瞬間として『今』を味わいつくせとおっしゃるのである。我慢して時を過ごすのは時間の殺生であり、禅ではそれも重大な殺生と考える。 もっと言えば、楽しめないならおやめなさい、ということだろう。」(p134)
お陰様。無限の過去の「因」に感謝を忘れない。
「たった今あなたが息をしている瞬間こそ、すべての可能性を含んだ偉大なる瞬間である。それを『即今目前聴法底』と云う。」(p137)
良寛和尚。 『災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候。 死ぬ時節には死ぬがよく候。 是ハこれ災難をのがるる妙法にて候』(p138)
随所作主立処皆真。(p139)
「なによりの『知足』は我が身の現状を完全に肯定するという大事業のことなのである。」(p184)
「本当に望まない『不足』をも楽しめることこそ真の『風流』であり、それができる人が『曲者』と云えるだろう。」(p208)
玄侑宗久『禅的生活』
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