刑法奇行
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今週から、ローの授業が、学部より1週間早く開始された。水・土の1限という基本的人権を侵害する時間のはじまりであり、「優しい時間」というよりも、「眠い時間」という感じである。そうはいっても、久しぶりに、ロー生達に遭遇すると、何か躍動感が感じられ、こちらもテンションが上がってくる。
しかし、いまだに「ロー教育」の真髄については、暗中模索状態である。何かくすぶっていたところ、敬愛するU田樹さんが、「週刊ダイヤモンド4月9日号」で書かれていることに、なるほどと感心してしまった。 すなわち、学校がサービス業と工場になっており、生徒に教育的付加価値を与え製品にするというプロセスになっている、と批判するのである。もっとも、この面を否定することはできないと彼も認めている。しかし、ロー教育は、とくにこの面が強くなり、下手をすると、これだけになってしまうことに注意しなければならないだろう。
彼の言葉を聞こう。 「経済的合理性のみで教育を考えるのは、教育の持つ価値を損ねることになる。」 「教育の場は、『あらかじめそれが何であるかを知っているもの』を与える等価交換の場ではない。」 「教育は、自分が受けた教育の意味を問い続けることで、無限の可能性を持つところに本旨がある。」
前に述べた、非合理主義というのもこれなのである。すぐに答えが出ないもの、結果が出ないものを大事にせず、あたりまえのことだけを修得することに全力を傾けるなんて、教育なんかではないだろう。
各自に創造性が生まれるのが教育である。しかし、これもまた難しい課題である。何も教えなくても、あるいは、ろくでもない教えであっても、事後的に、創造性が生まれることもある。これもやはり、誰かの贈り物なのだろう。
ともかく、「教育とは何か」「ロー教育とは何か」なんて誰もよく分からないのだから、「つねに問い続けていくこと」それ自体が重要なのかもしれない。
ジャスティス for 小野梓記念館(素晴らしい!)
norio
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