刑法奇行
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2005年03月29日(火) 法学部廃止のススメ?

 Y倉先生の連載2回目は、「法学部廃止のすすめ」であるが、これには賛同できないのである。たしかに、法科大学院が3年原則(未修者)であることは法学部廃止論に帰結する流れであるかもしれない。歴史的な法学部の役割をいくら語っても、法学部の意味をいくら並べても、これからは虚しいのかもしれない。

 しかし、極端に居直れば、意味のないことに意味があるということも事実あるのである。たとえば、企業に就職する人に、目的的行為論の哲学的基礎は何か、厳格責任説と制限責任説の犯罪論体系的差異はどこにあるか、責任共犯論と因果共犯論の解釈論的帰結はどうなるかなどなど、直接役立つことは絶対にないだろう。しかし、だから無駄であることにはならないのである。おそらく、このような問題を議論することそれ自体に意味があるのではなかろうか。これらの問題をガタガタ議論することによって、法学部生としての「ものの考え方」が身に付き、それが、将来何をする場合にも何かに間接的に役立つのである。

 まあ、間接的にすら役立たなくても、一生のうち2度とやれないことができるのが大学である。こういう場があったっていいではないか、むしろ、あるべきであろう。大学は象牙の塔であるべきというのが持論である。「大学は4年間の暇である」と、かつて柴田練三郎は言っていた。この「暇」が大事なのである。大いなる暇から、何か創造的なものが生まれるのである。

 法科大学院において、たった半年で刑法総論を終えるというのは、ある意味で異常な事態である。4年間かけて「ああでもないこうでもない」と刑法総論を勉強することが素晴らしいのである。したがって、2年(既修者)コースこそ本来の姿でなくてはならないであろう。学部で刑法をしっかり勉強した人にこそご褒美をあげたいのである。

 Y倉先生の合理主義にも首肯できる点は数多いが、非合理主義をやはり捨て去ってはならないだろう。「法的なものの見方」において、非合理な側面がつねに背後に付きまとっているのである。「熱き心を」持たなければならない。もっとも、その思いを正面からぶつけるのではなく、「法」という鎧をまとうことによって、対話を行うのである。これは、恩師N原先生の口癖であった。せめて、早稲田は、この非合理主義を死守する大学であってほしいものだ。

 法科大学院によって、法学部の役割、意味について議論が活発になったことそれ自体に意味があることはたしかであり、大いに議論しようではないか。

ジャスティス for 法学部存置論


norio

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