刑法奇行
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2002年05月15日(水) 君に涙とほほえみを

 今日は、K大とTY大を休講にして、成田高校へ模擬講義に行くことになっている。寝る前に奇行でも書こう。題名は、イタリアのボビー・ソロの有名な歌である。ジリオラ・チンクウェッティーなんていうのもいた。カンツオーネ流行の頃であり、伊東ゆかりががんばっていた頃である。もう何年前になるのか。
 実は、涙をテーマにしたいがためである。S文堂のT中店長が、この奇行を読んで(どのテーマか分からないが)涙が出そうになった、というのである。N空君は、単に涙もろくなっただけじゃないかと分析するが、年をとると涙もろくなる原因論は何か。これはやはり、以前書いた「歴史の重み」だと思う。自分の過去のプロセスの中の何かに響きわたり、懐かしさと愛おしさが混合惹起されるのである。あるいは、「思えば遠くに来たもんだ」という感じか。あるいは、いろいろがんばってきたけど、所詮「人間なんて」という感じか。あるいは、これが重要だが、多くの人との出会いと別れがあり、それぞれが様々な糸で、想像を絶するくらい複雑に「つながり」合っていることを確認するからか・・・。そう、この「つながり」が共感となって「涙ひとたらし」となるのだろう。
 土屋恵一郎『正義論/自由論』が岩波現代文庫版として再登場した。これは必読の書である。個人の自由と共同体との関係を考察する書であり、ロールズ入門書ともいえる。彼は、共同体思想に否定的である。しかし、修復的司法は共同体思想に基づくだけに、対決を迫られる。私は、ソフトな共同体思想論者かもしれない。やはり、「つながり」を重視するし、「勝手じゃん」という発想は嫌いである。だから、宮台・宮崎の評論にはついていけない。答えは、「風に吹かれて」という現状だが、人の「勝手さ」を制限するのは、人と人との「つながり」であるような気がする。それ以上は分からない。修復的司法の研究を通して、こうした問題を考える機会が多いのは幸運である。 
 この「つながり」の恐い面は、それが強力になると、悪しき共同体思想になり、排除の論理となることである。みんなバラバラでそれでいて共同体が自ずとできているというのが素晴らしい。何か良い具体例はないかなあー。学部のゼミとか私の研究室とか・・・しかし、メンバーをみると、天衣無縫者ばかりだから超バラバラで終わるだろう。バラバラの心地よさがそこにあるかもしれない。共同体形成はしんどいのである。だから、家族、夫婦、恋人など、一応共同体を目指すシステムは疲れるのかもしれない。それでは、刑法学会はいかなる共同体なのか・・・。
それにつけても(おやつはカール)、難産大は不便だなあー。

ジャーニー to バラバラが咲いた  


norio

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